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第二十六章 カルーセルに飛び乗って(1)
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「お帰りなさい。もうご飯はできて……あなた? ねえ、あなた……」
出迎えた妻の声を無視して、彼は書斎に向かう。
ドアを閉めると、着替えもせずにパソコンの電源を入れた。落ち着きなく貧乏ゆすりをしながら、池内はプログラムが起動するのを待った。
ここ数日、仕事が全く手につかない。
考えるのはあのことばかり。まるで得体の知れない寄生虫が、脳の内部に湧いてしまったかのよう。やすりのような微小な歯が並ぶその不気味な口に、彼は正しい思考を貪り食われてしまった。
今も頭の中で何かが蠢いたような気がして、思わず池内は手を額に伸ばした。すると肘が何かに当たる。デスクの端に無造作に積み重ねられていた書類の山だ。慌てて押さえようとした彼を嘲笑うように、紙片はその指の間をすり抜けて床に散った。池内は舌打ちした。
全部、あの男のせいだ。
あれが化け物であることなど、何年も前から、恐らく出会ったその瞬間から知っていた。だから遠ざけねばならないということも解っていた。しかしできなかった。あの才能、あの微笑、あの眼差し、遠ざけられるわけがなかった。
「畜生……畜生、ちくしょう……」
心の奥底に埋めた、決して開いてはならない箱。がたがたと蓋の揺れる音がして、錆びた錠前が悲鳴を上げる。
散らばった書類のことは、既に頭から消えていた。
パソコンの画面にアイコンが表示されると、焦った指先でマウスを動かし、ファイルを開く。
そのとき、ノックの音が響いた。
ぎくりとした彼は、素早くファイルを閉じて音のした方を見た。
「あなた、お客様よ」
閉じたドアの向こうから、聞き慣れた妻の声がする。
乾いた喉に必死で唾を押し流し、池内は口を開いた。
「い、忙しいんだ、いないと言え」
言いながら彼はドアを凝視した。焦げ茶色の木目のドアを、照明が煌々と照らしている。艶消しされたドアノブが、そこに一つ暗い影を落としている。視界はあまりにも平穏で、恐ろしく正常である。
不意に彼は眩暈に似た感覚を覚えた。
「もういるって言っちゃったわよ。ねえ、早く出てくださいな」
ややこもった妻の声。自分と同じように年齢を重ねた妻。若くはなく、美しくもなく、おぞましくもない。それはただひたすらに凡庸な、一塊の有機物でしかない。
どうしてあの化け物の存在を知りながら、俺はこんな女と暮らしていられるのだろう?
「それにあの人、テレビで見た気がするのよ……もしかして、芸能人?」
書斎に通された男は、口許に薄い笑みを湛えていた。
「夜分申し訳ありませんね」
耳の穴から体内に入り込み、脳を直接揺さぶっていく、そんな声だった。いかにも高級そうな濃緑のスーツに包まれた長身は、池内よりも三〇センチ近く高そうに見える。革の鞄を握る掌も、大きく分厚い。完全に圧倒された池内は、策のないまま相手に座るよう勧めた。
「先程大学にも伺ったのですが、あいにくいらっしゃらなかったので、事務の方に無理を言ってご住所を教えていただきました」
相手に負けぬよう、自らも不敵な薄ら笑いを浮かべようと、池内は必死で顔の筋肉を動かした。しかし何処をどう加減すればよいのかわからなかった。それで彼は笑うことを諦めて口を開いた。
「いったいどのようなご用件ですかな。先生のような有名人が、こんなしがない一教員の住まいにわざわざいらっしゃるなんて」
皮肉を口にしたつもりだった。しかし顎が妙に震えてしまい、その言葉は彼自身の耳にさえ、ただの自虐のように響いた。
落ち着かなければならない。彼は深く息を吐く。動揺する理由などないはずだ。
