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8. 走れ童貞
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「全校朝礼で校長先生からお話があったのでもうわかっているとは思いますが、向坂君の身体面に若干の変化がありました。精神面は元の向坂君のままとはいえ、こういう事態になったからには、色々と配慮すべき場面が出てくると思います」
私立七葉学園高等部二年B組学級担任薮内聿子は、そこで一旦言葉を切り、教室の隅々まで視線を巡らせた。
「皆さん、配慮です。いいですね、配慮ですよ」
教室内は異様な沈黙に包まれていた。仮にその場にいる約四十名の生徒全員が野菜になっていたとしても恐らく聴覚的には何の違いもないくらいには、見事な沈黙だった。誰もが呼吸を忘れてしまったかのように押し黙り、ある一点に視線を注いでいる。
「配慮、してくださいね」
駄目押しでもう一度同じ単語を口にしながら、薮内もまた約四十人の生徒の視線が集中するポイントに目をやった。彼女の念入りに整えられた眉の間に、微かな皺が走る。
何度見ても――といっても今朝初めて見たのだが――この男子校という空間において極めて異常な、決して彼女の視界に存在しないはずの異物が、そこに存在していた。
「……かみさま」
口の中で祈るように呟くと、薮内は教壇を下り、そのまま教室をあとにした。
担任が去ったあともなお、5―B(一般的に、高等部二年B組はこのように省略されるのである)の教室は静寂に支配されていた。生徒の半分は口を開いたまま硬直しており、もう半分の生徒は頭を抱えて高速瞬きをするか、自らの頬を抓るか、あるいは昨日の久野のように全てを夢にすべく目をぎゅっと閉じて無駄な努力をするか、そのいずれかだった。久野は暫く机の上を見つめていたが、やがて教室内の雰囲気に耐えられなくなり、溜め息をつくと体を捻って後ろを向いた。
「なあ向坂、この状況だけど……って」
彼の後ろの席には、全ての元凶が澄ました顔で座っており、机上に紅茶とシフォンケーキが幻視できるくらいの優雅さで読書をしていた。おまけに読んでいたのはサルトルの『嘔吐』だった。メンタルが強いにも程がある。
「……いやほんと、何なんだよお前……」
久野の後ろの席が向坂であるということは、もちろん偶然ではなかった。私立七葉学園は、ガチガチのお坊ちゃん学校であると同時にバリバリの進学校である。高等部からは進路と学力とその他諸々の事情に合わせてクラス編成がなされ、何事もなければそのまま三年間ずっと同じクラスになる。現在は進級に伴い教室が変わったばかりなので座席は出席番号順になっており、そして彼にとっては不運なことに、このクラスには久米やら桑原やら小池やらという名字の人間がいなかったため、久野は昨年から試験やら何やらで出席番号順に並ぶ機会が発生するたびこのルームメイトに隣接し、ゴッドと凡人の格の違いをまざまざと見せつけられるという災難に見舞われており、そしてその災難はあと丸二年続くことが確定しているのだった。
さて、久野が心底呆れ果てて言葉を失っていると、前の席の凶悪な顔立ちをした善良な童貞(確定)に優雅な読書タイムを邪魔された美少女の皮を被った邪悪な童貞(推定)は、線路に置かれた石ころを見るような目を相手に向けた。
「なんだ?」
「みんなに何か一言、言っておいた方がいいんじゃないか。今、すげえ空気になってるぞ」
冷たい視線にもめげずに久野がそう言うと、向坂は露骨に面倒くさそうな顔をした。
「全校朝礼で話しただろう。あれ以上何を話せと言うんだ。男に戻る方法に心当たりのある者がいたら出てきてくれ、とでも訴えればいいのか」
確かにその通りだった。それに先刻薮内が『配慮』という言葉を口にしていたが、具体的にどこをどう配慮してほしいか言ってしまったら、それこそ藪蛇になりかねない。それで久野も口を噤んで前を向くしかなかった。こうして教室中が異様な雰囲気に包まれたまま、私立七葉学園の新学期が本格始動した。
とはいえ、いくら前代未聞の事態に見舞われ誰もが軽いパニックに陥っていたとしても、ここは学校である。学校である以上、教師や生徒らにはそれぞれ為すべきことがあり、男子高生突然の女体化というこの世の法則ガン無視の超現実的事象をもってしても、その理を覆すことはできなかった。そんなわけで、教員と生徒は粛々と教科書を読み、解説し、板書し、ノートを取り、指名し、問題を解き、答え合わせをした。たとえ教室の中に一人女の子が紛れていて、それがどんなに魅力的な外見をしていたとしても、この学校という閉鎖空間において脈々と受け継がれ最早伝統と化した彼らの営みに罅を入れることなどできないのだ。久野も最初のうちは、向坂が原因でとんでもない問題(わりと性的な意味で)が起こるのではないかと冷や冷やしていたのだが、一時間目二時間目と平和に授業が進んでいくにつれて、全て杞憂だったのではないかと思い始めた。性別は変わったといえども、顔立ちや声質は女体化する前とそう違っていないし、何より中身に関しては向坂縁以外の何ものでもないのだ。あのゴッド向坂だと知っていれば、とてもじゃないが下心なんて抱けないだろう。と、昨夜の自分の所業をすっかり忘れて、久野はそう思った。
さて、こうして三時間目の授業も無事に終わった。生徒たちは未だ緊張の真っただ中にあったが、次の授業のための準備を始めた。四時間目の英語は習熟度別授業で、ありとあらゆる物事において学年トップの向坂と、英語はまあまあそこそこの久野は、当然のごとく別々の教室に移動することになっている。久野が机の中をかき回してテキストとノートを探していると、突然教室の入り口辺りからいかにも偏差値の高そうな声が響いた。
「向坂!」
久野は僅かに顔を顰めて声のする方に目をやった。ハイスペッカーズがゴッドのお迎えにやってきたのだ。もちろんハイスペッカーズもゴッドほどではないにせよ、クソ忌々しいほどありとあらゆる物事に秀でているため、英語のクラスも向坂と同じなのである。
「向坂、いやあ、びっくりしたよ」
「こんなことが現実に起こるなんてね」
「でもこうしてよく見ると、確かに向坂だ」
「いつか元に戻るのか?」
