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十一月『羅刹女』

その一

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 彼に言わせれば、七本三八は食欲の権化である。
 ――確かに三八はかなりの大食漢であるが、ここでの『食欲』は生命活動におけるそれではない。
 彼の、ある意味では生命活動の一環と言えるそれは、つまり譚を味わい尽くしたいという欲求である。
 三八の普段の食事ぶりは躾の行き届いた行儀の良さだが、譚を味わうことにかけてはむしろ、犬猫のように皿をべろべろと舐めるようなはしたなささえ感じる。
 七本三八という男はとかく譚を求める性分で、譚の匂いをその驚異的な嗅覚でとらえ、飼い犬も呆れてしまいそうな勢いで飛びつき、皿まで舐め尽くすような男である。
 ――譚とは、『歴史』である。『人生』である。『体験』である。『心』である。
 という帝国司書隊初代総帥・八田はった幽岳ゆうがく氏の言を引用するならば、七本三八は歴史を眺め尽くし、人様の人生を観察し、なんなら人の心の中までじろじろ覗くことを好むのである。人の禁域には土足で入ってくるし、それによって傷つく人がいたとしてもお構いなく味わい続ける(夏目唯助や草村佳孝がその最たる例だろう)。
 七本三八は古今東西全ての譚を味わうためなら、無骨者にも、獣にも、悪魔にだってなる。
 その食欲はまさに無秩序である。
 ――かくいう“彼”は、実は七本三八の『生贄』だ。
 “彼”は自らの目的のため進んで『生贄』となった、非常に稀有けうな人間であった。
 七本三八の悪魔的な習性を利用した、唯一の人間であった。
 ――鍔倉つばくら修一郎しゅういちろう
それが彼の名前である。


「小生に弟子入りしたいぃ?」

蛇のように生白い肌をした男は、少年の願い出を訝った。
少年はこの時、十九歳であった。

「いきなり訪ねてきて何かと思えば。少年、ここは見ての通り、小さな貸本屋だ。弟子入りされるような目立った評判なぞないし、小生はただの店主だし、君が小生に弟子入りしたいという理由が皆目わからん。もしかして、人違いではないか」

 男はどこか人を食ったようなにやにや笑いを浮かべている。
 少年はその態度を面白くないといった様子で、

「とぼけるな」

 と男を睨みつける。男が憎いわけではないし、本当に睨みつけているわけでもないのだけど、元々の目つきの鋭さで無い敵意が滲み出てしまっていた。

「ただの貸本屋だと? それは仮面だろう。私は貴様の正体を知っている」
「随分とでかい口を叩く子だね。それに、正体だなんて。小生は小生、ただの貸本屋。本当は物書きでもあるのだけど。正体というのは、小生が漆本蜜であることを知っているということかな?」

 小生はそちらの弟子は取るつもりはないよ。
 男はそう続けようとした。そうやって少年を追い返そうとした。しかし、それは少年によって、男の思いもよらぬ形で阻まれる。

「二十年ほど前、帝国司書隊から突如姿を消した天才がいた」

 少年は、男の口から虚言が紡がれるのを防ぐように、静かに述べた。実際、本当に防いでしまった。少年が述べたその言葉に、男が大いに驚愕したからである。

「栞の技術向上、譚本の心理学的活用法、その他数々の伝説を残して、忽然と消えた孤高の天才――元・帝国司書隊禁書回収部隊隊長・八田はった光雪みつゆき。それが貴様だろう」

 男が口を開けて驚愕した理由は言うまでもない。それが男の隠そうとした、ずっと隠してきた、
 たった十九歳の少年が、人知れず消えた孤高の天才を探り当て、ここに辿り着いた。男は少年の聡さと執念深さに驚いたのである。

「………それは捨てた名だ、不躾な少年。しかし、君のその聡さに免じて見逃してやろう。いかにも、私はかつて八田光雪と呼ばれていた男だ。しかし、もう彼はこの世にいないものと思って、小生のことは『七本ななもと三八みや』と呼べ」

