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第三章 名無しのエトランゼ
3‐9
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今日は決戦の日だ。
長きに続いた雌伏の時も終わる。時は満ち、今こそ世界に光が差すであろう。
そしてそれを迎えるべくしてひた走る乙女が一人。気合いを入れた様子で要塞内の階段を一歩一歩踏みしめ昇って行っていた。
「おや、サアヤさん。今日は気合いを入れてどうしたんですか?」
そう声を掛ける兵士は、先日と同じ人だ。
「今日は負けられない戦いがあります!」
「そうですか。頑張ってください。そ、それでどうでしょうか……」
彼は若干緊張した面持ちで、喉の奥から声を絞り出す。奇しくもそれはこれからサアヤが挑むべき決戦の内容と酷似していたのだが。
「きょ、今日の夜その……。戦いとやらの結果を聞きながらお食事でも……って、あれ?」
サアヤの姿はそこにはない。
彼に返事をした時点で立ち止まることなく、階段を上りきってしまっていた。
がっくりと肩を落とすその青年兵士に、十ほど年上になる同僚は優しく肩を叩くのだった。
「失礼します!」
ノックをし、入室の許可を取ってから部屋に入っていく。
ヨハンの執務室はいつも通り……。いや、ここ数日で変わったことと言えば、もう一つ作業用の小さなテーブルセットが増えたことぐらいだろうか。
そこでもうすっかり書類仕事を覚えた少女が、ちんまりと腰かけながら何か書き物をしている。
「サアヤ。どうした?」
「はい! トウヤ君からエトランゼの遊撃隊についての報告書が上がっていますので、お届けに参りました!」
綺麗な所作で近付いて、それを手渡す。
受け取ったヨハンは一瞥してから、苦い顔をする。
「もう少しまともな報告書を書けんのか、あいつは」
「詳しいことは会ったときに説明するって言ってました」
「……まぁ、それが手っ取り早いのは否定しないがな」
ヨハンがいる時はそれでいいのだが、ここを不在にすることもあるだろう。加えて他の上司ができたとき、報告書一つ書けないのでは苦労する。
「……トウヤ君、まだ高校生ですから。わたしも高校生だったときに報告書なんて書けって言われたら、直接言いに行っちゃうかもしれません」
「……確かにな」
「ヨハンさんは高校生でもしっかり書けそうですよね」
「どんな高校生だ、それは。机に向かって十五分で投げ出して、漫画でも読み始めるだろうな」
「あははっ、やっぱりそうですよね!」
和やかな会話が続く。
横目でちらりと見たときに、アーデルハイトが少しばかり面白くなさそうな顔をしたのが見えた。
大人げないと判っていながら胸の内の小さな高揚は消すことができない。
「あ、アーデルハイトさん。もしよかったら、今日はわたしがお茶煎れますね。クッキーも焼いたんですよ」
「……別に必要ないわ。今から煎れようと思っていたところだから」
立ち上がるアーデルハイトを、すぐにサアヤは制する。
「お仕事しながらだと大変でしょう。ここはお姉さんに任せておいてください」
あまり意固地になるのもどうかと思ったのか、アーデルハイトは「むぅ」と唸ってそのまま動きを止めた。
「それにクッキーが無駄になっちゃいます。アーデルハイトさんも、食べたいでしょう?」
「それはまぁ……。否定はしないけど」
「お言葉に甘えておけ。あまりお前に働かれると、俺の立つ瀬がなくなる」
ヨハンからの援護もあって、アーデルハイトは諦めたようだった。
しっかりと許可を取ったサアヤはすぐに部屋を出て、一階の炊事場でお茶を煎れてクッキーをお盆に乗せて持っていく。
「美味しい」
さくりと一口食べて、アーデルハイトの口から自然と漏れた言葉を聞いて、サアヤは一安心した。ここでまさか小姑のように味付けについて云々言われるのではないかと、ちょっとだけびくびくしていた。
「甘味は貴重だからな。しかし随分と甘いな……」
「あ、やっぱりそうですか? 砂糖をちょっと入れ過ぎたかも知れません」
「いや、充分に美味い。珈琲があればもっとよかったんだが」
「それなんですけど、実は南の方から行商の方が来ていて、珈琲豆、少しですけど買っておいたんですよ。ただ、やっぱりこっちではあんまり飲まれるものでもないから、いつ煎れようかなって思ってたんですけど」