今まで一般人たちが向坂に声をかけることすらできなかったのに対し、ハイスペッカーズは凄まじく積極的だった。ずかずか教室に入ってくると向坂の席を取り囲み、次々に思ったことを口にする。対する向坂は何処までもマイペースで、まるで天気の話でもしているようなテンションで淡々と、僕も驚いた、だがこれが現実だ、当然だろう僕は僕だ、そのうち元に戻ると信じたい、などと答え、恐ろしく強靭な自己同一性とぶっ飛んだ適応力とを見せつけていた。ハイスペッカーズも戸惑っていないわけではなかったようだが、しかし向坂があまりにも通常運転だったため、女体化などというふざけた事態を全面的に受け入れることに決めたらしい。俺たちでよければ力になるから、とか、困ったことがあったら何でも相談してくれ、とかいう麗しいフレーズを、例の偏差値の高そうな声で奏で始めた。
「さあ、そろそろ行こう。授業が始まる」
「荷物は俺が持つよ」
「足許、気をつけて」
何だろう、と久野は思った。
何だろう、何かはわからない、けれど何かが猛烈に、気持ち悪い。
しかし彼は頭を振って、その気持ちの悪さを忘れることにした。向坂と自分は別に友達ではない。ただのクラスメイトでただのルームメイト、それだけだ。後のことは全てこのハイスペックで親切な友人たちに任せればいいだろう。向坂にしてみても、その方がいいはずだ。
「おーい久野、何してんだ」
「次は移動だよ」
「遅れちゃうよ、うん」
友人たちの呼ぶ声に、久野は立ち上がった。じっと自分を見つめてくる灰色の瞳に気づかぬふりをして、大股で歩き出す。そうして矢部らと合流して教室の外に出ると、四人でぞろぞろと特別教室に向かった。
「どうしたんだ、久野。いつも以上にこええ顔してんぞ」
「そういえば、久野は向坂君と同室だったよね」
「きっと騒ぎに巻き込まれて寝不足なんだよ、うん」
「あ、そういうことか。いやー、それにしても向坂のあれって……」
久野は何も言わなかった。ほかの三人は暫く向坂の噂話をしていたが、彼が乗ってこないことに気づくと、顔を見合わせて口を噤んだ。
――別に、俺じゃなくてもいいんだから。
振り切るように、胸の内で呟いてみる。だがそれはひどく言い訳じみていて、余計彼の心を憂鬱にさせるだけだった。
それは昨夜のことだった。
「久野様。少し、よろしいでしょうか」
「な……何ですか」
向坂・一柳・冷泉から成る連合軍との戦いに惨敗し、美少女の皮を被った暴君の世話を押しつけられて胃痛と頭痛を併発させた久野は、諸悪の根源であるところのその美少女に連行される形でよろよろと部屋に戻ろうとしたところを、一柳に呼び止められた。
「すぐに終わります。縁さんは、先にお部屋に戻っていてください」
久野と同時に立ち止まった向坂だったが、一柳に優しく促されると、少し名残惜しそうな顔をしつつも素直に肯き、また連絡する、と言い残して食堂を出て行った。教頭も空気を察したのか、あるいはただ単にもう少し居心地のよい場所に移動したかったのか、あなたたちちょっと会議するわよと言って寮長を叩き起こすと泥酔した管理人を背負わせ、それじゃあまたねと言い残すと三人で立ち去った。久野にしてみれば、メンタルがおぼろ豆腐と化してしまった寮長と意識がおぼろ豆腐然としている管理人と危機意識がおぼろ豆腐並みの教頭の間で果たして会議などという高尚な営みが成立しうるのか甚だ疑問だったが、そこに突っ込みを入れても何のメリットもないことは明白だったので、彼は口を閉じたまま執事と二人きりになるのを待った。
食堂の扉が閉まり、足音が聞こえなくなる。すると一柳はそれまで浮かべていた微笑を消し、真顔になった。
「久野様。このたびは本当に申し訳ありませんでした」
一柳はそう言うと、深々と頭を下げた。久野にしてみれば、謝るくらいならこれ以上迷惑をかけるのをやめろと言いたいところなのだが、しかし相手は狂犬執事、詫びているのに一切申し訳なさそうなところがなく、むしろ脅迫じみた凄味があって、ただの善良な高校生(しかも童貞である)に過ぎない久野は、言い知れぬ恐怖にがたがたと震えた。
「私としましては、縁さんをただちに休学させ、安全な場所にお連れして暫く経過を見たいと考えております」
凄味はあったが、言っている内容自体は極めてまともだった。久野はがたがた震えながら、やっぱりそうだよな、と思った。だが一柳が次に口にした接続詞は、まさかの逆接だった。
「しかし、縁さんはこの困難に真正面からぶつかっていくご覚悟を、既に固めておられます。そしてそれが恐らく、縁さんの人生にとって正しい選択でもあるのでしょう」
「……あの、どういうことですか」
「このたびの災難は、縁さんにとっていつか乗り越えねばならぬ試練だったのだと思うのです。そしてその『いつか』が、たまたま昨日訪れたという、ただそれだけのことだったのでしょう」
「なにこれ日本語通じてない」
「実はこの件について、私に心当たりがございます。少々お時間をいただくことになりますが、必ず原因を突き止めて参りますので、久野様には縁さんのことを……」
「えっ、この件ってまさか女体化のことですか、心当たりがあるっていったい……って、いやいやいや、だから待ってくださいよ!」
彼は頭を振って思考を切り替えた。危うく話を逸らされてしまうところだった。これを逃せば恐らく二度と、反論もとい抵抗のチャンスはないのだ、相手のペースに呑まれてはならない。女体化した原因など、ただのルームメイトの久野には徹頭徹尾関係がない。これ以上この馬鹿げた騒ぎに関わり合いをもつと、ハンツマンとその猟犬に狙われたアカギツネのように、更に面倒な立場へと追い込まれるのは目に見えている。
「男子校の男子寮に女の子が一人なんて、誰がどう考えても危ないし、もし何かあっても俺は責任なんて取れないし取りませんよ。親御さんの意見を聞かずにそんな大事なことを決めちゃっていいんですか。言っちゃ悪いけど、一柳さんはただの執事ですよね?」
「縁さんは久野様を信頼しておられます。そして私は縁さんの目を信じております。久野様なら私の代わりに縁さんを助け、そして守ることができると、私は確信しております」
「こ、向坂が俺を、信頼?」
「そうです。縁さんは久野様を信頼しておられます。ずっとあの方の傍にいた私にはわかります」
もし久野がもう少しだけ冷静さを欠いていたら、あんたの目は節穴か、と絶叫しているところだった。しかし残念なことに、彼はそこまで理性を失ってはいなかった。向坂が自分のことを信頼しているという言葉の意味を――信頼という熟語の語義的な意味ではなく、もっと感覚的な意味を――考えてしまった。つまり、ちょいちょいと袖を引っ張ってくる小さな手や、真っ直ぐに見上げてくる馬鹿みたいに綺麗な灰色の瞳や、押しつけられた頬に感じた涙の温度や、ぎゅっとしがみついてくる柔らかな身体の震えについて考えたのである。そして、そういったものについて考えてしまったことによって、久野は反論もとい抵抗の最後の最後のチャンスを永久に喪失したのだった。
