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十二月『消ゆ根雪』
結 そして、急
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「まさかこんなところに君の拠点があるとは思わなかったよ、秋声」
「たまたまです。僕のほうこそ、この場所が貴方にとって縁深い地であったとは思いませんでした」
場所は藤京の華やかな街並みと隔てられた丘――打ち捨てられた廃村であるゆえに、誰も踏み入ることのない土地。一本の大木を頂上に据える丘の、その中腹。
すっかり葉の落ちた木々に囲まれながら、その小屋は建っていた。
「まさかこの地にかつて――……いえ、そんなことは今どうでもいいのです。みつ…三八さん。貴方、修一郎さんになんて無茶をさせていたんです。こんな包帯まみれの重傷になる前になぜ彼を止めなかったのですか。貴方なら分かっていたでしょうに」
「無茶言うなよ、そこまでやったら譚本作家として完全に罰点をつけられてしまう」
「罰点をつけられてでも、『やめろ』というひと言くらいは明確に言ってあげてほしかったものですね」
「やだよ。小生は譚本作家として彼と契約していたんだ。その立場としてはむしろ、『本当に復讐譚なのか』なんて警告さえ、するべきではなかったと思っているくらいだぞ」
「……そうですね、すみませんでした。罰点なのは譚本作家の貴方に人らしい情と罪悪感を期待した僕のほうですね」
「随分な言い方をしてくれる。人をそんな悪魔みたいに言いやがって」
小屋の中の男二人――秋声と三八によるそんなやり取りを、夏目世助はなにやら落ち着かない様子で聞いていた。
「……世助? どうしたんだい、さっきからじろじろと。小生の体つきに興味でもあるのかい」
「ねえよ、阿呆か」
なにやら気持ち悪い発言をする三八に向かってさらりと悪態をつく世助は、しかし、三八の全身を上から下まで、下から上まで眺めている。それこそ、舐めるように眺めているのだ。
「あんた、随分らしくねえ格好してんな。いつもは紺色の袴着てんのによ」
世助の言う通り、現在の三八の服装は、普段彼が着ているゆったりとした袴とはまったく正反対の性質を持つものだった。
上腕から先を晒した黒の衣服はぴったりと肌に密着し、三八の細い体つきを鮮明に描き出している。手には革製の黒い手袋、右眼には眼帯、下半身は軍人が履いていそうな洋袴にブーツ。
世助にとって見慣れないものばかりであったから、というのもあるのだろう。が、それを抜きにしても――今の三八の格好はあまりにも、厳ついというか、物々しい印象を受ける。
「細かいことは気にしないものだよ。小生にだって、秘密のひとつやふたつあるからね」
「……まあいいや。それはそうとおっさん、仕事が終わるまでまだ時間かかりそうか?」
「いや、今夜の予定で全て終わりだよ。どうかしたのかい?」
三八が聞くと、世助はほんの少しだけ目を伏せて、なんだか申し訳なさそうな様子で言った。
「仕事が終わったら、できるだけすぐに棚葉町に戻ってくれねえか。実はさ――」
*
“彼”が目を覚ましたのは、その三日後の朝である。
「――あっ、動いた!」
彼は少年の声を耳にとらえた。その声に覚えがあって――霞のような記憶を辿って、そして二人の少年のものに行きあたる。
――菜摘芽唯助か、夏目世助のどちらかだろう。姿も似ていれば、声もほとんど変わらない、双子の片割れだ。
「先生、柄田さんが動いた! 指ぴくぴくしてたぞ!」
少年の声は慌ただしい足音と共に遠ざかった。誰かを呼びに行ったらしい。ほどなくして戻ってきた足音はもう一人分増えていた。
「ほら、右手の親指。握ってたらぴくぴくって」
「どれどれ」
説明する少年の声に、答えるのは中年の声。活発そうな少年の声とは対照的に、中年の声は低く穏やかなものであった。
「修一郎さん、聞こえていますか。聞こえていたら、右手の親指を動かしてください」
右手に意識を向けながら、彼はその親指を動かす。動かす度に、なにか柔らかいものにぶつかっているような感覚がした。
「確かに、動いていますね。意識もあるようです。すごい生命力ですね」
「よかった……!」
どうやら、中年に手を触られているらしい。しかし、肝心の触られている感覚がない。いや、それどころか……視界がなんだか薄暗い。目を上手く開けられないようだ。お陰で少年の声が双子のどちらのものなのか、全く分からなかった。
安堵する少年の声をなだめるように、中年の声は言う。
