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9. 普通と実存と実存に先立たれた本質と下着について
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目的地は三階にあった。廊下を突っ切り、階段を飛ぶようにして下りると、再び廊下を走る。無駄に鋭い久野の双眸が、『理科室』と書かれたプレートを捉えた。周りに生徒の姿はない。何か物音か人声は聞こえないかと、自身の足音と心音の隙間から耳を澄ませば、言い争うような、と形容するにはトーンに違いのありすぎる、二人分の声が微かに聞こえた。
「――どうだろう、名案だと思わないか?」
「何をおっしゃっているのかわかりかねます」
「おお、わからないか。じゃあもう一回頭から説明しよう」
「結構です」
「まずこれがポスターの原案だ」
「結構だと言うのが聞こえないのかこの唐変木」
――間違いない、向坂の声だ。間に合うか。いや、間に合わせる。
駆けつけた久野は、がらりと理科室の戸を開け――ようとしたが、戸は最初から完全に開いていた。なんだか妙な気がしないでもなかったが、細かいことに拘っている暇はない。開いた戸から教室に飛び込み、大声で叫ぶ。
「向坂、無事か!」
彼の声に、教室内で向かい合って立っていた二人の生徒が、同時に振り返った。薄茶と灰の中間の色をした長い髪が揺れて、あの灰色の目が現れる。
「何だその顔は。また通報されるぞ」
そう冷たく言い放ったのは、向坂だった。服はきちんと着ているし、怪我をしている様子もない。間に合ったのだ。
「ま……またって何だよ、俺まだ一度も通報されたことなんてねえよ! 職質はあるけども! 結構な頻度であるけども!」
怒りながらも、久野は安堵した。そして少々びびりつつ、札付きの不良六年生を威嚇しようと、向坂と対峙している人物に視線を向けた、そのときだった。
「おお、そこにいるのは五年のえーっと、顔が怖い人だな」
「停学喰らった六年って、そっちかよ……」
久野は思わず額を押さえた。実は、去年停学処分となり卒業を逸した問題児の六年生は、二人いた。一人が前述の札付きの不良で、もう一人が札付きの非常識である。そして理科室にいたのは、幸か不幸か後者だった。
「ちょうどいい、顔が怖い人もこっちに来て、俺の話を聞き賛同し賞賛してくれ」
札付きの非常識こと早船秋尾は、黒縁のスリムな眼鏡をかけた優男フェイスに笑みを浮かべて久野を手招きした。またしても頭痛案件が増える予感しかしなかったが、それでも善良な久野は言われたとおり二人の許へ行った。今にも相手の股間を蹴り上げそうな勢いで不機嫌極まりない向坂とは対照的に、早船は蜂蜜の壺を抱えた黄色い熊のごとくハッピーな様子で、手には紙切れを持っていた。
「来たな、顔が怖い人。ははは、近くで見るとよりいっそう顔が怖いな」
「久野です。顔が怖い人で間違ってはいませんが、久野です」
「はははは、普段なら顔が怖くて話しかけることなんてできないが、パッションに満ち溢れた今の俺は無敵だからな、話しかけちゃうぞ、顔が怖いオノ」
「オノじゃなくてクノです。それと間違ってはいませんが顔が怖いを連呼するのはやめてくださいそろそろ泣きそうです」
「了解したぞ、クソ」
「デリカシー!」
「……付き合っていられないな」
不毛としかいえないやりとりに苛々したらしい。向坂はくるりと背を向けてしまった。そんなこと言わずに、と相手の肩に手をかけようとした早船は、振り向きざまの極寒の視線に威圧され、伸ばしかけた手をさっと自分の背中に隠し、救いを求めるように久野を見た。早船を救ってやる義理など久野にはなかったが、向坂のいやにぴりぴりした空気に違和感を覚えた彼は、仕方なく頭痛案件(仮)に手をつけることにした。
「どうしてここまで向坂を怒らせたんですか、俺が部屋にエロ本持ち込んだときくらいご機嫌斜めですよ。このあとこいつと明日の朝までずっと同じ部屋にいなきゃならない俺の身にもなってくださいよ」
「それがな、実は署名活動をしようと思ってだな、向坂に協力を依頼していた」
早船は久野に半歩近寄ると、無駄にきらきらした笑顔で、手にしていた紙切れを胸の前で広げてみせた。
「何の署名ですか?」
「『七葉の制服にスカートを導入せよ』」
「おい向坂、帰るぞ」
「待て待て待て、少しは話を聞いていけよ」
「そんなふざけた話の何処に聞く価値があるっていうんですか」
早船は非常識な男である。停学処分を受けた理由は明らかにされていないが、猥褻物頒布だとか猥褻物陳列だとか、真偽はさておきとにかくろくでもないとしかいいようのない噂が流れていた。停学中は埋蔵金を求めて親の土地を掘り起こしていたらしいのだが、千両箱ではなく温泉を掘り当ててしまい、放っておくのももったいないので大型温泉施設をオープンすることになったという。もし今年度で高校を卒業できなかった場合、高校を中退して温泉の経営に回る予定だというのだから、親が無駄に金持ちなのも考えものである。
「俺はふざけてなどいない。大真面目だ」
「スカートなんて導入するわけないじゃないですか。ここ、男子校だってわかってます?」
「城咲女子も、今年度から制服にスラックスを導入したじゃないか。だったら我が七葉も……」
「そりゃズボンは男女問わず穿きますけど、少なくとも日本では男がスカート穿くのなんてナシでしょ」
すると早船は、何故か得意気にふふんと笑った。
「では訊くが、何故男がスカートを穿くのは『ナシ』なのか、お前は説明できるか?」
「え、だってそれが普通だし……」
「ははははは、『それが普通』と来たか。ようし、いいかよく聞けよ、俺が今、制服を通して問題にしようとしているのは、もっとでかいことなんだ」
へらへらした優男フェイスが、突然ぐっと近づいてくる。
「――『普通』って、何だ?」
久野が言葉を失って瞬きしていると、早船は彼から視線を外した。そうして教室の真ん中まで歩いていくと、胸を張って両手を広げ視線を心もち上げて、まるでスポットライトを当てられた舞台俳優のように語り始めた。
「俺は物心ついたときから、『普通』という言葉に違和感を持っていた。『それが普通だから』『普通はそうだから』『普通の人は』『普通なら』『普通は』『普通』『ふつう』……。だが『普通』という言葉を発するとき、我々は何を想定し何をすくい上げ何を切り捨て何を肯定し何を否定しているのか、果たして真摯に思考しているのだろうか。お前はどうだ。さっき『普通』と言ったとき、お前はきちんと考えたうえでその言葉を発したか?」
久野は何も言えなかった。普通は普通だという考えは変わらなかった。だが、水面下では確実に揺らぎが生まれていた。普通って何だろう、ということではない。理由を訊かれ普通という言葉を口にしたとき、自分が実際に何も考えていなかったことを、彼は悟ったのである。
「俺は、『普通』という言葉を軽率に無自覚に思考停止的に濫用する連中と戦う人間だ。やりたいことはただ一つ、『普通』に毒された人間の『常識』に風穴を開けたい。だからスカートが実際に導入されなくても構わないと思っている。俺の活動を見聞きして、『普通』を思考停止的に濫用する『常識』的な人間に、『普通』とは何だろうと一歩立ち止まって考えてもらえれば、それで目標はクリアだ」
