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*28. 迷い
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合鍵を鍵穴に挿し込んで回すその一瞬は、常に軽い緊張感に襲われる。
何も考えずにこのドアを開いていた頃が懐かしい。
「こんばんは」
言いながらリビングに入る。ローテーブルの前に部屋の主が立っている。手にはグラスが二つ。
「おかえり」
ごく自然に、彼はそう口にする。
「…………た、だいま」
ごく不自然に、そう返す。
お疲れ様、とグラスを合わせる。
硝子と硝子のぶつかる涼しい音が、互いの間に響く。
水槽の前に並んで座り、一缶の発泡酒を二人で分け合って飲む。習慣と呼ぶにはまだ心が追いついていない。そんなこのひと月の営み。
隣で胡坐をかく彼は、まるで何年もそうしてきたかのように落ち着き払って、ゆっくりとグラスを傾ける。その横顔は少し無骨な造作で、がっしりした体躯と相まって、威圧的な印象を受ける。
初めて出会った日、この部屋のドアを開けた彼は、ほんの一瞬目を見開き、それからすぐにそれを眇めた。単に逆光が眩しかっただけなのかもしれない。けれどそのせいで余計近寄りがたく感じられた。でも今は、その眼差しが気恥ずかしくなるほど和らぐことを知っている。
適当なところで切り上げて、水槽に向き直る。あまり見つめると、その気恥ずかしい視線がこちらへ向けられてしまうことを知っている。
本物の魚は、プラスチックの偽物よりもずっと美しく、そして儚い。
赤と青の光を撒き散らすように水と遊ぶのはネオンテトラ。グラスキャットは、いつもひっそりと同じところにとどまっている。二十年前に出会い、そして見失った硝子の魚。
目を離したらその透明な身体が水に溶けてしまいそうで、瞬きすらできずにいた少年時代、本当は、魚と共に透明な水の中へ消えてしまいたかった。
けれど今、何かが変わろうとしている。
全てのきっかけは、本当に些細なことだった。
去年の二月のこと。ひどく酔って帰って、アパートの階を間違えた。自分の部屋だと思って鍵をあけようとしたが上手くいかない。ノブに手をかけると施錠していなかった。それで何も考えずにドアを開けた。すると玄関に、一組の男女がもつれあって倒れていた。行為の最中だった。女性の方が悲鳴を上げた。彼女は、時々玄関やエレベーターで顔を合わせる相手だった。玄関で鍵もかけずにそういうことをしている相手を責める権利は、部屋を間違えたこちらにはなかった。気まずさに耐えきれず、区内の別のアパートに引っ越したのが三月の終わりだった。同じ過ちは繰り返さないつもりが、引っ越して数ヶ月で今度は隣の部屋の住人に迷惑をかけた。その人は驚くほど親切だった。途切れがちな自分の話を、四時間もかけて最後まで聞いてくれた。そんな相手に出会ったのは、生まれて初めてだった。
その後、引っ越したことを何気なく職場で口にしたところ、同僚に結婚するのかと問われた。
『佐々木さん、二言目には僕に結婚するのかって訊くの、やめてもらえませんか』
呆れを隠さずにいると、同僚は、お前がさっさと結婚しないのが悪い、早く結婚しろ、と言った。
『お前が結婚するだろ? お前狙いだった女の子たちが他の男に目を向けるだろ? 俺にもチャンスが来るだろ? 彼女ができるだろ? そしたら俺も結婚できるだろ?』
『風が吹けば桶屋が儲かるってやつですね。僕は恋人もいないし結婚なんて当分しないつもりですが、佐々木さんのそういうところは好きですよ。これって恋なのかな。どう思います?』
『……もしかしてお前、そっちだったのか』
『僕と二人きりにならないように、気をつけてくださいね』
自覚しないまま、冗談で口にした言葉。しかしそれはあの夜を境に、笑えないものに変わってしまった。
同性と、関係をもった。
最初は強引に触れられた。けれど名前を呼ばれた瞬間に、ずっと硬く閉ざしていた何かが弾けて、見知らぬ自分が剥き出しになった。
