硝子の魚（glass catfish syndrome）

13. 危うい肉

　口から指を抜き取る。彼の唾液は熱い割に粘度が低く、さらっとしていた。奉仕すべき対象を失った舌は、何処か不服そうに濡れた自身の唇を舐めている。
　指以外のものを咥えさせたい。そんな衝動に駆られつつ、先に約束を果たすことにした。
「――可澄」
　細い腰と後頭部に掌を回し、ゆっくりと押し倒す。見つめる瞳に僅かな怯えが透ける。
「怖いことはしない」
　少し湿った前髪を掻き上げてやりながら言う。
「俺の言うことが聞けるな？」
　彼の頭の横に片手をつき、白くなだらかな胸に浮き上がった小さな膨らみをつつけば、安達は瞼をきつく閉じて肯く。声こそ出さないが、吐息が潤んでいる。
「いい子だ」
　先刻の行為によって濃い赤に変色した部分に舌を這わせる。先端には触れず、わざと乳輪だけをぐるりと舐め回す。片手で胸筋や腹筋を辿れば、脂肪の少ない、ごく薄い筋肉をまとった身体は、しっとりと濡れて敏感に震えた。
　執拗に周辺をなぞっていると、所在なく床に置かれたままだった彼の手が動いた。遠慮がちに首を抱かれる。そして更に遠慮がちな力加減で、こちらの顔を、正確には舌を、そっと胸の尖った部分に押しつけようとする。頭の上から、短く微かな声がした。
「…………ここ」
　透明な花蜜が一雫、耳の中に滴り落ちたような感覚。
「ここか？」
　腫れ上がった場所に舌の先を押しつけ、小刻みに動かす。
「……あっ、あ、……ぁ……ん」
　途端に安達の腕の力が増した。しがみつくものを探した指に項の辺りを軽く引っ掻かれ、ぞくりとする感覚が脊髄を伝って走る。それでお返しに強く吸引した。
「んんっ……や、あ、あ、あ」
　上擦る声は、快感を訴えていた。
「なんだ。本当は強いのも好きなのか。じゃあ噛むのもよさそうだな」
「ひっ」
　歯で挟んだそれは、小さく硬く、錯覚だとわかっていても何処か甘い。噛んで舐め、また噛む。時折唾液で歯が滑り、そのたび彼は身体を強張らせて息を呑んだ。
　好きなだけ弄んで顔を上げれば、彼の胸の上にぽたりと汗が落ちる。
　冷房が効いているにも拘らず、既にお互い汗だくだった。
「可澄」
　耳に、こめかみに、下睫に、判を押すようなキスをする。だが、好きなところを触ってもらったはずなのに、彼は何故か泣きそうな顔をしていた。どうした、と訊ねる前に、くいっとシャツを引っ張られる。
「……ああ、そうか」
　相手の視線の先にあるものを見て納得する。反対側も触ってほしいらしい。
「そっちは自分でするんだ。両方同じくらい赤くなったら、舐めてやるから」
　瞼が激しく上下する。それから安達は弾かれたように首を横に振った。手の甲で目許を覆い、身を竦ませる。理性が戻ってきたのだろうか。
「可澄」
　深く沈んでは不意に浮き上がり、なかなかこの悦楽に惑溺することができない、そんな苦しげな姿に、ありったけの欲望をぶつけたくて堪らなくなる。
「可澄」
　聞き分けのない子供を諭すように名前を繰り返す。
「可澄。……可澄」
　頬を撫で、目を覆う指を取り、手首の内側を軽く吸う。
「……ぅ」
　躊躇いが少しずつ溶け崩れていくのが、沁みるような肌の熱さから読み取れる。
　視界を奪うように、露わになった眼球に顔を寄せた。
　迷いと期待がせめぎ合い、途方に暮れたようにこちらを見上げるほかに術をもたない、無防備で貪欲な視線。
　眼差しは、既に堕ちている。
「いい子だから、できるな？」
　殊更に甘く誘惑したとき、彼の腕が動いた。
　細くしなやかな手が、ゆっくりと自らの胸へ伸びていく。
　澄んだ肌を滑るように撫でる、繊細な掌。
　その光景を目にした瞬間、ひどい眩暈に襲われた。
　彼が今、欲望のために使役せんとしているそれは、かつて美しい偽物のアクアリウムに触れ、儚いアクアブルーの光に透けた、硝子の指だった。
　哀しいほど綺麗だと思ったあの指を、自分は辱めている。
　いったいなんてことをしているのだろう。
　自分はこんなことを望んでいたわけではなかった。ただ愛しかった。それなのに何故。
　安達さん、と呼ぼうとした。
　やめろ、そう言おうとした。
　けれど口から出た言葉は、理性を嘲笑うように心を裏切った。
「もっと強くするんだ、可澄」
　まだ柔らかそうな、清純な色をした部分を、ほっそりとした指先が震えながら摘んでいる。
