硝子の魚(glass catfish syndrome)

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*29. 水の箱庭

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 一人きりの部屋。
 新しいカレンダーはまだ壁に馴染まない。その最初の一枚を破り取る。
 規則正しくマスに並ぶ数字は、28を最後に途切れている。
 二月。
 日々は穏やかに過ぎていく。
 仕事から帰るとシャワーを浴びる。十一時より前なら彼の部屋に行く。そして二人で魚を眺める。日付が変わる頃、自分の部屋に戻る。その繰り返し。差異を孕まない反復。
 あの約束から、もう二ヶ月になる。
 水族館には、まだ行っていない。



 仕事帰り、駅前の本屋に入ろうとしたとき、背後から声をかけられた。
「おい安達君、遅いうえに寄り道か」
 振り向くと、よく知った顔がそこにあった。手には何か大きな袋を提げている。
「…………橋本さん」
 少し考えて、こんばんは、と続けようとした。けれど相手はそれを待つような性格ではない。こちらが言葉を発する前に、まさか本屋に寄ろうとしているなんて言わないよな本なんて明日でも明後日でもいいだろうさあ帰ろう、と腕を引っ張られ、結局挨拶は何処かへ行ってしまう。
「君の帰りをそこの店で待っていた。ガラス張りだから改札がよく見える。便利だな」
 駅構内にある喫茶店のことを言っているらしい。どんどん歩いていく背中に、慌てて声をかけた。
「…………樋川さんは、今夜いません。離婚した先輩の愚痴を聞かされに行くって……」
 すると彼は振り向いて、やれやれ、と言いたげに首を振った。
「俺は君の帰りを待っていたって言っただろ」
 今夜は飲み明かそう、もちろん安達君の部屋で。そうつけ加えて、目の前の男はにやりと笑う。黙っていれば間違いなく二枚目なのに、笑うとファニーフェイスといってよいくらい剽軽な顔になる。悪い人ではないというのは本当だと思う。けれど悪知恵が働くのも確かだろう。
 アパートへ向かう道で、ずっと気になっていたことを訊ねてみた。
「橋本さんは、どんなお仕事をなさっているんですか」
 とても勤め人風には見えない。とは、言えない。以前、仕事の締切がある、と言っていたので、働いてはいるはずだ。
「お、安達君、遂に俺に興味をもったのか。いい傾向だな。俺はね、今まで何でもやってきたし、これからも何でもやるつもりだ」
 銀行員、土木作業員、コンビニ店長、バーテン、ピザ職人、自転車屋。彼が挙げた仕事には、脈絡と呼べそうなものが綺麗に欠落していた。
「とはいえ、今は知り合いが編集をやっている競艇雑誌に、適当な薀蓄を書き散らす程度で副業はセーブしている。本業はまあ、スポーツジム経営ってことになるんだろうな」
 この人は、いったいどういう人生を歩んできたのだろう。
 そんな気持ちが顔に出ていたのか、彼はこちらを見て笑った。
「ふらふらしてるように感じるだろ? 樋川にもよく言われる。あいつ家電メーカーの本社勤務だし――今は人事って言ってたっけ――まあとにかく、俺とは正反対のお堅い路線だもんな」
「……そうなんですか?」
 思わず訊き返すと、彼は目を瞬く。
「聞いてないのか?」
「…………家電屋と伺っていたので、量販店の店舗で働いているのかと」
 あんまりあいつのこと知らないんだな。そう相手が呟くのが聞こえた。それから、お互い様か、と続ける声も。
「店に派遣されて客の相手をしていたのは、入社して数年だけだったはずだ」
 何も言えなかった。