そんな池内を、男は黙って眺めていた。そこには何の緊張も気負いも読み込めなかった。まるで自室にいるかのように、寛いだ空気を漂わせている。書斎に設えられた小さな応接セットのソファは、男が腰を下ろすとまるで子供の玩具のようだった。
「本題に入る前に、話を単純にしておきましょう」
そう切り出して、男は手にしていた鞄から分厚い本を取り出した。
「僕の近著ですよ。お近づきのしるしに、お納めください」
男が差し出した本の書名を見て、彼は小さく呻いた。
「ああ、池内先生には研究書の方がよかったかな。名前を二つ持ったせいでしょうか。今自分がどちらの名前で動いているのか、どちらの自分が本当の自分なのか、時折忘れてしまうことがある」
ぐったりとソファにもたれた池内を無視して、男は本をテーブルの上に置いた。そうして長い脚を組み、自らの顎を撫でながら言う。
「先生も、やはりこれを駄作だとお思いなのでしょうね」
池内は首を横に振った。それは否定というよりも、降伏の仕種に近かった。
男は口を開けて笑った。声はなく、ただ空気の擦れる音だけが、底の見えない暗い穴から這い出してくる。
「池内先生と、それから先生の教え子である由比誓が、僕の正体――いや、正確には添嶋秋長の正体ですかな――をご存じなのは、把握しています」
男は再び鞄に手を差し入れた。取り出されたのは、一冊の雑誌だった。男はそれを、『溺死者の回顧録』の脇に置いた。
「何度も繰り返し読んだせいで、すっかり傷んでしまいました。といっても、同じものを二十冊購入して、書斎に保管していますがね」
池内は黙って雑誌の表紙に印刷された目次を見た。予想どおり、そこには「摩耗するクラウン」の文字があった。
「ねえ先生。先生は、名前とはいったい何だと思われますか」
男は突然話題を変える。濃く重い液体を思わせるその低音が、池内の三半規管を浸食する。彼は吐き気を覚える。耳が重い。目の奥が膿んだように熱を持っている。上下と左右の区別がつかなくなりつつある。この液状の声のせいで、自分の脳髄は現在進行形で緩やかに腐敗しているのではないか、そんな恐怖に襲われる。
「僕には、家によって宿命づけられた柄島という名字があり、親によって決められた永明という名前があり、更に自ら定めた、添嶋秋長という名もある。池内先生には池内宣照という名前があり、あの青年には由比誓という名前がある。そしてこのテクストには溺死者の回顧録という名がつけられ、こちらのテクストには摩耗するクラウンという名が与えられている」
「……何が言いたい」
彼が声を振り絞ると、男は膝の上で指を組んだ。そのように、池内の目には見えた。実際はどうなのか、彼には自信が持てなかった。
考えてみてください、と男は言った。考えることが、何よりも大事です。自らが優勢を保っているときこそ、よく考える必要があるのです。
「名づけた側の傲慢さと、名づけられた側の背信は、常にその名につきまとう。けれど同時に名というものは、名づけたものの意図とも名づけられたものの意志とも無関係に、不可避的に、正確に、無情に、その本質を射抜いてしまう。ならば彼はいったい、誰に何を誓うというのだろう。神も人もないような、あの哀れな青年は」
空気が少しずつ、淀んでいた。男の声と視線が、目に見えない澱を生んでいく。このままでは、得体の知れないその檻に埋もれて窒息してしまう。そうなる前に、ここから逃げるか、目の前の男を追い出さなくてはならない。そのことを、池内は本能的に理解している。
「……彼のことなら、私は何も知らない。解らない」
理解はしている。
しているのに、動けない。
「あれは……化け物だ」
その名を口にすると、舌が爛れて落ちてしまいそう。
「奴はこれまで、数えきれないほどの男を破滅させてきた。手のつけられない……そう、化け物だ」
言い始めると、止まらなかった。
