硝子の魚(glass catfish syndrome)

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続6. ウィークナイト

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 木曜日の夜。帰宅したのは、日付が変わるほんの数分前だった。
 玄関のドアを開けると、部屋の灯りは消えたままだった。暗い室内で、水槽のある辺りだけが滲んだように発光している。同僚に勧められ、タイマーで水槽の照明を管理するようになってから、この青白い光に出迎えられる夜が増えた。
 リビングの電気をつける前に、水槽を覗いた。鮮やかに輝くネオンテトラと、水に紛れそうなグラスキャット。小さな立方体の内部は清潔で美しく、何一つ欠けているものはない。けれどその美しい箱の外部には、どうしようもなく欠けているものがある。硝子細工の男だ。
 暗い室内で、スーツも脱がずにぼんやりと魚を眺めていると、鞄の中で携帯電話が震えた。小さな機械を取り出して開けば、タイトルのないメールが一通入っている。
『あと三十分くらいで、そちらに行きます』
 返信は四文字で済んだ。すぐに立ち上がり、手早くシャワーを済ませて歯を磨く。洗濯物を畳んでいたとき、微かに鍵の回る金属音がした。
「……ただい、ま」
 靴脱ぎ場に立つ彼は、漸く自発的に言えるようになった挨拶を口にする。だが覚えたての外国語を使うようなたどたどしさは、まだ抜けていない。
「おかえり」
 安達は部屋着姿だった。髪が僅かに湿っている。近づくと石鹸の匂いがした。いつものように、自室で入浴してからここに来たのだろう。
 彼は無言でこちらの顔を見つめていたが、暫くすると一つ肯いた。異常なし、ということらしい。肯いた安達はやはり無言のまま、今度は水槽の前に座った。だから自分も彼の隣に腰を下ろし、冷たいくらい整った横顔を見つめた。水槽のライトが、白い肌を薄青く照らしている。その光景は近くて遠く、遠くて近い。彼を見つめるたびに感じるこの不思議な距離は、恐らく永遠に埋まらないのだろう。だがそれは、決して嘆くべきことではなかった。
 彼は熱心に水槽を見ていた。一匹一匹の様子を確認するように、水の箱の隅々まで丹念に視線を巡らせる。やがて先刻と同じように肯くと、首を回してこちらを見上げた。ひやりとした光を反射させて輝く、硝子の眼球。今ではそこへ舌を伸ばそうとは思わない。ただ見つめるだけ、見つめ返されるだけでいい。
 沈黙ののち、安達は口を開いた。
「みんな元気です」
 生真面目な調子で報告するさまが、微笑ましかった。
「そうか。よかった」
「……はい。よかったです」
 返事もやはり、何処までも生真面目だった。もう寝よう、と言いかけて、自分はふと彼との約束を思い出した。
「水族館には、いつ行こうか」
 安達は息を呑んだ。そして暫し黙り込んでから、実は既にいくつかの水族館をピックアップしてあるので、明日の夜にでも一緒に検討してほしい、というようなことを三分ほどかけて喋った。
 普段よりも停滞しがちな彼の話を、自分は一々肯きながら聞いた。そしてひどく柔らかな気持ちになった。思わず口許が緩みかけたが、真剣に話をしている安達に悪いような気がしたので、表情を崩さぬよう努めた。最後に安達は、よろしいでしょうか、という問いで話を締めくくり、神妙な面持ちでこちらを見た。それで一言、もちろんだと答えた。

「おやすみ」
「……おやすみなさい」