あとになって、互いに性欲に引っ張られただけなのだと、そう思った。自分のしたことが受け入れられなくて、忘れたくて、アパートを離れ、実家に戻った。突然帰省した息子に対し、母は何も訊ねなかった。ただ、父に挨拶するようにと言った。
促されるまま、久しぶりに仏壇に線香をあげた。フォトスタンドのフレームの中で微笑する父は、今の母よりも若い。この写真を仏壇に飾ったとき、自分は高校生だった。見つめていると、背中に小さな呟きが聞こえた。
『猫を譲ってもらうつもりなの』
動物好きとはいえない母。それなのに猫を飼おうとする理由は、すぐにわかった。
線香のか細い煙を辿りながら、言うべき言葉を探した。だが、どうしても見つからなかった。
その夜、隙間だらけの食卓で、母は妹の名を口にした。
『昨日、亜澄から電話があったのよ』
一つ年下の妹はよく喋る。兄とは全く似ない、快活で社交的な性格。友人が多く、恋人も途切れたためしがなかった。短大を出るとすぐに結婚した。しかし病気をして、それが遠因となって三年前に独身に戻った。今は広島にある親戚の工場で働いている。
早く孫の顔が見たい、男の子ならお父さんの集めた切手をあげて、女の子なら私の着物をあげるの……。父の四十九日が済んだ頃から、母は夢見るようにそう繰り返すようになった。けれど妹の病気が発覚してから、孫という単語は彼女の語彙から削除された。
『「石女」なんて言葉、初めて聞いたわ』
義母に投げつけられた言葉を、三年前、離婚を報告する電話の中で妹は教えてくれた。
『母さんに孫の顔を見せる役目はお兄ちゃんに任せたから、早くいい人見つけなよ』
黙っていると、否定のニュアンスを汲み取ったのか、妹は笑った。
『ねえ、世界の総人口って知ってる? これだけ馬鹿みたいに大量に人間がいれば、お兄ちゃんがいいっていう物好きは絶対いるから大丈夫。それにお兄ちゃんはあんまり喋れないだけで、性格も顔も悪くないと思うよ。私に似て、ね』
妹の泣くような笑い声を聞きながら、彼女が失った卵巣のことを考えた。伴侶を亡くしたった一人で老いていく母のことを考えた。
あれ以来、妹とは話をしていない。彼女と最後に交わした会話を思い出していると、母が再び口を開いた。
『あの子、元気にしてるって。あと、もしも会ったら可澄によろしくって言ってたわ。可澄はうちに寄りつかないから、自分で電話しなさいって言ったんだけど、お兄ちゃんに電話すると通話料がかさむから嫌だって。相変わらず、生意気な子ね』
母はそれきり、ほとんど喋らなかった。二人で黙って料理を口に運んだ。昔は賑やかだった食卓。父も母も妹も饒舌だったから、いつも自分の居場所を見つけられなかった。淋しかった。けれどもし数十年後にこんな寒々しい食卓につくとわかっていたら、もっとその居場所のない時間を大切にしただろう。
淋しいのは事実だ。母を喜ばせたいとも思う。しかし子供を産ませるためだけに、あるいは孤独を埋めるためだけに結婚するというのは、ひどく不誠実なことのように思われた。妹の痛みを思うと、身動きが取れない。
それに何より、気づいてしまった。今までまともに恋愛ができなかったのは、本当は異性に興味をもてないせいだった。彼との行為で、自覚してしまった。
受け入れなければならない、受け入れられない、どうすればよいのか、わからない。
独りで生きることも、母の希望を断ち切ることも、醜い自分と向き合うことも、怖い。
ただ、彼のことが好きだという事実だけは、否定できない。
再びアパートに戻ることになり、彼の気持ちを知ったあとも、迷いは消えなかった。答えが出ないまま年末を迎え、年が明けた。
正月に一日だけ帰省したとき、実家にいたのは母だけだった。今年も妹は帰ってこなかった。家族の前では、以前と同じ明るいままの自分でいたいのかもしれない。そしてそんな自分を演じきれるようになるには、まだ時間がかかるのかもしれない。
悩んだ末に、母に告げた。恐らく一生結婚しないこと。孫の顔を見せてやれないこと。
仏壇に供えた雑煮を下げていた母は、やはり理由を訊かなかった。
『あなたの人生よ。あなたが思うように生きればいい』
こちらを見ずに彼女は答えた。皺の目立ち始めた小さな掌には、我が家で最も高価な漆塗りの椀が握られている。だが、中身はすっかり冷めてしまっていた。
