さくらの剣

葉月麗雄

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大奥暗殺帳編

大奥暗殺帳 一

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桜流抜刀術は常人離れの剣速を要する剣術で、泉凪が危惧していたように桜の身体と骨格では身体に相当な負担がかかる。
いずれ剣を振れなくなる時がくると覚悟の上での会得であった。

「ぐ。。。」

このところ度々夜中に起こる身体の痛みに桜は必死に耐えていた。
激しい動きによる筋肉と骨格の負担からくるものであった。
特に右腕の痙攣は冷やした手ぬぐいを腕に巻いて何とか抑えていた。

「上様にはこんな事申し上げられない。。」

もし吉宗にこの事を言えば桜は御庭番の任を解かれ、江戸城内での事務方に配置変換されるであろう。

「私は大恩ある上様のお側で仕えたい。もっと上様のお役に立ちたい。。」

桜の吉宗に対する想いは恋と言えるものではなく、憧れであった。

翌日、小石川養生所に桜の姿があった。

「彩雲先生、何とかなりませんか?」

「無茶を言うな。桜流抜刀術はお前の身体と骨格ではかなりの負担が掛かる技なのだ。このまま使い続ければあと半年もしないうちに腕の腱が切れて二度と刀を持てなくなるだろう」

「半年。。」

「半年と言っても、それは長く持ってという事だ。桜流抜刀術を多投すればさらに縮まるだろう。桜、上様にこの事を伝え御庭番の任から外れた方がいい」

「嫌です!」

桜は彩雲の助言に激しく反抗した。

「しかし、このままではいずれ上様にも露見するのは時間の問題。お前がまだ刀を持てるうちであれば剣術指南役として働くことも出来よう」

「私は大恩ある上様のお側で仕えたいのです。道場で指南役などやりたくありません」

「それはお前の身勝手と言うものだ。上様にしてみれば御庭番としての任務を全う出来ない者など不要であろう。それでもお側に仕えたいというのであれば剣術指南役でもありがたい事。お前は従者の身。四の五の言える立場ではないのだぞ」

彩雲の言葉に桜は反論出来なかった。
彩雲の言う通り吉宗の側で仕えたいというのは桜の我儘であり、そんな桜の心情など吉宗には関係ないのは十分に理解している。

(最初からこんな事わかってた。けど現実になって来ると覚悟が足りないんだな。。)

後悔はしていない。
桜流抜刀術を会得した事で御庭番最強となり、吉宗の懐刀として働いている今がある。
だが身体への反動は桜が思っていたよりも早く、そう遠くないうちにくるであろう「結末」への覚悟がまだつかない状況なのだ。

「彩雲先生、お願いです。この事は大岡様にはご内密に。。」

榊原彩雲は大岡越前とは幼少からの友人で、二人は固い絆で結ばれていた。
当然、桜の身に何かあれば彩雲は医者として、友人として越前に報告を上げねばならないであろう。
彩雲は腕組みをしてしばし考えていた。

「桜、お前が自らの口で上様にご報告を申し上げると約束するなら、忠相には黙っていよう。だが、忠相がお前の剣の鈍りを見抜けぬと思うか?よいな、これ以上身体を壊さぬうちに御庭番から足を洗うのだ」

桜は彩雲の言葉に苦悶の表情を浮かべてか細い声で「はい」と返事するのがやっとであった。
(あと半年。。)
桜は自身の両腕を見て残された時間の事は考えずに目の前にある仕事に全力で取り組もうと切り替えた。

⭐︎⭐︎⭐︎

大奥。
それは将軍以外の男性は御禁制の空間。

表や中奥に出入りする家臣たちからすれば、立ち入り事が出来ない大奥は将軍のプライベート空間であり、大奥の女中たちの機嫌を損ねる事を恐れていた。
特に奥女中のトップである「御年寄」は将軍の威光をバックにし、老中ですらも恐れる存在となっていた。

実際に将軍は大奥を代表する御年寄の意向に左右されがちで、御年寄に嫌われては老中であってもその地位を保つ事は難しい。
任命者である将軍に御年寄が直接働きかけて老中を解任出来るからである。

逆を言えば、御年寄の口添えにより老中を筆頭とする幕府の役職を得ることも可能であったが、それには裏で莫大な賄賂が動いていた。

「月光院様に、おかれましてはご機嫌麗しゅう」

月光院付き中臈、高島まつが平伏して挨拶する。

「ご機嫌か。良くも悪くもない。形式的な挨拶ならしなくとも良いぞ」

月光院はつまらなそうにそう返事を返す。

「月光院様、退屈凌ぎに女中たちに舞でも踊らせましょう」

「お前にも女中たちも各々仕事があろう。それを止めてまでの宴など不要じゃ」

高島の申し出に月光院はそう言って辞退する。
月光院は自身の寂しさを紛らわすのに他人の手をわずらわせたくなかったので、辞退したのだが高島はそう受け取らなかった。

高島にして見れば、せっかくの声かけを無碍にされたように感じたのだ。
高島は表向き冷静で、お辞儀をして部屋から退室した。

「愚か者めが。月光院も天英院もまとめてこの大奥から消えてもらう。それまでせいぜい束の間の贅沢を楽しんでいるがいい」

月光院に向けて高島の目が光る。

その高島の僅かな動きを見逃さなかった人物がいた。
鬼頭泉凪である。

「あれは確か月光院様付きの中臈、高島まつ。一瞬殺気が走ったように見えたが。。」

月光院から自分の命を狙う者を突き止めるよう命じられた泉凪は大奥を頻繁に行き来していた。

無論、月光院から許可を得ての事であるし、大奥で別式など珍しいものでもないので、不信がられる事なく比較的自由に動けた。
それに加えて立ち姿や振る舞いが凛々しい泉凪は大奥の女中から人気があり、泉凪が話しかければ許させる範囲で大奥内の噂話や人間関係などを話してくれたので仕事はやり易かった。

「高島様は月光院様に付いているけど、宮守様のお部屋にも出入りしているのよ」

「宮守様?」

「宮守様は江島様の後を受けて御年寄に出世された方です。元々は江島様付きの女中でしたが、その才能を評価されて今や江島様の後継者です。凄いと思いませんか?」

「そ、そうだな。。」

泉凪は思わず苦笑いしながらそう返事を返したが、泉凪に大奥の出世など興味はない。
それに話しをしている女中たちの年齢は二十代後半から三十代に差し掛かろうかというところだが、まだ十六歳の泉凪の年齢で江島と言われても会ったこともないし、その名を大奥で何度か耳にした程度である。

世に言う「江島生島事件」が起きたのは十年前の一七一四年。
泉凪がまだ六歳の時である。
凄い人だったとは聞いているが、それ以上の感情は沸かなかった。

「月光院様はお寂しい方です。私たち女中の前では気丈に振る舞っておられますが、この数年で六代将軍家宣様に我が子でおられる七代将軍家継様をお亡くしになり、江島さまに間部様とも引き離されてしまって、この大奥で頼みとするお方たちがみんないなくなってしまい、その心情は私たちには計りかねます」

「そうか。。色々教えてくれてありがとう」

泉凪は女中の話しを聞いて月光院の孤独を思うと少し気の毒な人だと思った。
それと同時に必ず守ってみせると決意も新たにしていた。

「まずは高島まつを要注意人物として目を付けておくか。一瞬とはいえ、月光院様に走らせた殺気が気になる」
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