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一月『幽岳事件』
その一
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※暴力表現、性暴力(未遂)をほのめかす表現があります※
──
音音は気づく。
そもそもがおかしいじゃないか、と気づく――まあ、それも気づいたところでどうしようもないのだけど。
(どうして、回収部隊の人たちが動いているの?)
そう、彼らはあくまで禁書の回収のために動く部隊であり――禁書が関わっていると見なされない事件への介入はできないはずなのである。
だからこそ、柄田は一連の殺人事件が羅刹女によるものと確定するまで、第一部隊を動かせなかったのだ。
だというのに、この第四班は――どうして、禁書のせいではないと分かっている事件の捜査をしているのだ?
(人的な刑事事件の捜査は警察隊の領分のはずなのに――)
特に帝国司書隊の事情に詳しいわけではない音音でも、それくらいのことは分かる。
つまり、彼らは、第四班は――本来警察隊がするべき捜査を、勝手に行っているということになる。
(どうして? そんなことをすれば大問題になるわ。警察隊からのお咎めは逃れられないのに)
なんの意図があって、こんなことをしているのか。それこそ、一般市民である音音を拘束してまで、何をしようと言うのか。全くもって、嫌な予感しかしない。
「着きましたよ、奥様」
音音は、それまでガタガタ鳴っていた車輪の音が、いつの間にか止まっていたことに気づく。
着いたと言われても、自分がどこにいるのかまるで分からない――それもそのはず、車に乗せられていた音音は手首を縛られ、口を塞がれ、目隠しまでされていたのだから。
(……水の音?)
車の扉が開けられる音の次に、彼女の耳に流れ込んだのは、水の音であった。
目隠しを外された音音は空の色を見て、今が夜明け前であることを初めて認識する。
外の風景を確かめる間もないまま車から降ろされると、音音は男たちに囲まれながら歩かされた。
(どこかのお庭かしら――それにしては殺風景だわ)
町で履いている下駄ではかなり歩きにくい道だった。おまけに雪除けもされていないので、足袋の上から冷たい雪水が染み込んでたまらない。客人を出迎える石灯籠は壊れてしまっており、周りに生えている木も枝が伸び放題で、雪の重みで折れてしまったものはそのまま――ろくに整備されていないようだった。
さしずめ、打ち捨てられた庭園といったところか。
(……そうか、水の音はこれだったのね)
そう納得する彼女の目の前には、湖があった。この湖をぐるりと囲むように、庭園はできているようだ。そして、その湖のさらに中心には、古びた屋敷がある。昔ながらの大陽本風な木造建築で、どうやら二階建てであった。――どうやら、と言ったのは、その二階部分の大半が既に朽ちてしまっていて、辛うじて柱のみが残されているからだ。
(……格子?)
湖上の屋敷まで繋がる道を歩きながら、一階部分に目を凝らす。その一角には、他の障子とは明らかに違う作りをした、障子というにはかなり堅牢で頑丈そうな作りの扉があった。
もしや――と、音音が思った通り、彼女が通されたのは、その格子扉からであった。そこにいたのは。
「ああ、ちょうどよく来たみたいだね」
そこにいたのは、柄田と同じ隊服を纏った中年の女と――全身傷だらけになった夫であった。
「いきなり誘拐して悪かったね。君の旦那さん、ずいぶんと頑張るから。君に協力してもらわないといけなくなったんだ」
女の言葉は、音音の耳には入らなかった。
縄で両手を吊るされ、傷だらけになっている夫――三八の凄惨な姿を目の当たりにしてしまったのだから、当然である。
傷――それは切り傷か、打ち傷か、引っかき傷か、刺し傷か、よく分からない。着物を剥かれた肌の上を、多種多様の傷が縦横無尽に走っているせいで、その判別を許さないのである。
「いつまで寝てる。早く起きなさい」
女はそう言って、部屋の隅にあった桶の水を三八の顔面にかけた。
「……ぅ」
一月の気温で冷えきった水を浴びて、三八は小さく呻く。
「ちっ」
反応の薄い三八に舌打ちをした女が、三八の脇腹を殴る。
「ッが、は!」
女は咳き込む三八の前髪をぐしゃりと掴んで、頭を無理やり上げさせた。そして、目が合った。音音の黒曜色の目と、三八の若草色の目が合った。
「──音音……ッ!?」
三八は、顔だけは傷つけられなかったらしい。しかし、目の下には色濃い隈があるし、まともに休息を与えられていないことは見てとれた。
「奥さんがいると知った時点でも驚いたけど……まさかこんなに若いお嬢さんだったなんて。意外や意外だな」
女は音音を見る。じろりと見る。まじまじと見る。食い入るように見る。品定めするように、値踏みするように見る。