「あの化け物の最も恐ろしいところは、自らが化け物であるということを『正しく』認識していないところだ。あるいはそれが、化け物としての『正しい』あり方なのかもしれんが」
おぞましい、疎ましい、妬ましい、憎らしい。
それなのに、まるで誘蛾灯におびき寄せられる羽虫のように、誰もがその眩さに引きつけられてしまう。
「あんなにも大量に、暴力的に人の心を奪っておきながら、奴は全く自己嫌悪に陥らない。私はあの男の指導教員になってから今までずっと、有望な若手たちがあれに心を奪われて駄目になっていくさまを何度も見てきた。だが、いつだってあいつは無関心だ。あの化け物の頭の中には、自分のことしかない。他人が、他者が、存在しない。だからその指は自分に関わる人間全てを傷つけるくせに、誰のどんな指もあれを傷つけることができない」
彼はひたすら喋った。まるで嘔吐しているようだと思った。それでも喋った。
男は黙っていた。賛同しているようでもあり、否定しているようでもあり、ただ黙考しているようでもある。
化け物だ、と池内は繰り返した。
化け物だ。あれは化け物だ。
どうしてあんな化け物が、よりによって俺の前に現れてしまったのか。それでも俺は何とかやっていこうとした。何故ならあれの才能は本物だった。そして俺は教員である前に研究者だった。たとえどれほど多くの若者たちが無残に叩き潰されることになろうとも、俺はあの化け物が、誰も見たことのないテクストを織る姿を、誰より間近で見ていたかった。だから俺は努力した。欲望を隠して、よき指導者としての立場を守り続けた。今の今まで、我々はそれで上手くいっていた。だからこれから先も上手くやっていけるはずだった。それなのに。それなのに……。
「――レイプ動画が、送られてきたのですね」
肯く必要はなかった。
「……諸岡からだった。自分の講演の動画で、どうしても私に観てほしいというから仕方なくファイルを開いてやったら、これだ……。諸岡は由比を恨んでいたからな、この前もN大で由比と一悶着あったというし、暴行事件そのものに関わっていたとしても私は驚かん。……だが、それは誰にでも言えることだ。あれは恨みを買いすぎていた」
池内は言葉を切って嘆息した。それから膝に投げ出された自らの手の甲をじっと見つめた。皺の目立ち始めた、老いた皮膚がそこにはあった。
「だがそれでも、だ。それでもあいつは傷つかない。誰にも、あいつ自身にさえも、由比誓という化け物を傷つけることはできない。あれは、生粋の加害者だ」
この醜い手を恥じて、彼は由比に触れなかった。だが、もしも彼が今より十歳若く、由比が十歳老いていたとしたら、どうだっただろう。恐らく話は違っていた。教え子たちの誰よりも先に、きっと彼が破滅していた。
「……化け物なんだ」
絞り出すようにそう呟くと、小さな溜め息が聞こえた。
「池内先生も、彼のことをそのようにお考えですか」
池内は顔を上げた。
「あんたは違うのか」
「違いますね」
男は入室したときと同じような微笑を浮かべていた。そこに一種の自己完結性の匂いを認め、池内は背筋が冷たくなるのを感じた。
「彼はエトランジェなのです」
男は池内に笑いかける。池内の言葉を聞き、池内に語りかける。
「誰にも理解されず、されようともせず、一人称の世界で生きる孤独な男。太陽が眩しくて人を殺す代わりに、感じない魂で人の心を殺す。そんな悲しい現在のエトランジェ」
まるで、池内など存在していないかのように。
――同類だ。
この男も、同類だ。
化け物だ。
恐怖に耐えきれず、彼は男から目を逸らした。
行くあてを失った視線は彷徨い、そして墜落する。落ちた先には、不穏なテクストを内包して押し黙る、二冊の異物がある。
〈添嶋秋長『溺死者の回顧録』〉
〈由比誓「摩耗するクラウン――添嶋秋長『溺死者の回顧録』論」〉
その瞬間、頭の中でかちりと音をたてて、パズルのピースが嵌まった。
「……まさか」
彼は理解した。
