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第二十五章 籠のない鳥は
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タクシーの車窓に残る乾いた雨の跡。彼はそれを視線でなぞる。
平日だった。道路は空いていた。彼を内包し、車体は滑らかに進んでいく。
代わり映えのしない鈍色の景色は、まるで延々とめくられ続ける紙芝居のように、結ばれた焦点の更にその先でぐるぐると巡っていく。つけっぱなしのラジオから流れる声も、先刻からまるで変わっていない。そこでは彼の知らない人間が、彼の知らないことを話している。だがその不可解な言語は、耳の奥に住みついた囁きを掻き消してはくれない。
軽い頭痛を覚えて、由比はシートに頭を預けた。
とにかく考えなければならない。状況は事件前とは比べものにならないほど悪化している。
彼は仕事を失ってしまったのだ。
契約期間ぶんの給与は支払われるとはいえ、そもそもその契約も、じきに切れることになっていた。今回の医療費だけでも大きな負担だったのに、雀の涙程度のものとはいえ、今後の収入まで絶たれたのは厳しい。タイミングの悪いことに、今月は後期の授業料が引き落とされることになっている。これから新たな収入源を探すとしても、当面は親に頼るほかないだろう。
金が必要になった理由を親にどう説明するか。とりあえずそれを決めなければならない。そう結論づけて、彼は音のない溜め息をついた。
湿って冷たい外気は車内にまでは入り込まないものの、まだ肺の底に残っている気がする。
日常に帰るのだ。
戦う日常に。
彼は思う。大丈夫だ。今までやってきたようにやればいい。もう十年も戦い続けてきた。慣れている。自分はまだ若いから、妙な関心の対象になるのだ。きっとあと十年もすれば、自分に性欲を向けるものなどいなくなる。こんな馬鹿げた戦いは終わる。
そう考えたときだった。由比はかつて経験したことのない、奇妙な感覚が自らを襲っていることに気づいた。
彼はその感覚を言葉に置き換えようとした。しかしそれは上手くいかなかった。確かなのは体内の冷たさだけだった。胸に掌を当てようとして、彼はやめた。触れれば指先まで凍えてしまいそうな気がした。
ふと顔を上げると、流れていた景色が止まっていた。いつの間にか、タクシーはアパートに到着していた。運転手は、後部座席側に身体と首を捻じ曲げた、奇妙な姿勢のまま停止していた。その目は由比を見ていた。表情も、言葉もなかった。
清算しているときも、運転手はただじろじろと彼の顔を見ていた。そして由比が車を降りた直後、何事かを短く呟いた。
それは聞き覚えのある言葉だった。
「――え?」
けれど彼が問い返そうとしたときには既に、車のドアは閉まっていた。
走り去るタクシーを、由比は暫く立ち止まったまま見つめた。気のせいだろう、と彼は思った。気のせいだ、まだ耳鳴りが残っているだけだ。彼は軽く頭を振って、鞄を持つ手に力を込めた。
アパートのエントランスに入ると、彼は少しほっとしたような気持ちになった。部屋に入ってしまえば完全に一人きりになれる。そうすればきっと、頭痛も耳鳴りも治まる。普段の自分に戻ることができる。しかしいつものように郵便受けのロックを外した手は、冷たい箱の中へ伸びかけて、途中で止まった。
暫く不在にしていたにも拘らず、そこには広告が数枚入っているだけだった。
「ああ、お帰りなさい」
突然背後から声をかけられ、彼は無言で振り向いた。いつの間にか、すぐ後ろに、四十か五十くらいの男が立っていた。小太りで、くたびれたブルゾンを羽織っている。由比は記憶を辿った。確か、アパートの管理人だ。常駐ではなく巡回なので、顔を合わせる機会はあまりなく、鍵を交換したときも管理会社の人間が来たが、恐らく間違いない。
男はいやににこやかだった。事情は知っていますよ、とでも言いたげな調子で郵便受けを軽く叩きながら、口を大きく横に開いた。
「郵便でしょ? 私が預かってます。ほら、由比さん随分いなかったから」
そうですか、と返して、由比は自身の右手に視線を落とした。
「ご迷惑をおかけしました。引き取りたいのですが、ここに持ってきていただけますか」
