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第二十九章 溺死者の回顧録(4)
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【断章】
〈君〉の人生は〈君〉にとってのみ完璧だ。傍から見れば、〈君〉ほど苛酷で無残で孤独な人生を送っている者はいない。だが〈私〉は、〈君〉のそんな傷だらけの完璧さを気に入っている。
考えてみると不思議なものだ。〈君〉という人間、〈君〉という人生の完璧さは、こんなにも救いがたい損傷を被っているのに、何故〈君〉のテクストは常に無疵なのだろうか。
初めて〈君〉のテクストに触れたとき、〈私〉が覚えたのは敗北感だった。そう、〈私〉は〈君〉に完全に敗北した。そして自らの仕事に対する情熱を失った。〈君〉の論に反論できなかったからだとか、〈君〉に自分の先を行かれたからだとか、そんな程度の低いことをいっているわけではない。そもそも、〈君〉に敗北せずにいられる人間がいったい何処に存在するだろう? 〈私〉の場合は他の人間とは違い、それはただの敗北ではなかった。ある意味において〈私〉は〈君〉に殺されたのだ。〈君〉が提示した世界の、その凄絶な美しさを前にして、〈私〉の卑小な世界はその輪郭を維持することができなくなり、跡形もなく消え失せてしまったのだ。
それから一ヶ月、〈私〉は家にこもって〈君〉のテクストを読んだ。ただひたすら読んだ。繰り返し繰り返し、一言一句違わず暗記してしまうほどに。
そして更に一ヶ月たったとき、〈私〉は以前とはまるで別のテクストを――「小説」を書き始めた。
〈君〉のテクストに織り込まれるために。
そうやって出来上がったのがこれまでの駄作たちだ。愚かな大衆が喜びそうでいて、非大衆(と自負している批評家という名の更に愚かな大衆)も食いつく、「前衛的な構造」の上に「奇抜なレトリック」を塗しつつも「手に汗握る展開」で「現代社会の歪み」の上に生まれた「人間の普遍的な悲しみ」を「繊細に、ときに滑稽に、ときに慈悲深く、ときに冷徹に」描いた反吐が出るほど陳腐な「リテラチュア」。〈私〉にはそんなおぞましいインクの染みを撒き散らす才覚があったらしい。瞬く間に売れっ子作家の仲間入りをし、遂にはこの即席覆面作家としての名声が、これまでこつこつと地道に築き上げてきた、愛しくもささやかな素顔の〈私〉の地位を、完全に追い越してしまった。
だが、全ては〈君〉のテクストに含まれるために必要なことだった。単なる娯楽小説では、いわゆる「文学」しか相手にしない〈君〉は、歯牙にもかけない。しかし、世間に受け入れられるような作品を生産できなければ、小説家になることすら叶わない。そういう意味において、〈私〉は、他のどんな職業作家よりも冷静で狡猾で戦略的で一途だった。
世間に認められるためだけに、〈私〉は駄作を積み上げ続けた。それは楽しい作業とはいえなかったかもしれない。
けれど漸く、全てが報われる時がやってきた。遂に、〈君〉は〈私〉のためのテクストを織ったのだ(「織った」――そう、過去だ。この小説がある超越的な時間軸上で書かれた「回顧録」であるということを、〈君〉は覚えていただろうか。この小説を書いている〈私〉とこの小説を読んでいる〈君〉は、錯綜する時間と恣意的な時制とを共に乗りこなしてゆかねばならないのだ)。
〈君〉は、〈私〉のテクストのためのテクストを立ち上げた。「今まさに」〈私〉が液晶の画面の上に打ち込み、そして「今まさに」〈君〉がページを繰って読んでいる、「この」小説というテクストのための。〈君〉が「この」小説を選ぶこと、それは必然だった。何故ならこれは、今まで〈私〉が量産してきた哀れな可燃ごみたちとは違い、世間におもねるところの一切ない、ただひたすらに純粋なテクストなのであって、〈君〉への犯行声明であると同時に〈君〉に手向ける供述調書であり、そして何よりも〈君〉に宛てた長い長い古風で素朴な手紙でもあるのだから。そう、だから〈私〉は思いつくままキーを叩いている。推敲はしない。一度打ち込んだ文を読み返しもしない。この小説は、〈私〉自身なのだ。何を書き直す必要があるだろう。
〈私〉の登場を、〈君〉は唐突だと感じただろうか。だが〈私〉にしてみれば、これでも時間をかけた方だと思う。結果的に、〈君〉が二十五歳になるまで出版を待った。その年齢に特に意味や拘りはない。いや、もしかしたら、二十六――当時は数え年だから、今でいえば二十五だ――で死んだ、とある歌人のことが頭にあったせいかもしれない。〈私〉は彼の、あのあまりに有名な歌集の題名が、本当にどうしようもなく好きなんだよ。そう、まるで〈君〉のようだから。
〈私〉は二十五歳の〈君〉のことを考える。二十五歳の〈君〉はこの小説を読む。二十五歳の〈君〉はこの小説から〈君〉のテクストを立ち上げる。そう、二十五歳の〈君〉は〈君〉にとって完璧だったのだ。
では、二十六歳の〈君〉は?