「……珈琲?」
アーデルハイトがクッキーを食べながら首を傾げる。
「確かにオルタリアの人間にはあまり好まれなさそうだな……。サアヤさえ良ければ個人的に買い取りたいんだが」
「……うーん。そうですねぇ。一回煎れてみてもし評判が良くなかったらそれもいいかも。その時はわたしが、ヨハンさんに珈琲を入れてあげますね」
「いや、別に自分で……」
「わたしが煎れるからいい」
書類を纏めたものをとんとんとテーブルに突いて、アーデルハイトが自分の存在をこれでもかとアピールしていた。
心なしかむすっとした――だいたいいつもそんな顔をしているので実際のところは判らないのだが――表情でそう言ったアーデルハイトの心中を、サアヤは完璧に察している。
しかしそれでも止まるわけにはいかない。申し訳ないが、この場においては彼女は敵。それも短い付き合いでも判るその聡明さは目下の脅威となりうるのだ。
「そうは言っても……。豆を挽いたりしないといけませんし。結構難しいですよ」
「お茶と似たようなものでしょう? すぐに覚えられるわ」
「だったら今度一緒に練習しましょうか?」
「……む、ん。うん、それなら」
椅子に座るアーデルハイト。
サアヤは更なる追撃を掛けるべく、両手をぱんと合わせた。
「子供の頃、わたしもアーデルハイトさんみたいになったことがあったんですよ。お父さんに珈琲煎れてあげたくて、それでお母さんに教えてもらいながらやったんです」
「それはまた、微笑ましい話だな」
いったん休憩することにしたのか、ヨハンも書類をテーブルの脇に避けてお茶とクッキーを楽しんでいる。
そしてサアヤの今の発現に顔色を変えたのは、立ったり座ったり忙しいアーデルハイトだった。
まさかこんなところでダシに、それも娘役をやらされるとは彼女にとっては想像もしていなかった屈辱だろう。
「なんか可愛くていいですね」
「俺はアデルの父親じゃないし、そんな年じゃないぞ」
「知ってます。わたしとそう変わらないじゃないですか」
「……どうしてその会話をするのに近付く必要があるのかしら?」
小さな彼女のそんな突っ込みは無視して、サアヤはヨハンの傍で話を続ける。
これからが大事なところ、本番、決戦なのだ。
「ヨハンさん。そう言えばお仕事ってここにある分で終わりですよね?」
「そうだな。ようやくある程度は片付くが、きっと明日になったらまた面倒な案件が舞い込んでくるんだろう」
そう言って自嘲しながら、書類を眺める。アーデルハイトが手伝ってくれるようになってから、その仕事も随分と楽になった。陽が落ちるころにしっかりと仕事を終えられるのも彼女のおかげでもある。
だからこそサアヤはアーデルハイトに感謝もしていた。そして今日ばかりは、それを最大限に利用させてもらう。いや、今日に限らずできれば今後とも定期的に。
「それならなおのこと、英気を養う必要がありますね! 実は最近街の方でできたお店なんですけど……」
「ん、こほん」
わざとらしい咳払いがそれをインターセプト。
二人の注目がアーデルハイトに集まる。
そして直後、サアヤは己の迂闊さを呪うことになった。
「そう言えば。うん、本当に何の脈絡もなく、いえ、別に、今なんとなく思い出したのだけど」
それはもう本当に、何の脈絡もなく始まった。状況をよく理解していないヨハンにとってだけは。
「今日の夕飯の話なのだけど、昨日の野菜が残っているからそれに少しお肉を足して、後はパンでいいかしら?」
「……なんで今その話をする?」
「いえ、本当に思いだしただけなのだけど。今日のうちに食べないと悪くなってしまうな、と思ったから」
「そんなこと言わなくても今日食べるつもりだったが?」
「念のための確認よ、確認。それから、先日貴族の一人から貰った麦酒を冷やしておいたから、それも開けましょう」
「……未だかつて酒を飲むのにアデルの許可が必要だったことはないのだが」
「高い、いい物だから、勝手に飲まれては困るのよ」
「お前、酒が飲める年齢じゃないだろう」
完璧にしてやられた。機先を制したまではよかったが、その後の鮮やかな反撃にサアヤは敗北した。
「ふっ」
「あーーーーーーー!」
やっぱり確信犯だった。