すると男はからからと笑った。
「一緒に来てください。管理人室に保管してあります」
僅かな躊躇を経て、彼は言われるまま、男のあとについていった。
しかし、零の三つ並んだ扉の前に立つと、由比はもうそれ以上動こうとはしなかった。彼の目の前で、男の締まりのない口許が、焦ったように細かく震えていた。その端には、唾液の泡が溜まっている。
由比は考えていた。
「どうしました、さあ、中へどうぞ」
脂ぎった顔が斑に紅潮している。贅肉で突き出した腹が激しく波打っている。黒ずんだ爪を生やした毛深い指が、意思をもった生殖器のように蠢いている。由比はそれらを黙って眺めている。眺めながら考えている。
「早く来てくださいよ……早く……早く……」
痺れを切らした男の手が、彼の腕を掴んだ。
「早く……っ」
乱暴に部屋へ引きずり込まれる。自分が抵抗したかどうか、由比にはわからなかった。
男は由比を押し倒した。彼の身体に馬乗りになり、露わになった首筋に顔を埋めて深く息を吸う。
「ああ……あああ……」
感極まったような男の溜め息が、室内の淀んだ空気を更に淀ませる。
「……ず、ずっと我慢してきたのに、それなのにあれを見ちまってから、駄目なんだよ、頭、頭が、おかしくなっちまった、なあ、責任とってくれよぉ」
ハーフコートの前を暴かれ、シャツの下から手を入れられる。汗ばんで震える掌に胸をまさぐられる。冷たい床に押さえつけられ、それでも由比は考えていた。
相手が動かないことに気づいたのか、焦っていた男も徐々に余裕を見せ始めた。由比の肌を好き勝手に撫で回したあと、彼のベルトに手をかける。
「あんた、嫌がらないんだな。やっぱりあれに書いてあったことは本当だったってわけか。『由比誓は』……」
咽頭が糜爛したような笑い声が、異臭のする唾液の霧と共に、由比の身体へと降り注いだ。
「『由比誓は淫売だ』っていうのは」
次の瞬間、男は床に転がって呻いていた。
由比は立ち上がり、乱れた衣服を整えた。ポケットからハンカチを出すと、頬に付着した相手の唾液を拭う。それから、ひいひいと動物めいた泣き声を漏らしてうずくまる男を見下ろした。田宮のときと同じ、あるいは田宮のときよりも容易かった。
「――何処で読んだ?」
彼は落ち着いた口調で訊ねた。勝負はついていた。しかしうずくまった男は、下唇から泡を滴らせながら、なおも由比を睨みつけた。
「……ち、畜生……ふざけ――っ!」
男の語尾が、声を伴わない悲鳴に変わった。由比は相手の顎を蹴り上げた足を元の位置に戻してから、同じ台詞を繰り返した。
「何処で、読んだ?」
彼は男を見つめていた。脂ぎった顔の片側が、埃まみれの床にべたりと密着している。グロテスクな性器のような手の一方が自身の股間を、もう一方が顎を押さえている。家畜のような呻き声が、彼の踝のあたりを濁らせる。見つめながら彼はまだ考えていた。もう少し、あと少しで、『それ』に言葉を与えられそうな気がしていた。
だが男の喉から生産されるのは、不明瞭な呻き声だけだった。
由比の右足が場違いな優雅さで再び後ろへ引かれると、男の口から漸く言葉らしい言葉が吐き出された。
「ま、待ってくれ。何の話、だ?」
「ゆいちかうはいんばいだ」
発音する際、彼はほとんど唇を動かさなかった。言い終わると、彼は右の中指で三度、自身の腰骨を叩いた。こつこつ、という音が聞こえそうなほど、指も腰も薄く硬かった。
「――何処からその言葉を持ち出した? 引用だと明かしたのはお前自身だろう?」
黒木もそうすべきだったんだ、と由比は声に出して言った。あの言葉が引用なら、はっきりとそう言うべきだったんだ。だが耳に届いた声は、自らが発したもののようには聞こえなかった。あらゆるものが、ほんの僅かなずれを見せていた。だから由比は更に声を上げた。
「出典を示せ」
いったい何が自らの思考を阻んでいるのだろう。男の口を割らせれば、果たして『それ』を言語化できるのだろうか。だが、そんなことはこの際どうでもいい。今は戦わなければならない。秋は必ず終わる。終わらせなければならない。たとえこの無残な日常があと十年続くとしても――
「それともあのフレーズは、この世界において普遍的な命題なのか?」
本当は知っている。
