硝子の魚(glass catfish syndrome)

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3. 雫

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 三〇二号室の男とはそれからも何度か顔を合わせた。二度目の邂逅が念頭にあるので、大抵は挨拶だけで済ませた。そんなときでも男は微笑一つ浮かべなかった。初めて会ったときに自らの社交性の全てを使い切ってしまったのではないかと思えるほどの愛想のなさだった。
 しかしだからといって、金曜の夜、心地よい酩酊に浸りながら帰路につき、自宅アパートの三階のフロアまで辿り着いたとき、廊下で力尽きている男を発見した場合、それを見捨てておくことはできない。
「大丈夫ですか」
 男は倒れているとも座っているとも判じかねる体勢で、自身の部屋の扉にもたれていた。鞄が脇に転がっている。顔色が悪い。おおかた酒でも飲みすぎたのだろうが、こちらもかなり飲んでいるので相手に酒の匂いがするかはわからない。
「おい、大丈夫か」
 繰り返しても返事はなかった。それで記憶をたどる。
「しっかりしろよ、安達さん」
 思い出したばかりの名を口にして肩を揺さぶると、彼は薄く目を開けた。睫が随分長かった。それもやはり、何処か淡い色合いをしていた。
「飲んだのか?」
 訊ねれば、安達は微かに肯いた。
「気分が悪いのか?」
 やはり肯く。
「吐き気は?」
 肯く。
「鍵は何処だ?」
 すると何故かここで安達は首を横に振った。
「まさか、なくしたのか?」
 返事の代わりに、ひくっと喉のなる音がした。大惨事の予感に、酔いが完全に醒める。
「三十秒我慢しろ」
 そう言い残し、自室の扉の鍵を開ける。自分が学生時代に柔道をしていたこと、そして彼が痩せ型であることに感謝しつつ安達を抱きかかえると、猛然とトイレに走った。
 トイレのドアが開いたのは、放置したままの安達の鞄を回収し、着替えを済ませ、ミネラルウォーターのペットボトルとグラスを二つ用意したときだった。
「ご迷惑をおかけしました。申し訳ありません」
 安達はそう言って項垂れていた頭を更に下げた。スーツの上着は脱いで、ネクタイも外していた。シャツのボタンがいくつか開いていた。迷ったが、外見上、相手の方が年上だという可能性は限りなく低かったので、そのまま敬語は使わないことにした。
「まあ、座れよ。服は汚れなかったか?」
「……大丈夫です……あの」
 水の入ったグラスを突き出すと、彼は躊躇ったあとで礼を述べておとなしく傍に座り、もう一度礼を言ってグラスを受け取った。
 ユニットバスなのでついでに顔も洗ったのだろう、髪が少し濡れていた。小さな雫が白い頬から喉許へと伝う。ふと、北国を旅行したときに見た、朝露に濡れた花を思い出した。しかしこれは悪酔いした成人男性だ。馬鹿馬鹿しさに頭を振って、タオルを持ってきて渡すと、何度目かの礼と詫びが返ってきた。
「もっと飲んだ方がいい」
 そう言って安達と自分のグラスに水を注ぎ足す。安達はやはり、すみませんありがとうございます、と言った。目を閉じて、顎を少し上げ、細い喉仏を動かして水を飲む姿を、見るともなしに見る。
「気分は?」
 男はグラスを持ったまま、宙を見つめて数秒固まった。それから神妙な顔つきでこちらに視線を向けた。青みの強い白目と、曖昧な色の虹彩と、その中央で深く静まり返っている洞のような瞳孔とで構築された眼球は、恐ろしく精巧な蜻蛉玉に似ていた。笑っていなくても、黙っていても、やはり彼は硝子細工だった。
 濡れた白い唇が開くと、薄赤く潤んだ粘膜がちらりと見えた。
「だいぶよくなりました。あの、本当に、ありがとうございます」
 今度はこちらが沈黙する番だった。
 安達は少し困ったような顔をして視線を外した。そしてまた何度か瞬きをする。そのたびに湿ったような睫が照明を弾いた。
「このたびは申し訳ありませんでした。後日またお礼とお詫びに伺います。今日はもう遅い時間ですし、そろそろ……」
「俺でよければ話を聞く」
 単に仕事の付き合いで飲んだだけなのかもしれない。そしてうっかり飲みすぎただけなのかもしれない。それでも鎌をかけた理由は、意識の底の方ではわかっていた。
「何があったんだ」
 僅かに目を見開いたあと、安達は暫く黙り込んだ。自分もここにきて、彼のことが少しずつ掴めてきた。彼は恐らく、話すのにとても時間のかかる人間なのだ。
 長い長い静寂を経たのち、たいしたことではないんですが……と呟く声が聞こえた。
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