「久野様のおっしゃるとおり、私は執事です。しかし縁さんのことは、縁さんのお父上である私の主人から全て任されております。縁さんがこの学園に留まることを望み、私がそれを正しい選択だと判断すれば、それが向坂家の総意となります」
久野は返事の代わりに溜め息をついた。もう仕方がなかった。向坂女体化バージョンが脳内嫁と完全一致していた時点で、どう転んでも彼はあの生命体には勝てないのである。実際のところ、女体化していなくても勝てる見込みはゼロだったのだが、まあそれはそれこれはこれというやつで、とにかく久野は溜め息を吐き尽くすと肯いた。
「わかりました。俺にできることなら協力しますよ。ただ、向坂に何かあっても俺は責任なんて取れないってことだけは、忘れないでください」
「ありがとうございます」
礼を述べて、一柳は再び深々と頭を下げた。その姿からは、やはり脅迫的な威圧感と殺気しか感じられなかった。向坂に何かあったら自分は魚の餌になるのだということを、久野は悟った。
「一柳さんって、向坂の何なんですか」
別れ際、寮の玄関先で、久野は一柳に訊ねた。
「一柳さんが向坂のお父さんから与えられている権限も、向坂への拘りも、ただの執事とは思えないレベルだと思うんですけど」
向坂と一柳の関係性が、彼にはいまひとつ理解できなかった。二人が互いを「さん」付けで呼んでいること、向坂が一柳に対し敬語を使っていること、久野の目には重度の性格破綻者か軽度のサイコパス以外の何ものにも見えない向坂を一柳が天使と崇めること、そしてあの親密すぎる空気。何もかもが奇妙に映った。
久野の突っ込んだ質問に、狂犬執事は狂犬らしからぬ穏やかな目をした。そして、縁さんにとって私が何ものであるかは縁さんしか知りませんが、と前置きした上で、まるで宝玉を台座に置くようにそっと言葉を並べた。
「縁さんは私の希望なのです。私がかつて手にしかけて、しかし触れる前に失ってしまった、世界で最も美しく愛おしいもの、それがあの方なのです。縁さんのためなら私は、私自身を含めた誰の何を犠牲にしても構わないと、そう考えております」
恐ろしく抽象的かつとんでもなく狂信的な表現だった。この向坂縁至上主義者には、まともな倫理観などないのだろう。縁さんのためと称して既に二、三十人くらい東京湾に沈めていたとしても驚かない。しかし相手の言葉にひどく悲しげな響きを聞き取った久野には、これ以上問いを重ねることができなかった。黙り込んだ彼を見て、一柳は微笑した。
「久野様は本当に良いお顔をしていらっしゃる。きっと大丈夫でしょう」
「……ありがとうござい、ます……」
生まれて初めて初対面の人間から自身の最大のコンプレックスである容姿を高く評価された久野だったが、何処まで解釈項を展開させても相手の発言からは用心棒的な意味しか汲み取れなかったため、ナイーブな童貞は貶されるよりも傷ついた。
一柳の姿が駐車場へ消えるのを見送って、久野は寮の中に戻った。時刻は午前二時を回っていた。朝になれば新学年の新学期が始まる。とっとと寝なければならない。だが、部屋ではあの小さくて柔らかくて温かな生き物が自分を待っている。そう考えると、彼の両足はオツベル仕込みの社畜白象並みに重くなった。
俺が向坂に何かしない保証なんて、何処にもないんだけどな。
心の中でそう呟いて、善良な童貞はとぼとぼと自室に向かったのだった。
さて、そんなこんなで顔に似合わず英語の授業に真面目に取り組んだ久野は、四時間目が終わると矢部らと共に教室に戻った。荷物を置くと、寮から届いた弁当を受け取りに一階へ向かう。すると階段を下りている最中、彼の頭痛及び胃痛の種に出くわした。
「っと、……向坂」
「久野」
向坂の周りには、例によって例のごとく、愉快ならざる仲間たちがいた。手にした包みを見る限り、どうやら連中は弁当を受け取った帰りらしい。久野の姿に気づくと、ハイスペッカーズは露骨に視線を逸らした。だが向坂だけは、真っ直ぐに彼を見つめた。その眼差しは、久野に何かを訴えようとしているようだった。しかし彼には相手が何を訴えようとしているのかわからなかった。そして向坂自身もまた、自分が何を訴えたがっているのかわかっていない様子だった。
「向坂、行こう」
誰かがそう言って、向坂の腕を掴む。
不意を打たれた向坂の視線が、久野から外れる。足がもつれて転びそうになったところを、別の誰かが支えた。
「気をつけて」
向坂の薄い肩に手をかけて、誰かがそんなことを言う。向坂は返事をしなかった。無表情で自分の肩を抱く男を凝視している。
「ほら」
腕を引っ張られて、向坂は階段を上り始めた。階段の中腹で立ち止まった久野の視界を、長い髪が掠めていく。背中に足音を聞きながら、彼は必死に考えた。
――あいつらは向坂の友達だ。
――俺よりずっと向坂のことをわかっているし、俺よりずっと女の子に免疫があるし、俺よりずっと紳士的だ。
――それに俺は自慢じゃないが勘は鈍い方だし第六感なんて信じてないし、ただ何となくそんな気がしたからという理由で軽率な行動を取るタイプでもない。
――そもそも俺は向坂について一切の責任を負っていないわけだし。
――だから、だから……。
「あああああ、何なんだよもう……!」
思わず頭を抱えて彼は呻いた。階段の真ん中で石像と化していた久野の横を恐る恐る通り抜けていた哀れな通行人たちが、一様に恐慌状態に陥る。しかし彼には周りの反応に拘泥している暇などなかった。くるりと一八〇度方向転換し、階段を駆け上がると、廊下を走って手当たり次第教室を覗いた。そうして県内最凶との呼び声高い顔面によって、各教室で和やかに食事を摂っていた生徒たちの平和なランチタイムを一瞬で氷結させて回ったのが、しかしそれでもあの小さくてふわふわした生き物の姿を見つけることはできなかった。
焦りと緊張で、背中に冷たい汗が滲む。喉が渇いて、胃の奥がざわざわした。
――考えろ。
久野は目を閉じた。俯いてゆっくりと息を吐く。
考えろ。もし後ろめたいことをするなら、人目につかないところに行くはずだ。昼休みに人の出入りが少ない場所。生徒が教師から鍵を借りやすい部屋。
彼は目を開いた。顔を上げ、廊下の先を見つめる。
『美術室』
もう何も考えなかった。美術室まで走ると、ドアノブに手をかける。ガチ、と嫌な音を立てて、扉は彼を拒んだ。
「向坂!」
大声で叫んで、体当たりした。扉が激しく軋む。痛みはまるで感じなかった。数歩後退すると、今度は勢いをつけて再び扉に挑む。その強すぎる衝撃に、扉だけでなく壁も揺れた。