あれが引用ではないことくらい。
「な、何言ってるんだ、あんた」
誰も由比誓の言葉を理解しない。それは普遍的な事実なのだ。他人の言葉を引用するまでもなく、その命題は真である。
「あんた……どっかおかしいんじゃないか……?」
「答えろ」
浴びせられた感情も体温もない声に、肉塊がびくりと大きく痙攣する。
「昨日巡回に来たら、ビラが……ビラが、撒かれていた」
男は唾液を零しながら言った。
「そこに書いてあったんだよ、『由比誓は淫売だ』って……。床一面ばら撒かれていたし、入居者用のポストにも突っ込まれていた、外壁にもテープで留めてあった。は、剥がすのが結構手間だったんだ」
「警察には?」
「まだだ……いや、待て、話を聞けよ」
男は身体を縮こまらせて言い訳を始めた。
「こ、こういうトラブルを当事者の意思確認をとらずに通報して、あとから入居者に文句を言われることがあるんだ。だから会社もまずはあんたに電話して相談しようとした。だが連絡が取れなかった。それで今日も俺が様子を見に来た。もしあんたが戻ってきていないようなら、前にもあんたは嫌がらせを受けていたわけだし、今日中に警察に通報することになっていたんだ、本当だ」
そこまで言うと、男は疲弊した犬のように忙しなく呼吸した。
男がもう一度本気を出せば、簡単に形勢は逆転するだろう。そしてそうなれば今度こそ、男は由比を好きなように嬲ることができるだろう。それは由比にも、そして恐らく男にも、分かっている。だが、そんな事態は起こりえないことを由比は知っている、きっと男も知っている。勝負は既についているのだ。
「お前でも管理会社でも、どちらでもいい。今すぐ警察に通報しろ。言われたとおりにすれば、さっきのことは忘れてやる。お前みたいな端役のために浪費する時間はないんだ」
彼は右の拳を握る。あと少しだ。確実に、『それ』は輪郭を現し始めている。
そのとき、何か奇怪な雑音が空間をびりびりと揺らした。暫くの間、由比には音の正体が掴めなかった。それは笑い声だった。笑っているのは男だった。彼を犯そうとしたときとは全く異なる、ひどく金属的な笑い声だった。
「何がおかしい?」
男は既に、身体を庇うことをやめていた。床にだらしなく寝そべったまま、赤く光る小さな目で由比を見上げる。
「なあ……あんた知らないかもしれないから教えてやるけどさ、昨日の夜、もしかしてと思って、あんたの名前をネットで検索してみた。そうしたら……なあ、あんた、あんたさ、もうおしまいだな、あんなレイプ動画が出回るなんてさ」
由比は退屈そうに首を回した。しかし男は彼の態度に頓着しなかった。
「あんた、もうここには住めないな。住人たちはあんたの噂を知っちまった。俺みたいに検索して、動画を見た奴だっているかもしれない。いや、ここだけじゃない、あんたには何処にも居場所がない。一度ネットに上がっちまったもんは、絶対に消せない、あんたの名前も、あんたが男に犯されている映像も、もうこの世から消えない、誰にも消せない、あんたは一生何処にもいられないんだ、ひひひひひひ」
男の声にも視線にも言葉にも、彼のよく知る、他者の悪意と憎悪がひしめいている。
不意に一つの記憶が蘇り、由比は目を見開いた。
そういえば、あの男――添嶋秋長からは、悪意も憎悪も一切感じなかった。
「……別に他人からどう思われようと構わない」
動揺を隠して冷たく言い放つと、男はまた笑った。床に溜まって消えていく、力なく嗄れた笑い声だった。
「馬鹿だな、知っちまったらもう、思うだけじゃ済まないって意味だよ。……そうだよ、俺だってあれさえ見なければ……思うだけで、済んだんだ……」
灰色の静寂が、男の声のためだけによじれた。
郵便物を抱えて部屋に戻ると、由比はノートパソコンの電源を入れ、携帯電話を充電器に繋いだ。日常に戻ったからには、これ以上外部との接触を断ち続けるわけにはいかない。いつもの自分のペースを取り戻さなければならない。
しかしメールの受信ボックスにカーソルを合わせたとき、マウスを動かす指が止まった。
解らない、と彼は思った。
自分は何故あのとき、管理人を拒絶してしまったのだろう。別に寝てもよかったはずだ。普段の由比誓なら、いったいどうしていただろう。