「……ああ、そうそう。名乗るのが遅れたな。帝国司書隊図書館資産管理部――長いな、第四禁書回収班班長・綾城セツ。――ついでに、八田光雪の元婚約者だよ」
女は、綾城は名乗る。現在の妻である音音に対して、性格の悪い笑みを浮かべながら、名乗る。
しかし、そんな綾城の挑発よりも、音音は別のことに気を取られていた。
――この女の口から転び出た、聞き覚えのない名前。
「……まさか君、自分の夫の本名を知らないの?」
音音は何も答えない。塞がれた口では答えようもないのだけど。それ以前に、答えられない。耳を疑っていると言ってもいい、現実を疑っていると言ってもいい――綾城が言った言葉を、受け入れることが出来なかった。
「……なるほど?」
綾城はさらに口角を吊り上げてにたりと笑う。いかにも意地の悪い目で、音音を嗤う。
「つまり君は、この男がどんな人物だったのか――私たちの間でどれだけの有名人なのかを知らないわけだ。いや、こんなに若ければ全盛期の彼の伝説を知らなくてもおかしくはないのか?」
綾城は、言葉が呑み込めないでいる音音をさらに嘲りながら、「なら、教えてあげる」と大仰に言うのだった。
「この男の名前は八田光雪。帝国司書隊創始者である初代総統・八田幽岳様の唯一の弟子にして――実の息子」
詳らかにされる夫の正体に、音音は絶句する。けれど、それはただ単純な驚きからであった。
「随分な秘密主義じゃないか。愛する妻に素性を隠していたなんて」
所詮はその程度の夫婦仲だったのだ――と、綾城は愉快そうに笑うけれど。音音はその言葉に傷つきはしなかった。夫が重大な秘密を抱えていたこと自体に驚きはしたけれど、秘密を明かしてくれなかったことについては、綾城が思っているほど悲しんでいないし怒ってもいない。
音音にとって、この男が何者であるかは、さして重要なことではなかったからだ。
――だとしても。
「そりゃあ驚くよね。本の権威と称される八田幽岳様の実の息子が、まさか自分の夫だったなんて思わないものね」
禁書の毒に対してあれだけの強さを誇る夫だ。それが元帝国司書と言われてもさして驚きはしなかったし、柄田のような高い地位にいた可能性にだって薄々勘づいてはいたけれど――明かされた事実は想像の斜め上すぎた。
「……なぜ」
か細い声で、三八が言う。
「なぜ息子である私が、尊ぶべき父親である幽岳様を殺さなければならない。殺す必要がどこにある。私が殺したという証拠があるのか」
出ないものを絞り出すような声だった。
綾城は三八に返す――音音にもわざわざ聞かせるような声量で話す。
「三日前――幽岳様が亡くなるその日の夜に、『君によく似た男が幽岳様の邸宅を訪問していた』という女中の証言があってね。なにやら長話をしていたとの話だよ。加えて、遺体発見時に幽岳様が握っていた拳銃。幽岳様は一週間前、その男にその拳銃を渡していたという証言もあった。それに……この男は現役時代から幽岳様との間にいざこざがあって、親子仲が決していいとは言えなかった。――当時在籍していた帝国司書の間では有名な話だよ」
こんなに要素が揃っていれば、怪しむのは当然じゃないか。綾城はそう言わんばかりの、自信満々とばかりの表情であった。
しかし、三八の潔白を証明したい音音としては思うのである。
(どれも明確な証拠じゃない。動かぬ証拠が何一つないじゃない)
きっと三八はいわれのない罪を着せられているに違いない――そういう目で見れば、綾城が並べた事柄たちも、まだ覆しようがあるように思える。
音音が思った通り、三八はそれについて反論した。
「事件当日の夜に幽岳様の家を訪れたのは確かだ。仕事のために拳銃をお借りしていたのも間違いない。私はその時、お借りしたその銃を返却するために訪ねていた。だが、私が幽岳様の家を出た時、彼はまだ生きていた。銃声も聞いていない。そもそもお前、幽岳様の死亡推定時刻を調べたりはしたのか?」
三八が怪しいと疑うだけなら素人にだってできよう――しかし、その疑わしい要因を徹底的に調べ尽くし、不確定要素を全て取り除き、真実を追求するのが捜査の大前提である。
綾城の並べ立てた事柄には、三八が殺害したという推論を確定させるだけの要素がない。三八の反論はその隙をついたものであったが、まさか、綾城には三八の反論を論破できる材料があるのだろうか。
音音はそれを心配したのだが――そもそも、綾城にとってそんなことは関係なかった。
「だから、本人が白状すればいいんだよ」
「……っ!」
推論なんて、議論なんて、そんなものは関係なかった。
綾城率いる第四班の捜査とは、三八に自白を強要することで、事件を無理やり解決に導くことであった。そのために、三八を捕まえて拷問にかけ――自白しないと分かれば音音を人質として連れてきた。
(なにそれ……めちゃくちゃだわ!)