「ですが、まだ不必要に動かしてはいけません。――修一郎さん、僕は鷺原秋声と申します。負傷した貴方を手術した禁書医です。貴方の体の状態を説明しますから、どうか落ち着いて聞いてください」
名乗った中年は耳元で、非常に冷静かつ淡々とした声で語った。――語ろうとした。
「……!?」
だが、彼はその姿を見て――ようやく開いたその目で見て――戦慄し、飛び起きようとする。
実際は文字通り体が動揺する程度のものであったが、それを見て紫色の着物を着た少年――世助が慌てて止めに入った。
「だめだ、柄田さん! 体を動かしちゃまずいんだよ」
世助に押さえられてもなお動こうとする彼。しかし、それもむべなるかな。中年・鷺原秋声は、彼が倒れる前に見た帝国司書隊の仇敵・尾前一派が一人――尾前秋久その人であったからだ。
しかし、彼は右手の親指以外が全く動かせない状態である。世助に押えられているからではなく、意志を働かせても動かせないのだ。
秋声は無理やりにでも動こうとする彼の耳元に口を寄せて、彼にだけ聞こえる声で囁いた。
「どうか落ち着いてください。僕は七本三八の協力者です。先日、貴方が奇襲をしかけた敵陣に先んじて潜り込んでいた、内通者ですよ」
「!」
一般人である世助がいる手前、詳しく説明することはできないのだろう。秋声はそれだけ伝えるとすぐに離れ、今度は医者として、彼の状態を説明し始めた。
「修一郎さん、体を動かしてはいけません。今のような意思疎通のために、右手の親指だけ動かすよう頼むことはあるかと思いますが、それ以外は僕が許可するまで駄目です。よろしいですか?」
なにがなにやら分からない状態の彼ではあるが、こんな状態では抵抗らしい抵抗もできまい。彼はとりあえず全身で藻掻くのをやめ、「了解した」という旨を伝えるために親指を動かした。秋声はさらに続ける。
「今、貴方の体は大変崩れやすい状態です。無事な組織を繋ぎ合わせることはできましたが、完全にくっつくまでには時間がかかります。固定のために全身に巻いている布は、状態を見ながら外していきますので、その間は体を動かすことを我慢していてください」
ぴく、と相手に伝わる最低限の分だけ、親指を動かす。動かすなと言われても親指以外はどうやったって動かないが、動かせるようになったとしても無理に動かすなという意味だろう。
「一つ、残念なお知らせがあります。――左肩から投与された羅刹女の毒ですが、そこから左半身には毒が残っていました。可能な限り取り除きはしましたが、左腕はかなり蝕まれていましたので、腕ごと切断させて頂きました」
「――ぇ……」
彼は驚愕して、声を発していた。とはいっても、それははたして声と表現していいのか疑わしくなるような、掠れた音だった。声帯や喉も上手く機能していないのだ。
「焔神楽の浄火でも焼き清めましたが、それでもまだ僅かに毒が残存している可能性もあります。ですから、貴方の傍にはしばらく世助くんについてもらいます。強い干渉性を持つ彼ならば、傍にいるだけでも禁書の毒を鎮静できるでしょう。毒以外にも何か容態の変化等があったときは、彼が僕に連絡します」
――そうか、だからこの場に、この藤京に、世助がいるのか。
そこまで理解して、彼は一人、この場にいない人物があることに気づく。
「……な、な、もと、は」
自分が倒れる寸前に乱入した七本三八――もとい八田光雪。
彼が来た後、状況はどうなったのか――
自分が尾前冬嗣に仕掛けた奇襲攻撃は、ちゃんと届いたのか?
自分が倒れたあと、真央は倒されたのか?
禁書『羅刹女』は回収されたのか?
敵の目論見は阻止できたのか?
記憶が蘇るのと同時に、疑問もまた次々と頭に浮かぶ。
「三八さんは貴方が倒れた日の晩、最後の仕事をこなして帰っていかれましたよ。世助くんが早く帰ってやってくれと言っていましたが」
「……?」
彼は視線を世助のほうへ投げかけ、説明を求める。世助は頷いて、彼が望んだとおりに説明した。
「このところ、唯助の体調が心配でさ。おっさんに突然呼ばれたから、唯助と姉御を棚葉町に残してきちまったんだ。だから、早く戻ってやってくれって。唯助が調子悪くなってたら、姉御も一人で看病しなきゃで心細いだろ」
彼は、九月以来会っていないもう片割れの少年を思い浮かべる。
唯助が幼少期に喘息を患っていたことは聞いていた気がするが、現在の唯助はそれを忘れてしまうほどの健康体だったはずだ。禁書の毒を相手に世助と暴れ回ったくらいだし、街の屋根をひょいひょいと走って飛び回る、野生の猿のように元気でたくましい少年だったというのに、なにがあったのだろうか?
