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第4話 リースリル製薬

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 R926の生成に成功してから、はや数か月の時が経過した。さやかの耳を仮想的に再現した人工細胞との反応性は良好で、不活化してしまった耳の細胞の中に含まれる遺伝子活性を効果的に復元させる効果がばっちりと確認された。
 しかしもちろん、これは仮想的な実験に過ぎない。いざこのまま彼女に投与してしまったら、予期せぬ症状や副作用をもたらす可能性が高い。
 とはいっても、正直なところ僕個人にできることはここまでしかない。だからここから先は、新薬の開発にノウハウのある製薬会社に託すのが最も合理的な方法だろうと考えた。基礎的な実験データはすでにそろえてあるから、製薬会社の協力を得ることはきっと難しい事じゃないだろう。

 高校生の時くらいから簡単な研究から始めて、大学でも研究を続け、会社に入ってからもこうして続けてきた研究。おかげで莫大な失敗データが生み出され続けてきたわけだけど、その中でたったひとつだけ燦然《さんぜん》と光輝くのが、R926だった。
 ここから先の事は製薬会社に託すという事は、僕が築き上げてきたデータのすべてを譲り渡すという事を意味する。それはそれでどこか寂しい思いもあるけれど、そもそも僕は最初からそのつもりでこの個人研究を始めたのだ。お金が欲しいわけでも、研究成果で脚光を浴びたいわけでもなかった。ただただ、さやかに音をプレゼントできればそれでよかった。

「さて、どの製薬会社に情報を提供しようか…」

 自分で言うのも何だけど、失われた耳の細胞活性を復元させうる化学物質なんて、どの製薬会社ものどから手が出るほど欲しいはず。数ある製薬会社から一つを選び出すことは難しいことではないと思うものの、僕は以前から決めている製薬会社がひとつだけあった。

――数日前のこと――

「リースリル製薬の人、また来てたの?」
「うん、近くに寄ったから挨拶にって!お土産も持ってきてくれたよ!」

 僕とさやかの間で交わされる何気ない音なき会話。その中で、僕がさやかに”また”と聞いたのには理由がある。
 リースリル製薬は人道支援に重きを置いている製薬会社で、病気や障害を抱えながらも日々を健気に生きる人たちの事を支援する活動を行っていた。さやかもまたその活動の対象の一人で、彼女がまだ小さな時から会社の人たちは親身になってさやかの事を支え続けてきてくれてきたという。

「会社のいろんな人が話に来るから、もうみんなの誕生日まで覚えちゃったよ」
「中年おじさんたちの誕生日……知ってて得する日がくるのだろうか……」
「でもでも、日付が近くなったら、祝ってあげるとすっごく喜んでくれるよ!」

 彼女をこうして純粋で素敵な笑顔にさせてくれるのも、リースリル製薬の人たちのおかげでもあるのだろう。だからこそ僕は、もしも自分の研究が実った時には、持てるデータのすべてをリールリル製薬に譲り渡そうと心に決めていたのだった。

――――

 R926の化学的な性質、生成手順、推測される薬効、人工細胞との反応性など、僕は持てるデータのすべてを整理し、その情報をまとめた資料を作成した。一人で行うにはなかなかハードな作業だったけれど、これがきっかけになってさやかを救うことができると考えたら、まったく苦にはならなかった。
 手話や筆記を通じてコミュニケーションをとる今の生活にもまったく不満なんてないけれど、もしも彼女とともに音のある世界を生きることができたなら、今よりもさらに楽しく美しい時間を送ることができるんじゃないだろうか。そんな未来を想像しながら資料を作っていたら、かかった時間なんて一瞬だった。
 書きあがった資料を手に取り、その分厚さを体感する。

「…ここにたどり着くまで長かったけれど、手放すときは一瞬か…」

 特に深い意味もなく、僕はそうつぶやいた。この時を待ち望んで毎日研究を続けてきたわけだけれど、いざこうして現実にその日が訪れると、どこか寂しさのような感情もうっすらとだけ感じる。
 けれど、やはり寂しさよりもうれしさのほうが心の中では大きく上回っている。この資料から踏み出す第一歩が、必ずやさやかに新しい景色を見せてくれると確信しているからだ。

「よし、行こう」

 すでにアポはとってある。僕は手荷物資料の最終確認を行い、目的地を目指して歩き始めた。
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