音音は、綾城から計り知れないおぞましさを感じ取った。倫理も道徳も通用しない、人の道理が通用しない魔物のように思えた。
「何か言いたそうだね、お嬢さん? 言ってみなよ、ここなら誰にも聞かれずに済むからさ」
音音の傍らにいた隊員が、彼女の猿轡を外した。ただでさえ小さい口に詰め物をされていて息苦しい思いをしていた音音は、息を整えてから声を張った。
「そんなことをして、一体何をしようと言うのですか」
「ん?」
「そうやって乱暴に事件を解決したところで、何になるというのです! ろくに捜査もせず、相手を拷問して自白を強要したことが露見すれば、貴方もただでは済まされませんよ」
最愛の夫を傷つけた女への怒りも込めて、音音は正面からぶつかる。
しかし、道理が通用しなくなった魔物を前に、そんな正攻法が効果を発揮するわけがない。
「何を言う? ただでは済まされないって、お嬢さん、まさかそんな世間知らずな言葉で私を脅しているつもり? 仮に私がこの男を拷問死させたところで、この男が罪人だと説明してしまえばなんの問題にもならないんだよ」
「……っ」
そんなはずはない。結果がどう転がろうと、綾城がやったことは正当化されるものではない。『帝国司書が人的要因による殺人事件の捜査をする』という越権行為をしている時点で、綾城は既に禁忌を犯しているのだ。その上拷問で自白を迫ったなど、間違いなく問題行動として取り沙汰されるだろう。
――しかし、音音がそれを説いたところで無駄だった。戦うすべを持たない小鳥の囀りに、綾城の精神が揺さぶられることはない。
正攻法の通じない相手に呆然とする音音に対して、綾城は冷たく笑いながら言い放つのだった。
「君の信じる正義なんて、所詮は童話の世界の話だよ。残念だったね、可愛い小鳥さん」
そうして、挑発のために音音の頬を撫でてやろうとした時。
「……ふふ」
それよりも少し前に、今度は三八が笑いだした。
「本当に、その通りだ。私やお前が信じていた正義なんてどこにもなかったな、綾城セツ」
そして三八は、笑いながら、仕返しとばかりに呼んだ。
「否――元婚約者の柄田セツ殿?」
ぴしり、と。
彼女の手は、表情は、全身は、凍りついたかのようにぴしりと固まった。
「こんなことをして一体どうするのか――簡単だよ、音音。この女は私を生贄にして、名誉回復を企んでいるのさ。大方、柄田家にとうとう見放されたといったところか?」
三八はくつくつと笑った。彼女以上に意地の悪いことを言いながら、皮肉そうに、どこか悲しそうに笑った。
「正義のため、平和のため、私たちは奔走していたはずなのに。蓋を開ければ、帝国司書隊は欲望と欺瞞に満ちた世界だった。お前が人々の平和のために日々一生懸命働いたところで、地味で地道な努力は評価されなかったんだろうな。――躍起になって追っていた羅刹女の事件も、私の弟子の手柄となったようだし」
その言葉に、綾城はゆっくりと振り返る。彼女の顔をそれまで見ていた音音は、全身の血の気が引いた。
綾城は全くの無表情だった。意地の悪い笑みもなければ、見下すような視線もない。ただただ静かで、静かすぎて――まるで嵐がくる前のような、ひどく不気味な静けさであった。
「そもそもお前のせいなんだよ、クソ野郎!!」
激昂し、豹変した綾城は、腰に括りつけていた禁書を発動させる。禁書から出てきたのは、無数の長く鋭い針を纏った鞭であった。振り上げたそれを、綾城は思い切り三八の体へぶつけた。
「ぎッ……ああぁああッ!!」
ぶつけられて奥深く刺さった針が、肌を引き裂いていく。針の先にはさらに無数の細かい棘がついていて、鋭利な刃物で斬りつける以上の苦痛を与えた。鞭による打撃というより、無数の針による刺突と斬撃――綾城の持つ鞭は、拷問にこの上なく適した凶器であった。
「お前が私との結婚を拒んでなければ!! こんなことには!! ならなかったんだよ!!」
あらん限りの憎悪をぶつける綾城。彼女の脳裏には今、蒸し返された忌々しい記憶たちが駆け巡っている。
柄田家に生まれた彼女は、正義のために戦わんとしていた女だった。その気概を買われ、女性でありながら隊長の地位に取り立てられた彼女は、総統の息子・八田光雪との婚約が内定したのだ。帝国司書隊を支える二家、その八田家の系譜に名を連ねることができる――柄田家もその繁栄を期待して彼女を祝福し、大いに賞賛した。それなのに。