彼が唯助に思いを巡らせている間に、秋声は世助に言った。
「世助くん。すみませんが、しばらく席を外していただけませんか。彼と二人きりで話をしたいので」
「じゃあ待ってる間、外で薪割りでもしとくよ。その間に終わる話か?」
「ええ、外に出してある分だけ割ってもらえれば十分です」
「分かった。なんか手伝えることがあったら、また呼んでくれよな」
「助かります」
世助が上着を着て外に出ていくのを見送ると、秋声は世助の前で話せなかったことについて話し始めた。
「……光雪から伝言を預かっています。
修一郎さん、貴方はしばらく藤京を離れて潜伏していてください」
「……?」
「貴方は帝国司書隊内で殉職者として扱われています」
「ぇ」
「貴方は羅刹女の毒を受けて生き延びた唯一の存在です。帝国司書隊に知れたら、何をされるか分かりません。最悪、禁書研究のために人体実験を迫られることも考えられます」
「じっ、け……?」
彼は理解が追いつかなかった。自分が羅刹女の毒を受けたことは覚えているが――現在の自分が置かれている状況があまりにも現実離れしていて、受け入れがたいといったところか。
それに、まるで自分が帝国司書隊から狙われているかのような話しぶりだってそうだ。自分がつい先日までそこで働いていたというのもあるが、そんないかにも恐ろしいことを――国賊・尾前一派が行っていたようなことを、帝国司書隊がするとでも言うのか?
正直、信じられないことだらけで、夢でも見ているのかという気分にもなってくるが、秋声の続きの言葉はそれを冷たく否定する。
「かつて帝国司書隊で禁書を研究していた僕が言いますが、研究に携わる方たちの中には、研究のために平気で人権を無視するような奴らもいます。貴方の人権や、生命さえも脅かされる可能性がある。それに、もしかしたら尾前一派の残党がまだいて、彼らからも狙われるという可能性だって否定できません。それくらい、貴方の存在は貴重なのです」
――秋声の言葉を全て鵜呑みにするわけではないが、それが事実だというのならこれほどおぞましいこともない。
「ですから、光雪は敵の本拠地をすべて焼き払ってきました。人も骸も、貴方の妹さんも、羅刹女の原本や研究資料に至るまで――すべて灰になるまで。身元の特定もできなくなるまで。貴方は尾前一派の本拠地へ単身で乗り込み、そこでの火災に巻き込まれて犠牲になった英雄――そう報告がなされたのです。言うまでもなく、これは表向きの話ですがね」
「……」
「ですから、ここでの療養を終えましたら、できる限り早く藤京を離れます。そのように手筈を整えておきますので、心に留めておいてください」
……自分の意識がない間に、随分な大事が起きていたようだ。帝国司書隊の敵は妹もろとも八田光雪の手であっさりと殲滅され、自分は寝ている間に殉職者として扱われ、しかも世間から身を隠せといきなり命じられる始末。おまけに体を動かせないほど負傷し、今まで当たり前のようにあった左腕は無くなって――頭のいい彼といえどもなにがなにやら、まったく理解の追いつかない煩雑とした有様だった。
それでもなんとか理解しようとして、彼はふと、一番大事なことを思い出した。
「ほ、ん」
「?」
「わたしの、はなし、は」
途切れ途切れに話すと、秋声は「ああ」と思い出したように言って、そばに置いてあった一冊の本を見せてきた。
「ちゃんとありますよ。ここに」
彼は、目前に置かれたその本を見る。
真っ白な装丁と、その中央に綴られた文字を見る。
「……ゆ、き」
――『消ゆ根雪』。
その題名は、血まみれの体験をした彼には随分と不似合いで、しかしそれ以上に、これ以上ないほどにお似合いのものだった。
(春まで残る根深い雪、か――本当に、その通りだな)
回文という言葉遊びを仕込んでいるあたり、文章で遊ぶ癖のあるあの男らしい仕掛けだが――と、彼はふと思う。
(回文は、逆さ言葉とも言うのだったな)
と、思い当たる。
(あぁ、そういうことか。だから回文にしたのか)
と、悟る。
秋声は、そっと笑った。彼が悟ったのを見て、穏やかに笑った。祝福せんばかりの、心からの笑顔である。
「貴方は死んだんですよ、鍔倉修一郎さん。――いえ、柄田修一郎さんも、でしょうか」