早船のやろうとしていることは馬鹿げている。馬鹿げてはいるが、しかし本人が至って真面目だということは、ここにきて久野にもよくわかった。それまで彼の心の中にあった、いったい思春期にどんなケイオティックなエロ本にエンカウントすれば、男子校の制服にスカートを導入するという頭の螺子が十本くらい飛んだうえに全ての発条がなるとに置換されたような発想が生まれるのだろうという呆れは、いったい幼少期にどんなトラウマティックな出来事に遭遇すれば、そんな馬鹿でかくておまけに茫漠とした巨象の幽霊みたいなものに木の剣と葉っぱの盾で立ち向かうような人生を選ぶことになるのだろうという疑問へと変化していた。
「向坂にこの話を持ちかけたのはほかでもない、向坂がこの学園で最も俺の思想に適合する人間だからだ。実をいうと、俺も『常識』に囚われていた。今朝、全校朝礼で向坂の姿を見たとき、まさか男が突然女になるなんて『普通』ありえないだろう、と思ったわけさ。つまり向坂は俺の中に隠れていた『普通』や『常識』を顕在化させ、そこに風穴を開けたんだ。だから俺は、俺を超える非常識な存在である向坂を、このプロジェクトの顔として起用したい。そして一緒に、思考停止した奴らの『常識』を蜂の巣にしてやりたい」
「プロジェクトって、そんな大仰な……つか、早船さんのパッションは何となく伝わりましたけど、それに賛同するかどうかはまた別次元の問題で……」
久野が戸惑いの声を上げた、そのときだった。
「――"project"。フランス語では"projet"、和訳すると『投企』だな」
今まで黙っていた向坂が、口を開いた。その声からは、先程までの刺々しさが消えている。
「おお見ろ、向坂が食いついたぞ!」
「今の話の何処に食いつける要素があんだよ、可食部ゼロパーだろどう考えても」
はしゃぐ変人とげんなりする凡人を前に、ゴッドは冷静に続けた。
「あなたがこの活動によって、自己の可能性を追求しようとしているのだということは理解しました。僕も古い制度や意味のない風習の傀儡として生きる人間は嫌いなので、あなたの気持ちはわからないでもありません。だから正直に答えてくれれば、もう少しだけ話を聞いてあげましょう。教えてください、何故制服、そして何故スカートなんですか。啓蒙活動が目的なら、ほかにもっと実現の容易い、現実的なプランがいくらでもあるでしょう」
「特に理由はないが、ふと思いついたんだ」
この返答に、向坂の眉がぴくりと動いた。
「正直に、と言ったのが聞こえませんでしたか」
触れれば切れそうな眼差しに、傍から見ているだけの久野も思わず首を竦めた。さすがの早船もこれにはたじろいだのか、目を泳がせる。
「あー、そうだな、これはたぶんなので話半分で聴いてもらいたいんだが、向坂がスカートを穿いたら学園生活がよりスリリングになるだろうなと思ったのが〇・〇〇〇〇一パーくらいは関係しているかもしれないな、もちろんたぶんの話だぞ、たぶん」
一平方センチメートルほど存在していた対話の可能性が、落ち穂を拾う余地もないほど綺麗に燃え尽きた瞬間だった。久野は今度こそ完全に呆れ果てた。
「参考までに言っとくけど、あんたそれ全然誤魔化せてねえぞ。向坂、これ以上話をしても無駄だ、寮に……って、ねえ嘘でしょ待って何肯いてるの向坂さん」
「何って、この男は正直に答えただろう。仮に嘘をつくなら、もっとまともな理由をでっちあげるはずだ」
話し合いの余地は完全に消え失せた。少なくとも久野にはそう感じられた。だが向坂は頭の螺子が他人より二十本ほど余計に入っているのが災いしたのか、あるいはただ単に真面目なのか、脳細胞の死を感じるほどくだらない理由であったとしても、相手が正直に質問に答えた以上、約束どおり話を聞いてやる義務があると考えているようだった。これには久野も戦慄せざるをえなかった。本来なら向坂が誰とどんな馬鹿なことをしでかそうと知ったことではないのだが、彼がこの厄介な生き物の面倒を見るはめになってしまった今、向坂が面倒事に関わるということは、九割九分九厘プラス一厘の確率で久野もその巻き添えを食うということだ。もしもこの精神的に非常識な男と肉体的に非常識な男によって自らも妙な活動を強いられて、それが教師の目につき、自分の進路、たとえば大学の指定校推薦に響くなんてことになってしまったら、誰がその責任を取ってくれるというのだろう。ここは何が何でもこのプロジエだかポージェだかをご破算にしなければならない、と哀れな少年は考えた。
「あ、あのー、俺も早船さんに訊きたいことがあるんですけど、仮にですよ、もし仮に制服にスカートが導入されたとして、それを向坂が穿くかどうかは、また別のレベルの問題じゃないですか。ていうかどう考えても、向坂は穿かない気が」
「そうなの向坂?」
「そうだろ向坂?」
ほぼ同時に問いかけられ、向坂は真面目な顔のまま首を縦に振った。
「制服として正式採用されたとしても、僕は穿きませんね。何故ならスカートは下半身が冷えるうえに、裾から下着が覗くことを気にして行動しなければならないという、致命的に合理性を欠いた構造をしているためです。猛暑の際に着用する夏服としてならまだ考える余地がなきにしもあらずですが、いかんせん七葉校内は冷暖房完備ですからね、着る機会はないでしょう」
「ですってよ」
「まじか。でもまあアレだ、とりあえず導入さえしておけば、ひょっとするとクーラーが故障することもあるだろうし、アレ」
「だからどうしてそんな低確率に賭けようとするんですか」
この男、本当は温泉ではなくうっかり化学兵器を掘り起こして毒ガスに中てられたのではないだろうか、と久野は本気で思い始めた。ありえない話ではない。
「それにですよ、たとえ導入されることになったとしても、何年もかかるでしょ。早船さんは六年で、俺たちは五年なんですよ、たとえ早船さんが留年して粘っても、優等生の向坂はさっさと進級して卒業しますから、新しい制服が導入される頃にはもうこの学校にはいませんよ。せっかくなら、もう少し我々にメリットのある企画にしましょうよ、ね?」
「そのへんもアレだ、うちの教頭は色々とアレだから、俺のポケットマネーと親の人脈でアレすればアレだし、二ヶ月もあればアレ」
「実際に導入されなくても構わないとか言っておきながら、最初から汚い手を使って実現させるつもりだったんですか。もしも校内のクーラーが壊れたら、俺は真っ先に早船さんを疑いますからね」
久野は今度こそ完全に呆れた。向坂も再び不機嫌モードに突入したようで、険しい顔で早船を見上げる。
「裏から手を回すのであれば、署名活動など不要では?」
「こういう類のことは、生徒たちが主体的に動いたという体で進めた方が、諸々都合がいいだろう。俺にとっても、そして何より学校側にとっても。もちろんこのことは公には……」
「――もう結構です」
向坂は毅然とした調子で相手の言葉を遮った。
「話はわかりました。現段階では、僕はあなたの"projet"に関わる気はありません。ただ、先ほど言ったとおり、あなたの思想それ自体には共感する部分もないわけではありませんので、より合理的かつ現実的な案を思いついたら、また来てください。では僕はこれで本当に失礼します」
