硝子の魚(glass catfish syndrome)

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1. 硝子の声の男

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 アパートの隣の部屋に越してきたのは、若い男だった。

 午前中から外が騒がしいことには、ぼんやりと気づいてはいた。しかしその日は、前の晩に先月離婚したという大学時代の先輩に付き合わされて、日付が変わるまで飲んでいた。始発で帰宅して溺れるように慈悲深い眠りに引き込まれた身としては、多少の物音では浮世に戻る気にはなれない。春の真綿のような光と大気に包まれた日曜日であれば尚更だ。
 漸くベッドから起き上がったときには、既に午後になっていた。その頃には既に騒ぎは収まっていた。それで騒音のことはすっかり忘れていた。しかしシャワーを浴びパンと卵を焼きそれらを胃袋へ落とし込んだところで、チャイムが鳴った。
 インターホン越しに聞こえてきた声は、男のものだった。
 それは硝子細工を思わせた。発音が滑らかだ。何より受話器を介していても音が澄んでいる。声はやや高めだが、落ち着いた話し方だった。そんな声で、お騒がせして申し訳ありません、とか、今日から三〇二号室に、とか、詰まらないものですが、とか言う相手の言葉を聞きながら、世の中には結構な声の男もいるものだと妙に感心した。
 扉を開けると、予想どおり男が一人立っていた。年の頃は二十代半ばくらいで、白っぽいシャツに黒のジーンズ姿だった。容貌に関しては、ある意味では予想どおりであり、またある意味では予想を大きく超えていた。そこにいたのは、声と顔とが異様に一致した男だった。目が合うなり、男は微笑した。そのままスワロフスキーの広告に使えそうな笑顔だった。
 男はインターホンで口にしたのと同じような内容を淀みなく繰り返し、よろしくお願いしますと頭を下げた。一連の流れは完璧だった。腰を折る角度さえ非の打ちどころがなかった。扉が閉まると同時に、視界が急に解像度を下げたように感じられた。最後に男が差し出した紙袋だけが、手の中に残された。
 不思議な気分だった。単身者向けのアパートに越してきて、隣人に挨拶をする人間は珍しい。少なくとも自分はしたことがない。されたこともない。これまで三〇二号室に住んでいた若い女が、いつ出て行ったのかも知らない。三〇四号室に至っては、たまに聞こえる生活音で存在を確認するだけで、入居者の性別すら把握していない。だから律儀な男もいるものだと再び感心した。
 感心な男が持ってきた紙袋の中身は、もちろんスワロフスキーでもバカラでもなく、小綺麗な箱に入った洋菓子だった。どうやら焼き菓子の詰め合わせらしい。無難な選択だ。しかし自分は甘いものを一切口にしない。だから職場に持っていこうと袋を鞄の横に置きかけて、しかし思い直した。一つくらい摘んでおいた方が、次に顔を合わせたとき礼を言いやすいだろう。残りを同僚に振る舞えばいい。それでローテーブルの前に座り、箱を開けた。
 特に選ぶ必要はなかった。真っ先に目についたものを取り、「Sablé」と印刷された袋を破る。途端に芳ばしい香りが広がった。歯を立てれば、さくりと小気味よい音がする。咀嚼すれば、仄かな甘みと胡麻の風味が口腔で混じり合って溶ける。二口三口と続けて頬張って、最後の欠片を飲み込んだあと、少し考えて、菓子の入った箱はローテーブルの上に置き、紙袋は畳んで古紙回収用の袋に入れた。コーヒーを淹れよう、と思った。
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