「まさかこの小説……この〈君〉というのは……」
すると男は軽く首を傾げて笑った。白い歯が照明を弾いて光る。
化け物を食い殺そうとする、化け物の歯。
「もっと早く気づいていただけると思っていたのですがね」
空気の擦れる嫌な音が、異様に白い清潔な歯の間から撒き散らされる。
池内は口を蛙のように開き、懸命に空気を吸い込んだ。そうでもしないと窒息しそうだった。しかし息をすればするほど、何か忌まわしいものを体内に取り込んでしまうような気がした。
男と自分、二人だけの空間。それなのに、ここには自分がいない。
「……馬鹿な……いったい何のために……」
男は両手を挙げてみせた。
「先生も随分解りきったことをお訊ねになる。全ては最初からテクストにあるというのに」
テクスト。どのテクストのことだろう。世界にはテクストが多すぎる。
「違いますよ。世界がテクストによってできているのです」
視界の中で、今、二人称の世界を生きる、いびつな怪物が微笑んでいる。
「そしてその世界もまた一つのテクストとして存在する。無数のテクストからなる無数の世界という無数のテクスト――」
脅かされている。
今、確実に、脅威に晒されている。
しかし何が、そして何に?
解らない。
「思い出してください。他に手はありませんよ」
思い出せ。
あれはいったいどういう小説だった?
冒頭は、結末は、〈私〉が小説を書き始めたきっかけは、何だった?
確か〈君〉に……いや、思い出せない。
「思い出せませんか? まあ、無理でしょうな」
当然だ。あんな長い小説、いちいち付箋でもつけておかない限り、参照したい箇所を見つけ出すのはほぼ不可能だろう。
「なるほど? それは一種の引用の不可能性と呼べるかもしれませんね……文字の海の中で失われるセンテンスとしての同一性……いつかそれで論文を書いてみたいものです。――ああ、先生のアイディアを盗むつもりはありません。盗みは罪です。学生の中には、レポートを他人の文章の丸写しで――つまりは盗作で――済ませる輩もいるようで、全く嘆かわしいことです。まあ、先生のところの学生に、そのような盗みを働く不心得者がいるとは思いませんが」
気分が悪い。
吐きそうだ。
自分の身体の中から、他人の声が響いてくる。
「そう、先生の中には他者がいる。そしてそのことを、先生はよくご存知だ。けれどあの可哀想な青年は違う」
――誰にも傷つけることができないのなら、いっそ壊してみてはいかがですか。
やめてくれ。黙ってくれ。
――ほかの先生方にも声をかけています。たとえ池内先生がいらっしゃらなくても、起きることは同じだ。ならば、先生も参加なさった方がいい。
このままでは、自分の声も聞こえなくなってしまう。
――触れることさえ叶わぬまま、彼が自分の元を去っていくのを傍観するおつもりですか。
それともこの男の言葉を引用してしまおうか。
――彼はいなくなりますよ。
そうしてしまえば、もう何も考えなくていい。
――あなたの前から、否、あらゆる人間の前から、姿を消す。
あれは、そう、確か。
――いつ何処にいても異邦人であり続ける男。
悲しい、現在の……。
――自分自身の内部にしか居場所をもたない男。
……『悲しい現在のエトランジェ』。
そう、君は悲しいエトランジェ。
誰も君の言葉を理解してはくれない。誰も君という存在を理解してはくれない。
誓。ちかう。誓う。
物悲しいほど皮肉な名だ。
しかしこんなにも君の心と矛盾した名前なのに、そして僕は自分自身にさえ名づけることができたのに、君だけは、〈君〉にだけは、他のどんな名も相応しいとは思えない。〈君〉に似つかわしい名を、僕以外の誰も知らない〈君〉を射抜く名を、僕は――〈私〉は、どうしても与えることができない。
あるいはそれが、〈私〉の限界なのだろうか。
-------------
・「太陽が眩しくて人を殺す」…カミュ『異邦人』