「お前のせいで!! お前のせいで!! お前が私を拒んだせいで!! 私は役立たずになったんだ!!」
それでも、彼女は後に綾城家に嫁いで、懸命に奔走した。――しかし、地道な努力はなかなか実を結ばない。彼女が率いる第四班は特に目立った功績を上げられなかった。危うく隊長の地位から陥落しかけたこともあったが、それは持ち前の美貌と愛嬌で誤魔化した。――しかし、歳を取ればそれも『痛々しいお局』と言われて揶揄される。
彼女が十年前から必死に追い続けてきた羅刹女事件の手柄は、この男の愛弟子が持って行ってしまった。勇敢な死を遂げた彼は今や英雄扱い――かたや、十年間も事件を追っていながらなにもできなかった自分は『無能な隊長』と囁かれる。
――そう、すべて、この男のせいなのだ。手柄を手にしようとして失敗したのは、すべてこの男の存在のせいなのだ。
綾城はそんな忌々しい記憶を思い浮かべ、感情が暴走するままに三八を叩き続ける。彼の妻が「やめて」と泣き叫んでも、彼女の部下が静まり返っても、彼女の耳には届かなかった。
「はぁ……っはぁ……!」
疲れた彼女がようやくその手を止めた時、三八は傷だらけどころか、所々肉が削げてしまうほどの大怪我を負っていた。それを見て、彼女は嗤う。妻の前で無様な姿になった三八を、嗤う。
「いい気味だ……! 私が味わった屈辱、思い知ったか!」
そんな罵声と唾を吐き捨てる綾城に、もはや理性はない。目の前のこの男が死んだらどうしようだとか、さらに言うなら、八田光雪を死亡させた罪に問われたらどうしようだとか、そんな思考などあるはずもなかった。
だから、彼女の暴走は止まらない。彼女はさらに、三八を苦しめるための拷問を展開する。
「次はどうしてやろうか――」
言うが早いか、綾城は鞭を音音に向かって振るう。
「きゃあっ!?」
音音の体にぶつかった鞭の棘は、幸い音音の体を傷つけはしなかった。しかし――厚着した着物によって守られていた音音の白い肌、その控えめな胸元は、無惨に暴かれた。
「ひっ……!?」
かろうじて大事な部分までは見えなかったが、それも衣服が少し捲れてしまえば全てが露わになってしまうだろう。そんなギリギリの状態を見て、周囲にいた男どもは色めきだった。
「若いってのはいいね。肌がきめ細やかで整っている。瑞々しい果物みたいだ。――この場の男たちにとっては極上の餌になるだろうね?」
若い女の素肌を指が這うという艶かしい光景に、男どもの注目が一気に集まる。晒された胸元を多数の男から覗き込まれて、音音は怖気立った。
「お前のことだ――どうせ、この娘も処女なんだろう? 分かるよ。お前に女が抱けるわけない――お前は私の裸を見て吐いたんだからな! まるで汚物でも見たかのように! そうやって私を拒んだんだ――」
怨嗟の篭った綾城の指先は酷く熱い。その指が、音音の未熟な乳房を握るように掴む。痛みで引きつった音音の表情は、羞恥と恐怖で満ちていた。
「ここにいる男たちは、『旦那の目の前で人妻を虐めたくないか』って言葉に釣られてきた好色どもだ。どういう意味か、みなまで言わなくても分かるね?」
「あ、あ……っ」
いくら気丈に振舞っていようとも、所詮は酸いも甘いも知らない生娘の音音だ。悪意に浸された彼女の心は折れかけていた。
これが憎き男の妻だと思うと気分がいい――綾城は、それまで固唾を呑んで堪えていた男たちの手網を緩めた。
「そうやって見ているといい。自分が奪えなかった妻の純潔が、赤の他人の手で無惨に散らされていく様をね――!」
*****
綾城は気づかなかった。気づけなかった。
自分が今、絶対に踏んではならない地雷を踏み抜いたことに。否、地雷どころではなく――大量破壊兵器を起爆させるくらいの愚行を犯したことに。
――本気で怒らせてはいけないこの男を、限界まで怒らせてしまったことに。
「分かった――分かったよ、綾城」
彼女は、破滅の引き金を自ら引いてしまったことに気づかなかった。
「折れろ」
ぽつんとたった一つ呟かれた言葉――それが、破滅の幕開けとなった。
──
音音は気づく。
そもそもがおかしいじゃないか、と気づく――まあ、それも気づいたところでどうしようもないのだけど。
(どうして、回収部隊の人たちが動いているの?)