彼はもう一度考えようとした。形になりつつあった『それ』を掴もうとした。そして実際に掴んだと感じた。けれど開いた掌には、何もなかった。
平日だった。道路は空いていた。彼を内包し、車体は滑らかに進んでいく。
代わり映えのしない鈍色の景色は、まるで延々とめくられ続ける紙芝居のように、結ばれた焦点の更にその先でぐるぐると巡っていく。つけっぱなしのラジオから流れる声も、先刻からまるで変わっていない。そこでは彼の知らない人間が、彼の知らないことを話している。だがその不可解な言語は、耳の奥に住みついた囁きを掻き消してはくれない。
軽い頭痛を覚えて、由比はシートに頭を預けた。
とにかく考えなければならない。状況は事件前とは比べものにならないほど悪化している。
彼は仕事を失ってしまったのだ。
契約期間ぶんの給与は支払われるとはいえ、そもそもその契約も、じきに切れることになっていた。今回の医療費だけでも大きな負担だったのに、雀の涙程度のものとはいえ、今後の収入まで絶たれたのは厳しい。タイミングの悪いことに、今月は後期の授業料が引き落とされることになっている。これから新たな収入源を探すとしても、当面は親に頼るほかないだろう。
金が必要になった理由を親にどう説明するか。とりあえずそれを決めなければならない。そう結論づけて、彼は音のない溜め息をついた。
湿って冷たい外気は車内にまでは入り込まないものの、まだ肺の底に残っている気がする。
日常に帰るのだ。
戦う日常に。
彼は思う。大丈夫だ。今までやってきたようにやればいい。もう十年も戦い続けてきた。慣れている。自分はまだ若いから、妙な関心の対象になるのだ。きっとあと十年もすれば、自分に性欲を向けるものなどいなくなる。こんな馬鹿げた戦いは終わる。
そう考えたときだった。由比はかつて経験したことのない、奇妙な感覚が自らを襲っていることに気づいた。
彼はその感覚を言葉に置き換えようとした。しかしそれは上手くいかなかった。確かなのは体内の冷たさだけだった。胸に掌を当てようとして、彼はやめた。触れれば指先まで凍えてしまいそうな気がした。
ふと顔を上げると、流れていた景色が止まっていた。いつの間にか、タクシーはアパートに到着していた。運転手は、後部座席側に身体と首を捻じ曲げた、奇妙な姿勢のまま停止していた。その目は由比を見ていた。表情も、言葉もなかった。
清算しているときも、運転手はただじろじろと彼の顔を見ていた。そして由比が車を降りた直後、何事かを短く呟いた。
それは聞き覚えのある言葉だった。
「――え?」
けれど彼が問い返そうとしたときには既に、車のドアは閉まっていた。
走り去るタクシーを、由比は暫く立ち止まったまま見つめた。気のせいだろう、と彼は思った。気のせいだ、まだ耳鳴りが残っているだけだ。彼は軽く頭を振って、鞄を持つ手に力を込めた。
アパートのエントランスに入ると、彼は少しほっとしたような気持ちになった。部屋に入ってしまえば完全に一人きりになれる。そうすればきっと、頭痛も耳鳴りも治まる。普段の自分に戻ることができる。しかしいつものように郵便受けのロックを外した手は、冷たい箱の中へ伸びかけて、途中で止まった。
暫く不在にしていたにも拘らず、そこには広告が数枚入っているだけだった。
「ああ、お帰りなさい」
突然背後から声をかけられ、彼は無言で振り向いた。いつの間にか、すぐ後ろに、四十か五十くらいの男が立っていた。小太りで、くたびれたブルゾンを羽織っている。由比は記憶を辿った。確か、アパートの管理人だ。常駐ではなく巡回なので、顔を合わせる機会はあまりなく、鍵を交換したときも管理会社の人間が来たが、恐らく間違いない。
男はいやににこやかだった。事情は知っていますよ、とでも言いたげな調子で郵便受けを軽く叩きながら、口を大きく横に開いた。
「郵便でしょ? 私が預かってます。ほら、由比さん随分いなかったから」
そうですか、と返して、由比は自身の右手に視線を落とした。
「ご迷惑をおかけしました。引き取りたいのですが、ここに持ってきていただけますか」
すると男はからからと笑った。
「一緒に来てください。管理人室に保管してあります」
僅かな躊躇を経て、彼は言われるまま、男のあとについていった。