「さっさと開けねえとこのままドアぶち破るぞクソ野郎!」
吠えるように叫んだとき、扉が開いた。
「な、何か用か?」
扉の隙間から、ハイスペッカーズの一員が顔を覗かせる。久野は無言でその隙間に指を入れると、無駄に発達した筋肉を使って、まるで蜜柑の皮を剥くように易々と扉を抉じ開けた。
美術室の一点に、ハイスペッカーズが群がっていた。その群れの中央には椅子が一つ据えられており、そこに彼が探していた生き物がちょこんと座っていた。
久野が鬼の形相で教室の中へ踏み込んでいくと、ハイスペッカーズは慌てて向坂から距離を取った。半殺しにされると思ったらしく、訊ねてもいないのに口々に弁解を始める。
「俺たちは別に何もしていないぞ」
「ただ一緒に食事をしようとしていただけだ」
「そうだよな、向坂?」
向坂は肯いた。だが、昨日一日振り回された経験から、相手がひどく混乱しているのだということが、久野にはすぐにわかった。
「そうか。一緒に飯を食おうとしていただけか」
彼が低く呟くと、ハイスペッカーズはほっとした様子で肯いた。納得してもらえたと思ったらしい。しかし続く久野の言葉に、一同の表情は凍りついた。
「だったら俺にも、一緒に飯を食う権利があるな」
久野がずかずかと進みながら右腕を軽く(といってももろに当たれば骨の二、三本は折れそうな勢いで)振ると、ハイスペッカーズは逃げ出した。出エジプト記における葦の海のモーセのごとく指一本触れずに障害を脇へ押しやると、久野は向坂の前に立った。着衣に乱れがないことを確認してから、屈み込んでこちらをじっと見つめている大きな瞳を覗く。
「向坂。一緒に飯、食うぞ」
髪と同じ色の睫毛が、幾度か上下する。だからもう一度名前を呼んだ。なるべく穏やかに響くように。こちらの気持ちが伝わるように。
「向坂」
名前を口にしてから、久野は息を呑んだ。淡い色の虹彩に囲まれた黒い瞳孔に、自分自身の姿が映っていた。だがそれはまるで自らの顔には見えなかった。生まれてこのかた悪人面で通ってきた自分が、こんなに優しい表情ができるとは、思ってもみなかった。
「……そうか」
甘い香りと共に、静かな声がした。久野は我に返った。向坂が立ち上がる。傍の机に歩み寄り、手つかずで放置されていた弁当の包みを手にすると、感情の読めない瞳で、教室の角で固まっている友人たちを暫時見つめる。
「行くぞ、久野」
彼を促すその声は、いつもの冷静さと冷淡さで、けれど何処か淋しげに聞こえた。
そんなわけで、無事向坂奪還(というかどちらかと言わなくても強奪)に成功した久野だったが、その後のことは全く考えていなかったため、結果として別の混乱が5―Bの教室の片隅で発生することとなった。
「ええと、えっと、えー……」
「あうあうあう」
「おぼぼぼぼぼ」
久野の愉快な仲間たちであるところの三人の童貞は、美少女とのランチタイムというご褒美よりも拷問に近い強制イベントに遭遇し、動揺を隠せなかった。ぐるりと輪になって座れるように机を並べたのに、何故か三人組は向坂の正面にあたる長方形の一辺にぎゅうぎゅうと詰まるように座ったため、仕方なく久野は向坂の隣に陣取り、五名の位置は三対二の(ド底辺対ゴッドアンドアウトサイダーというド底辺爆死確実の地獄のような)合コン隊形になっていた。向坂は胡乱だと言わんばかりの目で暫く三人を眺めていたが、やがて隣に座る久野に視線を向けた。
「自己紹介が必要か? いやその前に、日本語は通じるのか?」
「狂犬執事よりは遥かに通じるはずだ」
「何だそれは」
同じクラスの生徒であっても、向坂と矢部・五十嵐・森下はほとんど会話したことがなかったようだ。もちろん三人組はゴッドたる向坂のことを知っているが、向坂にしてみればそのへんにいる有象無象のことなど記憶していなくても不思議ではない。
「とにかく、政治と宗教と野球以外のネタなら何でもいいから、こいつらに話しかけてやってくれ」
久野に諭すように言われた向坂は、むっとした顔で煮物を頬張った。人参をもぐもぐごくんと片づけると、パックのウーロン茶を一口飲んで三人を順番に見つめる。
「向坂縁。5―B所属、久野のルームメイトだ。さあ、次は君の番だ」
ぴしっと人差し指を突きつけられたのは、矢部だった。森下と五十嵐があからさまに安堵の表情を浮かべる。久野は、意外だ、と思った。先程の自己紹介発言を、彼は単なる皮肉として受け取っていたのが、どうやら向坂は、相手が自分のことを知らないのではないかと本気で考えているらしい。ミスター七葉にしてゴッドオブ七葉たる向坂縁のことを知らない人間など(県内最凶顔面たる久野知之を知らない人間と同じように)この学園には存在しないはずなのに、向坂にはそのあたりの認識が綺麗に欠けているようだ。信じられないことだが、もしかしたら向坂は己が神のような立ち位置にあることを、正しく認識していないのかもしれない。
向坂に真っ直ぐ見つめられた矢部は、見るも無残なという形容しか思いつかないくらいの見事さであわあわした。
「や、や、や、矢部、陽太、です。ええと、えーと、同じ五―Bの生徒で、久野のオトモダチ、です。せせせ、生年月日と星座と血液型と身長と体重とスリーサイズと好きな食べ物は……」
「なんで敬語なんだよ。それにお前のスリーサイズなんて誰得だよ。ていうか計ってんのかよ。どういう嗜みだよ」
友人の乱れ具合に、久野は渋々ツッコミを入れた。すると矢部は、仕方ねえだろ、と彼に噛みついた。
「お、お前と違って、俺は女の子と喋るのなんて小学校以来なんだから、緊張してんだよ!」
「いやそれにしてもな……」
そのときだった。
「――女の子じゃない」
聞こえてきたのは、奇妙な声だった。抑揚も震えも何もない、ひたすら平坦な声。
「僕は、女じゃない」
感情を欠いた向坂の声に、三人が絶句する。久野は一人、神妙な顔で肯いた。
「そうだな。向坂は向坂だ。驚くほど何も変わってない」
いっそ中身も外見同様可愛らしく変わっていればよかったのに、と物憂く彼が肯くと、向坂の瞳が久野に向けられた。無言でじいっと見つめられ、彼は首を傾げた。
「どうかしたか?」
「――いや。さあ、次は君の番だ」
「ひぇあ」
指された森下が悲鳴を上げる。久野は向坂に対し何か言おうと思ったが、しかし、しどろもどろになった友人にツッコんだり助け舟を出しているうちに、昼休みは終わってしまった。
午後の授業が終わると、久野はさっさと荷物をまとめた。そして後ろを振り返り、向坂に声をかける。
「向坂、お前今日、掃除当番か何かあるか?」