出迎えた妻の声を無視して、彼は書斎に向かう。
ドアを閉めると、着替えもせずにパソコンの電源を入れた。落ち着きなく貧乏ゆすりをしながら、池内はプログラムが起動するのを待った。
ここ数日、仕事が全く手につかない。
考えるのはあのことばかり。まるで得体の知れない寄生虫が、脳の内部に湧いてしまったかのよう。やすりのような微小な歯が並ぶその不気味な口に、彼は正しい思考を貪り食われてしまった。
今も頭の中で何かが蠢いたような気がして、思わず池内は手を額に伸ばした。すると肘が何かに当たる。デスクの端に無造作に積み重ねられていた書類の山だ。慌てて押さえようとした彼を嘲笑うように、紙片はその指の間をすり抜けて床に散った。池内は舌打ちした。
全部、あの男のせいだ。
あれが化け物であることなど、何年も前から、恐らく出会ったその瞬間から知っていた。だから遠ざけねばならないということも解っていた。しかしできなかった。あの才能、あの微笑、あの眼差し、遠ざけられるわけがなかった。
「畜生……畜生、ちくしょう……」
心の奥底に埋めた、決して開いてはならない箱。がたがたと蓋の揺れる音がして、錆びた錠前が悲鳴を上げる。
散らばった書類のことは、既に頭から消えていた。
パソコンの画面にアイコンが表示されると、焦った指先でマウスを動かし、ファイルを開く。
そのとき、ノックの音が響いた。
ぎくりとした彼は、素早くファイルを閉じて音のした方を見た。
「あなた、お客様よ」
閉じたドアの向こうから、聞き慣れた妻の声がする。
乾いた喉に必死で唾を押し流し、池内は口を開いた。
「い、忙しいんだ、いないと言え」
言いながら彼はドアを凝視した。焦げ茶色の木目のドアを、照明が煌々と照らしている。艶消しされたドアノブが、そこに一つ暗い影を落としている。視界はあまりにも平穏で、恐ろしく正常である。
不意に彼は眩暈に似た感覚を覚えた。
「もういるって言っちゃったわよ。ねえ、早く出てくださいな」
ややこもった妻の声。自分と同じように年齢を重ねた妻。若くはなく、美しくもなく、おぞましくもない。それはただひたすらに凡庸な、一塊の有機物でしかない。
どうしてあの化け物の存在を知りながら、俺はこんな女と暮らしていられるのだろう?
「それにあの人、テレビで見た気がするのよ……もしかして、芸能人?」
書斎に通された男は、口許に薄い笑みを湛えていた。
「夜分申し訳ありませんね」
耳の穴から体内に入り込み、脳を直接揺さぶっていく、そんな声だった。いかにも高級そうな濃緑のスーツに包まれた長身は、池内よりも三〇センチ近く高そうに見える。革の鞄を握る掌も、大きく分厚い。完全に圧倒された池内は、策のないまま相手に座るよう勧めた。
「先程大学にも伺ったのですが、あいにくいらっしゃらなかったので、事務の方に無理を言ってご住所を教えていただきました」
相手に負けぬよう、自らも不敵な薄ら笑いを浮かべようと、池内は必死で顔の筋肉を動かした。しかし何処をどう加減すればよいのかわからなかった。それで彼は笑うことを諦めて口を開いた。
「いったいどのようなご用件ですかな。先生のような有名人が、こんなしがない一教員の住まいにわざわざいらっしゃるなんて」
皮肉を口にしたつもりだった。しかし顎が妙に震えてしまい、その言葉は彼自身の耳にさえ、ただの自虐のように響いた。
落ち着かなければならない。彼は深く息を吐く。動揺する理由などないはずだ。
そんな池内を、男は黙って眺めていた。そこには何の緊張も気負いも読み込めなかった。まるで自室にいるかのように、寛いだ空気を漂わせている。書斎に設えられた小さな応接セットのソファは、男が腰を下ろすとまるで子供の玩具のようだった。
「本題に入る前に、話を単純にしておきましょう」
そう切り出して、男は手にしていた鞄から分厚い本を取り出した。