『でもね』
冷たい椀に目を落として、母は言った。
『それであなたは幸せなの?』
わからない。
それで俺は幸せなのか。いつか幸せになれるのか。
けれどどうすれば幸せになれるかなんて、いったい誰にわかるだろう。妹は結婚したとき、本当に幸福そうだった。まるでおとぎ話の結末のように、皆が二人を祝福した。あんな悲しい運命がその先に待っていることを、誰も予想はしなかった。
幸せになりたいと思わないわけではない。
恐ろしいのは、幸福を掴もうと伸ばした指が空を切ること。温もりを知ったあとに突き放されること。恐怖や不安は常につきまとって離れない。
それでも、今、確かに、何かが変わろうとしている。
不意に、こつりと音がした。
音のした方へ視線をやると、空になったグラスが床に置かれていた。思わず隣を確認する。彼は、先ほどまでと同じ姿勢でじっと魚に目を注いでいた。現実の時間、現実の場所に引き戻されて、安心したような、心細いような、不思議な気持ちに包まれる。それから慌てて目を逸らす。そのとき部屋の時計がちらりと目に入る。午後十一時五十二分。
こんなふうに水槽を見つめていると、記憶がとめどなく溢れ出して時間を忘れてしまう。十年前、三年前、十ヶ月前、半年前、一ヶ月前、数週間前。言葉にできるものがあり、言葉にできないものがある。父が死んだこと、妹が病気をしたこと、母が猫を飼おうとしていること。彼にはまだ話していない。話せない。
「可澄」
名前を呼ばれて再び隣を見る。静かな眼差しが、今度はこちらに向けられている。回想によって紛れていた緊張が、じわりと指先に滲む。しかし彼はこう続ける。
「そろそろ帰って寝た方がいい。明日も早いんだろう」
戸惑いながら肯けば、気をつけて帰れよ、と彼は言う。たった数歩の距離で、何に気をつける必要があるのだろう。おかしくて、それなのにどうしようもなく苦しくなった。
自室に戻り、ベッドに横たわる。暗闇の中で目を閉じる。瞼の上から眼球に触れてみる。考えないわけにはいかなかった。彼のことを。彼の気持ちを。
あの夏の夜が最初で、そしてそれきりだった。
あれから彼は、何もしてこない。
何も考えずにこのドアを開いていた頃が懐かしい。
「こんばんは」
言いながらリビングに入る。ローテーブルの前に部屋の主が立っている。手にはグラスが二つ。
「おかえり」
ごく自然に、彼はそう口にする。
「…………た、だいま」
ごく不自然に、そう返す。
お疲れ様、とグラスを合わせる。
硝子と硝子のぶつかる涼しい音が、互いの間に響く。
水槽の前に並んで座り、一缶の発泡酒を二人で分け合って飲む。習慣と呼ぶにはまだ心が追いついていない。そんなこのひと月の営み。
隣で胡坐をかく彼は、まるで何年もそうしてきたかのように落ち着き払って、ゆっくりとグラスを傾ける。その横顔は少し無骨な造作で、がっしりした体躯と相まって、威圧的な印象を受ける。
初めて出会った日、この部屋のドアを開けた彼は、ほんの一瞬目を見開き、それからすぐにそれを眇めた。単に逆光が眩しかっただけなのかもしれない。けれどそのせいで余計近寄りがたく感じられた。でも今は、その眼差しが気恥ずかしくなるほど和らぐことを知っている。
適当なところで切り上げて、水槽に向き直る。あまり見つめると、その気恥ずかしい視線がこちらへ向けられてしまうことを知っている。
本物の魚は、プラスチックの偽物よりもずっと美しく、そして儚い。
赤と青の光を撒き散らすように水と遊ぶのはネオンテトラ。グラスキャットは、いつもひっそりと同じところにとどまっている。二十年前に出会い、そして見失った硝子の魚。
目を離したらその透明な身体が水に溶けてしまいそうで、瞬きすらできずにいた少年時代、本当は、魚と共に透明な水の中へ消えてしまいたかった。
けれど今、何かが変わろうとしている。
全てのきっかけは、本当に些細なことだった。