そう、彼らはあくまで禁書の回収のために動く部隊であり――禁書が関わっていると見なされない事件への介入はできないはずなのである。
だからこそ、柄田は一連の殺人事件が羅刹女によるものと確定するまで、第一部隊を動かせなかったのだ。
だというのに、この第四班は――どうして、禁書のせいではないと分かっている事件の捜査をしているのだ?
(人的な刑事事件の捜査は警察隊の領分のはずなのに――)
特に帝国司書隊の事情に詳しいわけではない音音でも、それくらいのことは分かる。
つまり、彼らは、第四班は――本来警察隊がするべき捜査を、勝手に行っているということになる。
(どうして? そんなことをすれば大問題になるわ。警察隊からのお咎めは逃れられないのに)
なんの意図があって、こんなことをしているのか。それこそ、一般市民である音音を拘束してまで、何をしようと言うのか。全くもって、嫌な予感しかしない。
「着きましたよ、奥様」
音音は、それまでガタガタ鳴っていた車輪の音が、いつの間にか止まっていたことに気づく。
着いたと言われても、自分がどこにいるのかまるで分からない――それもそのはず、車に乗せられていた音音は手首を縛られ、口を塞がれ、目隠しまでされていたのだから。
(……水の音?)
車の扉が開けられる音の次に、彼女の耳に流れ込んだのは、水の音であった。
目隠しを外された音音は空の色を見て、今が夜明け前であることを初めて認識する。
外の風景を確かめる間もないまま車から降ろされると、音音は男たちに囲まれながら歩かされた。
(どこかのお庭かしら――それにしては殺風景だわ)
町で履いている下駄ではかなり歩きにくい道だった。おまけに雪除けもされていないので、足袋の上から冷たい雪水が染み込んでたまらない。客人を出迎える石灯籠は壊れてしまっており、周りに生えている木も枝が伸び放題で、雪の重みで折れてしまったものはそのまま――ろくに整備されていないようだった。
さしずめ、打ち捨てられた庭園といったところか。
(……そうか、水の音はこれだったのね)
そう納得する彼女の目の前には、湖があった。この湖をぐるりと囲むように、庭園はできているようだ。そして、その湖のさらに中心には、古びた屋敷がある。昔ながらの大陽本風な木造建築で、どうやら二階建てであった。――どうやら、と言ったのは、その二階部分の大半が既に朽ちてしまっていて、辛うじて柱のみが残されているからだ。
(……格子?)
湖上の屋敷まで繋がる道を歩きながら、一階部分に目を凝らす。その一角には、他の障子とは明らかに違う作りをした、障子というにはかなり堅牢で頑丈そうな作りの扉があった。
もしや――と、音音が思った通り、彼女が通されたのは、その格子扉からであった。そこにいたのは。
「ああ、ちょうどよく来たみたいだね」
そこにいたのは、柄田と同じ隊服を纏った中年の女と――全身傷だらけになった夫であった。
「いきなり誘拐して悪かったね。君の旦那さん、ずいぶんと頑張るから。君に協力してもらわないといけなくなったんだ」
女の言葉は、音音の耳には入らなかった。
縄で両手を吊るされ、傷だらけになっている夫――三八の凄惨な姿を目の当たりにしてしまったのだから、当然である。
傷――それは切り傷か、打ち傷か、引っかき傷か、刺し傷か、よく分からない。着物を剥かれた肌の上を、多種多様の傷が縦横無尽に走っているせいで、その判別を許さないのである。
「いつまで寝てる。早く起きなさい」
女はそう言って、部屋の隅にあった桶の水を三八の顔面にかけた。
「……ぅ」
一月の気温で冷えきった水を浴びて、三八は小さく呻く。
「ちっ」
反応の薄い三八に舌打ちをした女が、三八の脇腹を殴る。
「ッが、は!」
女は咳き込む三八の前髪をぐしゃりと掴んで、頭を無理やり上げさせた。そして、目が合った。音音の黒曜色の目と、三八の若草色の目が合った。
「──音音……ッ!?」
三八は、顔だけは傷つけられなかったらしい。しかし、目の下には色濃い隈があるし、まともに休息を与えられていないことは見てとれた。
「奥さんがいると知った時点でも驚いたけど……まさかこんなに若いお嬢さんだったなんて。意外や意外だな」
女は音音を見る。じろりと見る。まじまじと見る。食い入るように見る。品定めするように、値踏みするように見る。
「……ああ、そうそう。名乗るのが遅れたな。帝国司書隊図書館資産管理部――長いな、第四禁書回収班班長・綾城セツ。――ついでに、八田光雪の元婚約者だよ」
女は、綾城は名乗る。現在の妻である音音に対して、性格の悪い笑みを浮かべながら、名乗る。