「もっとだ。そんな調子だと、いつまでたっても舐めてもらえない」
　胸骨全てが金属にでもなったかのように冷たい。それなのに全身を巡る血は煮え湯の熱さで、自身への激しい嫌悪と憎悪は全て欲望に置換されてしまう。
「痛くなるまで抓るんだ。爪を立てて、押し潰して」
「……ぅ……はぁ、……ふ、あ、……」
「そう。上手だな」
　淫らな行為に没入する男。哀れな痴態は溺れる魚のよう。いっそこの凍えた心ごと、自分もその深い海に身を沈めてしまおうか。
「――可澄」
　頬に頬をすり寄せ、耳の付け根に唇を押し当てる。
「俺の名前、知ってるか」
　焦点の合わない目が虚空を揺蕩う。
「…………ひ、かわ、さん」
　舌足らずな発音になってなお、彼の声は透明度を失わない。
「そうじゃない。下の名前だ」
「………………しゅ……ご……さん」
「――呼んで」
　その言葉でこの心を縛りつけてほしい。自分が彼にそうしたように。
「……しゅうご、さん……修吾さ……んっ」
　捕食するように、口づけた。
　全て食い尽くしてしまいたい。
　彼に対する感情を、彼自身を、彼にまつわるあらゆるものを、残らず噛み砕いて呑み込んで自分のものにして、何もかもを完結させてしまいたい。
　濡れた口許を拭ってやってから、震える胸に手を這わせる。
「――手伝おうか」
　心はもう、縛られた。
「……可澄」
　健気に乳首を弄り続ける彼の指に、自らの指を添えた。そして強くすり合わせる。
「あっ……あ、あ、あ」
　身体の下で、細い腰がしなっているのがわかる。もうだいぶ濡れているのだろう。そちらも触ってほしいのかもしれない。けれど彼は先程と同様、小さな子供が母親の気を引こうとするように、こちらのシャツを引っ張って赤くなった部位へと視線を落とす。約束を守れ、と言いたげな仕種に、我知らず笑みが零れた。
「してほしいなら、きちんとおねだりしないとな」
　安達はシャツの端を握り締めたまま、僅かに首を傾げる。どうもおねだりという言葉の語義について考えている様子だった。そこで引っかかっているようではいつまでたっても結論が出ないのは明白なので、老婆心ながら言うべき言葉を耳に吹き込んでやる。
　ひゅっと息を吸い込む音が聞こえた。
「さあ、言ってごらん」
　泣きそうな顔をしたあたり、羞恥心はまだ残っているらしい。しかしそんなものが欲望にかなうはずもなく、十数秒もすると唇が開いた。甘い粘膜がちらりと見える。
「……あ、かく……なったから、…………」
　安達は視線をうろうろと彷徨わせた。自分は意地悪く黙ってそれを見守る。助けがないことを悟ったのか、彼は目を閉じ、今にも途切れそうな声で呟いた。
「ち…………ちくび、なめて……」
　頭がおかしくなりそうだった。
　すぐに貪りたくなる気持ちを捻じ伏せて、まだだ、と告げる。
「まだ全部言えてないだろう」
　熟れた果実のようになったそこを爪の先で弾けば、彼は震えながら言葉を続ける。
「……なめ、て……、すって、か……かんで……」
「可愛いな、可澄」
　彼の指を胸から除け、希望どおりに硬い実を味わった。先に口で愛撫した反対側も、同時に指でこねる。たちまち甘い声が耳を満たした。頭がぐらぐらする。聴神経が砂糖漬けにされたら、きっとこんな感じだろう。
　クリームを舐め取るように撫で、痛がるほど強く吸い、また柔らかく舐めてから、歯を立てる。
「ぅあ……ぁ……あっ、ん、ん、っぅ」
　触れるだけで融けていきそうな、危うい肉。
　何処までも優しく、何処までも残酷になれる気がした。
「胸で感じるなんて、女の子みたいだな」
　揶揄されて、恥じるように彼は顔を背ける。
「……ちが……」
　そうやって晒された下顎骨の線にさえ欲情すると白状すれば、彼はいったいどんな顔をするだろう。
「違うのか。じゃあもう終わりにするか」
　突き放すように身体を起こそうとすると、懸命にしがみつかれた。濡れた目で恨めしそうな顔をするのが呆れるほど色っぽい。
「なんて言えばいいか、わかるよな」
　こちらの首に腕を絡ませたまま、泣き出す寸前の瞳のままで、彼はこくりと肯いた。
「――好き……おっぱいいじられるの、すき……」
「いい子だ」
　頬にキスを落とし、胸への辱めを再開する。
　子犬が甘えているような、甘い甘い鳴き声。
　抱き締めてくる腕の強さ。
　時折擦りつけられる、下腹部の熱。
　何処までが自分の欲望で、何処からが彼の欲望なのか。
　もうきっと、区別はつかない。