「そうかわかった、じゃあ早速計画を練り直すことにする。今日はありがとう。実に有意義なひとときだった」
意外にもあっさりとした反応だった。なんだか嫌な予感がしないこともなかったが、これ以上早船と会話を続けるとゴッドがますますご機嫌斜めになることは明白だったので、じゃあこれで、と口の中で呟くと、久野は向坂と共に理科室を出た。
「……何なんだろうな、あの人」
二人並んで廊下を歩きながら、久野は溜め息をついた。ただ会話していただけなのに、ひどく疲れていた。向坂とは異なる種類の面倒臭さが、どうもあの男にはあるようだ。
「つか、お前にしては随分寛大だったな。途中であいつの股間を蹴り上げるんじゃないかって、冷や冷やしたけど」
向坂は返事をしなかった。機嫌が悪いのではなく、ぼんやりと考え事をしているか、あるいは何か憂えているのかもしれなかった。その不思議な色の瞳は、彼にはわからない何処かを見ていた。戸惑いを覚えた久野はかけるべき言葉を探したが、何を言えば相手の瞳をこちらに向けさせることができるのか、見当もつかなかった。結局彼らはただ足音だけを響かせて、無言で校舎の玄関を抜け、寮に向かった。
さて、久野と向坂が去ったあと、鼻歌を歌いながら書類を丸め、自らもまた理科室の外に出た早船は、廊下に小柄な人影を認めて眼鏡の位置を直した。
「ああ、醒井か」
声をかけると、人影がゆらりと動いた。何も言わずに歩み寄ってくる男に対し、早船はへらりと笑いかける。
「そういえばお前も留年したんだったなあ。クラスは違うが、まあ、もう一年よろしく……」
「向坂縁」
相手の口から突然飛び出した固有名詞に、早船はぽかんとした。
「こうさかゆかり。……あ、向坂か。向坂ならさっき出て行ったぞ」
「じゃなくて。お前、向坂縁に何かあるの」
「何かって?」
要領を得ない早船の言葉に、醒井は苛立ったように低く唸った。一重瞼の下で、瞳孔がじわじわと開いていく。
「あいつに手を出す気なわけ?」
「あ、そういう意味か」
優男フェイスに、小賢しそうな笑みが広がる。
「そうだなあ、本当に女になったのか自分の目と下半身で確かめてみたくないと言ったら、嘘になるかな……いやいや、冗談だよ、そんな怖い顔をするな、これ以上問題を起こしたらお前は退学だぞ、冷静になれって」
胸倉を掴まれそうになった早船は、慌てて両手を顔の横に挙げて降参の姿勢を取った。醒井は舌打ちをすると、相手へと伸ばしかけていた手を下ろした。一瞬にして緊迫した空気が、これまた一瞬にして元に戻る。どうやら退学という言葉が効いたようだ。もう大丈夫だろうと判断した早船は、手を挙げたままわざとらしく首を捻ってみせた。
「しかし、急にどうしたんだ。お前こそ、向坂に対して何かあるのか」
すると醒井は視線を逸らして俯いた。そうして、いや別に何も、といやにぼそぼそとした返事をする。早船はにやりとして手を下ろしかけたが、その瞬間醒井が視線を上げて夜行性の肉食獣のような目をしたので、再び両手を挙げて下手な咳払いをした。
「ごほん。ええとそうだそういえば、お前の妹、城咲女子に入ったんだってな。あそこは今年度から制服にスラックスを導入したそうじゃないか。だったらうちもスカートをと思ったんだが、時代はまだ俺に追いついていないらしい」
「……なんで妹のこと知ってんの」
「俺は七葉よりも城咲の方が友達が多いんだ。あっちで噂の新入生の名字を聞いて、すぐにぴんときた」
「念のために言っとくけど、妹にも手は出すなよ」
「ははは、本当に念のためだな」
早船は大笑いしながらぽんぽんと醒井の肩を叩いた。
「まあ、留年組同士、仲良くやっていこうじゃないか」
寮に戻った久野と向坂を待ち受けていたのは、玄関に積み上げられた白い箱だった。箱の脇に突っ立っている寮長の疲弊しきった顔を見た久野は、相手の身に何が起きたのかを察した。狂犬執事だ。
「向坂君、先程一柳さんが来て、荷物を置いていきました。きちんと受け渡しましたので、もう僕はこれでいいですよね」
「結構です。ありがとうございました」
久野は視線にありったけの憐れみを込めて、よろよろと立ち去る寮長の後ろ姿を見送り、それから残された箱に視線を移した。箱はホームセンターで販売されている衣装ケースくらいの大きさで、全部で四つあった。一般家庭ならこういう荷物を梱包する場合、適当な段ボール箱を使うのだろうが、そこはさすが資産家の息子、保護者(代理)から届けられる箱にすら高級感がある。
「一柳さんが必要なものを持ってきてくれたようだ。部屋に運んでもいいだろうか」
お断りだ、と久野は思った。しかし向坂縁というゴッドが君臨するこの七葉学園の敷地内において、久野は日本国憲法第十一条の恩恵すら受けられない勢いのビジターであるため、そんな発言は許されない。
「どうぞご自由に」
「じゃあ、手伝ってくれ」
お断りだ、と久野は思った。しかし向坂縁というゴッドが以下略であるため、そんな発言は以下略である。それに実際たいした手間ではない。どうせ部屋に戻るのだ。彼はおとなしく相手の言葉に従い、箱を二つ重ねてひょいと持ち上げた。向坂もまた久野に倣って箱を重ねたが、持ち上げる段階になると上手くいかなかった。
「向坂?」
向坂は箱から手を離すと、自身の掌に視線を落とした。それから制服の袖をまくり、手首と腕を眺めた。久野はわけがわからないまま向坂の行動を見ていたが、やがてはっと気づいて持っていた箱を床に下ろすと、向坂の箱を一つ取り、自分の箱に重ねた。
「ほら、行くぞ」
無駄に発達した久野の身体をもってすれば、この程度の箱など二つも三つも変わらない。たいしたことではないはずなのに、どういうわけか向坂は大きな目で彼を見つめたのち、きゅっと唇を噛んだ。
「……悪い」
何だか妙だな、と久野は思ったが、とりあえず荷物を運ばなければならない。箱を抱え直すと、自室目指して歩き始めた。
そんなこんなで荷物を部屋に運び込んだ二人は、早速開封作業に移った。
まず久野が側面に『1』と書かれた箱を開けると、何やら中身の詰まっているそのいちばん上に、ファイルが入っていた。
「これは品物のリストだな。どの箱に何がどれくらい入っているか書いてある。すぐに必要だと思われるものは『1』と『2』の箱に入っているとあるから、『3』と『4』はとりあえず壁際にでも積んでおこう」
ファイルの最初の数ページに素早く目を通した向坂は、一つこくんと肯いた。ご機嫌は麗しいとまではいかないものの、さほど悪くもないようだ。久野は少しほっとして、『1』の箱の中身を取り出した。
「ええと、これは上靴だな、で、これが体育用のジャージと運動靴、それからこっちが替えのワイシャツと靴下、それからこっちは部屋着か……」
体型が思いきり変わってしまったせいで、衣料品関係はほぼ全て新しいものを用意しなければならない。さすがと言うべきなのか怖いと言うべきなのか、狂犬執事は目視で主の諸々の採寸を行ったようで、衣服や靴のサイズには全く問題がなかった。やはり敵にしたくない相手だと思いながら久野は『1』の箱の中身を引っ張り出し、それを向坂がクローゼットに収納した。そこまでは作業は非常に円滑に進んだのだが、『2』の箱に移ったときに問題が発生した。
「これはお前一人でやってくれ。お前のクローゼットにしまって構わないから」
