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18. 硝子の魚
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それから何度も彼の部屋の前に立っては、インターホンを鳴らした。しかしいつ訪れても、安達は出てこなかった。やがて郵便受けには広告やダイレクトメールが溜まっていった。管理人に訊ねたが、引っ越したわけではないということしかわからなかった。
自分は安達の連絡先を知らなかった。彼がアポイントメントなしでやってこられるように、敢えて聞いていなかった。
隣の部屋からは何の気配も感じられないまま、数日がたち、数週間がたった。
白い壁を見つめながら、自分はあの夜のことを繰り返し振り返った。あの激しい交歓は、決して一方通行ではなかった。安達は確かに快楽を欲し、それを享受した。けれどそれは決して彼自身が望んで得たものではなかった。彼はただ、浅瀬で波に呑まれた人が、ずるずると深みへ引きずり込まれていくように、突然襲いかかってきた他者の激しい欲望と狂気に囚われ、否応なく惑溺させられただけだった。
我に返り、徹底的に辱められた自身の肉体を発見したとき、いったい彼は何を思っただろう。隣で眠る男に対し、どんな感情を抱いただろう。
いくら考えても、導き出される答えは変わらなかった。そして自分はそれを受け入れるほかないのだ。
それでも雑多な紙切れで溢れていく郵便受けを見るのは辛かった。そんなことをする権利などないと知りつつ、手が届く範囲でそれらを定期的に処分した。
そうやって、凍りついたような夏が終わった。
あるとき、職場でペットの話題になった。上司が犬を飼い始めたらしい。話を振られたので熱帯魚を飼っていると言うと、同僚の一人に是非見せてくれと言われた。愛好家なのだという。初心者向けのありふれたネオンテトラだ。見たってつまらないだろう。そう答えると、じゃあうちに来いと誘われた。どうやら仲間に引き込むつもりらしい。同僚は聞いたこともない魚の名前を列挙した。まるで害のない呪文のようだと思った。
途中から上の空だったせいか、気づけば同僚の家を訊ねることが決まっていた。どうせ暇なので、約束の日になると手土産を買って出かけた。同僚は既婚者で、彼の妻に買ってきた菓子を渡すと、ひどく喜ばれた。
「ここの胡麻サブレ、大好きなんです」
俺もです、と答えた。
同僚の水槽は、素人からすれば充分に立派なものだった。大きな水槽の中に、不思議な形の水草が配置され、様々な種類の魚が混泳している。巨大な美しい尾鰭をもつもの、身体に黄や青をまとったもの、或いは赤い光を帯びたもの、ユーモラスな顔で水底を這うように泳ぐもの。大人が夢中になるのもわからなくはない。
凄いなと呟くと、同僚は嬉しそうに、そうかと言った。珍しい魚を飼うよりも、美しいアクアリウムを作るのが好きなのだ、と彼は語った。それから一つ一つ名前を教えてくれた。とても覚えられそうにないと思いながら聞いていると、彼の指が水槽の真ん中あたりを示した。
「これはグラスキャット。身体が透き通っているんだ」
よく見ると、そこには魚がいた。その肉は澄んでいた。魚越しに、奥に生えた水草の緑が鮮明に見えた。
「グラスキャット?」
「トランスルーセントグラスキャットフィッシュ。トランスルーセント、つまり半透明だ。おとなしくて飼いやすい」
硝子の魚だ、と思った。こんな男を、自分は知っている。
気づけば訊ねていた。
「ネオンテトラと一緒に泳がせるのは難しいか」
彼は首を横に振った。
「問題ない。その気になったなら相談に乗るぞ」
結果的には、同僚の狙いどおりになった。一週間後、新しくやってきた五匹のグラスキャットは、元いた魚たちと上手く共存した。
硝子の魚は、いつも水の一部のようにひっそりと泳いだ。その透明な肉は儚かった。指で触れたら溶けてしまいそうだった。
最初からこれを飼えばよかったのだ。今更のように、そう思った。たとえどんなに美しくとも、否、美しいからこそ、決して触れてはならないものがあることを、自分はもっと早く知るべきだった。しかし、もう遅かった。