問題は随所に残っているが、しかしこれで漸く、我々の間に横たわる問題に限っていえば、ある程度詳らかになったといえるだろう。つまり〈君〉がこの小説、すなわち〈私〉をどのように〈君〉のテクストへと織り込んでいくか、〈私〉は〈君〉にとってどのように存在することになるのか、その点に、我々の物語の行方は賭けられたわけだ。もしかしたら〈君〉は読み解くかもしれない。このテクストを。
だがそれは、決してありえぬことなのだ。
何故ならこれは、再三繰り返してきたとおり、超越的な虚構の時間に立って、〈君〉と〈私〉の物語を自在に、そして孤独に回顧する書物なのだから。
物語の結末は既に決まっている。〈君〉はテクストに織り込まれた。
今、〈私〉は回顧する――〈君〉の過去を。〈君〉の現在を。〈君〉の未来を。〈君〉の死を。
〈君〉の人生は〈君〉にとってのみ完璧だ。傍から見れば、〈君〉ほど苛酷で無残で孤独な人生を送っている者はいない。だが〈私〉は、〈君〉のそんな傷だらけの完璧さを気に入っている。
考えてみると不思議なものだ。〈君〉という人間、〈君〉という人生の完璧さは、こんなにも救いがたい損傷を被っているのに、何故〈君〉のテクストは常に無疵なのだろうか。
初めて〈君〉のテクストに触れたとき、〈私〉が覚えたのは敗北感だった。そう、〈私〉は〈君〉に完全に敗北した。そして自らの仕事に対する情熱を失った。〈君〉の論に反論できなかったからだとか、〈君〉に自分の先を行かれたからだとか、そんな程度の低いことをいっているわけではない。そもそも、〈君〉に敗北せずにいられる人間がいったい何処に存在するだろう? 〈私〉の場合は他の人間とは違い、それはただの敗北ではなかった。ある意味において〈私〉は〈君〉に殺されたのだ。〈君〉が提示した世界の、その凄絶な美しさを前にして、〈私〉の卑小な世界はその輪郭を維持することができなくなり、跡形もなく消え失せてしまったのだ。
それから一ヶ月、〈私〉は家にこもって〈君〉のテクストを読んだ。ただひたすら読んだ。繰り返し繰り返し、一言一句違わず暗記してしまうほどに。
そして更に一ヶ月たったとき、〈私〉は以前とはまるで別のテクストを――「小説」を書き始めた。
〈君〉のテクストに織り込まれるために。
そうやって出来上がったのがこれまでの駄作たちだ。愚かな大衆が喜びそうでいて、非大衆(と自負している批評家という名の更に愚かな大衆)も食いつく、「前衛的な構造」の上に「奇抜なレトリック」を塗しつつも「手に汗握る展開」で「現代社会の歪み」の上に生まれた「人間の普遍的な悲しみ」を「繊細に、ときに滑稽に、ときに慈悲深く、ときに冷徹に」描いた反吐が出るほど陳腐な「リテラチュア」。〈私〉にはそんなおぞましいインクの染みを撒き散らす才覚があったらしい。瞬く間に売れっ子作家の仲間入りをし、遂にはこの即席覆面作家としての名声が、これまでこつこつと地道に築き上げてきた、愛しくもささやかな素顔の〈私〉の地位を、完全に追い越してしまった。
だが、全ては〈君〉のテクストに含まれるために必要なことだった。単なる娯楽小説では、いわゆる「文学」しか相手にしない〈君〉は、歯牙にもかけない。しかし、世間に受け入れられるような作品を生産できなければ、小説家になることすら叶わない。そういう意味において、〈私〉は、他のどんな職業作家よりも冷静で狡猾で戦略的で一途だった。
