ヴァルネラブル

文字の大きさ
上 下
20 / 34

第二十章 滅びゆく言葉に宛てて

しおりを挟む
「ちゃんと食べなきゃ駄目ですよ」
 俯いて容器の上のものを箸でつつくだけの様子に、見るに見かねて口を出すと、目の前の男は顔を上げた。
「ごめん、なに?」
 その顔色がいつにも増して白っぽく見えて、黒木は声を柔らかくした。
「美味しくないですか」
 由比は箸を持ったまま、考え込むように斜め下を見つめた。睫の影が頬に落ちる。そこには皺一つ、くすみ一つない。まるで白い蜜のよう。
 綺麗な人だ。いつ見ても、そう思う。
「考えるってことは、美味しくないんですね」
 彼は首を横に振った。
「そんなことない。――そうだよね?」
「どうして俺に訊くんですか」
 しかし由比はもう一度首を振り、そして今度は何も言わなかった。黒木は物悲しい気分で、八割以上残っている弁当を眺めた。
 由比が衣食住に関心のない人間だということは知っていた。しかし絵画のように美しい男が、殺風景な部屋の中、量販店で買ったワイシャツを着て、コンビニ弁当を前にぼんやりしている姿を見ると、何かが決定的に間違っているような気がした。恐らく黒木が何も言わなければ、弁当も温めずにそのまま食べようとしたはずだ。否、そもそも黒木が弁当を買って部屋を訪れなければ、きっと何も食べずに論文を書いて寝てしまったに違いない。逢瀬を重ねるほどに、彼のアンバランスな部分から受ける痛々しさは増していく。
「食欲がないんだったら、もうご馳走様でいいですよ」
 優しく告げれば白けた目が向けられた。
「何なのその言い方。子供じゃないんだから」
 似たようなものだろう、という言葉を呑み込んで、黒木は由比の背後に回り込んだ。後ろから抱き締める。柔らかな髪に頬をそっと寄せると、腕の中の男は怪訝そうに首を回した。
「なに?」
「背中が寒そうに見えたので。どうぞ気にせず食べてください」
「気になるし、寒くないよ」
「でもほら、凄く冷えてる」
 相手の背中に胸を押しつけ、さらりと嘘をつく。
「そう?」
「そうですよ。自分で分かりませんか?」
 問い返すと、由比は再び黙り込んだ。黒木は掌で相手の心臓の辺りを探った。肌に伝わる鼓動はあまりに密やかで、心許なかった。
「わからない」
 長い沈黙のあとで、彼はそう言った。