しかし、零の三つ並んだ扉の前に立つと、由比はもうそれ以上動こうとはしなかった。彼の目の前で、男の締まりのない口許が、焦ったように細かく震えていた。その端には、唾液の泡が溜まっている。
由比は考えていた。
「どうしました、さあ、中へどうぞ」
脂ぎった顔が斑に紅潮している。贅肉で突き出した腹が激しく波打っている。黒ずんだ爪を生やした毛深い指が、意思をもった生殖器のように蠢いている。由比はそれらを黙って眺めている。眺めながら考えている。
「早く来てくださいよ……早く……早く……」
痺れを切らした男の手が、彼の腕を掴んだ。
「早く……っ」
乱暴に部屋へ引きずり込まれる。自分が抵抗したかどうか、由比にはわからなかった。
男は由比を押し倒した。彼の身体に馬乗りになり、露わになった首筋に顔を埋めて深く息を吸う。
「ああ……あああ……」
感極まったような男の溜め息が、室内の淀んだ空気を更に淀ませる。
「……ず、ずっと我慢してきたのに、それなのにあれを見ちまってから、駄目なんだよ、頭、頭が、おかしくなっちまった、なあ、責任とってくれよぉ」
ハーフコートの前を暴かれ、シャツの下から手を入れられる。汗ばんで震える掌に胸をまさぐられる。冷たい床に押さえつけられ、それでも由比は考えていた。
相手が動かないことに気づいたのか、焦っていた男も徐々に余裕を見せ始めた。由比の肌を好き勝手に撫で回したあと、彼のベルトに手をかける。
「あんた、嫌がらないんだな。やっぱりあれに書いてあったことは本当だったってわけか。『由比誓は』……」
咽頭が糜爛したような笑い声が、異臭のする唾液の霧と共に、由比の身体へと降り注いだ。
「『由比誓は淫売だ』っていうのは」
次の瞬間、男は床に転がって呻いていた。
由比は立ち上がり、乱れた衣服を整えた。ポケットからハンカチを出すと、頬に付着した相手の唾液を拭う。それから、ひいひいと動物めいた泣き声を漏らしてうずくまる男を見下ろした。田宮のときと同じ、あるいは田宮のときよりも容易かった。
「――何処で読んだ?」
彼は落ち着いた口調で訊ねた。勝負はついていた。しかしうずくまった男は、下唇から泡を滴らせながら、なおも由比を睨みつけた。
「……ち、畜生……ふざけ――っ!」
男の語尾が、声を伴わない悲鳴に変わった。由比は相手の顎を蹴り上げた足を元の位置に戻してから、同じ台詞を繰り返した。
「何処で、読んだ?」
彼は男を見つめていた。脂ぎった顔の片側が、埃まみれの床にべたりと密着している。グロテスクな性器のような手の一方が自身の股間を、もう一方が顎を押さえている。家畜のような呻き声が、彼の踝のあたりを濁らせる。見つめながら彼はまだ考えていた。もう少し、あと少しで、『それ』に言葉を与えられそうな気がしていた。
だが男の喉から生産されるのは、不明瞭な呻き声だけだった。
由比の右足が場違いな優雅さで再び後ろへ引かれると、男の口から漸く言葉らしい言葉が吐き出された。
「ま、待ってくれ。何の話、だ?」
「ゆいちかうはいんばいだ」
発音する際、彼はほとんど唇を動かさなかった。言い終わると、彼は右の中指で三度、自身の腰骨を叩いた。こつこつ、という音が聞こえそうなほど、指も腰も薄く硬かった。
「――何処からその言葉を持ち出した? 引用だと明かしたのはお前自身だろう?」
黒木もそうすべきだったんだ、と由比は声に出して言った。あの言葉が引用なら、はっきりとそう言うべきだったんだ。だが耳に届いた声は、自らが発したもののようには聞こえなかった。あらゆるものが、ほんの僅かなずれを見せていた。だから由比は更に声を上げた。
「出典を示せ」
いったい何が自らの思考を阻んでいるのだろう。男の口を割らせれば、果たして『それ』を言語化できるのだろうか。だが、そんなことはこの際どうでもいい。今は戦わなければならない。秋は必ず終わる。終わらせなければならない。たとえこの無残な日常があと十年続くとしても――
「それともあのフレーズは、この世界において普遍的な命題なのか?」
本当は知っている。
あれが引用ではないことくらい。
「な、何言ってるんだ、あんた」
誰も由比誓の言葉を理解しない。それは普遍的な事実なのだ。他人の言葉を引用するまでもなく、その命題は真である。
「あんた……どっかおかしいんじゃないか……?」