去年の二月のこと。ひどく酔って帰って、アパートの階を間違えた。自分の部屋だと思って鍵をあけようとしたが上手くいかない。ノブに手をかけると施錠していなかった。それで何も考えずにドアを開けた。すると玄関に、一組の男女がもつれあって倒れていた。行為の最中だった。女性の方が悲鳴を上げた。彼女は、時々玄関やエレベーターで顔を合わせる相手だった。玄関で鍵もかけずにそういうことをしている相手を責める権利は、部屋を間違えたこちらにはなかった。気まずさに耐えきれず、区内の別のアパートに引っ越したのが三月の終わりだった。同じ過ちは繰り返さないつもりが、引っ越して数ヶ月で今度は隣の部屋の住人に迷惑をかけた。その人は驚くほど親切だった。途切れがちな自分の話を、四時間もかけて最後まで聞いてくれた。そんな相手に出会ったのは、生まれて初めてだった。
その後、引っ越したことを何気なく職場で口にしたところ、同僚に結婚するのかと問われた。
『佐々木さん、二言目には僕に結婚するのかって訊くの、やめてもらえませんか』
呆れを隠さずにいると、同僚は、お前がさっさと結婚しないのが悪い、早く結婚しろ、と言った。
『お前が結婚するだろ? お前狙いだった女の子たちが他の男に目を向けるだろ? 俺にもチャンスが来るだろ? 彼女ができるだろ? そしたら俺も結婚できるだろ?』
『風が吹けば桶屋が儲かるってやつですね。僕は恋人もいないし結婚なんて当分しないつもりですが、佐々木さんのそういうところは好きですよ。これって恋なのかな。どう思います?』
『……もしかしてお前、そっちだったのか』
『僕と二人きりにならないように、気をつけてくださいね』
自覚しないまま、冗談で口にした言葉。しかしそれはあの夜を境に、笑えないものに変わってしまった。
同性と、関係をもった。
最初は強引に触れられた。けれど名前を呼ばれた瞬間に、ずっと硬く閉ざしていた何かが弾けて、見知らぬ自分が剥き出しになった。
あとになって、互いに性欲に引っ張られただけなのだと、そう思った。自分のしたことが受け入れられなくて、忘れたくて、アパートを離れ、実家に戻った。突然帰省した息子に対し、母は何も訊ねなかった。ただ、父に挨拶するようにと言った。
促されるまま、久しぶりに仏壇に線香をあげた。フォトスタンドのフレームの中で微笑する父は、今の母よりも若い。この写真を仏壇に飾ったとき、自分は高校生だった。見つめていると、背中に小さな呟きが聞こえた。
『猫を譲ってもらうつもりなの』
動物好きとはいえない母。それなのに猫を飼おうとする理由は、すぐにわかった。
線香のか細い煙を辿りながら、言うべき言葉を探した。だが、どうしても見つからなかった。
その夜、隙間だらけの食卓で、母は妹の名を口にした。
『昨日、亜澄から電話があったのよ』
一つ年下の妹はよく喋る。兄とは全く似ない、快活で社交的な性格。友人が多く、恋人も途切れたためしがなかった。短大を出るとすぐに結婚した。しかし病気をして、それが遠因となって三年前に独身に戻った。今は広島にある親戚の工場で働いている。
早く孫の顔が見たい、男の子ならお父さんの集めた切手をあげて、女の子なら私の着物をあげるの……。父の四十九日が済んだ頃から、母は夢見るようにそう繰り返すようになった。けれど妹の病気が発覚してから、孫という単語は彼女の語彙から削除された。
『「石女」なんて言葉、初めて聞いたわ』
義母に投げつけられた言葉を、三年前、離婚を報告する電話の中で妹は教えてくれた。
『母さんに孫の顔を見せる役目はお兄ちゃんに任せたから、早くいい人見つけなよ』
黙っていると、否定のニュアンスを汲み取ったのか、妹は笑った。
『ねえ、世界の総人口って知ってる? これだけ馬鹿みたいに大量に人間がいれば、お兄ちゃんがいいっていう物好きは絶対いるから大丈夫。それにお兄ちゃんはあんまり喋れないだけで、性格も顔も悪くないと思うよ。私に似て、ね』
妹の泣くような笑い声を聞きながら、彼女が失った卵巣のことを考えた。伴侶を亡くしたった一人で老いていく母のことを考えた。
あれ以来、妹とは話をしていない。彼女と最後に交わした会話を思い出していると、母が再び口を開いた。
『あの子、元気にしてるって。あと、もしも会ったら可澄によろしくって言ってたわ。可澄はうちに寄りつかないから、自分で電話しなさいって言ったんだけど、お兄ちゃんに電話すると通話料がかさむから嫌だって。相変わらず、生意気な子ね』