「………じゃ、あ」
ここにいる『私』は、誰なのだろう。
彼は――修一郎だった“彼”は、そう問いかけた。実際には声にできなかった問いだったが、秋声はそれを読み取って、答えた。
「今の貴方は、誰でもありませんよ。良くとらえるなら、まだ誰にもなっていない――生まれてさえいない、と言うべきですか」
「……――ああ」
ああ、と。
彼は、一つ腑に落ちた。
七本三八という男がなぜ冷徹でありながら――音音や唯助を惹きつけているのか。
譚を味わうためなら人でなしにも、悪魔にもなるような酷い人間なのに――どうして彼らは七本三八を賞賛し、慕うのか。
今まで不思議だと思っていたことについて、得心した。
いうなれば、彼らにとって七本三八は栞であった。
譚を得るために七本三八が行っていることこそが、彼らのような譚に行き詰まった迷い人にとって、大きな救いであったのだ。
譚をあるべき終焉へと導き、結を求めて本に紡ぐことこそが、譚本作家が存在する意義。
――しかし、それは本を紡ぐ側の独善であってはいけない。
七本三八は、例え自身の見ている譚が本当は復讐譚ではないと気づいていても、修一郎本人がそれに気づいていなくても、仮にそこから助けてあげたい気持ちがあったとしても、決して答えを教えることはしなかった。
修一郎がなにを思い、どう行動しても――修一郎の譚なのだから。
彼の譚の一部ではなく、他でもない修一郎だけの譚だったのだから。
――その譚は、もう完結した。修一郎は死んだのだ。
けれど、“自分”はまだ、生きている――ならば、今ここに存在している“自分”が誰であるかを決める権利は、他でもない“自分”にこそある。
なら、今度こそは、自分が誇れる誰かになってやろう。
名無しとなった“彼”の、新たな譚が始まった瞬間であった。
十二月『消ゆ根雪』・了
*
「先生! 先生、急患だ!」
突如、玄関から大きな声が響いた。外にいた世助のものであろう。
急患という言葉を耳にして、秋声は職業病的に、反射的に、椅子からすっと立ち上がった。
「体調が悪い奴になんてとこ歩かせてんだよ、お前!」
「僕だって止めたよ! でも電車が途中で止まっちゃうし、歩いてでもって聞かなかったんだからしょうがないじゃにゃいか!」
世助はどうやら誰かと喧嘩しているようだった。声からして、世助よりもさらに幼い少年らしい。秋声はすぐにその場へ向かう。
――そこで世助と小さな少年に抱えられていたのは、彼と同じ茶色の髪をした少年だった。
「助け、て」
細々とした声に、ぜいぜいと喘ぐような呼吸、体をできる限り横にしない世助の抱え方で、秋声はすぐさまその少年が置かれている状況を察知する。
「喘息ですか」
「助けて……た、すけて、ください」
「分かったから無理して喋んな!」
少年はしきりに呟いていた。何度も何度も、うわごとのように「助けて」と繰り返している。
「落ち着いてください、今助けますから。すぐに処置を……」
「そうじゃ、なくて」
夏目世助と瓜二つの少年――菜摘芽唯助は、言う。
必死に、訴える。
切実に、要求する。
「姐さん、を……音音さんを――助けてください」
「――は……?」
その名前は、秋声にも覚えがあった。
彼にとっての旧き友、八田光雪――もとい、七本三八が愛する妻・七本音音。
唯助が病を押して懇願したのはなんと――その七本音音の救出であった。
「おい、鯖! どういうことだ? 姉御になにかあったのか?」
世助は傍にいた年端もいかない少年に問う。帽子を被った斑模様の髪色の少年は説明する。
「え、えと、変な奴らが来て、音音をわーって取り囲んで……」
が、要領を得ない説明であった。
見かねた『彼』は、唯助の懐にあった一冊の本は――その姿を現した。
「――珱仙先生!?」
それは世助もよく知る禁書『先生の匣庭』の毒・珱仙だった。
「鷺原秋声様――どうか私たちをお助けください」
そうして彼らの譚は、焦眉の急を迎える。
「たまたまです。僕のほうこそ、この場所が貴方にとって縁深い地であったとは思いませんでした」
場所は藤京の華やかな街並みと隔てられた丘――打ち捨てられた廃村であるゆえに、誰も踏み入ることのない土地。一本の大木を頂上に据える丘の、その中腹。