世間に認められるためだけに、〈私〉は駄作を積み上げ続けた。それは楽しい作業とはいえなかったかもしれない。
けれど漸く、全てが報われる時がやってきた。遂に、〈君〉は〈私〉のためのテクストを織ったのだ(「織った」――そう、過去だ。この小説がある超越的な時間軸上で書かれた「回顧録」であるということを、〈君〉は覚えていただろうか。この小説を書いている〈私〉とこの小説を読んでいる〈君〉は、錯綜する時間と恣意的な時制とを共に乗りこなしてゆかねばならないのだ)。
〈君〉は、〈私〉のテクストのためのテクストを立ち上げた。「今まさに」〈私〉が液晶の画面の上に打ち込み、そして「今まさに」〈君〉がページを繰って読んでいる、「この」小説というテクストのための。〈君〉が「この」小説を選ぶこと、それは必然だった。何故ならこれは、今まで〈私〉が量産してきた哀れな可燃ごみたちとは違い、世間におもねるところの一切ない、ただひたすらに純粋なテクストなのであって、〈君〉への犯行声明であると同時に〈君〉に手向ける供述調書であり、そして何よりも〈君〉に宛てた長い長い古風で素朴な手紙でもあるのだから。そう、だから〈私〉は思いつくままキーを叩いている。推敲はしない。一度打ち込んだ文を読み返しもしない。この小説は、〈私〉自身なのだ。何を書き直す必要があるだろう。
〈私〉の登場を、〈君〉は唐突だと感じただろうか。だが〈私〉にしてみれば、これでも時間をかけた方だと思う。結果的に、〈君〉が二十五歳になるまで出版を待った。その年齢に特に意味や拘りはない。いや、もしかしたら、二十六――当時は数え年だから、今でいえば二十五だ――で死んだ、とある歌人のことが頭にあったせいかもしれない。〈私〉は彼の、あのあまりに有名な歌集の題名が、本当にどうしようもなく好きなんだよ。そう、まるで〈君〉のようだから。
〈私〉は二十五歳の〈君〉のことを考える。二十五歳の〈君〉はこの小説を読む。二十五歳の〈君〉はこの小説から〈君〉のテクストを立ち上げる。そう、二十五歳の〈君〉は〈君〉にとって完璧だったのだ。
では、二十六歳の〈君〉は?
問題は随所に残っているが、しかしこれで漸く、我々の間に横たわる問題に限っていえば、ある程度詳らかになったといえるだろう。つまり〈君〉がこの小説、すなわち〈私〉をどのように〈君〉のテクストへと織り込んでいくか、〈私〉は〈君〉にとってどのように存在することになるのか、その点に、我々の物語の行方は賭けられたわけだ。もしかしたら〈君〉は読み解くかもしれない。このテクストを。
だがそれは、決してありえぬことなのだ。
何故ならこれは、再三繰り返してきたとおり、超越的な虚構の時間に立って、〈君〉と〈私〉の物語を自在に、そして孤独に回顧する書物なのだから。
物語の結末は既に決まっている。〈君〉はテクストに織り込まれた。
今、〈私〉は回顧する――〈君〉の過去を。〈君〉の現在を。〈君〉の未来を。〈君〉の死を。
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