しかし、そんな綾城の挑発よりも、音音は別のことに気を取られていた。
――この女の口から転び出た、聞き覚えのない名前。
「……まさか君、自分の夫の本名を知らないの?」
音音は何も答えない。塞がれた口では答えようもないのだけど。それ以前に、答えられない。耳を疑っていると言ってもいい、現実を疑っていると言ってもいい――綾城が言った言葉を、受け入れることが出来なかった。
「……なるほど?」
綾城はさらに口角を吊り上げてにたりと笑う。いかにも意地の悪い目で、音音を嗤う。
「つまり君は、この男がどんな人物だったのか――私たちの間でどれだけの有名人なのかを知らないわけだ。いや、こんなに若ければ全盛期の彼の伝説を知らなくてもおかしくはないのか?」
綾城は、言葉が呑み込めないでいる音音をさらに嘲りながら、「なら、教えてあげる」と大仰に言うのだった。
「この男の名前は八田光雪。帝国司書隊創始者である初代総統・八田幽岳様の唯一の弟子にして――実の息子」
詳らかにされる夫の正体に、音音は絶句する。けれど、それはただ単純な驚きからであった。
「随分な秘密主義じゃないか。愛する妻に素性を隠していたなんて」
所詮はその程度の夫婦仲だったのだ――と、綾城は愉快そうに笑うけれど。音音はその言葉に傷つきはしなかった。夫が重大な秘密を抱えていたこと自体に驚きはしたけれど、秘密を明かしてくれなかったことについては、綾城が思っているほど悲しんでいないし怒ってもいない。
音音にとって、この男が何者であるかは、さして重要なことではなかったからだ。
――だとしても。
「そりゃあ驚くよね。本の権威と称される八田幽岳様の実の息子が、まさか自分の夫だったなんて思わないものね」
禁書の毒に対してあれだけの強さを誇る夫だ。それが元帝国司書と言われてもさして驚きはしなかったし、柄田のような高い地位にいた可能性にだって薄々勘づいてはいたけれど――明かされた事実は想像の斜め上すぎた。
「……なぜ」
か細い声で、三八が言う。
「なぜ息子である私が、尊ぶべき父親である幽岳様を殺さなければならない。殺す必要がどこにある。私が殺したという証拠があるのか」
出ないものを絞り出すような声だった。
綾城は三八に返す――音音にもわざわざ聞かせるような声量で話す。
「三日前――幽岳様が亡くなるその日の夜に、『君によく似た男が幽岳様の邸宅を訪問していた』という女中の証言があってね。なにやら長話をしていたとの話だよ。加えて、遺体発見時に幽岳様が握っていた拳銃。幽岳様は一週間前、その男にその拳銃を渡していたという証言もあった。それに……この男は現役時代から幽岳様との間にいざこざがあって、親子仲が決していいとは言えなかった。――当時在籍していた帝国司書の間では有名な話だよ」
こんなに要素が揃っていれば、怪しむのは当然じゃないか。綾城はそう言わんばかりの、自信満々とばかりの表情であった。
しかし、三八の潔白を証明したい音音としては思うのである。
(どれも明確な証拠じゃない。動かぬ証拠が何一つないじゃない)
きっと三八はいわれのない罪を着せられているに違いない――そういう目で見れば、綾城が並べた事柄たちも、まだ覆しようがあるように思える。
音音が思った通り、三八はそれについて反論した。
「事件当日の夜に幽岳様の家を訪れたのは確かだ。仕事のために拳銃をお借りしていたのも間違いない。私はその時、お借りしたその銃を返却するために訪ねていた。だが、私が幽岳様の家を出た時、彼はまだ生きていた。銃声も聞いていない。そもそもお前、幽岳様の死亡推定時刻を調べたりはしたのか?」
三八が怪しいと疑うだけなら素人にだってできよう――しかし、その疑わしい要因を徹底的に調べ尽くし、不確定要素を全て取り除き、真実を追求するのが捜査の大前提である。
綾城の並べ立てた事柄には、三八が殺害したという推論を確定させるだけの要素がない。三八の反論はその隙をついたものであったが、まさか、綾城には三八の反論を論破できる材料があるのだろうか。
音音はそれを心配したのだが――そもそも、綾城にとってそんなことは関係なかった。
「だから、本人が白状すればいいんだよ」
「……っ!」
推論なんて、議論なんて、そんなものは関係なかった。
綾城率いる第四班の捜査とは、三八に自白を強要することで、事件を無理やり解決に導くことであった。そのために、三八を捕まえて拷問にかけ――自白しないと分かれば音音を人質として連れてきた。
(なにそれ……めちゃくちゃだわ!)