すっかり葉の落ちた木々に囲まれながら、その小屋は建っていた。
「まさかこの地にかつて――……いえ、そんなことは今どうでもいいのです。みつ…三八さん。貴方、修一郎さんになんて無茶をさせていたんです。こんな包帯まみれの重傷になる前になぜ彼を止めなかったのですか。貴方なら分かっていたでしょうに」
「無茶言うなよ、そこまでやったら譚本作家として完全に罰点をつけられてしまう」
「罰点をつけられてでも、『やめろ』というひと言くらいは明確に言ってあげてほしかったものですね」
「やだよ。小生は譚本作家として彼と契約していたんだ。その立場としてはむしろ、『本当に復讐譚なのか』なんて警告さえ、するべきではなかったと思っているくらいだぞ」
「……そうですね、すみませんでした。罰点なのは譚本作家の貴方に人らしい情と罪悪感を期待した僕のほうですね」
「随分な言い方をしてくれる。人をそんな悪魔みたいに言いやがって」
小屋の中の男二人――秋声と三八によるそんなやり取りを、夏目世助はなにやら落ち着かない様子で聞いていた。
「……世助? どうしたんだい、さっきからじろじろと。小生の体つきに興味でもあるのかい」
「ねえよ、阿呆か」
なにやら気持ち悪い発言をする三八に向かってさらりと悪態をつく世助は、しかし、三八の全身を上から下まで、下から上まで眺めている。それこそ、舐めるように眺めているのだ。
「あんた、随分らしくねえ格好してんな。いつもは紺色の袴着てんのによ」
世助の言う通り、現在の三八の服装は、普段彼が着ているゆったりとした袴とはまったく正反対の性質を持つものだった。
上腕から先を晒した黒の衣服はぴったりと肌に密着し、三八の細い体つきを鮮明に描き出している。手には革製の黒い手袋、右眼には眼帯、下半身は軍人が履いていそうな洋袴にブーツ。
世助にとって見慣れないものばかりであったから、というのもあるのだろう。が、それを抜きにしても――今の三八の格好はあまりにも、厳ついというか、物々しい印象を受ける。
「細かいことは気にしないものだよ。小生にだって、秘密のひとつやふたつあるからね」
「……まあいいや。それはそうとおっさん、仕事が終わるまでまだ時間かかりそうか?」
「いや、今夜の予定で全て終わりだよ。どうかしたのかい?」
三八が聞くと、世助はほんの少しだけ目を伏せて、なんだか申し訳なさそうな様子で言った。
「仕事が終わったら、できるだけすぐに棚葉町に戻ってくれねえか。実はさ――」
*
“彼”が目を覚ましたのは、その三日後の朝である。
「――あっ、動いた!」
彼は少年の声を耳にとらえた。その声に覚えがあって――霞のような記憶を辿って、そして二人の少年のものに行きあたる。
――菜摘芽唯助か、夏目世助のどちらかだろう。姿も似ていれば、声もほとんど変わらない、双子の片割れだ。
「先生、柄田さんが動いた! 指ぴくぴくしてたぞ!」
少年の声は慌ただしい足音と共に遠ざかった。誰かを呼びに行ったらしい。ほどなくして戻ってきた足音はもう一人分増えていた。
「ほら、右手の親指。握ってたらぴくぴくって」
「どれどれ」
説明する少年の声に、答えるのは中年の声。活発そうな少年の声とは対照的に、中年の声は低く穏やかなものであった。
「修一郎さん、聞こえていますか。聞こえていたら、右手の親指を動かしてください」
右手に意識を向けながら、彼はその親指を動かす。動かす度に、なにか柔らかいものにぶつかっているような感覚がした。
「確かに、動いていますね。意識もあるようです。すごい生命力ですね」
「よかった……!」
どうやら、中年に手を触られているらしい。しかし、肝心の触られている感覚がない。いや、それどころか……視界がなんだか薄暗い。目を上手く開けられないようだ。お陰で少年の声が双子のどちらのものなのか、全く分からなかった。
安堵する少年の声をなだめるように、中年の声は言う。
「ですが、まだ不必要に動かしてはいけません。――修一郎さん、僕は鷺原秋声と申します。負傷した貴方を手術した禁書医です。貴方の体の状態を説明しますから、どうか落ち着いて聞いてください」
名乗った中年は耳元で、非常に冷静かつ淡々とした声で語った。――語ろうとした。
「……!?」