そう言うと、向坂はくるりと後ろを向いてしまった。突然丸投げされた久野は呆然とした。
「お前の荷物なのに、なんで俺一人でやらなきゃいけないんだよ。ていうかなんで俺のクローゼットなんだよ。これあとでとんでもない言いがかりをつけてくるパターンだろ知ってんだからな!」
いくらビジターとはいえ、譲れないものがある。もし箱の中身に不備があった場合、責任を押しつけられるのは目に見えている。向坂が自身の利益のためならそういうことを平気でする男――そうこれは正真正銘徹頭徹尾一ミリの疑念も一ミクロンの懐疑も許容しないくらい完膚なきまでに男なのだ――だということは、解熱剤の一件で把握済みだ。しかし向坂は頑なだった。後ろを向いたまま、首を横に振る。
「僕には無理だ。お前がやらないなら、誰もやらない」
ふわりと揺れる髪にうっかり見惚れてしまってから、久野は両手で自分の頬をばちんと叩いた。この調子ではいけない。いったい何がどう無理なのだろうと、向坂が放り出したファイルを開いた彼は、今度は片手で額を押さえた。『2』のリストには、下着の種類と枚数が書かれていた。
「あー、そういうことでしたか……」
「僕はこの手のものが苦手だが、お前は好きだろう。だから管理はお前に任せる」
「べ、別に、好きってわけじゃねえけど、まあ、き、嫌いってわけでもないっつーか」
「何でもいいからさっさと片づけてくれ」
かくして久野は、禁断の宝箱に手をつけることとなった。が、いざ箱を開けてみると、期待と絶望とがアラベスク模様を描いていた彼の予想は、大きく裏切られた。
「何だか色気のないブラジャーだな。これじゃタンクトップじゃねえか。おまけにパンツはボクサーだし」
「わざわざ形状を説明しなくていい。気分が悪くなる」
「お前、本当に駄目なんだな。しかし、一柳さんもこうなるってわかってたはずなのに、どうして荷物だけ置いてさっさと帰ったんだろうなあ」
彼にとって女性の下着に触れるのは初めての経験だったが、入っていた下着はいずれも中性的なデザインで、当然のことながら新品だったので、あまり緊張はしなかった。とはいえ、そのうち使用済みになるのは確実で、そうなった場合自分(の愚息)がどういう反応をするかは、久野自身にもわからなかった。洗濯乾燥もきっと俺の役割になるんだろうな、と彼が暗い気持ちになりかけていると、向坂がぽつりと言った。
「彼は向坂家の執事だ。ほかにやらなければならない仕事がたくさんある」
どうやら先程の彼の発言に対する答えらしい。久野は下着を包んでいたビニールを丸めて首を傾げた。
「向坂家の執事だったら、お坊ちゃんのお世話が最優先なんじゃないのか?」
「向坂家の執事だからこそ、彼には僕に構っている暇などない。勤務時間中の行動は、契約によって制限されている。さっきの荷物は、わざわざ自分の昼休みを潰して届けに来てくれたんだろう。仮にこれが跡取りである長男――いや、長男は既に見放されているから次男だな――であれば話は違っていたのかもしれないが、僕は四男だからな。次男も三男もまともに現実の異性と付き合えるのか甚だ疑わしくはあるものの、しかし二人は少なくとも僕よりは跡継ぎを作る可能性を持っている。上に三人も男がいるうえに結婚も生殖行為も絶望的な僕の優先順位は、向坂家において最も低く設定されている」
「……そんなもんなのか。なんか、寂しいな」
「僕自身は別に寂しいとは思わない。いずれあの家を出るつもりだから」
家を出る発言に、久野はぽかんとした。
「お前ん家って、確か馬鹿でかい会社の創業者一族とかじゃなかったか。コネで入社しないのか」
「会社のことなら、既に次男が入社している。あれは人間としては救いがたいの一言に尽きる男だが、それでも仕事だけはそれなりにできるようだから、ゆくゆくは父親の跡を継いで社長の椅子に座るだろう。その次男が、僕の入社だけは絶対に認めないと公言している。こちらとしても、土下座されたって親の会社に入りたいとは思わないから、ちょうどいい」
「ああそう……さようで……」
溜め息をつきたくなる話だった。向坂家の内部はいったいどうなっているのだろう。話を聞いているだけでも、悪意に塗れた種々の形容から、向坂が父や兄に対してよい感情を抱いていないことは手に取るようにわかる。本人はいずれ家を出るつもりだと言っているが、向坂が狂犬執事と共謀して向坂家を我が物にし、親兄弟を完全追放する未来が訪れても不思議ではないだろう。と、そこまで考えて、久野は一つの希望に気づいた。
「じゃあ、母親はどうだ。お前と違って女としてはベテランなんだから、色々と相談できるし頼りになるんじゃないか。お前だって、いくら女が苦手でも自分の母親なら……」
「母親はいない。顔も知らない」
久野は頭を掻いた。こうなるともう、口にできる台詞は一つきりだ。
「……じゃあ、とりあえず俺たちで頑張ってみるか」
こうして善良な童貞は、自分のクローゼットに他人の下着を詰め込んだ。下着の最後の一枚を片づけたとき、部屋にノックの音が響いた。久野がドアを開けると、そこにいたのはやつれた寮長だった。
「向坂君にお話があります。その、入浴について」
寮長の話は、だいたい次のようなものだった。こういう事態になってしまった以上、向坂を今までのようにほかの生徒と一緒に入浴させるわけにはいかない。そこで向坂専用の時間帯を設けて入浴時間を分けようと考えたのだが、共同浴場を使うとなると、覗きや盗撮の危険性がある。もちろんそんな不心得者が寮内にいる前提で話を進めたくはないのだが、しかし万が一のことがあったら、自分は狂犬執事によって魚の餌か畑の肥やしか宇宙の塵にされてしまうので、ここは向坂に職員用の風呂を使ってもらいたいのだが、肯いてもらえるだろうか。
「職員用バスを使うのは我々管理側の人間で、いずれも男性でした。だから今後職員は皆、共同浴場かシャワールームを使うことにして、職員用バスの方は向坂君専用にしたいと思います」
「僕がシャワールームを使えば、誰にも迷惑がかからないのでは?」
「めいわく」
向坂が発した『迷惑』という単語に、久野は後頭部を殴られたような衝撃を覚えてよろめいた。まさかこのナチュラルボーンサディストに、自分が他人に迷惑をかける可能性について考慮し言及するだけの想像力と思いやりがあるとは思ってもみなかった。あまり口をきく機会のない職員たちを思いやる気持ちが一ミリグラムでもあるのなら、この一年間朝も昼も夜も絶え間なく顔を突き合わせ続け親兄弟や親友の類よりも長い時間を共にしているルームメイトがどれほど多大な迷惑を被っているのかということを、一ナノグラム程度は考えてほしいものである。
「シャワールームにはシャワーしかありません。湯に浸からないと身体が冷えますから、どうぞ職員用バスを使ってください。もし向坂君に風邪でも引かれたら、僕は豚の飼料か樹海の養分か大気中の微粒子にされてしまいます。もうお湯は沸いていますから、冷めないうちに入ってください。こちらが風呂の鍵です。掃除はこちらでするので、使い終わったら施錠したのち鍵を返しに来てください」
「わかりました。では申し訳ありませんが、お言葉に甘えるとします。――久野」