向坂は例によって優雅に読書していた。少し憂いを帯びた表情は、病める深窓の令嬢といった風情だった。元々顔立ちから立ち居振る舞いから発声の仕方に至るまで、ありとあらゆるところから品の良さがダダ漏れしているお坊ちゃんであったのだから(喋らせなければ、北欧系の小国の王子が日本へお忍び旅行した際に現地女性と一夜の恋に落ちた結果生まれた奇跡の少年だと言っても、誰も疑わないだろう。喋ってしまうともうイエスヒーイズゴッドとしか評せなくなるのだが)当然といえば当然なのだが、やはり腹立たしいくらい麗しい。
「理科室の掃除が当たっているな」
「そうか。俺は教室掃除だから、お前のところの掃除が終わったらここに戻って待っていてくれ。たぶん、一緒に寮に戻った方がいい」
美術室での一件を考えると、憂鬱な話ではあるが、なるべく向坂と行動を共にした方がいいだろう。同じことを考えたのかどうかはわからないが、向坂も素直に了承した。
終礼が終わり、掃除が始まる。同じ当番の生徒たちは、床を掃いたり机を運んだりしながら、ずっと向坂の話をしていた。仕方ないことだとわかっているのに、久野にはそれが妙に気に入らなかった。話の内容は、本当なんだろうか、とか、ありえないだろう、とか、そういったことだ。苛立つ要素など何処にもない。このもやもやが何に起因しているのか特定できず、思わず低く溜め息をつくと、それを聞いた周りの生徒は首を竦めて小さくなった。いつものことながら心ならずも周囲を怯えさせてしまった久野だったが、今回は特に傷つきはしなかった。皆が向坂の噂話をやめ、掃除に集中し始めたからだ。周りが向坂の話をやめて自分がほっとしたこと、そして恐らくそれゆえに周囲の反応にも痛みを感じていないこと、この二点に気づくと、彼は何ともいえない表情になった。
途中から全員が真面目に取り組みだしたため、掃除はスムーズに進んだ。雑巾がけの段階に入ったとき、理科室の掃除当番だった生徒たちが、鞄を取りに教室に戻ってきた。しかし、その集団の中に向坂の姿はなかった。不安を覚えた彼は、仕方なく理科室当番組の一人に声をかけた。
「なあ、向坂はどうした?」
「うわあっ」
背後から久野に話しかけられたクラスメイトは、二十センチくらい飛び上がったあと、びくついた様子で振り向いた。
「こ、向坂なら、掃除のあと立ち話してたから、そのまま置いてきた。まだ理科室にいるんじゃないか」
「立ち話って、誰と」
「あー、と、六年生だ、ほら、去年停学喰らって留年した、あの……」
「何だと」
久野の表情が、青く苦い怒りを湛えた修羅のごとき形相に変化する(季節も上手い具合に春である)。哀れな生徒は首を絞められた鶏のような声を上げると、転びそうになりながら教室の外へ逃げていった。修羅と化した久野もまた、凄まじい勢いで教室を飛び出す。
クラスメイトが話していた人物には、心当たりがあった。いわゆる札付きの不良で、昨年他校の生徒と喧嘩をして停学処分となり卒業を逃した、『七葉のアンタッチャブル』と呼ばれる六年生である。この男の最も恐ろしいところは、見た目は至って平凡で、校内では模範的といってよいくらい真面目な生活態度、学習態度を貫いているという点である。それも演技をしているのではなく、「素」らしいのだから気味が悪すぎる。と、七葉のアンタッチャブルよりも遥かに周りから恐れられている久野は考えた。
畜生、やっぱりずっと傍についていればよかった。美術室の件もあったし、何か起きてからじゃ遅いって、わかっていたはずなのに。
心の中で歯噛みして、彼は走り続けた。
私立七葉学園高等部二年B組学級担任薮内聿子は、そこで一旦言葉を切り、教室の隅々まで視線を巡らせた。
「皆さん、配慮です。いいですね、配慮ですよ」
教室内は異様な沈黙に包まれていた。仮にその場にいる約四十名の生徒全員が野菜になっていたとしても恐らく聴覚的には何の違いもないくらいには、見事な沈黙だった。誰もが呼吸を忘れてしまったかのように押し黙り、ある一点に視線を注いでいる。
「配慮、してくださいね」
駄目押しでもう一度同じ単語を口にしながら、薮内もまた約四十人の生徒の視線が集中するポイントに目をやった。彼女の念入りに整えられた眉の間に、微かな皺が走る。
何度見ても――といっても今朝初めて見たのだが――この男子校という空間において極めて異常な、決して彼女の視界に存在しないはずの異物が、そこに存在していた。
「……かみさま」
口の中で祈るように呟くと、薮内は教壇を下り、そのまま教室をあとにした。
担任が去ったあともなお、5―B(一般的に、高等部二年B組はこのように省略されるのである)の教室は静寂に支配されていた。生徒の半分は口を開いたまま硬直しており、もう半分の生徒は頭を抱えて高速瞬きをするか、自らの頬を抓るか、あるいは昨日の久野のように全てを夢にすべく目をぎゅっと閉じて無駄な努力をするか、そのいずれかだった。久野は暫く机の上を見つめていたが、やがて教室内の雰囲気に耐えられなくなり、溜め息をつくと体を捻って後ろを向いた。
「なあ向坂、この状況だけど……って」
彼の後ろの席には、全ての元凶が澄ました顔で座っており、机上に紅茶とシフォンケーキが幻視できるくらいの優雅さで読書をしていた。おまけに読んでいたのはサルトルの『嘔吐』だった。メンタルが強いにも程がある。
「……いやほんと、何なんだよお前……」
久野の後ろの席が向坂であるということは、もちろん偶然ではなかった。私立七葉学園は、ガチガチのお坊ちゃん学校であると同時にバリバリの進学校である。高等部からは進路と学力とその他諸々の事情に合わせてクラス編成がなされ、何事もなければそのまま三年間ずっと同じクラスになる。現在は進級に伴い教室が変わったばかりなので座席は出席番号順になっており、そして彼にとっては不運なことに、このクラスには久米やら桑原やら小池やらという名字の人間がいなかったため、久野は昨年から試験やら何やらで出席番号順に並ぶ機会が発生するたびこのルームメイトに隣接し、ゴッドと凡人の格の違いをまざまざと見せつけられるという災難に見舞われており、そしてその災難はあと丸二年続くことが確定しているのだった。
さて、久野が心底呆れ果てて言葉を失っていると、前の席の凶悪な顔立ちをした善良な童貞(確定)に優雅な読書タイムを邪魔された美少女の皮を被った邪悪な童貞(推定)は、線路に置かれた石ころを見るような目を相手に向けた。
「なんだ?」
「みんなに何か一言、言っておいた方がいいんじゃないか。今、すげえ空気になってるぞ」
冷たい視線にもめげずに久野がそう言うと、向坂は露骨に面倒くさそうな顔をした。
「全校朝礼で話しただろう。あれ以上何を話せと言うんだ。男に戻る方法に心当たりのある者がいたら出てきてくれ、とでも訴えればいいのか」