音音は、綾城から計り知れないおぞましさを感じ取った。倫理も道徳も通用しない、人の道理が通用しない魔物のように思えた。
「何か言いたそうだね、お嬢さん? 言ってみなよ、ここなら誰にも聞かれずに済むからさ」
音音の傍らにいた隊員が、彼女の猿轡を外した。ただでさえ小さい口に詰め物をされていて息苦しい思いをしていた音音は、息を整えてから声を張った。
「そんなことをして、一体何をしようと言うのですか」
「ん?」
「そうやって乱暴に事件を解決したところで、何になるというのです! ろくに捜査もせず、相手を拷問して自白を強要したことが露見すれば、貴方もただでは済まされませんよ」
最愛の夫を傷つけた女への怒りも込めて、音音は正面からぶつかる。
しかし、道理が通用しなくなった魔物を前に、そんな正攻法が効果を発揮するわけがない。
「何を言う? ただでは済まされないって、お嬢さん、まさかそんな世間知らずな言葉で私を脅しているつもり? 仮に私がこの男を拷問死させたところで、この男が罪人だと説明してしまえばなんの問題にもならないんだよ」
「……っ」
そんなはずはない。結果がどう転がろうと、綾城がやったことは正当化されるものではない。『帝国司書が人的要因による殺人事件の捜査をする』という越権行為をしている時点で、綾城は既に禁忌を犯しているのだ。その上拷問で自白を迫ったなど、間違いなく問題行動として取り沙汰されるだろう。
――しかし、音音がそれを説いたところで無駄だった。戦うすべを持たない小鳥の囀りに、綾城の精神が揺さぶられることはない。
正攻法の通じない相手に呆然とする音音に対して、綾城は冷たく笑いながら言い放つのだった。
「君の信じる正義なんて、所詮は童話の世界の話だよ。残念だったね、可愛い小鳥さん」
そうして、挑発のために音音の頬を撫でてやろうとした時。
「……ふふ」
それよりも少し前に、今度は三八が笑いだした。
「本当に、その通りだ。私やお前が信じていた正義なんてどこにもなかったな、綾城セツ」
そして三八は、笑いながら、仕返しとばかりに呼んだ。
「否――元婚約者の柄田セツ殿?」
ぴしり、と。
彼女の手は、表情は、全身は、凍りついたかのようにぴしりと固まった。
「こんなことをして一体どうするのか――簡単だよ、音音。この女は私を生贄にして、名誉回復を企んでいるのさ。大方、柄田家にとうとう見放されたといったところか?」
三八はくつくつと笑った。彼女以上に意地の悪いことを言いながら、皮肉そうに、どこか悲しそうに笑った。
「正義のため、平和のため、私たちは奔走していたはずなのに。蓋を開ければ、帝国司書隊は欲望と欺瞞に満ちた世界だった。お前が人々の平和のために日々一生懸命働いたところで、地味で地道な努力は評価されなかったんだろうな。――躍起になって追っていた羅刹女の事件も、私の弟子の手柄となったようだし」
その言葉に、綾城はゆっくりと振り返る。彼女の顔をそれまで見ていた音音は、全身の血の気が引いた。
綾城は全くの無表情だった。意地の悪い笑みもなければ、見下すような視線もない。ただただ静かで、静かすぎて――まるで嵐がくる前のような、ひどく不気味な静けさであった。
「そもそもお前のせいなんだよ、クソ野郎!!」
激昂し、豹変した綾城は、腰に括りつけていた禁書を発動させる。禁書から出てきたのは、無数の長く鋭い針を纏った鞭であった。振り上げたそれを、綾城は思い切り三八の体へぶつけた。
「ぎッ……ああぁああッ!!」
ぶつけられて奥深く刺さった針が、肌を引き裂いていく。針の先にはさらに無数の細かい棘がついていて、鋭利な刃物で斬りつける以上の苦痛を与えた。鞭による打撃というより、無数の針による刺突と斬撃――綾城の持つ鞭は、拷問にこの上なく適した凶器であった。
「お前が私との結婚を拒んでなければ!! こんなことには!! ならなかったんだよ!!」
あらん限りの憎悪をぶつける綾城。彼女の脳裏には今、蒸し返された忌々しい記憶たちが駆け巡っている。
柄田家に生まれた彼女は、正義のために戦わんとしていた女だった。その気概を買われ、女性でありながら隊長の地位に取り立てられた彼女は、総統の息子・八田光雪との婚約が内定したのだ。帝国司書隊を支える二家、その八田家の系譜に名を連ねることができる――柄田家もその繁栄を期待して彼女を祝福し、大いに賞賛した。それなのに。
