夏と幽霊と裏切りもの

師走こなゆき

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 龍神様の川、というよりは渓谷。

 視界が雨粒で遮られて、対岸がよく見えないために、川幅がどれくらいなのかも分からないが、霞む視界の先には切り立った崖と深緑の木々が見える。自然に囲まれた川。きっと雨さえ降っていなければ、キャンプや川遊びには絶好の場所だろう。

 けれど今は、ほんの数分の豪雨で川は濁り、近寄るもの全てを押し流してしまいそうな急流に変わってしまっている。

 日葵に手を引かれ、大小様々な石の敷き詰められた川原に下りる。雨で濡れた石に足を滑らせないように、力を込めて踏みしめる。

 川の側まで近づくと、地面を雨が叩きつける音と濁流の音がうるさくて、他の音は何も聞こえなくなった。

 日葵は繋いだ手を離して、神妙な面持ちで目を瞑り、両掌を重ねて祈った。日葵が小さく唇を動かして何かを言ったけれど、私の耳には届かなかった。

 ああ、ここで日葵の姉が……。

 私も日葵に倣って手を合わせる。目を瞑って、祈る

 どうか安らかにと。見ず知らずの、日葵の姉の冥福を。

『……日葵』

 激しく流れる水音、ザアザアと雨粒が擦れ合って地面を叩きつける音の間を縫って、微かに少女の名を呼ぶ声が聞こえた小さな囁き声なのに、やけにはっきりと耳に届いた気がした。

 日葵の名前を呼ぶ声まで聞こえてくるなんて、同じ姉だからってだけで、私は日葵のお姉さんに共感し過ぎだろう。

 ――ザクッザクッ。

 石が踏みしめられて擦れる音。

 ――ザブンっ。ザブっ。

 何かが水を掻き分ける音。

「お姉、ちゃんっ」

 少女の縋るような、悲痛な叫び。

 私は目を開いた。

 隣りに居たはずの、日葵が見当たらない。慌てて日葵の姿を探す。

 日葵は急流に小さなその身を連れていかれそうになりながら、数歩、川の中へと足を進めていた。

「危ないでしょっ! 何してるの?」

 叫び、呼び止めるけど、雨音でかき消されて聞こえないのか、日葵は振り返らない。

 直接止めるしか無いと、急いで駆け寄って日葵の手を掴んだ。

「危ないって言ってるでしょっ」

「でも、でもっお姉ちゃんがそこに」

 視線の先に目を凝らすけれど、雨粒で霞む視界の先には何も見えない。

「誰も居ないっ。何も見えないっ。お姉さんは亡くなったんでしょっ」

「でも、そこに居るんだよ。どうして見えないの? 寂しいからこっちに来てって言ってる」

 もう一度、日葵の視線の先に目を凝らす。でも、やっぱり私には何も見えない。何も聞こえない。

 日葵は彼女にしか見えない亡霊に向かって、縋るように手を伸ばす。

 必死に叫んで川の中心に向かおうとする日葵を離すまいと、掴んだ手に力を込めた。けれど、雨で手が滑り、掴んだ腕はするりと私の手から抜けていった。

 腕を離した反動で、私は浅い川底に強かお尻を打ち付けた。すぐに立ち上がって日葵を追いかける。

 私より力が弱いはずなのに、日葵はゆっくりとだが確実に川の中心へと進んで行く。もう膝まで水に浸かっている。このままじゃあ、流されてしまうかもしれない。

 追いかけようと力を込めた足が流れに掬れて、再び転倒する。座り込んだ腰までしか水に浸かっていないのに、全身を流れに持っていかれて溺れそうになる。

「……っああっ」

 流されないように気合を入れて、踏ん張って立ち上がる。流れの強さにふらつきながらも、なんとか立って日葵を追いかけようとした。
けれど、先程までいたはずの場所に日葵の姿はない。何処にも見当たらない。

 ……流された?

 嫌な予感に、背筋が震えた。

「日葵ーっ、日葵ーっ」

 必死に日葵の名を叫びながら、グルグルと当たりを見回す。けれど、雨に遮られた視界では何も見えず、日葵を呼ぶ声も掻き消されてゆく。

「日葵っ。返事をしてっ日葵っ」

 泣きそうな声で、何度も日葵の名前を叫ぶ。

 嫌だ。嫌だ。私の目の前で日葵が死んじゃうなんて嫌だ。

「お姉ちゃん……助け……」

 かすかに助けを呼ぶ声が、私の耳に届いた。

 先程は無意識に自身の姉に助けを求めていた日葵が、私に助けを求めている。私はそれに応えたい。いや、必ず応えるんだ。

「日葵っ」

 声のした方向に見当をつけ、動くもの何も見逃すまいと注視する。額を伝った雨粒が目に入って痛い。それでも、目を開いて日葵を探す。

 ……見つけたっ。

 少し流されたところで沈まないように、身体を浮き沈みさせて、もがいている日葵を発見した。

 急いで、それでいて流れに体を持っていかれないように慎重に、日葵の元へと駆け寄る。川の中ほどに進んでゆくと、私の腰の下辺りまで水面に浸かっていた。下半身に力を入れて踏ん張る。少しでも力を抜くと流されてしまいそうだ。

「日葵っ」

 日葵の手を掴み、思いっきり身体を引き寄せ、抱きしめた。

「お姉、さんっ」

 日葵も腕に力を込めて、私の胴にしがみつく。

 岸に戻ろうと歩を進めるけれど、私たちの身体は少しずつ川の中心へと引き戻されてゆく。
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