サアヤが食事に誘おうというのを判った上で、無理矢理に夕食の話を捻じ込んだ。もしここでサアヤが話を始めても、ヨハンは断るし物凄く空気の読めない女となってしまう。
「なんだなんだ……」
「アーデルハイトさん!」
「なにかしら?」
つかつかと歩み寄り、二人は睨み合う。
サアヤは涙目で、アーデルハイトは何処か勝ち誇った表情で。
その二人の睨み合いを止めたのは、扉をノックする音だった。
ヨハンの許可を得て入ってきたのは、サアヤの部下というか、後輩として働いているエトランゼの少女だった。
なんでもヨハンに手紙が届いているらしくと、わざわざそれを持って来てくれた。サアヤがそれを受け取ると、視線で頑張れと応援してくれている、ような気がした。
彼女が退室してからヨハンはサアヤからそれを受け取り、何の飾りつけもされていない便箋を破って中身を読む。実はこの時点で、サアヤは半分ぐらい嫌な予感がしていたのだが。
「すまんが、今日はこれから出る必要がある。食事も外で済ませてくるから……」
「え、いや、そんな急に……」
今度慌てる羽目になったのはアーデルハイトだ。勝ち誇って、夕飯の話をしたというのにそれを目の前で無碍にされようとしているのだから。
「重要な案件だ。……あー、食料が余るのは問題だが」
「そうよ。腐らせても勿体ないし。夜遅くてもいいからどうにか戻ってこれないの? 別に、わたしは待っていることぐらいどうということはないし」
「そうだな。すまないがサアヤ、夕飯をアーデルハイトと一緒してくれるか? その方が夜に子供を家に一人で置いておかなくてもすむし」
「え、あ、はい……」
納得したのではないが、突然の状況の変化に付いていけず、サアヤは気のない言葉を返していた。
「日が変わる頃には帰る。そういうことだから、宜しく頼む」
お茶でクッキーを流し込み、焦った様子でヨハンは部屋を出ていってしまった。
後に残された二人は、お互いの目を見合ってから同時に溜息をついた。
「……なんで邪魔するんですか」
「なんとなく、嫌だからよ」
「そんな……。応援してくださいよ。お姉ちゃんとか欲しくないですか?」
「必要ない」
きっぱりとそう言われて、サアヤは肩を落とす。彼女がヨハンのことをどう思っているのか詳しいことは判らないが、懐柔するのは並大抵のことではできなさそうだ。
「ヨハンさんちょっと疲れてるみたいにも見えました」
「……そうね。特にここ数日は」
皿の上に乗ったクッキーを摘まみ、アーデルハイトが手渡してくる。
「どうも」と礼を言って受け取る。なるほど、やはりヨハンが絡まなければ彼女は好意的に見れる少女だ。愛想はないが。
「理由って、やっぱり」
「そうね」
お互い、思い当たることがある。
二人の頭の中には同時に、全く同じ人物が思い浮かんでいた。
「カナタちゃん。結構長いことそっちに姿を見せていないんですか?」
「わたしはこっちに来てから、一度擦れ違っただけよ。冒険者って、あのエトランゼの仕事をやっているんでしょう? 英雄って呼ばれているのに」
「だからこそみたいですよ。話を聞くと、あちこちに引く手数多みたいですから」
冒険者を続けるエトランゼは数多い。そのためイシュトナル自治区では彼等にちゃんと、仕事分の報酬が渡されるようにギルドが設立された。そのギルドを通して、一般の人や時には政府側も冒険者に仕事を依頼することがある。
「英雄だから、沢山の人に頼られるのよね。……あの子、きっと断らないから」
サアヤは街に出ることも多いので、アーデルハイト以上にカナタの姿を見ることは多い。
会う分には元気そうで、毎回挨拶もしてくれる。それに多くの仲間を見つけて楽しそうにしていた。
だが、彼女の笑顔は以前と変わらない明るさを持ちながらも何処か危うく、無理に笑っているように見えた。
アーデルハイトがお茶を飲み干し、カップを皿の上に置く。
今でも冒険者に危険な仕事は多い。カナタはその中で多くの人を助けるために、走り回っているのだ。
それは普段の彼女の姿。カナタを知っている人々からすればいつものことのはずなのだが。
どうしてか、そんな彼女の姿から不安が見えてしまうのは、彼女がもう一ヶ月もヨハンのところに姿を現していないからだろう。
「それにしても」
「そうね」
「わたし達って、カナタちゃんに勝てないんですね」