「お前のせいで!! お前のせいで!! お前が私を拒んだせいで!! 私は役立たずになったんだ!!」
それでも、彼女は後に綾城家に嫁いで、懸命に奔走した。――しかし、地道な努力はなかなか実を結ばない。彼女が率いる第四班は特に目立った功績を上げられなかった。危うく隊長の地位から陥落しかけたこともあったが、それは持ち前の美貌と愛嬌で誤魔化した。――しかし、歳を取ればそれも『痛々しいお局』と言われて揶揄される。
彼女が十年前から必死に追い続けてきた羅刹女事件の手柄は、この男の愛弟子が持って行ってしまった。勇敢な死を遂げた彼は今や英雄扱い――かたや、十年間も事件を追っていながらなにもできなかった自分は『無能な隊長』と囁かれる。
――そう、すべて、この男のせいなのだ。手柄を手にしようとして失敗したのは、すべてこの男の存在のせいなのだ。
綾城はそんな忌々しい記憶を思い浮かべ、感情が暴走するままに三八を叩き続ける。彼の妻が「やめて」と泣き叫んでも、彼女の部下が静まり返っても、彼女の耳には届かなかった。
「はぁ……っはぁ……!」
疲れた彼女がようやくその手を止めた時、三八は傷だらけどころか、所々肉が削げてしまうほどの大怪我を負っていた。それを見て、彼女は嗤う。妻の前で無様な姿になった三八を、嗤う。
「いい気味だ……! 私が味わった屈辱、思い知ったか!」
そんな罵声と唾を吐き捨てる綾城に、もはや理性はない。目の前のこの男が死んだらどうしようだとか、さらに言うなら、八田光雪を死亡させた罪に問われたらどうしようだとか、そんな思考などあるはずもなかった。
だから、彼女の暴走は止まらない。彼女はさらに、三八を苦しめるための拷問を展開する。
「次はどうしてやろうか――」
言うが早いか、綾城は鞭を音音に向かって振るう。
「きゃあっ!?」
音音の体にぶつかった鞭の棘は、幸い音音の体を傷つけはしなかった。しかし――厚着した着物によって守られていた音音の白い肌、その控えめな胸元は、無惨に暴かれた。
「ひっ……!?」
かろうじて大事な部分までは見えなかったが、それも衣服が少し捲れてしまえば全てが露わになってしまうだろう。そんなギリギリの状態を見て、周囲にいた男どもは色めきだった。
「若いってのはいいね。肌がきめ細やかで整っている。瑞々しい果物みたいだ。――この場の男たちにとっては極上の餌になるだろうね?」
若い女の素肌を指が這うという艶かしい光景に、男どもの注目が一気に集まる。晒された胸元を多数の男から覗き込まれて、音音は怖気立った。
「お前のことだ――どうせ、この娘も処女なんだろう? 分かるよ。お前に女が抱けるわけない――お前は私の裸を見て吐いたんだからな! まるで汚物でも見たかのように! そうやって私を拒んだんだ――」
怨嗟の篭った綾城の指先は酷く熱い。その指が、音音の未熟な乳房を握るように掴む。痛みで引きつった音音の表情は、羞恥と恐怖で満ちていた。
「ここにいる男たちは、『旦那の目の前で人妻を虐めたくないか』って言葉に釣られてきた好色どもだ。どういう意味か、みなまで言わなくても分かるね?」
「あ、あ……っ」
いくら気丈に振舞っていようとも、所詮は酸いも甘いも知らない生娘の音音だ。悪意に浸された彼女の心は折れかけていた。
これが憎き男の妻だと思うと気分がいい――綾城は、それまで固唾を呑んで堪えていた男たちの手網を緩めた。
「そうやって見ているといい。自分が奪えなかった妻の純潔が、赤の他人の手で無惨に散らされていく様をね――!」
*****
綾城は気づかなかった。気づけなかった。
自分が今、絶対に踏んではならない地雷を踏み抜いたことに。否、地雷どころではなく――大量破壊兵器を起爆させるくらいの愚行を犯したことに。
――本気で怒らせてはいけないこの男を、限界まで怒らせてしまったことに。
「分かった――分かったよ、綾城」
彼女は、破滅の引き金を自ら引いてしまったことに気づかなかった。
「折れろ」
ぽつんとたった一つ呟かれた言葉――それが、破滅の幕開けとなった。
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