確かにその通りだった。それに先刻薮内が『配慮』という言葉を口にしていたが、具体的にどこをどう配慮してほしいか言ってしまったら、それこそ藪蛇になりかねない。それで久野も口を噤んで前を向くしかなかった。こうして教室中が異様な雰囲気に包まれたまま、私立七葉学園の新学期が本格始動した。
とはいえ、いくら前代未聞の事態に見舞われ誰もが軽いパニックに陥っていたとしても、ここは学校である。学校である以上、教師や生徒らにはそれぞれ為すべきことがあり、男子高生突然の女体化というこの世の法則ガン無視の超現実的事象をもってしても、その理を覆すことはできなかった。そんなわけで、教員と生徒は粛々と教科書を読み、解説し、板書し、ノートを取り、指名し、問題を解き、答え合わせをした。たとえ教室の中に一人女の子が紛れていて、それがどんなに魅力的な外見をしていたとしても、この学校という閉鎖空間において脈々と受け継がれ最早伝統と化した彼らの営みに罅を入れることなどできないのだ。久野も最初のうちは、向坂が原因でとんでもない問題(わりと性的な意味で)が起こるのではないかと冷や冷やしていたのだが、一時間目二時間目と平和に授業が進んでいくにつれて、全て杞憂だったのではないかと思い始めた。性別は変わったといえども、顔立ちや声質は女体化する前とそう違っていないし、何より中身に関しては向坂縁以外の何ものでもないのだ。あのゴッド向坂だと知っていれば、とてもじゃないが下心なんて抱けないだろう。と、昨夜の自分の所業をすっかり忘れて、久野はそう思った。
さて、こうして三時間目の授業も無事に終わった。生徒たちは未だ緊張の真っただ中にあったが、次の授業のための準備を始めた。四時間目の英語は習熟度別授業で、ありとあらゆる物事において学年トップの向坂と、英語はまあまあそこそこの久野は、当然のごとく別々の教室に移動することになっている。久野が机の中をかき回してテキストとノートを探していると、突然教室の入り口辺りからいかにも偏差値の高そうな声が響いた。
「向坂!」
久野は僅かに顔を顰めて声のする方に目をやった。ハイスペッカーズがゴッドのお迎えにやってきたのだ。もちろんハイスペッカーズもゴッドほどではないにせよ、クソ忌々しいほどありとあらゆる物事に秀でているため、英語のクラスも向坂と同じなのである。
「向坂、いやあ、びっくりしたよ」
「こんなことが現実に起こるなんてね」
「でもこうしてよく見ると、確かに向坂だ」
「いつか元に戻るのか?」
今まで一般人たちが向坂に声をかけることすらできなかったのに対し、ハイスペッカーズは凄まじく積極的だった。ずかずか教室に入ってくると向坂の席を取り囲み、次々に思ったことを口にする。対する向坂は何処までもマイペースで、まるで天気の話でもしているようなテンションで淡々と、僕も驚いた、だがこれが現実だ、当然だろう僕は僕だ、そのうち元に戻ると信じたい、などと答え、恐ろしく強靭な自己同一性とぶっ飛んだ適応力とを見せつけていた。ハイスペッカーズも戸惑っていないわけではなかったようだが、しかし向坂があまりにも通常運転だったため、女体化などというふざけた事態を全面的に受け入れることに決めたらしい。俺たちでよければ力になるから、とか、困ったことがあったら何でも相談してくれ、とかいう麗しいフレーズを、例の偏差値の高そうな声で奏で始めた。
「さあ、そろそろ行こう。授業が始まる」
「荷物は俺が持つよ」
「足許、気をつけて」
何だろう、と久野は思った。
何だろう、何かはわからない、けれど何かが猛烈に、気持ち悪い。
しかし彼は頭を振って、その気持ちの悪さを忘れることにした。向坂と自分は別に友達ではない。ただのクラスメイトでただのルームメイト、それだけだ。後のことは全てこのハイスペックで親切な友人たちに任せればいいだろう。向坂にしてみても、その方がいいはずだ。
「おーい久野、何してんだ」
「次は移動だよ」
「遅れちゃうよ、うん」
友人たちの呼ぶ声に、久野は立ち上がった。じっと自分を見つめてくる灰色の瞳に気づかぬふりをして、大股で歩き出す。そうして矢部らと合流して教室の外に出ると、四人でぞろぞろと特別教室に向かった。
「どうしたんだ、久野。いつも以上にこええ顔してんぞ」
「そういえば、久野は向坂君と同室だったよね」
「きっと騒ぎに巻き込まれて寝不足なんだよ、うん」
「あ、そういうことか。いやー、それにしても向坂のあれって……」
久野は何も言わなかった。ほかの三人は暫く向坂の噂話をしていたが、彼が乗ってこないことに気づくと、顔を見合わせて口を噤んだ。
――別に、俺じゃなくてもいいんだから。
振り切るように、胸の内で呟いてみる。だがそれはひどく言い訳じみていて、余計彼の心を憂鬱にさせるだけだった。
それは昨夜のことだった。
「久野様。少し、よろしいでしょうか」
「な……何ですか」
向坂・一柳・冷泉から成る連合軍との戦いに惨敗し、美少女の皮を被った暴君の世話を押しつけられて胃痛と頭痛を併発させた久野は、諸悪の根源であるところのその美少女に連行される形でよろよろと部屋に戻ろうとしたところを、一柳に呼び止められた。
「すぐに終わります。縁さんは、先にお部屋に戻っていてください」
久野と同時に立ち止まった向坂だったが、一柳に優しく促されると、少し名残惜しそうな顔をしつつも素直に肯き、また連絡する、と言い残して食堂を出て行った。教頭も空気を察したのか、あるいはただ単にもう少し居心地のよい場所に移動したかったのか、あなたたちちょっと会議するわよと言って寮長を叩き起こすと泥酔した管理人を背負わせ、それじゃあまたねと言い残すと三人で立ち去った。久野にしてみれば、メンタルがおぼろ豆腐と化してしまった寮長と意識がおぼろ豆腐然としている管理人と危機意識がおぼろ豆腐並みの教頭の間で果たして会議などという高尚な営みが成立しうるのか甚だ疑問だったが、そこに突っ込みを入れても何のメリットもないことは明白だったので、彼は口を閉じたまま執事と二人きりになるのを待った。
食堂の扉が閉まり、足音が聞こえなくなる。すると一柳はそれまで浮かべていた微笑を消し、真顔になった。
「久野様。このたびは本当に申し訳ありませんでした」
一柳はそう言うと、深々と頭を下げた。久野にしてみれば、謝るくらいならこれ以上迷惑をかけるのをやめろと言いたいところなのだが、しかし相手は狂犬執事、詫びているのに一切申し訳なさそうなところがなく、むしろ脅迫じみた凄味があって、ただの善良な高校生(しかも童貞である)に過ぎない久野は、言い知れぬ恐怖にがたがたと震えた。