 食事のあと、二人で映画を観た。
 由比の部屋にはテレビがない。いつだったか理由を訊ねたことがある。するといつもの調子で、「必要ないから」と返された。そこで黒木は、由比の部屋を訪れる際にたびたびDVDを持ち込んだ。映画論を専門にしている学生も多いため、研究室には映画のDVDがかなり揃っていた。最新の話題作はない代わりに映画史的に重要なものは豊富で、だからこの一ヶ月ほどで、二人は様々な名作を脈絡なく観た。『赤い砂漠』、『吸血鬼』、『ブレードランナー』、『七人の侍』、『サイコ』、『アンダルシアの犬』、『メトロポリス』。由比を後ろから抱いたまま、彼の肩に顎を乗せ、あるいはただ頭と頭をくっつけて、そうやって二人でノートパソコンのコンパクトな画面を覗き込む。分析するでも批評するでもなく、ただ黙って映像を見て、音声を聞く。エンドロールが終わるまで、いつも一言も口をきかない。
 今日もまた一つの物語が終わり、何事もなかったかのようにタイトル画面が表示された。
「由比さんは、映画は研究しないんですか」
 エンドロールが消えると世界が終わったような気分になるのは、果たして自分だけだろうか?
「しない」
 ディスクをケースに戻す黒木の指を見つめて、彼は言う。
「文字になっていないものは、上手く掴めないから」
「文学を専門にしたのもそのせいですか」
 ケースをテーブルに戻して、黒木は再び腕を相手の身体に絡ませる。抵抗はない。相手が抵抗らしい抵抗をしたことなど、一度もない。
「知りたいことがあったんだ」
「何を知りたかったんです?」
 数秒、間があった。
「くだらないことだよ」
 追及すべきか否か迷って、黒木もまた数秒沈黙した。
「じゃあ、それを知ることはできましたか?」
「知ることができない、ということを知ることならできた。文学的な結論だ」
「……淋しいな」
 思わず零れた素朴な感想を、しかし由比は咎めなかった。ただ、吐息だけで笑う。
「研究っていうのはそういうものだよ。くだらないことを探し求めて、結局それには触れることさえ叶わないんだと痛感する。問題はそのあとどうするかじゃないかな」
「由比さんは、そのあとも研究を続けているわけですね。どうしてですか」
「才能があったからだよ」
 言い切ったあとで、由比は脆い笑みを浮かべた。
「……嫌みに聞こえる?」
「単なる事実でしょう。あなたは正真正銘の天才だ。『由比誓が一つの時代を終わらせた』、そう磯谷喬が書いていましたよ」
 何処か危ういような表情に、由比を高く評価している著名な批評家の名を出して褒めてみたが、返ってきたのは呆れたような溜め息だった。
「あの人の書くものは、あんまりよくない」
 W大名誉教授も形無しだ。
「だとしてもこの件に関しては、磯谷は正しいと思いますよ。まあ、仮に由比さんが世間の人が言うような天才じゃなかったとしても、俺はやっぱりあなたのことを個性的で魅力的な人だと思うし、好きですけど」
 今度は溜め息をつかれなかった。しかし、返事もなかった。不意に、放置されたパソコンの画面が暗くなる。黒い画面に男の顔が映った。それはまるで写真のように、奇妙に静止していた。
 訳も分からず、ただ、ぞくりとした。
 彼は目を逸らしたい衝動に駆られた。だが、敢えてその虚像を見つめた。見なければならない、そんな気がした。
 暫くして耳に届いた声は、小さく掠れていた。
「冗談だろう?」
 黒木は首を横に振った。
「本気です」
「君は」
 ディスプレイの上で、唇だけが動いている。
「……君は……、変わってる」
 顔を背けたのは、黒木ではなく画面の中の男だった。壊れた玩具のように視線を放り出す。かしゃん、という音が聞こえてきそうだった。
「個性的か。いい表現だね。まるで俺の全部がただの個性みたいに聞こえる」
 嘲るような響きが、ただ、切ない。
「だってそうでしょう」
「だってそうでしょう?」
 由比は復唱した。それから笑った。声を立てずに笑った。自虐も皮肉もそこには感じられなかった。けれど空気がしんと冷えるのが、黒木には分かった。
「傑作だね。世の中みんな君みたいな人間だったら、きっと俺も――」
 彼の顔に現れたそれは、まるで雪の結晶のような笑みだった。何かの奇跡のように美しく、何かの間違いのようにすぐに消え失せる類のもの。黒木は咄嗟に自らの胸を押さえた。そこには静かに凍っていく痛みがあった。
 痛みに耐えながら、黒木は続きを待った。だがそれはいつまでたっても訪れなかった。由比は失われた言葉の行方を探すように宙を見ていた。きっと何処かに正しい言葉が漂っている、そんな眼差しだった。黒木もまた虚空に視線を彷徨わせた。だが、空気はあまりにも透明だった。視線をパソコンの画面に戻すと、あの奇跡のような微笑が、先刻観ていた映画のラストシーンのように融けて消えていくさまが映し出されていた。まるで世界が終わるさまを見ているかのようだった。
 由比は暫く何もない空間を見つめていた。それから黒木にとって見慣れた、けれどやはりどうしようもなく綺麗な顔で、そっと呟いた。
「いや、何でもない」
 不意に黒木は泣きたいような気分になった。
「言ってください」
「何でもないよ」
「そんなはずない」
「本当に何でもないんだ」
「お願いですから言ってください」
 すると由比は口を閉ざした。一切の動きを停止して沈黙する。黒いディスプレイに映るその虚像はモノクロームで、黒木はその不吉さの意味を知った。そう、遺影に似ているのだ。
「何でもないなんてことはない。絶対にないです」
 耐えきれず、首を捻じ曲げて実像の横顔を見つめ言い募った。すると由比の眼球が微かに揺れた。視線が遠くに向けられたのだ。
「よくわからないんだ」
 黒木には決して届かない、場所ですらない、遠くへ。
「どうしてだろうね」
 それは俺の言葉だ。そう黒木は思う。
「どうして……」
 どうしてなのだろう。
 どうして彼の眼差しはいつも遠ざかっていくのだろう。オニキスに似たその瞳は、いったい何を映しているのだろう。そこに映し出されるためには、何を差し出せばよいのだろう。あるいは何を引き受ければよいのだろう。
 何一つ分からぬまま、ただしっかりと腕の中の不確かな温もりを包み込む。彼の膝の上で死体のようにじっとしている白い手に、自らの手を重ねて握る。氷の欠片を拾うように。自分の熱で融かしてしまわぬように。
 触れ合った中指が、僅かに震える。
 この震えは、自分がもたらしたものなのだろうか。
 黒木君、と呼ぶ声がする。
 自動筆記された文字をなぞるような、体温のない声。
「セックスしよう」
 心臓が止まった。
 身体中の血液が真水に変わったような気がする。
 そのせいか、問う声はひどく穏やかなものになった。
「――何故ですか」
「セックスするのに理由なんていらないだろう」
 相手の声は、空気に紛れてしまいそうなほど澄んでいる。
「いります」
「気分だよ。そういう気分なんだ」
 中身のない台詞が零れては消えていく。
「でもあなたには性欲がない」
「そうだね」
「俺に恋愛感情をもっているわけでもない」
「そうだ」
「同情したわけでもない」
「そのとおり」
「じゃあ、どうして?」
 わからない、と彼は言った。
「わからない、わからないよ」
 わからないんだ、わからない。由比は歌うように繰り返した。わからない。わからない。わからない。それから唇の端だけで笑った。
「ねえ、俺はいったい今日何回わからないって言ったかな」
「……分かりません」
 上がったばかりの口角を下げ、由比は低く呟いた。
「セックス、しよう」
 きっと今の由比には、そんな心を伴わない言葉しか見つけられないのだ。
「由比さん――」
 たぶん、と黒木は思う。
 たぶん俺は、この人の心に一時でも安らぎを与えるためならば、全てを擲つことができるだろう。痛みも苦しみも、嫉妬も欲望も葛藤も、どうしようもないこの愛しささえも捨てて、ほんの束の間の錯覚であっても構わない、彼が幸福に似た何かを感じることを願うだろう。だが、それは叶わないことだ。この病める異邦人は、いつか故郷へ戻るように遠いところに行ってしまう。根拠はない。けれど自分には、まるで未来に書かれた回顧録を読むように、その哀しい顛末が見えている。
「――あなたが望むのであれば」
 無言で肯いた由比は、バスルームへと消えた。
 交代でシャワーを浴び、明かりを消してベッドに入った。
 横たわる男の額に口づける。
 愛も欲も知らない人間にとって、この営みがどれほどグロテスクなものであるのか、黒木には分からない。そしてその答えを知ることもない。ただ一つ感じることがある。由比が自分に、否、自分たちにとって異邦人であるのなら、由比にとって自分たちは異邦人なのだ。
「好きです」
 冷えてしまった身体を抱いて、何処にも辿り着けない言葉を繰り返す。
「あなたが好きです」
 たとえ言葉が通じなくても、心が通わなくても、人が人に恋をしてしまうのは、何故だろう。
「好きなんです」
 答えは、ない。
 唇と唇が重なると、それが始まりになった。
 水のような時間。
 由比は声を出さず、表情も変えなかった。あるいは目を開けたまま眠っていたのかもしれない。そうだったらいいと、ふと、そう思った。
 けれど身体を解くと、彼は黒木に背を向けた。
「初めてだ」
 唐突に言って、男は沈黙する。きっと今、空気の中に言葉を探している。
 もうそんなことはしなくていい、そう言ってやりたいと黒木は思う。けれどそれは自分の、黒木のためだけの言葉だ。だから息を詰めて見守る。
 しかし、いつまでたっても続きは聞こえてこなかった。
 冷たい沈黙を抱えた男を、遣り切れなさと共に胸に抱き込む。ねえ俺はいったい今日何回あなたを抱き締めましたか。何回あなたを愛しいと思いましたか。
 だが、声に出して問うことはできない。もうこれ以上、わからないと言わせたくなかった。
「さっき、ドリップコーヒーと牛乳を買ってきたんです」
 湖水に指を浸すように、つうっと髪を梳いてやる。
「朝になったら飲みましょう。うんと甘くして」
 すると、まるで偶然何かのスイッチに触れたように、由比の口から声が零れた。
 それは、失われた言葉の続きだった。
「――自分から、誰かを誘ったのは」
 悲しくて、堪らなかった。