逆さにして振ってみても一フェトグラムの申し訳なさも出てこないような冷淡な口調だったが、もちろん寮長は何も言わなかった。一方、壁に額をつけて浅い呼吸を繰り返していた久野は、名前を呼ばれて恐る恐る向坂に視線を向けた。完全無欠の美少女の形をした悪魔は、摘んだ鍵の先端で部屋の外を指していた。
「風呂に入るぞ」
「――どうだろう、名案だと思わないか?」
「何をおっしゃっているのかわかりかねます」
「おお、わからないか。じゃあもう一回頭から説明しよう」
「結構です」
「まずこれがポスターの原案だ」
「結構だと言うのが聞こえないのかこの唐変木」
――間違いない、向坂の声だ。間に合うか。いや、間に合わせる。
駆けつけた久野は、がらりと理科室の戸を開け――ようとしたが、戸は最初から完全に開いていた。なんだか妙な気がしないでもなかったが、細かいことに拘っている暇はない。開いた戸から教室に飛び込み、大声で叫ぶ。
「向坂、無事か!」
彼の声に、教室内で向かい合って立っていた二人の生徒が、同時に振り返った。薄茶と灰の中間の色をした長い髪が揺れて、あの灰色の目が現れる。
「何だその顔は。また通報されるぞ」
そう冷たく言い放ったのは、向坂だった。服はきちんと着ているし、怪我をしている様子もない。間に合ったのだ。
「ま……またって何だよ、俺まだ一度も通報されたことなんてねえよ! 職質はあるけども! 結構な頻度であるけども!」
怒りながらも、久野は安堵した。そして少々びびりつつ、札付きの不良六年生を威嚇しようと、向坂と対峙している人物に視線を向けた、そのときだった。
「おお、そこにいるのは五年のえーっと、顔が怖い人だな」
「停学喰らった六年って、そっちかよ……」
久野は思わず額を押さえた。実は、去年停学処分となり卒業を逸した問題児の六年生は、二人いた。一人が前述の札付きの不良で、もう一人が札付きの非常識である。そして理科室にいたのは、幸か不幸か後者だった。
「ちょうどいい、顔が怖い人もこっちに来て、俺の話を聞き賛同し賞賛してくれ」
札付きの非常識こと早船秋尾は、黒縁のスリムな眼鏡をかけた優男フェイスに笑みを浮かべて久野を手招きした。またしても頭痛案件が増える予感しかしなかったが、それでも善良な久野は言われたとおり二人の許へ行った。今にも相手の股間を蹴り上げそうな勢いで不機嫌極まりない向坂とは対照的に、早船は蜂蜜の壺を抱えた黄色い熊のごとくハッピーな様子で、手には紙切れを持っていた。
「来たな、顔が怖い人。ははは、近くで見るとよりいっそう顔が怖いな」
「久野です。顔が怖い人で間違ってはいませんが、久野です」
「はははは、普段なら顔が怖くて話しかけることなんてできないが、パッションに満ち溢れた今の俺は無敵だからな、話しかけちゃうぞ、顔が怖いオノ」
「オノじゃなくてクノです。それと間違ってはいませんが顔が怖いを連呼するのはやめてくださいそろそろ泣きそうです」
「了解したぞ、クソ」
「デリカシー!」
「……付き合っていられないな」
不毛としかいえないやりとりに苛々したらしい。向坂はくるりと背を向けてしまった。そんなこと言わずに、と相手の肩に手をかけようとした早船は、振り向きざまの極寒の視線に威圧され、伸ばしかけた手をさっと自分の背中に隠し、救いを求めるように久野を見た。早船を救ってやる義理など久野にはなかったが、向坂のいやにぴりぴりした空気に違和感を覚えた彼は、仕方なく頭痛案件(仮)に手をつけることにした。
「どうしてここまで向坂を怒らせたんですか、俺が部屋にエロ本持ち込んだときくらいご機嫌斜めですよ。このあとこいつと明日の朝までずっと同じ部屋にいなきゃならない俺の身にもなってくださいよ」
「それがな、実は署名活動をしようと思ってだな、向坂に協力を依頼していた」
早船は久野に半歩近寄ると、無駄にきらきらした笑顔で、手にしていた紙切れを胸の前で広げてみせた。
「何の署名ですか?」
「『七葉の制服にスカートを導入せよ』」
「おい向坂、帰るぞ」
「待て待て待て、少しは話を聞いていけよ」
「そんなふざけた話の何処に聞く価値があるっていうんですか」
早船は非常識な男である。停学処分を受けた理由は明らかにされていないが、猥褻物頒布だとか猥褻物陳列だとか、真偽はさておきとにかくろくでもないとしかいいようのない噂が流れていた。停学中は埋蔵金を求めて親の土地を掘り起こしていたらしいのだが、千両箱ではなく温泉を掘り当ててしまい、放っておくのももったいないので大型温泉施設をオープンすることになったという。もし今年度で高校を卒業できなかった場合、高校を中退して温泉の経営に回る予定だというのだから、親が無駄に金持ちなのも考えものである。
「俺はふざけてなどいない。大真面目だ」
「スカートなんて導入するわけないじゃないですか。ここ、男子校だってわかってます?」
「城咲女子も、今年度から制服にスラックスを導入したじゃないか。だったら我が七葉も……」
「そりゃズボンは男女問わず穿きますけど、少なくとも日本では男がスカート穿くのなんてナシでしょ」
すると早船は、何故か得意気にふふんと笑った。
「では訊くが、何故男がスカートを穿くのは『ナシ』なのか、お前は説明できるか?」
「え、だってそれが普通だし……」
「ははははは、『それが普通』と来たか。ようし、いいかよく聞けよ、俺が今、制服を通して問題にしようとしているのは、もっとでかいことなんだ」
へらへらした優男フェイスが、突然ぐっと近づいてくる。
「――『普通』って、何だ?」
久野が言葉を失って瞬きしていると、早船は彼から視線を外した。そうして教室の真ん中まで歩いていくと、胸を張って両手を広げ視線を心もち上げて、まるでスポットライトを当てられた舞台俳優のように語り始めた。
「俺は物心ついたときから、『普通』という言葉に違和感を持っていた。『それが普通だから』『普通はそうだから』『普通の人は』『普通なら』『普通は』『普通』『ふつう』……。だが『普通』という言葉を発するとき、我々は何を想定し何をすくい上げ何を切り捨て何を肯定し何を否定しているのか、果たして真摯に思考しているのだろうか。お前はどうだ。さっき『普通』と言ったとき、お前はきちんと考えたうえでその言葉を発したか?」
久野は何も言えなかった。普通は普通だという考えは変わらなかった。だが、水面下では確実に揺らぎが生まれていた。普通って何だろう、ということではない。理由を訊かれ普通という言葉を口にしたとき、自分が実際に何も考えていなかったことを、彼は悟ったのである。
「俺は、『普通』という言葉を軽率に無自覚に思考停止的に濫用する連中と戦う人間だ。やりたいことはただ一つ、『普通』に毒された人間の『常識』に風穴を開けたい。だからスカートが実際に導入されなくても構わないと思っている。俺の活動を見聞きして、『普通』を思考停止的に濫用する『常識』的な人間に、『普通』とは何だろうと一歩立ち止まって考えてもらえれば、それで目標はクリアだ」