「答えろ」
浴びせられた感情も体温もない声に、肉塊がびくりと大きく痙攣する。
「昨日巡回に来たら、ビラが……ビラが、撒かれていた」
男は唾液を零しながら言った。
「そこに書いてあったんだよ、『由比誓は淫売だ』って……。床一面ばら撒かれていたし、入居者用のポストにも突っ込まれていた、外壁にもテープで留めてあった。は、剥がすのが結構手間だったんだ」
「警察には?」
「まだだ……いや、待て、話を聞けよ」
男は身体を縮こまらせて言い訳を始めた。
「こ、こういうトラブルを当事者の意思確認をとらずに通報して、あとから入居者に文句を言われることがあるんだ。だから会社もまずはあんたに電話して相談しようとした。だが連絡が取れなかった。それで今日も俺が様子を見に来た。もしあんたが戻ってきていないようなら、前にもあんたは嫌がらせを受けていたわけだし、今日中に警察に通報することになっていたんだ、本当だ」
そこまで言うと、男は疲弊した犬のように忙しなく呼吸した。
男がもう一度本気を出せば、簡単に形勢は逆転するだろう。そしてそうなれば今度こそ、男は由比を好きなように嬲ることができるだろう。それは由比にも、そして恐らく男にも、分かっている。だが、そんな事態は起こりえないことを由比は知っている、きっと男も知っている。勝負は既についているのだ。
「お前でも管理会社でも、どちらでもいい。今すぐ警察に通報しろ。言われたとおりにすれば、さっきのことは忘れてやる。お前みたいな端役のために浪費する時間はないんだ」
彼は右の拳を握る。あと少しだ。確実に、『それ』は輪郭を現し始めている。
そのとき、何か奇怪な雑音が空間をびりびりと揺らした。暫くの間、由比には音の正体が掴めなかった。それは笑い声だった。笑っているのは男だった。彼を犯そうとしたときとは全く異なる、ひどく金属的な笑い声だった。
「何がおかしい?」
男は既に、身体を庇うことをやめていた。床にだらしなく寝そべったまま、赤く光る小さな目で由比を見上げる。
「なあ……あんた知らないかもしれないから教えてやるけどさ、昨日の夜、もしかしてと思って、あんたの名前をネットで検索してみた。そうしたら……なあ、あんた、あんたさ、もうおしまいだな、あんなレイプ動画が出回るなんてさ」
由比は退屈そうに首を回した。しかし男は彼の態度に頓着しなかった。
「あんた、もうここには住めないな。住人たちはあんたの噂を知っちまった。俺みたいに検索して、動画を見た奴だっているかもしれない。いや、ここだけじゃない、あんたには何処にも居場所がない。一度ネットに上がっちまったもんは、絶対に消せない、あんたの名前も、あんたが男に犯されている映像も、もうこの世から消えない、誰にも消せない、あんたは一生何処にもいられないんだ、ひひひひひひ」
男の声にも視線にも言葉にも、彼のよく知る、他者の悪意と憎悪がひしめいている。
不意に一つの記憶が蘇り、由比は目を見開いた。
そういえば、あの男――添嶋秋長からは、悪意も憎悪も一切感じなかった。
「……別に他人からどう思われようと構わない」
動揺を隠して冷たく言い放つと、男はまた笑った。床に溜まって消えていく、力なく嗄れた笑い声だった。
「馬鹿だな、知っちまったらもう、思うだけじゃ済まないって意味だよ。……そうだよ、俺だってあれさえ見なければ……思うだけで、済んだんだ……」
灰色の静寂が、男の声のためだけによじれた。
郵便物を抱えて部屋に戻ると、由比はノートパソコンの電源を入れ、携帯電話を充電器に繋いだ。日常に戻ったからには、これ以上外部との接触を断ち続けるわけにはいかない。いつもの自分のペースを取り戻さなければならない。
しかしメールの受信ボックスにカーソルを合わせたとき、マウスを動かす指が止まった。
解らない、と彼は思った。
自分は何故あのとき、管理人を拒絶してしまったのだろう。別に寝てもよかったはずだ。普段の由比誓なら、いったいどうしていただろう。
彼はもう一度考えようとした。形になりつつあった『それ』を掴もうとした。そして実際に掴んだと感じた。けれど開いた掌には、何もなかった。
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