グラスキャットを飼い始めて暫くすると、同僚が様子を見にやってきた。水槽を眺めながら、二人で安いワインを水のように飲んだ。
「次は何を入れる? グッピーなんてどうだ」
自分は首を横に振った。
「これで充分だ」
自分は安達の連絡先を知らなかった。彼がアポイントメントなしでやってこられるように、敢えて聞いていなかった。
隣の部屋からは何の気配も感じられないまま、数日がたち、数週間がたった。
白い壁を見つめながら、自分はあの夜のことを繰り返し振り返った。あの激しい交歓は、決して一方通行ではなかった。安達は確かに快楽を欲し、それを享受した。けれどそれは決して彼自身が望んで得たものではなかった。彼はただ、浅瀬で波に呑まれた人が、ずるずると深みへ引きずり込まれていくように、突然襲いかかってきた他者の激しい欲望と狂気に囚われ、否応なく惑溺させられただけだった。
我に返り、徹底的に辱められた自身の肉体を発見したとき、いったい彼は何を思っただろう。隣で眠る男に対し、どんな感情を抱いただろう。
いくら考えても、導き出される答えは変わらなかった。そして自分はそれを受け入れるほかないのだ。
それでも雑多な紙切れで溢れていく郵便受けを見るのは辛かった。そんなことをする権利などないと知りつつ、手が届く範囲でそれらを定期的に処分した。
そうやって、凍りついたような夏が終わった。
あるとき、職場でペットの話題になった。上司が犬を飼い始めたらしい。話を振られたので熱帯魚を飼っていると言うと、同僚の一人に是非見せてくれと言われた。愛好家なのだという。初心者向けのありふれたネオンテトラだ。見たってつまらないだろう。そう答えると、じゃあうちに来いと誘われた。どうやら仲間に引き込むつもりらしい。同僚は聞いたこともない魚の名前を列挙した。まるで害のない呪文のようだと思った。
途中から上の空だったせいか、気づけば同僚の家を訊ねることが決まっていた。どうせ暇なので、約束の日になると手土産を買って出かけた。同僚は既婚者で、彼の妻に買ってきた菓子を渡すと、ひどく喜ばれた。
「ここの胡麻サブレ、大好きなんです」
俺もです、と答えた。
同僚の水槽は、素人からすれば充分に立派なものだった。大きな水槽の中に、不思議な形の水草が配置され、様々な種類の魚が混泳している。巨大な美しい尾鰭をもつもの、身体に黄や青をまとったもの、或いは赤い光を帯びたもの、ユーモラスな顔で水底を這うように泳ぐもの。大人が夢中になるのもわからなくはない。
凄いなと呟くと、同僚は嬉しそうに、そうかと言った。珍しい魚を飼うよりも、美しいアクアリウムを作るのが好きなのだ、と彼は語った。それから一つ一つ名前を教えてくれた。とても覚えられそうにないと思いながら聞いていると、彼の指が水槽の真ん中あたりを示した。
「これはグラスキャット。身体が透き通っているんだ」
よく見ると、そこには魚がいた。その肉は澄んでいた。魚越しに、奥に生えた水草の緑が鮮明に見えた。
「グラスキャット?」
「トランスルーセントグラスキャットフィッシュ。トランスルーセント、つまり半透明だ。おとなしくて飼いやすい」
硝子の魚だ、と思った。こんな男を、自分は知っている。
気づけば訊ねていた。
「ネオンテトラと一緒に泳がせるのは難しいか」
彼は首を横に振った。
「問題ない。その気になったなら相談に乗るぞ」
結果的には、同僚の狙いどおりになった。一週間後、新しくやってきた五匹のグラスキャットは、元いた魚たちと上手く共存した。
硝子の魚は、いつも水の一部のようにひっそりと泳いだ。その透明な肉は儚かった。指で触れたら溶けてしまいそうだった。
最初からこれを飼えばよかったのだ。今更のように、そう思った。たとえどんなに美しくとも、否、美しいからこそ、決して触れてはならないものがあることを、自分はもっと早く知るべきだった。しかし、もう遅かった。
グラスキャットを飼い始めて暫くすると、同僚が様子を見にやってきた。水槽を眺めながら、二人で安いワインを水のように飲んだ。
「次は何を入れる? グッピーなんてどうだ」
自分は首を横に振った。
「これで充分だ」
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