「……そうね」
それもまた、二人にとっては切実なる悩みの一つであった。
長きに続いた雌伏の時も終わる。時は満ち、今こそ世界に光が差すであろう。
そしてそれを迎えるべくしてひた走る乙女が一人。気合いを入れた様子で要塞内の階段を一歩一歩踏みしめ昇って行っていた。
「おや、サアヤさん。今日は気合いを入れてどうしたんですか?」
そう声を掛ける兵士は、先日と同じ人だ。
「今日は負けられない戦いがあります!」
「そうですか。頑張ってください。そ、それでどうでしょうか……」
彼は若干緊張した面持ちで、喉の奥から声を絞り出す。奇しくもそれはこれからサアヤが挑むべき決戦の内容と酷似していたのだが。
「きょ、今日の夜その……。戦いとやらの結果を聞きながらお食事でも……って、あれ?」
サアヤの姿はそこにはない。
彼に返事をした時点で立ち止まることなく、階段を上りきってしまっていた。
がっくりと肩を落とすその青年兵士に、十ほど年上になる同僚は優しく肩を叩くのだった。
「失礼します!」
ノックをし、入室の許可を取ってから部屋に入っていく。
ヨハンの執務室はいつも通り……。いや、ここ数日で変わったことと言えば、もう一つ作業用の小さなテーブルセットが増えたことぐらいだろうか。
そこでもうすっかり書類仕事を覚えた少女が、ちんまりと腰かけながら何か書き物をしている。
「サアヤ。どうした?」
「はい! トウヤ君からエトランゼの遊撃隊についての報告書が上がっていますので、お届けに参りました!」
綺麗な所作で近付いて、それを手渡す。
受け取ったヨハンは一瞥してから、苦い顔をする。
「もう少しまともな報告書を書けんのか、あいつは」
「詳しいことは会ったときに説明するって言ってました」
「……まぁ、それが手っ取り早いのは否定しないがな」
ヨハンがいる時はそれでいいのだが、ここを不在にすることもあるだろう。加えて他の上司ができたとき、報告書一つ書けないのでは苦労する。
「……トウヤ君、まだ高校生ですから。わたしも高校生だったときに報告書なんて書けって言われたら、直接言いに行っちゃうかもしれません」
「……確かにな」
「ヨハンさんは高校生でもしっかり書けそうですよね」
「どんな高校生だ、それは。机に向かって十五分で投げ出して、漫画でも読み始めるだろうな」
「あははっ、やっぱりそうですよね!」
和やかな会話が続く。
横目でちらりと見たときに、アーデルハイトが少しばかり面白くなさそうな顔をしたのが見えた。
大人げないと判っていながら胸の内の小さな高揚は消すことができない。
「あ、アーデルハイトさん。もしよかったら、今日はわたしがお茶煎れますね。クッキーも焼いたんですよ」
「……別に必要ないわ。今から煎れようと思っていたところだから」
立ち上がるアーデルハイトを、すぐにサアヤは制する。
「お仕事しながらだと大変でしょう。ここはお姉さんに任せておいてください」
あまり意固地になるのもどうかと思ったのか、アーデルハイトは「むぅ」と唸ってそのまま動きを止めた。
「それにクッキーが無駄になっちゃいます。アーデルハイトさんも、食べたいでしょう?」
「それはまぁ……。否定はしないけど」
「お言葉に甘えておけ。あまりお前に働かれると、俺の立つ瀬がなくなる」
ヨハンからの援護もあって、アーデルハイトは諦めたようだった。
しっかりと許可を取ったサアヤはすぐに部屋を出て、一階の炊事場でお茶を煎れてクッキーをお盆に乗せて持っていく。
「美味しい」
さくりと一口食べて、アーデルハイトの口から自然と漏れた言葉を聞いて、サアヤは一安心した。ここでまさか小姑のように味付けについて云々言われるのではないかと、ちょっとだけびくびくしていた。
「甘味は貴重だからな。しかし随分と甘いな……」
「あ、やっぱりそうですか? 砂糖をちょっと入れ過ぎたかも知れません」
「いや、充分に美味い。珈琲があればもっとよかったんだが」
「それなんですけど、実は南の方から行商の方が来ていて、珈琲豆、少しですけど買っておいたんですよ。ただ、やっぱりこっちではあんまり飲まれるものでもないから、いつ煎れようかなって思ってたんですけど」
「……珈琲?」
アーデルハイトがクッキーを食べながら首を傾げる。