母はそれきり、ほとんど喋らなかった。二人で黙って料理を口に運んだ。昔は賑やかだった食卓。父も母も妹も饒舌だったから、いつも自分の居場所を見つけられなかった。淋しかった。けれどもし数十年後にこんな寒々しい食卓につくとわかっていたら、もっとその居場所のない時間を大切にしただろう。
淋しいのは事実だ。母を喜ばせたいとも思う。しかし子供を産ませるためだけに、あるいは孤独を埋めるためだけに結婚するというのは、ひどく不誠実なことのように思われた。妹の痛みを思うと、身動きが取れない。
それに何より、気づいてしまった。今までまともに恋愛ができなかったのは、本当は異性に興味をもてないせいだった。彼との行為で、自覚してしまった。
受け入れなければならない、受け入れられない、どうすればよいのか、わからない。
独りで生きることも、母の希望を断ち切ることも、醜い自分と向き合うことも、怖い。
ただ、彼のことが好きだという事実だけは、否定できない。
再びアパートに戻ることになり、彼の気持ちを知ったあとも、迷いは消えなかった。答えが出ないまま年末を迎え、年が明けた。
正月に一日だけ帰省したとき、実家にいたのは母だけだった。今年も妹は帰ってこなかった。家族の前では、以前と同じ明るいままの自分でいたいのかもしれない。そしてそんな自分を演じきれるようになるには、まだ時間がかかるのかもしれない。
悩んだ末に、母に告げた。恐らく一生結婚しないこと。孫の顔を見せてやれないこと。
仏壇に供えた雑煮を下げていた母は、やはり理由を訊かなかった。
『あなたの人生よ。あなたが思うように生きればいい』
こちらを見ずに彼女は答えた。皺の目立ち始めた小さな掌には、我が家で最も高価な漆塗りの椀が握られている。だが、中身はすっかり冷めてしまっていた。
『でもね』
冷たい椀に目を落として、母は言った。
『それであなたは幸せなの?』
わからない。
それで俺は幸せなのか。いつか幸せになれるのか。
けれどどうすれば幸せになれるかなんて、いったい誰にわかるだろう。妹は結婚したとき、本当に幸福そうだった。まるでおとぎ話の結末のように、皆が二人を祝福した。あんな悲しい運命がその先に待っていることを、誰も予想はしなかった。
幸せになりたいと思わないわけではない。
恐ろしいのは、幸福を掴もうと伸ばした指が空を切ること。温もりを知ったあとに突き放されること。恐怖や不安は常につきまとって離れない。
それでも、今、確かに、何かが変わろうとしている。
不意に、こつりと音がした。
音のした方へ視線をやると、空になったグラスが床に置かれていた。思わず隣を確認する。彼は、先ほどまでと同じ姿勢でじっと魚に目を注いでいた。現実の時間、現実の場所に引き戻されて、安心したような、心細いような、不思議な気持ちに包まれる。それから慌てて目を逸らす。そのとき部屋の時計がちらりと目に入る。午後十一時五十二分。
こんなふうに水槽を見つめていると、記憶がとめどなく溢れ出して時間を忘れてしまう。十年前、三年前、十ヶ月前、半年前、一ヶ月前、数週間前。言葉にできるものがあり、言葉にできないものがある。父が死んだこと、妹が病気をしたこと、母が猫を飼おうとしていること。彼にはまだ話していない。話せない。
「可澄」
名前を呼ばれて再び隣を見る。静かな眼差しが、今度はこちらに向けられている。回想によって紛れていた緊張が、じわりと指先に滲む。しかし彼はこう続ける。
「そろそろ帰って寝た方がいい。明日も早いんだろう」
戸惑いながら肯けば、気をつけて帰れよ、と彼は言う。たった数歩の距離で、何に気をつける必要があるのだろう。おかしくて、それなのにどうしようもなく苦しくなった。
自室に戻り、ベッドに横たわる。暗闇の中で目を閉じる。瞼の上から眼球に触れてみる。考えないわけにはいかなかった。彼のことを。彼の気持ちを。
あの夏の夜が最初で、そしてそれきりだった。
あれから彼は、何もしてこない。
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