 ベッドの中で短い挨拶を交わすと、安達は目を閉じた。ぼんやりとした夜の照明に照らされた彼の顔を数秒眺めてから、自分もまた瞼を下ろした。そうして取り留めのない思索に耽る。仕事のこと、魚のこと、そして何より隣にいる男のこと。身体が温まるにつれ、少しずつ睡魔の足音も聞こえてくる。すると、とうに寝入っていたと思っていた安達が、寝返りを打ってこちらに身を寄せてきた。どうやら温かいものが恋しくなったらしい。
 三月になっても寒がりな男を腕の中に入れ、体温を分けた。微かな溜め息が鼓膜に溶ける。自分は彼の髪に顔を埋めた。今夜も気持ちよく眠れそうだと思った。
 しかし数分もたたないうちに、安達はまたもぞもぞと身体を動かし始めた。落ち着く場所を決めかねているのかと思い、彼のしたいようにさせていると、暫くして安達はこちらの胸に顔を押しつけた。そこに何か切羽詰まったものを感じ、自分は一抹の不安を覚えた。
「どうした」
 安達は顔を上げた。僅かな灯りが、薄く水を張った瞳にとろりと浮かぶ。思わず頬に手を伸ばすと、そこはひどく熱かった。
「熱があるんじゃないか」
 風邪を引いたのかもしれない。体温計は何処にしまっただろう。薬を飲ませるべきだろうか。そんなことを考えながら身を起こそうとすると、何故か引き止めるように抱きつかれた。
「……欲しくなりました」
 自分は三秒ほど考えた。そして浮かせかけていた身体を再びベッドに沈めた。すぐに肉欲に支配されてしまう安達に呆れつつ、そんな男のことが可愛くて仕方ない自分もまた、傍から見れば呆れられてしかるべきなのだろうと、奇妙な冷静さで分析する。
「少しだけ。……駄目ですか」
 遠慮がちな囁き声に、欲望は容易に煽られる。触れるものならいつでも触りたいのがこちらの本音だ。しかし自分は一呼吸おくことにした。
「明日の夜になれば、いくらでもできるだろう」
 すると安達は視線を彷徨わせた。明日もしたいが、今もしたい。そう顔に書いてある。
「…………手で触ってもらえれば、たぶんすぐに終わります。もちろん樋川さんのもしますから、ちょっとだけ、お願いします」
「そうだな……」
 翌日仕事がある夜は、抱かれる側の負担を考慮して、手や口で処理する習わしだった。そういう場合、大抵は水槽を眺めたあとリビングで事に及ぶので、こんなふうにベッドの中で乞われると、こちらとしても挿入を我慢できるか自信がなかった。
 当然のことながら、触らないという選択肢は存在しなかった。問題はどう触るか、或いは何処まで触るか、そこに絞られていた。しかし安達は断られるかもしれないと思ったようで、珍しく強硬手段に出た。
「……欲しいです……触って……」
 甘くねだりながら、安達はこちらの首や顎の辺りに唇を押しつけ始めた。口を開いてみせると、すぐに吸いついてくる。忍び込んできた舌を少し強めに噛んだところ、砂糖菓子のように甘い声が零れた。恐らく彼の先端は既に濡れているだろう。
 だから舌を離すと、彼の下唇を指先で撫でながら誘惑した。
「もっと上手に誘ってごらん」
 安達は一瞬固まってから、再びゆっくりと唇を開いた。そして両手でこちらの手を掴むと、口の中に差し込まれた人差し指と中指を吸い始めた。
「このぶんだと、指だけで終わりそうだな」
 彼の脚の間に膝を入れ、ぐいぐいと圧迫しながら揶揄する。安達は指を頬張ったまま首を横に振った。
「ん……樋川さんの、大きいの、舐めたい……です」
 薄い舌や敏感な上顎、滑らかな頬の内側の粘膜の感触に、心も下半身も昂っていた。ここに性器を咥えさせるとどんなに気持ちがいいか、自分はよく知っている。けれど被虐趣味のある安達のためには、敢えて焦らした方がよいだろう。
「上に嵌めたら、下にも欲しくなるだろう。困るんじゃないか」
「……ぅ」
 硝子の瞳が揺れた。本気で悩んでいるらしい。
「……下は明日の夜まで我慢するので、上にください」
 欲望に忠実な回答に、自分は非常に満足した。