「私としましては、縁さんをただちに休学させ、安全な場所にお連れして暫く経過を見たいと考えております」
凄味はあったが、言っている内容自体は極めてまともだった。久野はがたがた震えながら、やっぱりそうだよな、と思った。だが一柳が次に口にした接続詞は、まさかの逆接だった。
「しかし、縁さんはこの困難に真正面からぶつかっていくご覚悟を、既に固めておられます。そしてそれが恐らく、縁さんの人生にとって正しい選択でもあるのでしょう」
「……あの、どういうことですか」
「このたびの災難は、縁さんにとっていつか乗り越えねばならぬ試練だったのだと思うのです。そしてその『いつか』が、たまたま昨日訪れたという、ただそれだけのことだったのでしょう」
「なにこれ日本語通じてない」
「実はこの件について、私に心当たりがございます。少々お時間をいただくことになりますが、必ず原因を突き止めて参りますので、久野様には縁さんのことを……」
「えっ、この件ってまさか女体化のことですか、心当たりがあるっていったい……って、いやいやいや、だから待ってくださいよ!」
彼は頭を振って思考を切り替えた。危うく話を逸らされてしまうところだった。これを逃せば恐らく二度と、反論もとい抵抗のチャンスはないのだ、相手のペースに呑まれてはならない。女体化した原因など、ただのルームメイトの久野には徹頭徹尾関係がない。これ以上この馬鹿げた騒ぎに関わり合いをもつと、ハンツマンとその猟犬に狙われたアカギツネのように、更に面倒な立場へと追い込まれるのは目に見えている。
「男子校の男子寮に女の子が一人なんて、誰がどう考えても危ないし、もし何かあっても俺は責任なんて取れないし取りませんよ。親御さんの意見を聞かずにそんな大事なことを決めちゃっていいんですか。言っちゃ悪いけど、一柳さんはただの執事ですよね?」
「縁さんは久野様を信頼しておられます。そして私は縁さんの目を信じております。久野様なら私の代わりに縁さんを助け、そして守ることができると、私は確信しております」
「こ、向坂が俺を、信頼?」
「そうです。縁さんは久野様を信頼しておられます。ずっとあの方の傍にいた私にはわかります」
もし久野がもう少しだけ冷静さを欠いていたら、あんたの目は節穴か、と絶叫しているところだった。しかし残念なことに、彼はそこまで理性を失ってはいなかった。向坂が自分のことを信頼しているという言葉の意味を――信頼という熟語の語義的な意味ではなく、もっと感覚的な意味を――考えてしまった。つまり、ちょいちょいと袖を引っ張ってくる小さな手や、真っ直ぐに見上げてくる馬鹿みたいに綺麗な灰色の瞳や、押しつけられた頬に感じた涙の温度や、ぎゅっとしがみついてくる柔らかな身体の震えについて考えたのである。そして、そういったものについて考えてしまったことによって、久野は反論もとい抵抗の最後の最後のチャンスを永久に喪失したのだった。
「久野様のおっしゃるとおり、私は執事です。しかし縁さんのことは、縁さんのお父上である私の主人から全て任されております。縁さんがこの学園に留まることを望み、私がそれを正しい選択だと判断すれば、それが向坂家の総意となります」
久野は返事の代わりに溜め息をついた。もう仕方がなかった。向坂女体化バージョンが脳内嫁と完全一致していた時点で、どう転んでも彼はあの生命体には勝てないのである。実際のところ、女体化していなくても勝てる見込みはゼロだったのだが、まあそれはそれこれはこれというやつで、とにかく久野は溜め息を吐き尽くすと肯いた。
「わかりました。俺にできることなら協力しますよ。ただ、向坂に何かあっても俺は責任なんて取れないってことだけは、忘れないでください」
「ありがとうございます」
礼を述べて、一柳は再び深々と頭を下げた。その姿からは、やはり脅迫的な威圧感と殺気しか感じられなかった。向坂に何かあったら自分は魚の餌になるのだということを、久野は悟った。
「一柳さんって、向坂の何なんですか」
別れ際、寮の玄関先で、久野は一柳に訊ねた。
「一柳さんが向坂のお父さんから与えられている権限も、向坂への拘りも、ただの執事とは思えないレベルだと思うんですけど」
向坂と一柳の関係性が、彼にはいまひとつ理解できなかった。二人が互いを「さん」付けで呼んでいること、向坂が一柳に対し敬語を使っていること、久野の目には重度の性格破綻者か軽度のサイコパス以外の何ものにも見えない向坂を一柳が天使と崇めること、そしてあの親密すぎる空気。何もかもが奇妙に映った。
久野の突っ込んだ質問に、狂犬執事は狂犬らしからぬ穏やかな目をした。そして、縁さんにとって私が何ものであるかは縁さんしか知りませんが、と前置きした上で、まるで宝玉を台座に置くようにそっと言葉を並べた。
「縁さんは私の希望なのです。私がかつて手にしかけて、しかし触れる前に失ってしまった、世界で最も美しく愛おしいもの、それがあの方なのです。縁さんのためなら私は、私自身を含めた誰の何を犠牲にしても構わないと、そう考えております」
恐ろしく抽象的かつとんでもなく狂信的な表現だった。この向坂縁至上主義者には、まともな倫理観などないのだろう。縁さんのためと称して既に二、三十人くらい東京湾に沈めていたとしても驚かない。しかし相手の言葉にひどく悲しげな響きを聞き取った久野には、これ以上問いを重ねることができなかった。黙り込んだ彼を見て、一柳は微笑した。
「久野様は本当に良いお顔をしていらっしゃる。きっと大丈夫でしょう」
「……ありがとうござい、ます……」
生まれて初めて初対面の人間から自身の最大のコンプレックスである容姿を高く評価された久野だったが、何処まで解釈項を展開させても相手の発言からは用心棒的な意味しか汲み取れなかったため、ナイーブな童貞は貶されるよりも傷ついた。
一柳の姿が駐車場へ消えるのを見送って、久野は寮の中に戻った。時刻は午前二時を回っていた。朝になれば新学年の新学期が始まる。とっとと寝なければならない。だが、部屋ではあの小さくて柔らかくて温かな生き物が自分を待っている。そう考えると、彼の両足はオツベル仕込みの社畜白象並みに重くなった。
俺が向坂に何かしない保証なんて、何処にもないんだけどな。
心の中でそう呟いて、善良な童貞はとぼとぼと自室に向かったのだった。
さて、そんなこんなで顔に似合わず英語の授業に真面目に取り組んだ久野は、四時間目が終わると矢部らと共に教室に戻った。荷物を置くと、寮から届いた弁当を受け取りに一階へ向かう。すると階段を下りている最中、彼の頭痛及び胃痛の種に出くわした。