だが、彼はその姿を見て――ようやく開いたその目で見て――戦慄し、飛び起きようとする。
実際は文字通り体が動揺する程度のものであったが、それを見て紫色の着物を着た少年――世助が慌てて止めに入った。
「だめだ、柄田さん! 体を動かしちゃまずいんだよ」
世助に押さえられてもなお動こうとする彼。しかし、それもむべなるかな。中年・鷺原秋声は、彼が倒れる前に見た帝国司書隊の仇敵・尾前一派が一人――尾前秋久その人であったからだ。
しかし、彼は右手の親指以外が全く動かせない状態である。世助に押えられているからではなく、意志を働かせても動かせないのだ。
秋声は無理やりにでも動こうとする彼の耳元に口を寄せて、彼にだけ聞こえる声で囁いた。
「どうか落ち着いてください。僕は七本三八の協力者です。先日、貴方が奇襲をしかけた敵陣に先んじて潜り込んでいた、内通者ですよ」
「!」
一般人である世助がいる手前、詳しく説明することはできないのだろう。秋声はそれだけ伝えるとすぐに離れ、今度は医者として、彼の状態を説明し始めた。
「修一郎さん、体を動かしてはいけません。今のような意思疎通のために、右手の親指だけ動かすよう頼むことはあるかと思いますが、それ以外は僕が許可するまで駄目です。よろしいですか?」
なにがなにやら分からない状態の彼ではあるが、こんな状態では抵抗らしい抵抗もできまい。彼はとりあえず全身で藻掻くのをやめ、「了解した」という旨を伝えるために親指を動かした。秋声はさらに続ける。
「今、貴方の体は大変崩れやすい状態です。無事な組織を繋ぎ合わせることはできましたが、完全にくっつくまでには時間がかかります。固定のために全身に巻いている布は、状態を見ながら外していきますので、その間は体を動かすことを我慢していてください」
ぴく、と相手に伝わる最低限の分だけ、親指を動かす。動かすなと言われても親指以外はどうやったって動かないが、動かせるようになったとしても無理に動かすなという意味だろう。
「一つ、残念なお知らせがあります。――左肩から投与された羅刹女の毒ですが、そこから左半身には毒が残っていました。可能な限り取り除きはしましたが、左腕はかなり蝕まれていましたので、腕ごと切断させて頂きました」
「――ぇ……」
彼は驚愕して、声を発していた。とはいっても、それははたして声と表現していいのか疑わしくなるような、掠れた音だった。声帯や喉も上手く機能していないのだ。
「焔神楽の浄火でも焼き清めましたが、それでもまだ僅かに毒が残存している可能性もあります。ですから、貴方の傍にはしばらく世助くんについてもらいます。強い干渉性を持つ彼ならば、傍にいるだけでも禁書の毒を鎮静できるでしょう。毒以外にも何か容態の変化等があったときは、彼が僕に連絡します」
――そうか、だからこの場に、この藤京に、世助がいるのか。
そこまで理解して、彼は一人、この場にいない人物があることに気づく。
「……な、な、もと、は」
自分が倒れる寸前に乱入した七本三八――もとい八田光雪。
彼が来た後、状況はどうなったのか――
自分が尾前冬嗣に仕掛けた奇襲攻撃は、ちゃんと届いたのか?
自分が倒れたあと、真央は倒されたのか?
禁書『羅刹女』は回収されたのか?
敵の目論見は阻止できたのか?
記憶が蘇るのと同時に、疑問もまた次々と頭に浮かぶ。
「三八さんは貴方が倒れた日の晩、最後の仕事をこなして帰っていかれましたよ。世助くんが早く帰ってやってくれと言っていましたが」
「……?」
彼は視線を世助のほうへ投げかけ、説明を求める。世助は頷いて、彼が望んだとおりに説明した。
「このところ、唯助の体調が心配でさ。おっさんに突然呼ばれたから、唯助と姉御を棚葉町に残してきちまったんだ。だから、早く戻ってやってくれって。唯助が調子悪くなってたら、姉御も一人で看病しなきゃで心細いだろ」
彼は、九月以来会っていないもう片割れの少年を思い浮かべる。
唯助が幼少期に喘息を患っていたことは聞いていた気がするが、現在の唯助はそれを忘れてしまうほどの健康体だったはずだ。禁書の毒を相手に世助と暴れ回ったくらいだし、街の屋根をひょいひょいと走って飛び回る、野生の猿のように元気でたくましい少年だったというのに、なにがあったのだろうか?