早船のやろうとしていることは馬鹿げている。馬鹿げてはいるが、しかし本人が至って真面目だということは、ここにきて久野にもよくわかった。それまで彼の心の中にあった、いったい思春期にどんなケイオティックなエロ本にエンカウントすれば、男子校の制服にスカートを導入するという頭の螺子が十本くらい飛んだうえに全ての発条がなるとに置換されたような発想が生まれるのだろうという呆れは、いったい幼少期にどんなトラウマティックな出来事に遭遇すれば、そんな馬鹿でかくておまけに茫漠とした巨象の幽霊みたいなものに木の剣と葉っぱの盾で立ち向かうような人生を選ぶことになるのだろうという疑問へと変化していた。
「向坂にこの話を持ちかけたのはほかでもない、向坂がこの学園で最も俺の思想に適合する人間だからだ。実をいうと、俺も『常識』に囚われていた。今朝、全校朝礼で向坂の姿を見たとき、まさか男が突然女になるなんて『普通』ありえないだろう、と思ったわけさ。つまり向坂は俺の中に隠れていた『普通』や『常識』を顕在化させ、そこに風穴を開けたんだ。だから俺は、俺を超える非常識な存在である向坂を、このプロジェクトの顔として起用したい。そして一緒に、思考停止した奴らの『常識』を蜂の巣にしてやりたい」
「プロジェクトって、そんな大仰な……つか、早船さんのパッションは何となく伝わりましたけど、それに賛同するかどうかはまた別次元の問題で……」
久野が戸惑いの声を上げた、そのときだった。
「――"project"。フランス語では"projet"、和訳すると『投企』だな」
今まで黙っていた向坂が、口を開いた。その声からは、先程までの刺々しさが消えている。
「おお見ろ、向坂が食いついたぞ!」
「今の話の何処に食いつける要素があんだよ、可食部ゼロパーだろどう考えても」
はしゃぐ変人とげんなりする凡人を前に、ゴッドは冷静に続けた。
「あなたがこの活動によって、自己の可能性を追求しようとしているのだということは理解しました。僕も古い制度や意味のない風習の傀儡として生きる人間は嫌いなので、あなたの気持ちはわからないでもありません。だから正直に答えてくれれば、もう少しだけ話を聞いてあげましょう。教えてください、何故制服、そして何故スカートなんですか。啓蒙活動が目的なら、ほかにもっと実現の容易い、現実的なプランがいくらでもあるでしょう」
「特に理由はないが、ふと思いついたんだ」
この返答に、向坂の眉がぴくりと動いた。
「正直に、と言ったのが聞こえませんでしたか」
触れれば切れそうな眼差しに、傍から見ているだけの久野も思わず首を竦めた。さすがの早船もこれにはたじろいだのか、目を泳がせる。
「あー、そうだな、これはたぶんなので話半分で聴いてもらいたいんだが、向坂がスカートを穿いたら学園生活がよりスリリングになるだろうなと思ったのが〇・〇〇〇〇一パーくらいは関係しているかもしれないな、もちろんたぶんの話だぞ、たぶん」
一平方センチメートルほど存在していた対話の可能性が、落ち穂を拾う余地もないほど綺麗に燃え尽きた瞬間だった。久野は今度こそ完全に呆れ果てた。
「参考までに言っとくけど、あんたそれ全然誤魔化せてねえぞ。向坂、これ以上話をしても無駄だ、寮に……って、ねえ嘘でしょ待って何肯いてるの向坂さん」
「何って、この男は正直に答えただろう。仮に嘘をつくなら、もっとまともな理由をでっちあげるはずだ」
話し合いの余地は完全に消え失せた。少なくとも久野にはそう感じられた。だが向坂は頭の螺子が他人より二十本ほど余計に入っているのが災いしたのか、あるいはただ単に真面目なのか、脳細胞の死を感じるほどくだらない理由であったとしても、相手が正直に質問に答えた以上、約束どおり話を聞いてやる義務があると考えているようだった。これには久野も戦慄せざるをえなかった。本来なら向坂が誰とどんな馬鹿なことをしでかそうと知ったことではないのだが、彼がこの厄介な生き物の面倒を見るはめになってしまった今、向坂が面倒事に関わるということは、九割九分九厘プラス一厘の確率で久野もその巻き添えを食うということだ。もしもこの精神的に非常識な男と肉体的に非常識な男によって自らも妙な活動を強いられて、それが教師の目につき、自分の進路、たとえば大学の指定校推薦に響くなんてことになってしまったら、誰がその責任を取ってくれるというのだろう。ここは何が何でもこのプロジエだかポージェだかをご破算にしなければならない、と哀れな少年は考えた。
「あ、あのー、俺も早船さんに訊きたいことがあるんですけど、仮にですよ、もし仮に制服にスカートが導入されたとして、それを向坂が穿くかどうかは、また別のレベルの問題じゃないですか。ていうかどう考えても、向坂は穿かない気が」
「そうなの向坂?」
「そうだろ向坂?」
ほぼ同時に問いかけられ、向坂は真面目な顔のまま首を縦に振った。
「制服として正式採用されたとしても、僕は穿きませんね。何故ならスカートは下半身が冷えるうえに、裾から下着が覗くことを気にして行動しなければならないという、致命的に合理性を欠いた構造をしているためです。猛暑の際に着用する夏服としてならまだ考える余地がなきにしもあらずですが、いかんせん七葉校内は冷暖房完備ですからね、着る機会はないでしょう」
「ですってよ」
「まじか。でもまあアレだ、とりあえず導入さえしておけば、ひょっとするとクーラーが故障することもあるだろうし、アレ」
「だからどうしてそんな低確率に賭けようとするんですか」
この男、本当は温泉ではなくうっかり化学兵器を掘り起こして毒ガスに中てられたのではないだろうか、と久野は本気で思い始めた。ありえない話ではない。
「それにですよ、たとえ導入されることになったとしても、何年もかかるでしょ。早船さんは六年で、俺たちは五年なんですよ、たとえ早船さんが留年して粘っても、優等生の向坂はさっさと進級して卒業しますから、新しい制服が導入される頃にはもうこの学校にはいませんよ。せっかくなら、もう少し我々にメリットのある企画にしましょうよ、ね?」
「そのへんもアレだ、うちの教頭は色々とアレだから、俺のポケットマネーと親の人脈でアレすればアレだし、二ヶ月もあればアレ」
「実際に導入されなくても構わないとか言っておきながら、最初から汚い手を使って実現させるつもりだったんですか。もしも校内のクーラーが壊れたら、俺は真っ先に早船さんを疑いますからね」
久野は今度こそ完全に呆れた。向坂も再び不機嫌モードに突入したようで、険しい顔で早船を見上げる。
「裏から手を回すのであれば、署名活動など不要では?」
「こういう類のことは、生徒たちが主体的に動いたという体で進めた方が、諸々都合がいいだろう。俺にとっても、そして何より学校側にとっても。もちろんこのことは公には……」
「――もう結構です」
向坂は毅然とした調子で相手の言葉を遮った。
「話はわかりました。現段階では、僕はあなたの"projet"に関わる気はありません。ただ、先ほど言ったとおり、あなたの思想それ自体には共感する部分もないわけではありませんので、より合理的かつ現実的な案を思いついたら、また来てください。では僕はこれで本当に失礼します」
「そうかわかった、じゃあ早速計画を練り直すことにする。今日はありがとう。実に有意義なひとときだった」
意外にもあっさりとした反応だった。なんだか嫌な予感がしないこともなかったが、これ以上早船と会話を続けるとゴッドがますますご機嫌斜めになることは明白だったので、じゃあこれで、と口の中で呟くと、久野は向坂と共に理科室を出た。