「確かにオルタリアの人間にはあまり好まれなさそうだな……。サアヤさえ良ければ個人的に買い取りたいんだが」
「……うーん。そうですねぇ。一回煎れてみてもし評判が良くなかったらそれもいいかも。その時はわたしが、ヨハンさんに珈琲を入れてあげますね」
「いや、別に自分で……」
「わたしが煎れるからいい」
書類を纏めたものをとんとんとテーブルに突いて、アーデルハイトが自分の存在をこれでもかとアピールしていた。
心なしかむすっとした――だいたいいつもそんな顔をしているので実際のところは判らないのだが――表情でそう言ったアーデルハイトの心中を、サアヤは完璧に察している。
しかしそれでも止まるわけにはいかない。申し訳ないが、この場においては彼女は敵。それも短い付き合いでも判るその聡明さは目下の脅威となりうるのだ。
「そうは言っても……。豆を挽いたりしないといけませんし。結構難しいですよ」
「お茶と似たようなものでしょう? すぐに覚えられるわ」
「だったら今度一緒に練習しましょうか?」
「……む、ん。うん、それなら」
椅子に座るアーデルハイト。
サアヤは更なる追撃を掛けるべく、両手をぱんと合わせた。
「子供の頃、わたしもアーデルハイトさんみたいになったことがあったんですよ。お父さんに珈琲煎れてあげたくて、それでお母さんに教えてもらいながらやったんです」
「それはまた、微笑ましい話だな」
いったん休憩することにしたのか、ヨハンも書類をテーブルの脇に避けてお茶とクッキーを楽しんでいる。
そしてサアヤの今の発現に顔色を変えたのは、立ったり座ったり忙しいアーデルハイトだった。
まさかこんなところでダシに、それも娘役をやらされるとは彼女にとっては想像もしていなかった屈辱だろう。
「なんか可愛くていいですね」
「俺はアデルの父親じゃないし、そんな年じゃないぞ」
「知ってます。わたしとそう変わらないじゃないですか」
「……どうしてその会話をするのに近付く必要があるのかしら?」
小さな彼女のそんな突っ込みは無視して、サアヤはヨハンの傍で話を続ける。
これからが大事なところ、本番、決戦なのだ。
「ヨハンさん。そう言えばお仕事ってここにある分で終わりですよね?」
「そうだな。ようやくある程度は片付くが、きっと明日になったらまた面倒な案件が舞い込んでくるんだろう」
そう言って自嘲しながら、書類を眺める。アーデルハイトが手伝ってくれるようになってから、その仕事も随分と楽になった。陽が落ちるころにしっかりと仕事を終えられるのも彼女のおかげでもある。
だからこそサアヤはアーデルハイトに感謝もしていた。そして今日ばかりは、それを最大限に利用させてもらう。いや、今日に限らずできれば今後とも定期的に。
「それならなおのこと、英気を養う必要がありますね! 実は最近街の方でできたお店なんですけど……」
「ん、こほん」
わざとらしい咳払いがそれをインターセプト。
二人の注目がアーデルハイトに集まる。
そして直後、サアヤは己の迂闊さを呪うことになった。
「そう言えば。うん、本当に何の脈絡もなく、いえ、別に、今なんとなく思い出したのだけど」
それはもう本当に、何の脈絡もなく始まった。状況をよく理解していないヨハンにとってだけは。
「今日の夕飯の話なのだけど、昨日の野菜が残っているからそれに少しお肉を足して、後はパンでいいかしら?」
「……なんで今その話をする?」
「いえ、本当に思いだしただけなのだけど。今日のうちに食べないと悪くなってしまうな、と思ったから」
「そんなこと言わなくても今日食べるつもりだったが?」
「念のための確認よ、確認。それから、先日貴族の一人から貰った麦酒を冷やしておいたから、それも開けましょう」
「……未だかつて酒を飲むのにアデルの許可が必要だったことはないのだが」
「高い、いい物だから、勝手に飲まれては困るのよ」
「お前、酒が飲める年齢じゃないだろう」
完璧にしてやられた。機先を制したまではよかったが、その後の鮮やかな反撃にサアヤは敗北した。
「ふっ」
「あーーーーーーー!」
やっぱり確信犯だった。
サアヤが食事に誘おうというのを判った上で、無理矢理に夕食の話を捻じ込んだ。もしここでサアヤが話を始めても、ヨハンは断るし物凄く空気の読めない女となってしまう。
「なんだなんだ……」
「アーデルハイトさん!」