「それじゃ明日は、欲求不満のまんこを疼かせながら仕事をするのか。とんだ淫乱だな」
 言い終えると夜具をはねのけて起き上がり、彼の顔の真横で胡坐をかいた。安達は驚いたのか束の間身体を強張らせていたが、目の前に勃起した生の男根が突き出されると、微かに息を乱した。唇の隙間からちらりと舌が覗く。
 横向きに寝そべったまま上体を僅かに上げて、安達は性器に唇を近づけた。随分動物的な仕種だった。頭を支えて引き寄せてやると、従順に奉仕を開始する。男にしては口が小さい方だろう。一生懸命口を開いて肉棒を吸っている姿は、どうしようもなく淫らであると同時に、何か心温まるものでもあった。
「可愛いな」
 彼にとってはもう聞き飽きたはずの科白が、思わず漏れる。安達はほんの少し目許を震わせた。触れてみると、先刻触れたときよりも熱くなっていた。暗いせいで確かではないが、きっと赤くなっているのだろう。
「手も使ってごらん。……そう、いい子だ」
 口と掌で性器を扱かせながら、自分は射精のタイミングを計った。
「出すぞ」
 短く告げると、安達は視線で肯いた。それで自分は彼の頭をしっかりと抱えた。
 柔らかな舌の上に、粘ついた快感を思いきり吐き出す。少し量が多かったのか、安達は途中でむせそうになったが、それでも懸命に堪えて出されたものを全て嚥下した。
「上手に飲めたな。偉い」
 精液を飲み干したあとも、彼はまだ亀頭を舐め、鈴口を吸っていた。最初抱いたときに言われたことを、今でも忠実に守ろうとしているらしい。もういいと言って頭を撫でてやると、漸く彼は性器から口を離し、そして唇を手の甲で拭った。その仕種がひどく子供っぽく見えたので、自分は思わず背を曲げて彼の耳に口づけた。
「次は俺がする番だな。どうしてほしいんだ」
 安達は再び口許を拭った。それから掠れた声で囁く。
「……手で擦ってほしい、です」
 非常に慎ましい要望だった。
「口じゃなくていいのか。そっちの方が気持ちいいだろう」
 考えてみると、安達は積極的に口淫をしたがるものの、自分がされる側になると射精に至らないことが多かった。もしかしたら弱い部分を咥えられることに、恐怖心があるのかもしれない。
 だが安達の答えは、こちらが想像したものとは違っていた。
「…………口だと樋川さんが喋れないので、手がいいです」
 自分は首を捻った。
「俺が喋っても意味がないだろう」
 すると安達は真顔で首を横に振った。
「あります」
 毅然とした、という形容がしっくりくるような言い方だった。
「どういうことだ」
「……耳許でいやらしいこと言われると、すごく……すごく、感じます」
 なるほど、と自分は呟いた。ほかに返事のしようがないほど、恐ろしく説得力のある回答だった。
「だったら、いやらしいことを言いながら手で擦ればいいんだな」
 安達はすぐに肯いた。そして数回瞬きしてから、どっちもちょっときつめがいいです、と注文した。言葉遣いと力加減のことらしい。彼の無邪気な調子とその内容のギャップに、自分は眩暈を覚えた。
「わかった。泣くくらいひどくしてやる」
 言い捨てると自分は彼の寝巻をめくり上げ、乳首に吸いついた。胸を弄られるとは思っていなかったようで、安達は反射的に身を捩ろうとした。けれど許すつもりはない。抵抗する身体を押さえつけ、乳頭に歯を立てる。すると途端に薄い身体はおとなしくなり、綿飴のような吐息を漏らした。
「……ぁふ……うぅ……」
 片方を歯と唇で苛み、もう片方を指で転がす。二つの突起が充分に勃ったのを確認してから、彼の下着の中に手を入れた。
「ザーメン飲んで乳首弄られただけで、もうぬるぬるだ」
 濡れた先端を幾度か乱暴に擦ってから、袋を揉み込む。安達はぶるりと震え、こちらにしがみついてきた。それで彼の耳に唇を宛がい、望みどおり下卑た言葉を吹き込んだ。