「……何なんだろうな、あの人」
二人並んで廊下を歩きながら、久野は溜め息をついた。ただ会話していただけなのに、ひどく疲れていた。向坂とは異なる種類の面倒臭さが、どうもあの男にはあるようだ。
「つか、お前にしては随分寛大だったな。途中であいつの股間を蹴り上げるんじゃないかって、冷や冷やしたけど」
向坂は返事をしなかった。機嫌が悪いのではなく、ぼんやりと考え事をしているか、あるいは何か憂えているのかもしれなかった。その不思議な色の瞳は、彼にはわからない何処かを見ていた。戸惑いを覚えた久野はかけるべき言葉を探したが、何を言えば相手の瞳をこちらに向けさせることができるのか、見当もつかなかった。結局彼らはただ足音だけを響かせて、無言で校舎の玄関を抜け、寮に向かった。
さて、久野と向坂が去ったあと、鼻歌を歌いながら書類を丸め、自らもまた理科室の外に出た早船は、廊下に小柄な人影を認めて眼鏡の位置を直した。
「ああ、醒井か」
声をかけると、人影がゆらりと動いた。何も言わずに歩み寄ってくる男に対し、早船はへらりと笑いかける。
「そういえばお前も留年したんだったなあ。クラスは違うが、まあ、もう一年よろしく……」
「向坂縁」
相手の口から突然飛び出した固有名詞に、早船はぽかんとした。
「こうさかゆかり。……あ、向坂か。向坂ならさっき出て行ったぞ」
「じゃなくて。お前、向坂縁に何かあるの」
「何かって?」
要領を得ない早船の言葉に、醒井は苛立ったように低く唸った。一重瞼の下で、瞳孔がじわじわと開いていく。
「あいつに手を出す気なわけ?」
「あ、そういう意味か」
優男フェイスに、小賢しそうな笑みが広がる。
「そうだなあ、本当に女になったのか自分の目と下半身で確かめてみたくないと言ったら、嘘になるかな……いやいや、冗談だよ、そんな怖い顔をするな、これ以上問題を起こしたらお前は退学だぞ、冷静になれって」
胸倉を掴まれそうになった早船は、慌てて両手を顔の横に挙げて降参の姿勢を取った。醒井は舌打ちをすると、相手へと伸ばしかけていた手を下ろした。一瞬にして緊迫した空気が、これまた一瞬にして元に戻る。どうやら退学という言葉が効いたようだ。もう大丈夫だろうと判断した早船は、手を挙げたままわざとらしく首を捻ってみせた。
「しかし、急にどうしたんだ。お前こそ、向坂に対して何かあるのか」
すると醒井は視線を逸らして俯いた。そうして、いや別に何も、といやにぼそぼそとした返事をする。早船はにやりとして手を下ろしかけたが、その瞬間醒井が視線を上げて夜行性の肉食獣のような目をしたので、再び両手を挙げて下手な咳払いをした。
「ごほん。ええとそうだそういえば、お前の妹、城咲女子に入ったんだってな。あそこは今年度から制服にスラックスを導入したそうじゃないか。だったらうちもスカートをと思ったんだが、時代はまだ俺に追いついていないらしい」
「……なんで妹のこと知ってんの」
「俺は七葉よりも城咲の方が友達が多いんだ。あっちで噂の新入生の名字を聞いて、すぐにぴんときた」
「念のために言っとくけど、妹にも手は出すなよ」
「ははは、本当に念のためだな」
早船は大笑いしながらぽんぽんと醒井の肩を叩いた。
「まあ、留年組同士、仲良くやっていこうじゃないか」
寮に戻った久野と向坂を待ち受けていたのは、玄関に積み上げられた白い箱だった。箱の脇に突っ立っている寮長の疲弊しきった顔を見た久野は、相手の身に何が起きたのかを察した。狂犬執事だ。
「向坂君、先程一柳さんが来て、荷物を置いていきました。きちんと受け渡しましたので、もう僕はこれでいいですよね」
「結構です。ありがとうございました」
久野は視線にありったけの憐れみを込めて、よろよろと立ち去る寮長の後ろ姿を見送り、それから残された箱に視線を移した。箱はホームセンターで販売されている衣装ケースくらいの大きさで、全部で四つあった。一般家庭ならこういう荷物を梱包する場合、適当な段ボール箱を使うのだろうが、そこはさすが資産家の息子、保護者(代理)から届けられる箱にすら高級感がある。
「一柳さんが必要なものを持ってきてくれたようだ。部屋に運んでもいいだろうか」
お断りだ、と久野は思った。しかし向坂縁というゴッドが君臨するこの七葉学園の敷地内において、久野は日本国憲法第十一条の恩恵すら受けられない勢いのビジターであるため、そんな発言は許されない。
「どうぞご自由に」
「じゃあ、手伝ってくれ」
お断りだ、と久野は思った。しかし向坂縁というゴッドが以下略であるため、そんな発言は以下略である。それに実際たいした手間ではない。どうせ部屋に戻るのだ。彼はおとなしく相手の言葉に従い、箱を二つ重ねてひょいと持ち上げた。向坂もまた久野に倣って箱を重ねたが、持ち上げる段階になると上手くいかなかった。
「向坂?」
向坂は箱から手を離すと、自身の掌に視線を落とした。それから制服の袖をまくり、手首と腕を眺めた。久野はわけがわからないまま向坂の行動を見ていたが、やがてはっと気づいて持っていた箱を床に下ろすと、向坂の箱を一つ取り、自分の箱に重ねた。
「ほら、行くぞ」
無駄に発達した久野の身体をもってすれば、この程度の箱など二つも三つも変わらない。たいしたことではないはずなのに、どういうわけか向坂は大きな目で彼を見つめたのち、きゅっと唇を噛んだ。
「……悪い」
何だか妙だな、と久野は思ったが、とりあえず荷物を運ばなければならない。箱を抱え直すと、自室目指して歩き始めた。
そんなこんなで荷物を部屋に運び込んだ二人は、早速開封作業に移った。
まず久野が側面に『1』と書かれた箱を開けると、何やら中身の詰まっているそのいちばん上に、ファイルが入っていた。
「これは品物のリストだな。どの箱に何がどれくらい入っているか書いてある。すぐに必要だと思われるものは『1』と『2』の箱に入っているとあるから、『3』と『4』はとりあえず壁際にでも積んでおこう」
ファイルの最初の数ページに素早く目を通した向坂は、一つこくんと肯いた。ご機嫌は麗しいとまではいかないものの、さほど悪くもないようだ。久野は少しほっとして、『1』の箱の中身を取り出した。
「ええと、これは上靴だな、で、これが体育用のジャージと運動靴、それからこっちが替えのワイシャツと靴下、それからこっちは部屋着か……」
体型が思いきり変わってしまったせいで、衣料品関係はほぼ全て新しいものを用意しなければならない。さすがと言うべきなのか怖いと言うべきなのか、狂犬執事は目視で主の諸々の採寸を行ったようで、衣服や靴のサイズには全く問題がなかった。やはり敵にしたくない相手だと思いながら久野は『1』の箱の中身を引っ張り出し、それを向坂がクローゼットに収納した。そこまでは作業は非常に円滑に進んだのだが、『2』の箱に移ったときに問題が発生した。
「これはお前一人でやってくれ。お前のクローゼットにしまって構わないから」
そう言うと、向坂はくるりと後ろを向いてしまった。突然丸投げされた久野は呆然とした。
「お前の荷物なのに、なんで俺一人でやらなきゃいけないんだよ。ていうかなんで俺のクローゼットなんだよ。これあとでとんでもない言いがかりをつけてくるパターンだろ知ってんだからな!」