「僕の近著ですよ。お近づきのしるしに、お納めください」
男が差し出した本の書名を見て、彼は小さく呻いた。
「ああ、池内先生には研究書の方がよかったかな。名前を二つ持ったせいでしょうか。今自分がどちらの名前で動いているのか、どちらの自分が本当の自分なのか、時折忘れてしまうことがある」
ぐったりとソファにもたれた池内を無視して、男は本をテーブルの上に置いた。そうして長い脚を組み、自らの顎を撫でながら言う。
「先生も、やはりこれを駄作だとお思いなのでしょうね」
池内は首を横に振った。それは否定というよりも、降伏の仕種に近かった。
男は口を開けて笑った。声はなく、ただ空気の擦れる音だけが、底の見えない暗い穴から這い出してくる。
「池内先生と、それから先生の教え子である由比誓が、僕の正体――いや、正確には添嶋秋長の正体ですかな――をご存じなのは、把握しています」
男は再び鞄に手を差し入れた。取り出されたのは、一冊の雑誌だった。男はそれを、『溺死者の回顧録』の脇に置いた。
「何度も繰り返し読んだせいで、すっかり傷んでしまいました。といっても、同じものを二十冊購入して、書斎に保管していますがね」
池内は黙って雑誌の表紙に印刷された目次を見た。予想どおり、そこには「摩耗するクラウン」の文字があった。
「ねえ先生。先生は、名前とはいったい何だと思われますか」
男は突然話題を変える。濃く重い液体を思わせるその低音が、池内の三半規管を浸食する。彼は吐き気を覚える。耳が重い。目の奥が膿んだように熱を持っている。上下と左右の区別がつかなくなりつつある。この液状の声のせいで、自分の脳髄は現在進行形で緩やかに腐敗しているのではないか、そんな恐怖に襲われる。
「僕には、家によって宿命づけられた柄島という名字があり、親によって決められた永明という名前があり、更に自ら定めた、添嶋秋長という名もある。池内先生には池内宣照という名前があり、あの青年には由比誓という名前がある。そしてこのテクストには溺死者の回顧録という名がつけられ、こちらのテクストには摩耗するクラウンという名が与えられている」
「……何が言いたい」
彼が声を振り絞ると、男は膝の上で指を組んだ。そのように、池内の目には見えた。実際はどうなのか、彼には自信が持てなかった。
考えてみてください、と男は言った。考えることが、何よりも大事です。自らが優勢を保っているときこそ、よく考える必要があるのです。
「名づけた側の傲慢さと、名づけられた側の背信は、常にその名につきまとう。けれど同時に名というものは、名づけたものの意図とも名づけられたものの意志とも無関係に、不可避的に、正確に、無情に、その本質を射抜いてしまう。ならば彼はいったい、誰に何を誓うというのだろう。神も人もないような、あの哀れな青年は」
空気が少しずつ、淀んでいた。男の声と視線が、目に見えない澱を生んでいく。このままでは、得体の知れないその檻に埋もれて窒息してしまう。そうなる前に、ここから逃げるか、目の前の男を追い出さなくてはならない。そのことを、池内は本能的に理解している。
「……彼のことなら、私は何も知らない。解らない」
理解はしている。
しているのに、動けない。
「あれは……化け物だ」
その名を口にすると、舌が爛れて落ちてしまいそう。
「奴はこれまで、数えきれないほどの男を破滅させてきた。手のつけられない……そう、化け物だ」
言い始めると、止まらなかった。
「あの化け物の最も恐ろしいところは、自らが化け物であるということを『正しく』認識していないところだ。あるいはそれが、化け物としての『正しい』あり方なのかもしれんが」
おぞましい、疎ましい、妬ましい、憎らしい。
それなのに、まるで誘蛾灯におびき寄せられる羽虫のように、誰もがその眩さに引きつけられてしまう。