「でかいのを嵌められて、たっぷり精液をかけられるのが好きなんだろう。いつも上にも下にも中出ししてほしがるもんな。特に下の口は、一度咥えたら何度中出ししてやってもいつまでも物欲しそうにしゃぶり続けて、なかなか放そうとしない。本当にお前は手がつけられない淫乱だ」
「ひぅ……っ」
「なんだ、まんこが淋しくなったか。もう一週間も嵌めてもらってないもんな」
「んっ、んー……」
「どんなに飢えても、ほかの男の前でそんな物欲しそうな顔はするなよ。お前は変に無防備なところがあるからな。もし俺みたいな下衆に目をつけられたら、孕むまで犯されると思え」
 同性に欲情する男がこの世にどの程度存在するのか、自分には予想を立てることすらできなかった。それでもこんな陳腐な脅しをかけたのは、情けない独占欲以外の何ものでもなかった。正気に返った安達が今言った言葉を思い出したら、恐らく呆れ果てるだろう。けれどそれで構わなかった。彼には既に情けない部分をいくつも晒してしまっている。今更幻滅のしようがないだろう。
「――だから俺だけで満足してくれ」
 何でもするから、と付け加えて、滑らかな頬に唇を寄せた。安達は素直に肯いて口づけを受け止め、次いで途切れがちな小声で、それなら明日は目隠しでしましょう、と言った。どうやら彼の方が数枚上手らしい。もちろん異議はなかったので、自分は肯いて彼の性器を握り直した。
 安達のものはすっかり膨れて、いつ弾けてもおかしくない状態になっていた。再び硬くなっていた自分の一物を取り出し、安達にも手を添えさせて、二本まとめて擦り上げる。
「いかせてほしいときは何て言えばいいか、わかるよな」
「ふ……あ、う、う、く……」
「言うんだ」
「……か、可澄のいやらしい穴から、お潮、吹かせてください……ん、あ、ぁっ」
 脳が溶けて耳の穴から滴り落ちるのではないかと思うほど甘い声を聴きながら、彼の精液で濡れた手の中へ、自分も白濁を放った。

 自分はあまり想像力の豊かな人間ではない。本を読むことと何かを想像するということは、異なる次元の問題だと考えている。
 しかし、深夜の台所で寝巻姿の男が二人、それぞれ精液の残滓の始末をするという図が、恐らく奇妙なものであるということは、行動に移す前から想像するまでもなくわかっていた。
 それでも実際に安達と並んで手を洗ったり、彼が口をすすぐ様子を眺めたりしていると、これ以上ないほど満ち足りた気分になった。好きな相手と日常を共にしているのだという実感は、何ものにも代えがたい喜びを生んでくれる。安達も安達で満足げだった。彼が満足しているのは性欲が満たされたせいであって、ほかに理由などないのだろうが、別にそれでよかった。安達が幸せならこちらは何だって構わないのだ。
 精液を洗い落とすと、二人並んでベッドに入った。やっと落ち着いた身体を抱き締めて、今夜二度目のやりとりをする。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
 こちらの胸に顔を押しつけたせいで、少しこもってしまった相手の声。彼のこんな声が聴ける日常を手にしたことが、今でもまだ信じられない。そう告げたら安達はどんな顔をするだろう。不思議そうな顔をするかもしれない。恥ずかしがって赤くなるかもしれない。或いは真面目な顔つきで、俺もです、と言うかもしれない。まだ彼にはわからない部分、測れない部分が数多くある。硝子の内を覗き込む楽しみは、尽きることがない。
 雪上に氷柱が落ちるように、一人ですとんと眠りに落ちてしまった男のうなじを撫でながら、自分もそっと瞼を下ろした。
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