 部屋に入ると、彼はぐるりと周囲を見回した。それからすぐにテーブルの前に座る。持ち込んだ袋に手を差し入れながら、安達君、と彼は顎をしゃくる。
「栓抜き的なものと、コップ的なもの」
 何処までも自分のペースを崩さない人だ。
 けれど意図は理解できる。ソムリエナイフと小さなワイングラスを手にしてリビングに戻ると、思ったとおり、テーブルの上には赤ワインのボトルとチーズの箱が並んでいる。
「友達の恋人の知り合いの奥さんの弟が山梨で作っているワインだ。安達君と飲もうと思って持ってきた」
 ナイフを受け取ると、彼は刃をキャップシールに滑らせた。まるで切り取り線でもついていたかのように、シールは綺麗に外れる。
「樋川はザルだけど、味のわからないザルだから性質が悪い。あいつに酒を飲ませるのは排水溝に流すのと同じだ。水道水で充分なんだよ」
 言いながら彼はナイフを回す。スクリューの先端が、コルクの中に吸い込まれるように消えていく。お手本のような手つきに、つい見入ってしまう。
「このままでいいよな?」
 構わないので肯く。彼はグラスにワインを注いだ。
 いったい何を考えているのだろう。
 ボトルのラベルをぼんやりと眺めながら、グラスを傾ける。
 かなり軽めのワインだった。渋みも酸味も穏やかで、甘い果実の香りが口の中に柔らかく広がる。考え事をしながら飲んでいると、うっかり適量を見失ってしまいそうだから、一口ずつゆっくりと含んでいく。
「――というわけで、今年は絶対に義理チョコは受け取らないと宣言した」
 いつの間にか始まっていたバレンタインデーにまつわる諸々のエピソードを、その一節で締めくくると、彼は次のボトルに手を伸ばした。
「安達君は毎年大量のチョコを貰って持て余すタイプだろ?」
 こういう質問には、どう答えればよいのかわからない。迷った末に首を横に振る。
「…………そうでもないです」
「じゃあ去年はいったい何人から貰った?」
 覚えていない。確か職場の女性たちが少額ずつ出し合って、チョコレート菓子の詰め合わせを買って配っていた。そのとき何故か他の男性より多めに渡されたせいで、同僚に嫌みを言われた記憶がある。けれど個人的に貰ったのは三、四人程度だったように思う。全て会社の人間だ。
「思い出せないくらいたくさんってことか?」
 戸惑って返す言葉を探していると、そのうち彼は首を横に振った。
「いや、別にいいんだ。ただ、安達君くらいのスペックだと、周りが放っておかないだろうなと思ってね。ちょっと対人スキルが低いのも母性本能をくすぐるというか」
 そういえば、この人にはいつも口下手な自分しか見せていなかった。自らの二面性に、時折自分でもついていけなくなることがある。
「で、安達君はどうなの。いずれ結婚するつもりなの?」
 突然の問いに、グラスが揺れた。わかりやすく動揺してしまい、恥ずかしいような、いたたまれないような気分になる。
 グラスを置いてそっと窺うと、相手は真顔でこちらの返事を待っている。きっと今日はこの話がしたくて、わざわざやってきたのだろう。そう思うと、胸の奥が微かに痛む。傍にいた時間は彼の方がずっと長かったはずなのに、結果はそれを裏切った。
「…………結婚は、しません」
 少なくとも、性的な意味で異性を愛することは、自分にはできない。
 目の前の真剣な顔が、いつもの笑みの形に緩んだ。
「助かった。いつか結婚して子供を作ります、なんて堂々と言われたら、あの色呆けが救われない」
 彼はワインを口に含むと、時間をかけて飲み下した。たった数十秒の沈黙。それはしかし、ひどく長いものに感じられた。気づくと両の掌は、自分の膝の上で硬い拳になっている。指を解いて意味もなくさすっていると、相手の微笑が僅かに深くなった。
 緊張しなくていいよ、と彼は笑う。
 緊張しなくていい、俺はただの友達なんだから。
 そんなことを言われたら、もう、言葉なんて見つけられる気がしない。
 彼はグラスの中の液体に視線を落とした。赤紫の水面が、滑らかに形を変え続けている。やがてその眼差しは、部屋の奥へと向かう。何を見ているのかは、すぐにわかる。そこには水槽がある。
「――あいつはさ」
 暗い、ひたすら暗い水槽が。
「性格はいいんだが途方もなく鈍感で、顔もまあ悪くはないが洒落っ気なんてまるでないし、元柔道部でゴリゴリの体育会系のくせにどういうわけか趣味は読書で、しかもあらすじを聞いただけで気が滅入るようなややこしくて陰鬱な代物しか読まない、そんなこちこちの堅物だ」
 滑らかに、穏やかに、言葉が空間に溢れて消えていく。
 今の自分には、その流れに耳を傾けることしかできない。
「けどな、ああいうタイプは、頼りになりそうとか男らしいとか言われて、かなりもてる。俺は十八のときから樋川を見てきたが、あいつにはだいたい彼女がいた。でもこう言っちゃ悪いけどさ、確かに本人としてはそれなりに真剣だったんだろうが、傍から見ていると、さほど恋人に興味がないような印象を受けた。要するに、恋愛に関して絶望的に淡白なんだな。あいつは色恋よりも友情を重視する人間だった。彼女とのデートは忘れてすっぽかしても、男友達と飲む約束は絶対にたがえなかった。だから――」
 不意に、流れがぷつりと途絶えた。視線がほんの少しだけ、迷うように揺れている。
 彼が言い淀むのを見るのは、初めてかもしれない。
 けれどそれも束の間だった。
「だから俺は友達でいいと、いや、友達がいいと思った」
 そう言って、彼はこちらを向く。そこには静かな笑みがある。
 視線を逸らすわけにはいかなくて、言葉が見つからないまま、ただ相手の目を見つめる。
「安達君、君があいつにとって、たぶん最初でもしかしたら最後の、本気の相手だ」
 どうしてだろう。
「俺はさ、ただ幸せになってほしいだけなんだよ」
 何故この人ではなく、俺なのだろう。
「そう思うだけなら、何も壊れないだろ?」
 答えは本人しか知らない。本人にも、わからないかもしれない。



 午前零時。
 こうしてまた一人きりの部屋に立っている。
 明かりを消し、水槽の電源を入れる。都市も偽物、魚も偽物、気泡や光さえも機械が生んだ、そんな偽物だらけの小さな水の箱庭。
 淡いブルーの光に照らされながら、二人でこの水槽を見つめた日のことを思い出す。
 ――だって悲しいでしょう……。
 あのとき零れた言葉の意味。本当はまだ、自分でも理解できていない。
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