彼が唯助に思いを巡らせている間に、秋声は世助に言った。
「世助くん。すみませんが、しばらく席を外していただけませんか。彼と二人きりで話をしたいので」
「じゃあ待ってる間、外で薪割りでもしとくよ。その間に終わる話か?」
「ええ、外に出してある分だけ割ってもらえれば十分です」
「分かった。なんか手伝えることがあったら、また呼んでくれよな」
「助かります」
世助が上着を着て外に出ていくのを見送ると、秋声は世助の前で話せなかったことについて話し始めた。
「……光雪から伝言を預かっています。
修一郎さん、貴方はしばらく藤京を離れて潜伏していてください」
「……?」
「貴方は帝国司書隊内で殉職者として扱われています」
「ぇ」
「貴方は羅刹女の毒を受けて生き延びた唯一の存在です。帝国司書隊に知れたら、何をされるか分かりません。最悪、禁書研究のために人体実験を迫られることも考えられます」
「じっ、け……?」
彼は理解が追いつかなかった。自分が羅刹女の毒を受けたことは覚えているが――現在の自分が置かれている状況があまりにも現実離れしていて、受け入れがたいといったところか。
それに、まるで自分が帝国司書隊から狙われているかのような話しぶりだってそうだ。自分がつい先日までそこで働いていたというのもあるが、そんないかにも恐ろしいことを――国賊・尾前一派が行っていたようなことを、帝国司書隊がするとでも言うのか?
正直、信じられないことだらけで、夢でも見ているのかという気分にもなってくるが、秋声の続きの言葉はそれを冷たく否定する。
「かつて帝国司書隊で禁書を研究していた僕が言いますが、研究に携わる方たちの中には、研究のために平気で人権を無視するような奴らもいます。貴方の人権や、生命さえも脅かされる可能性がある。それに、もしかしたら尾前一派の残党がまだいて、彼らからも狙われるという可能性だって否定できません。それくらい、貴方の存在は貴重なのです」
――秋声の言葉を全て鵜呑みにするわけではないが、それが事実だというのならこれほどおぞましいこともない。
「ですから、光雪は敵の本拠地をすべて焼き払ってきました。人も骸も、貴方の妹さんも、羅刹女の原本や研究資料に至るまで――すべて灰になるまで。身元の特定もできなくなるまで。貴方は尾前一派の本拠地へ単身で乗り込み、そこでの火災に巻き込まれて犠牲になった英雄――そう報告がなされたのです。言うまでもなく、これは表向きの話ですがね」
「……」
「ですから、ここでの療養を終えましたら、できる限り早く藤京を離れます。そのように手筈を整えておきますので、心に留めておいてください」
……自分の意識がない間に、随分な大事が起きていたようだ。帝国司書隊の敵は妹もろとも八田光雪の手であっさりと殲滅され、自分は寝ている間に殉職者として扱われ、しかも世間から身を隠せといきなり命じられる始末。おまけに体を動かせないほど負傷し、今まで当たり前のようにあった左腕は無くなって――頭のいい彼といえどもなにがなにやら、まったく理解の追いつかない煩雑とした有様だった。
それでもなんとか理解しようとして、彼はふと、一番大事なことを思い出した。
「ほ、ん」
「?」
「わたしの、はなし、は」
途切れ途切れに話すと、秋声は「ああ」と思い出したように言って、そばに置いてあった一冊の本を見せてきた。
「ちゃんとありますよ。ここに」
彼は、目前に置かれたその本を見る。
真っ白な装丁と、その中央に綴られた文字を見る。
「……ゆ、き」
――『消ゆ根雪』。
その題名は、血まみれの体験をした彼には随分と不似合いで、しかしそれ以上に、これ以上ないほどにお似合いのものだった。
(春まで残る根深い雪、か――本当に、その通りだな)
回文という言葉遊びを仕込んでいるあたり、文章で遊ぶ癖のあるあの男らしい仕掛けだが――と、彼はふと思う。
(回文は、逆さ言葉とも言うのだったな)
と、思い当たる。
(あぁ、そういうことか。だから回文にしたのか)
と、悟る。
秋声は、そっと笑った。彼が悟ったのを見て、穏やかに笑った。祝福せんばかりの、心からの笑顔である。