 男は少年の追及をあっさりと認めると、懐の潰れた小箱から煙草を一本つまみ出して、手早く擦った燐寸マッチで火をつけた。

「して、なぜ小生に弟子入りしたいのかな、少年。いんや、その前にだ。君、こういう時はきちんと名乗ってもらわないと困る」

 口に含んだ煙を吐き出してから、男は言う。

「不躾は見逃すのではなかったか」
「多少の無礼は、だ。見ず知らずの人間に話しかける時は挨拶と自己紹介から。親から習わなかったのか?」
「………」

 男は完全に少年を馬鹿にしていたが、しかし、礼儀に反しているのもまた事実、と真面目な少年は眉根の皺を揉む。そして、いかにも仕方なさそうに名乗った。

「……柄田修一郎」

 控えめに名乗られた少年の名を、男は何度か繰り返して口にする。顎に手を当て、少し大袈裟に上を向き、記憶の線を辿るような素振りを見せてから「あぁ」と言った。

「そういえば、最近目つきの悪い子供を迎えたと聞いた。そうか、君のことか。なあ、

 今度は少年が動転する番であった。
 少年の体は、まるで体ごとぐんっと突き上げんばかりの跳躍のような鼓動を捉えた。

「なぜ、それを」
「もうひと月でちょうど一年か? 鍔倉家惨殺事件。凄惨な殺人事件を唯一生き延びた長男の名前が『修一郎』だったと聞いていれば、容易く線は結べるさ」

 少年は男に聞こえないよう、小さく舌打ちをした。しかし、いかにも居心地の悪そうな、渋柿を食らったような酷い顔は隠しようもない。

「何を不快そうにする。なにを被害者ぶる。君が先ほど小生にしたことだろう。お互い様だ」

 男はもう一度、ゆっくりとした動作で煙草を吸い、すっかり吐き出してから少年に問うた。

「改めて聞こうか、鍔倉のせがれ。なぜ小生に弟子入りしたいのかな。八田光雪に会いに来たと言うなら、少年は貸本商になりたいわけではなく、譚本作家になりたいわけでもなかろう」
「決まっている。禁書士になりたいからだ。できる限り早く、それもある程度融通が利く地位になるためだ」

 少年が現在厄介になっている柄田家は、帝国司書としての勉学も、禁書士としての勉学も、修めるのに不自由しないと言われるほどに教育が充実している。優秀な功績を立てる帝国司書を幾人も輩出してきた、名家中の名家である。
 養子入りすら難しい柄田家、その優秀な教育に頼ることなく、なぜわざわざ消えた天才を探し当ててまで来たのか――それは、少年の目的の為にはそれでも不十分であったからである。

「なぜ? なぜそんなに早く禁書士に、しかも並々ならぬ地位に就きたい?」
「……察してくれ」

 少年は口を閉ざした。
 堅く堅く、堅牢な城の門のように。
 そんな少年を、男は笑った。
 侮蔑を念を込めて、嗤った。

「事情も話さず、察してくれと言うのか。その上弟子にしてくれと。笑止」

 男の目は少年の口のように堅牢な前髪に隠れていたが、しかしその隙間から一瞬だけ見えた光は、獣のようにおぞましいものであった。
 見てしまった少年をその瞬間から戦慄させてしまうほど、低俗野卑ていぞくやひであった。

「話せ、鍔倉のせがれ。根掘り葉掘り真の髄まで味わいたくなるような譚があるだろう? 小生を動かしたくば、ひとつ味見をさせておくれ」
「……話せば、私を弟子にするのか?」
「それは譚次第だ。君の譚は果たして、小生が君に知識をつけてやるという労を執るに値するか、ということだ」

 下賎な、と少年は口に出さずに罵る。
 しかし、男は罵られていることを分かって、なおも少年を嗤うのである。

「先に言うが、お涙頂戴と語るだけで小生が動くと思うなよ。小生は哀れな少年にタダで力を貸せるようなお人好しではないからね」

 紙鑢かみやすりを飲まされているような心地悪さを、少年はその男から感じ取った。
 そして、目の前のこの男を、人でなしだと思った。
 人でなし――文字通りの、人非人ひとでなし
 人ではなく、悪魔だと思った。
 少年は男の下劣さにほとほと呆れながらも、堅く閉ざすつもりであった口を開いた。


 *****


 鍔倉家は士族の血を引く剣術道場の家系であった。その血筋はたいへん優秀で、鍔倉家に生まれた男児はみな優れた剣術家や軍人となり、輝かしい武功を上げるのである。時には、それが女児でも成されることがある。先祖代々脈々と受け継がれてきたその剣術は、男女を選ばない。鍔倉の剣術を極めた者は須らく武勲をおさめるため、『武神を生む家系』という評判も、あながち誇張ではないのだ。
 ――そんな鍔倉家に長子として生を受けたその男児は、幼少から誰よりも長く剣を仕込まれながらも、凡庸の域を出なかった。刀を扱う才能は兄弟の誰よりもなく、兄弟の誰と競わせても負け、あまつさえ力で優るはずの妹にも負ける無才。
 その無才の男児こそが、鍔倉家最後の生き残り――修一郎。つまり、語り手であるこの私だ。

 生き残り。
 そう、『武神』と呼ばれた私の一族は、滅ぼされた。
 たった一冊の禁書によって。
 無惨に、あっけなく、あっという間に。
 私は一族と共に死ぬことができなかった、生きる恥。
 ゆえに、私が今から語るのは、死に損ないの半生。
恥にまみれた譚だ。
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