「なにかしら?」
つかつかと歩み寄り、二人は睨み合う。
サアヤは涙目で、アーデルハイトは何処か勝ち誇った表情で。
その二人の睨み合いを止めたのは、扉をノックする音だった。
ヨハンの許可を得て入ってきたのは、サアヤの部下というか、後輩として働いているエトランゼの少女だった。
なんでもヨハンに手紙が届いているらしくと、わざわざそれを持って来てくれた。サアヤがそれを受け取ると、視線で頑張れと応援してくれている、ような気がした。
彼女が退室してからヨハンはサアヤからそれを受け取り、何の飾りつけもされていない便箋を破って中身を読む。実はこの時点で、サアヤは半分ぐらい嫌な予感がしていたのだが。
「すまんが、今日はこれから出る必要がある。食事も外で済ませてくるから……」
「え、いや、そんな急に……」
今度慌てる羽目になったのはアーデルハイトだ。勝ち誇って、夕飯の話をしたというのにそれを目の前で無碍にされようとしているのだから。
「重要な案件だ。……あー、食料が余るのは問題だが」
「そうよ。腐らせても勿体ないし。夜遅くてもいいからどうにか戻ってこれないの? 別に、わたしは待っていることぐらいどうということはないし」
「そうだな。すまないがサアヤ、夕飯をアーデルハイトと一緒してくれるか? その方が夜に子供を家に一人で置いておかなくてもすむし」
「え、あ、はい……」
納得したのではないが、突然の状況の変化に付いていけず、サアヤは気のない言葉を返していた。
「日が変わる頃には帰る。そういうことだから、宜しく頼む」
お茶でクッキーを流し込み、焦った様子でヨハンは部屋を出ていってしまった。
後に残された二人は、お互いの目を見合ってから同時に溜息をついた。
「……なんで邪魔するんですか」
「なんとなく、嫌だからよ」
「そんな……。応援してくださいよ。お姉ちゃんとか欲しくないですか?」
「必要ない」
きっぱりとそう言われて、サアヤは肩を落とす。彼女がヨハンのことをどう思っているのか詳しいことは判らないが、懐柔するのは並大抵のことではできなさそうだ。
「ヨハンさんちょっと疲れてるみたいにも見えました」
「……そうね。特にここ数日は」
皿の上に乗ったクッキーを摘まみ、アーデルハイトが手渡してくる。
「どうも」と礼を言って受け取る。なるほど、やはりヨハンが絡まなければ彼女は好意的に見れる少女だ。愛想はないが。
「理由って、やっぱり」
「そうね」
お互い、思い当たることがある。
二人の頭の中には同時に、全く同じ人物が思い浮かんでいた。
「カナタちゃん。結構長いことそっちに姿を見せていないんですか?」
「わたしはこっちに来てから、一度擦れ違っただけよ。冒険者って、あのエトランゼの仕事をやっているんでしょう? 英雄って呼ばれているのに」
「だからこそみたいですよ。話を聞くと、あちこちに引く手数多みたいですから」
冒険者を続けるエトランゼは数多い。そのためイシュトナル自治区では彼等にちゃんと、仕事分の報酬が渡されるようにギルドが設立された。そのギルドを通して、一般の人や時には政府側も冒険者に仕事を依頼することがある。
「英雄だから、沢山の人に頼られるのよね。……あの子、きっと断らないから」
サアヤは街に出ることも多いので、アーデルハイト以上にカナタの姿を見ることは多い。
会う分には元気そうで、毎回挨拶もしてくれる。それに多くの仲間を見つけて楽しそうにしていた。
だが、彼女の笑顔は以前と変わらない明るさを持ちながらも何処か危うく、無理に笑っているように見えた。
アーデルハイトがお茶を飲み干し、カップを皿の上に置く。
今でも冒険者に危険な仕事は多い。カナタはその中で多くの人を助けるために、走り回っているのだ。
それは普段の彼女の姿。カナタを知っている人々からすればいつものことのはずなのだが。
どうしてか、そんな彼女の姿から不安が見えてしまうのは、彼女がもう一ヶ月もヨハンのところに姿を現していないからだろう。
「それにしても」
「そうね」
「わたし達って、カナタちゃんに勝てないんですね」
「……そうね」
それもまた、二人にとっては切実なる悩みの一つであった。
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