 翌朝、彼はネクタイを締める後ろ姿に向かって訊ねた。
「今夜、また会えますか」
「別に構わな……いや」
 言いかけて、由比は首を横に振った。
「……二年の教科担当は参加しろって言われてたんだった」
「仕事ですか?」
「そう。何時に終わるか分からないけど、そのあとでいいなら」
「非常勤なのに大変ですね。補習ですか」
「セミナーだって言われた」
 メールするよ、と彼は呟いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

同僚に密室に連れ込まれてイケナイ状況です

暗黒神ゼブラ
BL
今日僕は同僚にごはんに誘われました

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

〈社会人百合〉アキとハル

みなはらつかさ
恋愛
 女の子拾いました――。  ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?  主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。  しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……? 絵:Novel AI

芙蓉の宴

蒲公英
現代文学
たくさんの事情を抱えて、人は生きていく。芙蓉の花が咲くのは一度ではなく、猛暑の夏も冷夏も、花の様子は違ってもやはり花開くのだ。 正しいとは言えない状況で出逢った男と女の、足掻きながら寄り添おうとするお話。 表紙絵はどらりぬ様からいただきました。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

とある高校の淫らで背徳的な日常

神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。 クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。 後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。 ノクターンとかにもある お気に入りをしてくれると喜ぶ。 感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。 してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。

処理中です...