「あんなにも大量に、暴力的に人の心を奪っておきながら、奴は全く自己嫌悪に陥らない。私はあの男の指導教員になってから今までずっと、有望な若手たちがあれに心を奪われて駄目になっていくさまを何度も見てきた。だが、いつだってあいつは無関心だ。あの化け物の頭の中には、自分のことしかない。他人が、他者が、存在しない。だからその指は自分に関わる人間全てを傷つけるくせに、誰のどんな指もあれを傷つけることができない」
彼はひたすら喋った。まるで嘔吐しているようだと思った。それでも喋った。
男は黙っていた。賛同しているようでもあり、否定しているようでもあり、ただ黙考しているようでもある。
化け物だ、と池内は繰り返した。
化け物だ。あれは化け物だ。
どうしてあんな化け物が、よりによって俺の前に現れてしまったのか。それでも俺は何とかやっていこうとした。何故ならあれの才能は本物だった。そして俺は教員である前に研究者だった。たとえどれほど多くの若者たちが無残に叩き潰されることになろうとも、俺はあの化け物が、誰も見たことのないテクストを織る姿を、誰より間近で見ていたかった。だから俺は努力した。欲望を隠して、よき指導者としての立場を守り続けた。今の今まで、我々はそれで上手くいっていた。だからこれから先も上手くやっていけるはずだった。それなのに。それなのに……。
「――レイプ動画が、送られてきたのですね」
肯く必要はなかった。
「……諸岡からだった。自分の講演の動画で、どうしても私に観てほしいというから仕方なくファイルを開いてやったら、これだ……。諸岡は由比を恨んでいたからな、この前もN大で由比と一悶着あったというし、暴行事件そのものに関わっていたとしても私は驚かん。……だが、それは誰にでも言えることだ。あれは恨みを買いすぎていた」
池内は言葉を切って嘆息した。それから膝に投げ出された自らの手の甲をじっと見つめた。皺の目立ち始めた、老いた皮膚がそこにはあった。
「だがそれでも、だ。それでもあいつは傷つかない。誰にも、あいつ自身にさえも、由比誓という化け物を傷つけることはできない。あれは、生粋の加害者だ」
この醜い手を恥じて、彼は由比に触れなかった。だが、もしも彼が今より十歳若く、由比が十歳老いていたとしたら、どうだっただろう。恐らく話は違っていた。教え子たちの誰よりも先に、きっと彼が破滅していた。
「……化け物なんだ」
絞り出すようにそう呟くと、小さな溜め息が聞こえた。
「池内先生も、彼のことをそのようにお考えですか」
池内は顔を上げた。
「あんたは違うのか」
「違いますね」
男は入室したときと同じような微笑を浮かべていた。そこに一種の自己完結性の匂いを認め、池内は背筋が冷たくなるのを感じた。
「彼はエトランジェなのです」
男は池内に笑いかける。池内の言葉を聞き、池内に語りかける。
「誰にも理解されず、されようともせず、一人称の世界で生きる孤独な男。太陽が眩しくて人を殺す代わりに、感じない魂で人の心を殺す。そんな悲しい現在のエトランジェ」
まるで、池内など存在していないかのように。
――同類だ。
この男も、同類だ。
化け物だ。
恐怖に耐えきれず、彼は男から目を逸らした。
行くあてを失った視線は彷徨い、そして墜落する。落ちた先には、不穏なテクストを内包して押し黙る、二冊の異物がある。
〈添嶋秋長『溺死者の回顧録』〉
〈由比誓「摩耗するクラウン――添嶋秋長『溺死者の回顧録』論」〉
その瞬間、頭の中でかちりと音をたてて、パズルのピースが嵌まった。
「……まさか」
彼は理解した。
「まさかこの小説……この〈君〉というのは……」
すると男は軽く首を傾げて笑った。白い歯が照明を弾いて光る。
化け物を食い殺そうとする、化け物の歯。
「もっと早く気づいていただけると思っていたのですがね」
空気の擦れる嫌な音が、異様に白い清潔な歯の間から撒き散らされる。