いくらビジターとはいえ、譲れないものがある。もし箱の中身に不備があった場合、責任を押しつけられるのは目に見えている。向坂が自身の利益のためならそういうことを平気でする男――そうこれは正真正銘徹頭徹尾一ミリの疑念も一ミクロンの懐疑も許容しないくらい完膚なきまでに男なのだ――だということは、解熱剤の一件で把握済みだ。しかし向坂は頑なだった。後ろを向いたまま、首を横に振る。
「僕には無理だ。お前がやらないなら、誰もやらない」
ふわりと揺れる髪にうっかり見惚れてしまってから、久野は両手で自分の頬をばちんと叩いた。この調子ではいけない。いったい何がどう無理なのだろうと、向坂が放り出したファイルを開いた彼は、今度は片手で額を押さえた。『2』のリストには、下着の種類と枚数が書かれていた。
「あー、そういうことでしたか……」
「僕はこの手のものが苦手だが、お前は好きだろう。だから管理はお前に任せる」
「べ、別に、好きってわけじゃねえけど、まあ、き、嫌いってわけでもないっつーか」
「何でもいいからさっさと片づけてくれ」
かくして久野は、禁断の宝箱に手をつけることとなった。が、いざ箱を開けてみると、期待と絶望とがアラベスク模様を描いていた彼の予想は、大きく裏切られた。
「何だか色気のないブラジャーだな。これじゃタンクトップじゃねえか。おまけにパンツはボクサーだし」
「わざわざ形状を説明しなくていい。気分が悪くなる」
「お前、本当に駄目なんだな。しかし、一柳さんもこうなるってわかってたはずなのに、どうして荷物だけ置いてさっさと帰ったんだろうなあ」
彼にとって女性の下着に触れるのは初めての経験だったが、入っていた下着はいずれも中性的なデザインで、当然のことながら新品だったので、あまり緊張はしなかった。とはいえ、そのうち使用済みになるのは確実で、そうなった場合自分(の愚息)がどういう反応をするかは、久野自身にもわからなかった。洗濯乾燥もきっと俺の役割になるんだろうな、と彼が暗い気持ちになりかけていると、向坂がぽつりと言った。
「彼は向坂家の執事だ。ほかにやらなければならない仕事がたくさんある」
どうやら先程の彼の発言に対する答えらしい。久野は下着を包んでいたビニールを丸めて首を傾げた。
「向坂家の執事だったら、お坊ちゃんのお世話が最優先なんじゃないのか?」
「向坂家の執事だからこそ、彼には僕に構っている暇などない。勤務時間中の行動は、契約によって制限されている。さっきの荷物は、わざわざ自分の昼休みを潰して届けに来てくれたんだろう。仮にこれが跡取りである長男――いや、長男は既に見放されているから次男だな――であれば話は違っていたのかもしれないが、僕は四男だからな。次男も三男もまともに現実の異性と付き合えるのか甚だ疑わしくはあるものの、しかし二人は少なくとも僕よりは跡継ぎを作る可能性を持っている。上に三人も男がいるうえに結婚も生殖行為も絶望的な僕の優先順位は、向坂家において最も低く設定されている」
「……そんなもんなのか。なんか、寂しいな」
「僕自身は別に寂しいとは思わない。いずれあの家を出るつもりだから」
家を出る発言に、久野はぽかんとした。
「お前ん家って、確か馬鹿でかい会社の創業者一族とかじゃなかったか。コネで入社しないのか」
「会社のことなら、既に次男が入社している。あれは人間としては救いがたいの一言に尽きる男だが、それでも仕事だけはそれなりにできるようだから、ゆくゆくは父親の跡を継いで社長の椅子に座るだろう。その次男が、僕の入社だけは絶対に認めないと公言している。こちらとしても、土下座されたって親の会社に入りたいとは思わないから、ちょうどいい」
「ああそう……さようで……」
溜め息をつきたくなる話だった。向坂家の内部はいったいどうなっているのだろう。話を聞いているだけでも、悪意に塗れた種々の形容から、向坂が父や兄に対してよい感情を抱いていないことは手に取るようにわかる。本人はいずれ家を出るつもりだと言っているが、向坂が狂犬執事と共謀して向坂家を我が物にし、親兄弟を完全追放する未来が訪れても不思議ではないだろう。と、そこまで考えて、久野は一つの希望に気づいた。
「じゃあ、母親はどうだ。お前と違って女としてはベテランなんだから、色々と相談できるし頼りになるんじゃないか。お前だって、いくら女が苦手でも自分の母親なら……」
「母親はいない。顔も知らない」
久野は頭を掻いた。こうなるともう、口にできる台詞は一つきりだ。
「……じゃあ、とりあえず俺たちで頑張ってみるか」
こうして善良な童貞は、自分のクローゼットに他人の下着を詰め込んだ。下着の最後の一枚を片づけたとき、部屋にノックの音が響いた。久野がドアを開けると、そこにいたのはやつれた寮長だった。
「向坂君にお話があります。その、入浴について」
寮長の話は、だいたい次のようなものだった。こういう事態になってしまった以上、向坂を今までのようにほかの生徒と一緒に入浴させるわけにはいかない。そこで向坂専用の時間帯を設けて入浴時間を分けようと考えたのだが、共同浴場を使うとなると、覗きや盗撮の危険性がある。もちろんそんな不心得者が寮内にいる前提で話を進めたくはないのだが、しかし万が一のことがあったら、自分は狂犬執事によって魚の餌か畑の肥やしか宇宙の塵にされてしまうので、ここは向坂に職員用の風呂を使ってもらいたいのだが、肯いてもらえるだろうか。
「職員用バスを使うのは我々管理側の人間で、いずれも男性でした。だから今後職員は皆、共同浴場かシャワールームを使うことにして、職員用バスの方は向坂君専用にしたいと思います」
「僕がシャワールームを使えば、誰にも迷惑がかからないのでは?」
「めいわく」
向坂が発した『迷惑』という単語に、久野は後頭部を殴られたような衝撃を覚えてよろめいた。まさかこのナチュラルボーンサディストに、自分が他人に迷惑をかける可能性について考慮し言及するだけの想像力と思いやりがあるとは思ってもみなかった。あまり口をきく機会のない職員たちを思いやる気持ちが一ミリグラムでもあるのなら、この一年間朝も昼も夜も絶え間なく顔を突き合わせ続け親兄弟や親友の類よりも長い時間を共にしているルームメイトがどれほど多大な迷惑を被っているのかということを、一ナノグラム程度は考えてほしいものである。
「シャワールームにはシャワーしかありません。湯に浸からないと身体が冷えますから、どうぞ職員用バスを使ってください。もし向坂君に風邪でも引かれたら、僕は豚の飼料か樹海の養分か大気中の微粒子にされてしまいます。もうお湯は沸いていますから、冷めないうちに入ってください。こちらが風呂の鍵です。掃除はこちらでするので、使い終わったら施錠したのち鍵を返しに来てください」
「わかりました。では申し訳ありませんが、お言葉に甘えるとします。――久野」
逆さにして振ってみても一フェトグラムの申し訳なさも出てこないような冷淡な口調だったが、もちろん寮長は何も言わなかった。一方、壁に額をつけて浅い呼吸を繰り返していた久野は、名前を呼ばれて恐る恐る向坂に視線を向けた。完全無欠の美少女の形をした悪魔は、摘んだ鍵の先端で部屋の外を指していた。
「風呂に入るぞ」
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