硝子の魚(glass catfish syndrome)

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20. 拒絶

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 声をかけてよいのか、わからなかった。
「安達さん」
 迷った末に、それでも相手の名を呼ぶと、瞼がゆっくりと持ち上がる。
 数ヶ月ぶりに見る眼球はやはり、硝子のように青みがかっている。
 薄い唇が微かに動く。
「…………樋川さん」
 この声だ。
 ずっと、この声を聴きたかった。
「――戻ってきたのか」
 だが、彼は微かに首を横に振った。
 否定の仕種に内臓が冷たくなる。しかしそのとき、安達の喉の奥から、ひくっという覚えのある音が聞こえた。だから言った覚えのある言葉を口にした。
「三十秒我慢しろ」
 こうして十分後、ミネラルウォーターのペットボトルとグラスとタオルと安達とが、久々に同じ空間に並ぶことになった。
「……ごめんなさい」
 安達は項垂れて謝罪した。その手は外したネクタイを掴んでいた。深い藍色のタイだ。安物というわけでもなさそうなのに、そんなに握り締めたら皺になる。そう思って手を伸ばしかけ、やめた。
「胃、どうかしたのか」
 肌は相変わらず滑らかだったが、ただでさえ痩せていた身体は以前よりも更に薄くなったように見える。四十度ほど下へ折れた首の細さが痛々しい。
「最近、少し調子が悪くて」
「だったらどうして今夜はこんなになるまで飲んだんだ」
 安達はテーブルの一点に視線を注いだ。けれど返事が出てくる気配はなかった。
「また、淋しくなったのか」
 沈黙。
「俺のせいなのか」
 沈黙。
「――すまない」
 暫くして、なんで、と低い声がした。
「なんで、樋川さんが謝るんですか」
 硬く、しかし今にも砕けてしまいそうな響きだった。
「……あれは、合意でした」
「違う」
 そんな言葉を言わせたくはなかった。たとえ事実であったとしても。
「安達さんは俺に引きずられただけだ」
 しかし彼は首を横に振った。
「…………だとしても、樋川さんが責任を感じる必要はありません」
 細い指先が、タイに深く食い込んでいく。
「……俺はあの夜、確かにあなたが欲しいと思いました。それなのに翌朝目が覚めたら、自分のしたことを――自分自身を、受け入れることができなかった。だからここにいられなくなって、逃げ出した…………ただ、それだけの話です。樋川さんとは関係のない、俺だけの問題なんです」
 安達は相変わらずテーブルの同じ場所を見つめていた。まるでそこに言うべき言葉が並べられているかのように。
 苦い後悔が内臓を焼く。
 こんなふうに独りで抱え込ませてしまうくらいなら、憎まれて責められる方がずっとよかった。彼にしてもその方がずっと楽だったはずだ。だが彼は拒絶した。それは何よりも厳しい拒絶だった。
 かける言葉を失って、自分もまたテーブルの上を見た。だがどんなに見つめても、関係がないとされてしまった自分に、彼の傷を癒せる言葉など見つかるはずもない。
「今まで、どうしていたんだ」
 ほかに口にできることなどなかった。
 安達は少し考えてから、実家に戻っていた、と答えた。
「家は千葉なんです。電車で通勤できない距離ではなかったので。…………今夜は、仕事帰りに飲みに行きました。色々考えていたら飲みすぎたみたいで、気づいたらここにいて……どうしてだろう」
 とうとう自分は完全に黙り込んだ。安達もまた口を噤んだ。
 二人分の沈黙が、重い液体のように空間に溜まっていく。
 このまま沈黙の中で訣別するのだろうか。そう思い始めたときだった。
「あ」
 不意に安達が声を上げた。
 視線は自分ではなく、部屋の隅に注がれていた。
「あのときの……」
 彼は立ち上がり、吸い寄せられるように視線の先にあるものへと向かう。
 水槽だった。
「…………なんで……」
 水槽の前に座り込み、魚を見つめる後ろ姿は以前と変わらない。
 しかし自分は彼の隣に座る資格を、自ら捨ててしまった。
 だから離れた場所で呟いた。
「グラスキャットというらしい」
 グラスキャット、と彼は繰り返した。
「…………五匹もいる」
「独りは淋しいからな」
 やや間をおいて、そうですね、と安達は言った。
 答える背中は、僅かに震えているようにも見える。
 言葉がまた、波のように引いていく。
 水の中で、硝子の魚はじっとしている。
 それを眺める、二匹の陸の魚もまた。
「……こんなことを言うのは自分勝手だと、わかってはいるんですが」
 子音が、小波ほどに揺れていた。
「また、ここに来てもいいですか」
 残酷な台詞を口にして、彼は俯く。怯えるように。耐えるように。
 なんて愚かなのだろう。
 傷つけられたことを忘れたわけではないのに、それを押し込めてでも埋めなければならない孤独を抱えている。そんな哀しい硝子の男。
 そして自分はその愚かで哀しい男に対し、哀しいほど愚かな過ちを犯してしまったのだ。
 一つ間違えば粉々に割ってしまいそうで、だから全ての言葉を呑み込んで合鍵を渡した。
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