「貴方は死んだんですよ、鍔倉修一郎さん。――いえ、柄田修一郎さんも、でしょうか」
「………じゃ、あ」
ここにいる『私』は、誰なのだろう。
彼は――修一郎だった“彼”は、そう問いかけた。実際には声にできなかった問いだったが、秋声はそれを読み取って、答えた。
「今の貴方は、誰でもありませんよ。良くとらえるなら、まだ誰にもなっていない――生まれてさえいない、と言うべきですか」
「……――ああ」
ああ、と。
彼は、一つ腑に落ちた。
七本三八という男がなぜ冷徹でありながら――音音や唯助を惹きつけているのか。
譚を味わうためなら人でなしにも、悪魔にもなるような酷い人間なのに――どうして彼らは七本三八を賞賛し、慕うのか。
今まで不思議だと思っていたことについて、得心した。
いうなれば、彼らにとって七本三八は栞であった。
譚を得るために七本三八が行っていることこそが、彼らのような譚に行き詰まった迷い人にとって、大きな救いであったのだ。
譚をあるべき終焉へと導き、結を求めて本に紡ぐことこそが、譚本作家が存在する意義。
――しかし、それは本を紡ぐ側の独善であってはいけない。
七本三八は、例え自身の見ている譚が本当は復讐譚ではないと気づいていても、修一郎本人がそれに気づいていなくても、仮にそこから助けてあげたい気持ちがあったとしても、決して答えを教えることはしなかった。
修一郎がなにを思い、どう行動しても――修一郎の譚なのだから。
彼の譚の一部ではなく、他でもない修一郎だけの譚だったのだから。
――その譚は、もう完結した。修一郎は死んだのだ。
けれど、“自分”はまだ、生きている――ならば、今ここに存在している“自分”が誰であるかを決める権利は、他でもない“自分”にこそある。
なら、今度こそは、自分が誇れる誰かになってやろう。
名無しとなった“彼”の、新たな譚が始まった瞬間であった。
十二月『消ゆ根雪』・了
*
「先生! 先生、急患だ!」
突如、玄関から大きな声が響いた。外にいた世助のものであろう。
急患という言葉を耳にして、秋声は職業病的に、反射的に、椅子からすっと立ち上がった。
「体調が悪い奴になんてとこ歩かせてんだよ、お前!」
「僕だって止めたよ! でも電車が途中で止まっちゃうし、歩いてでもって聞かなかったんだからしょうがないじゃにゃいか!」
世助はどうやら誰かと喧嘩しているようだった。声からして、世助よりもさらに幼い少年らしい。秋声はすぐにその場へ向かう。
――そこで世助と小さな少年に抱えられていたのは、彼と同じ茶色の髪をした少年だった。
「助け、て」
細々とした声に、ぜいぜいと喘ぐような呼吸、体をできる限り横にしない世助の抱え方で、秋声はすぐさまその少年が置かれている状況を察知する。
「喘息ですか」
「助けて……た、すけて、ください」
「分かったから無理して喋んな!」
少年はしきりに呟いていた。何度も何度も、うわごとのように「助けて」と繰り返している。
「落ち着いてください、今助けますから。すぐに処置を……」
「そうじゃ、なくて」
夏目世助と瓜二つの少年――菜摘芽唯助は、言う。
必死に、訴える。
切実に、要求する。
「姐さん、を……音音さんを――助けてください」
「――は……?」
その名前は、秋声にも覚えがあった。
彼にとっての旧き友、八田光雪――もとい、七本三八が愛する妻・七本音音。
唯助が病を押して懇願したのはなんと――その七本音音の救出であった。
「おい、鯖! どういうことだ? 姉御になにかあったのか?」
世助は傍にいた年端もいかない少年に問う。帽子を被った斑模様の髪色の少年は説明する。
「え、えと、変な奴らが来て、音音をわーって取り囲んで……」
が、要領を得ない説明であった。
見かねた『彼』は、唯助の懐にあった一冊の本は――その姿を現した。
「――珱仙先生!?」
それは世助もよく知る禁書『先生の匣庭』の毒・珱仙だった。
「鷺原秋声様――どうか私たちをお助けください」
そうして彼らの譚は、焦眉の急を迎える。
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