池内は口を蛙のように開き、懸命に空気を吸い込んだ。そうでもしないと窒息しそうだった。しかし息をすればするほど、何か忌まわしいものを体内に取り込んでしまうような気がした。
男と自分、二人だけの空間。それなのに、ここには自分がいない。
「……馬鹿な……いったい何のために……」
男は両手を挙げてみせた。
「先生も随分解りきったことをお訊ねになる。全ては最初からテクストにあるというのに」
テクスト。どのテクストのことだろう。世界にはテクストが多すぎる。
「違いますよ。世界がテクストによってできているのです」
視界の中で、今、二人称の世界を生きる、いびつな怪物が微笑んでいる。
「そしてその世界もまた一つのテクストとして存在する。無数のテクストからなる無数の世界という無数のテクスト――」
脅かされている。
今、確実に、脅威に晒されている。
しかし何が、そして何に?
解らない。
「思い出してください。他に手はありませんよ」
思い出せ。
あれはいったいどういう小説だった?
冒頭は、結末は、〈私〉が小説を書き始めたきっかけは、何だった?
確か〈君〉に……いや、思い出せない。
「思い出せませんか? まあ、無理でしょうな」
当然だ。あんな長い小説、いちいち付箋でもつけておかない限り、参照したい箇所を見つけ出すのはほぼ不可能だろう。
「なるほど? それは一種の引用の不可能性と呼べるかもしれませんね……文字の海の中で失われるセンテンスとしての同一性……いつかそれで論文を書いてみたいものです。――ああ、先生のアイディアを盗むつもりはありません。盗みは罪です。学生の中には、レポートを他人の文章の丸写しで――つまりは盗作で――済ませる輩もいるようで、全く嘆かわしいことです。まあ、先生のところの学生に、そのような盗みを働く不心得者がいるとは思いませんが」
気分が悪い。
吐きそうだ。
自分の身体の中から、他人の声が響いてくる。
「そう、先生の中には他者がいる。そしてそのことを、先生はよくご存知だ。けれどあの可哀想な青年は違う」
――誰にも傷つけることができないのなら、いっそ壊してみてはいかがですか。
やめてくれ。黙ってくれ。
――ほかの先生方にも声をかけています。たとえ池内先生がいらっしゃらなくても、起きることは同じだ。ならば、先生も参加なさった方がいい。
このままでは、自分の声も聞こえなくなってしまう。
――触れることさえ叶わぬまま、彼が自分の元を去っていくのを傍観するおつもりですか。
それともこの男の言葉を引用してしまおうか。
――彼はいなくなりますよ。
そうしてしまえば、もう何も考えなくていい。
――あなたの前から、否、あらゆる人間の前から、姿を消す。
あれは、そう、確か。
――いつ何処にいても異邦人であり続ける男。
悲しい、現在の……。
――自分自身の内部にしか居場所をもたない男。
……『悲しい現在のエトランジェ』。
そう、君は悲しいエトランジェ。
誰も君の言葉を理解してはくれない。誰も君という存在を理解してはくれない。
誓。ちかう。誓う。
物悲しいほど皮肉な名だ。
しかしこんなにも君の心と矛盾した名前なのに、そして僕は自分自身にさえ名づけることができたのに、君だけは、〈君〉にだけは、他のどんな名も相応しいとは思えない。〈君〉に似つかわしい名を、僕以外の誰も知らない〈君〉を射抜く名を、僕は――〈私〉は、どうしても与えることができない。
あるいはそれが、〈私〉の限界なのだろうか。
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・「太陽が眩しくて人を殺す」…カミュ『異邦人』
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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