「っと、……向坂」
「久野」
向坂の周りには、例によって例のごとく、愉快ならざる仲間たちがいた。手にした包みを見る限り、どうやら連中は弁当を受け取った帰りらしい。久野の姿に気づくと、ハイスペッカーズは露骨に視線を逸らした。だが向坂だけは、真っ直ぐに彼を見つめた。その眼差しは、久野に何かを訴えようとしているようだった。しかし彼には相手が何を訴えようとしているのかわからなかった。そして向坂自身もまた、自分が何を訴えたがっているのかわかっていない様子だった。
「向坂、行こう」
誰かがそう言って、向坂の腕を掴む。
不意を打たれた向坂の視線が、久野から外れる。足がもつれて転びそうになったところを、別の誰かが支えた。
「気をつけて」
向坂の薄い肩に手をかけて、誰かがそんなことを言う。向坂は返事をしなかった。無表情で自分の肩を抱く男を凝視している。
「ほら」
腕を引っ張られて、向坂は階段を上り始めた。階段の中腹で立ち止まった久野の視界を、長い髪が掠めていく。背中に足音を聞きながら、彼は必死に考えた。
――あいつらは向坂の友達だ。
――俺よりずっと向坂のことをわかっているし、俺よりずっと女の子に免疫があるし、俺よりずっと紳士的だ。
――それに俺は自慢じゃないが勘は鈍い方だし第六感なんて信じてないし、ただ何となくそんな気がしたからという理由で軽率な行動を取るタイプでもない。
――そもそも俺は向坂について一切の責任を負っていないわけだし。
――だから、だから……。
「あああああ、何なんだよもう……!」
思わず頭を抱えて彼は呻いた。階段の真ん中で石像と化していた久野の横を恐る恐る通り抜けていた哀れな通行人たちが、一様に恐慌状態に陥る。しかし彼には周りの反応に拘泥している暇などなかった。くるりと一八〇度方向転換し、階段を駆け上がると、廊下を走って手当たり次第教室を覗いた。そうして県内最凶との呼び声高い顔面によって、各教室で和やかに食事を摂っていた生徒たちの平和なランチタイムを一瞬で氷結させて回ったのが、しかしそれでもあの小さくてふわふわした生き物の姿を見つけることはできなかった。
焦りと緊張で、背中に冷たい汗が滲む。喉が渇いて、胃の奥がざわざわした。
――考えろ。
久野は目を閉じた。俯いてゆっくりと息を吐く。
考えろ。もし後ろめたいことをするなら、人目につかないところに行くはずだ。昼休みに人の出入りが少ない場所。生徒が教師から鍵を借りやすい部屋。
彼は目を開いた。顔を上げ、廊下の先を見つめる。
『美術室』
もう何も考えなかった。美術室まで走ると、ドアノブに手をかける。ガチ、と嫌な音を立てて、扉は彼を拒んだ。
「向坂!」
大声で叫んで、体当たりした。扉が激しく軋む。痛みはまるで感じなかった。数歩後退すると、今度は勢いをつけて再び扉に挑む。その強すぎる衝撃に、扉だけでなく壁も揺れた。
「さっさと開けねえとこのままドアぶち破るぞクソ野郎!」
吠えるように叫んだとき、扉が開いた。
「な、何か用か?」
扉の隙間から、ハイスペッカーズの一員が顔を覗かせる。久野は無言でその隙間に指を入れると、無駄に発達した筋肉を使って、まるで蜜柑の皮を剥くように易々と扉を抉じ開けた。
美術室の一点に、ハイスペッカーズが群がっていた。その群れの中央には椅子が一つ据えられており、そこに彼が探していた生き物がちょこんと座っていた。
久野が鬼の形相で教室の中へ踏み込んでいくと、ハイスペッカーズは慌てて向坂から距離を取った。半殺しにされると思ったらしく、訊ねてもいないのに口々に弁解を始める。
「俺たちは別に何もしていないぞ」
「ただ一緒に食事をしようとしていただけだ」
「そうだよな、向坂?」
向坂は肯いた。だが、昨日一日振り回された経験から、相手がひどく混乱しているのだということが、久野にはすぐにわかった。
「そうか。一緒に飯を食おうとしていただけか」
彼が低く呟くと、ハイスペッカーズはほっとした様子で肯いた。納得してもらえたと思ったらしい。しかし続く久野の言葉に、一同の表情は凍りついた。
「だったら俺にも、一緒に飯を食う権利があるな」
久野がずかずかと進みながら右腕を軽く(といってももろに当たれば骨の二、三本は折れそうな勢いで)振ると、ハイスペッカーズは逃げ出した。出エジプト記における葦の海のモーセのごとく指一本触れずに障害を脇へ押しやると、久野は向坂の前に立った。着衣に乱れがないことを確認してから、屈み込んでこちらをじっと見つめている大きな瞳を覗く。
「向坂。一緒に飯、食うぞ」
髪と同じ色の睫毛が、幾度か上下する。だからもう一度名前を呼んだ。なるべく穏やかに響くように。こちらの気持ちが伝わるように。
「向坂」
名前を口にしてから、久野は息を呑んだ。淡い色の虹彩に囲まれた黒い瞳孔に、自分自身の姿が映っていた。だがそれはまるで自らの顔には見えなかった。生まれてこのかた悪人面で通ってきた自分が、こんなに優しい表情ができるとは、思ってもみなかった。
「……そうか」
甘い香りと共に、静かな声がした。久野は我に返った。向坂が立ち上がる。傍の机に歩み寄り、手つかずで放置されていた弁当の包みを手にすると、感情の読めない瞳で、教室の角で固まっている友人たちを暫時見つめる。
「行くぞ、久野」
彼を促すその声は、いつもの冷静さと冷淡さで、けれど何処か淋しげに聞こえた。
そんなわけで、無事向坂奪還(というかどちらかと言わなくても強奪)に成功した久野だったが、その後のことは全く考えていなかったため、結果として別の混乱が5―Bの教室の片隅で発生することとなった。
「ええと、えっと、えー……」
「あうあうあう」
「おぼぼぼぼぼ」
久野の愉快な仲間たちであるところの三人の童貞は、美少女とのランチタイムというご褒美よりも拷問に近い強制イベントに遭遇し、動揺を隠せなかった。ぐるりと輪になって座れるように机を並べたのに、何故か三人組は向坂の正面にあたる長方形の一辺にぎゅうぎゅうと詰まるように座ったため、仕方なく久野は向坂の隣に陣取り、五名の位置は三対二の(ド底辺対ゴッドアンドアウトサイダーというド底辺爆死確実の地獄のような)合コン隊形になっていた。向坂は胡乱だと言わんばかりの目で暫く三人を眺めていたが、やがて隣に座る久野に視線を向けた。
「自己紹介が必要か? いやその前に、日本語は通じるのか?」
「狂犬執事よりは遥かに通じるはずだ」
「何だそれは」
同じクラスの生徒であっても、向坂と矢部・五十嵐・森下はほとんど会話したことがなかったようだ。もちろん三人組はゴッドたる向坂のことを知っているが、向坂にしてみればそのへんにいる有象無象のことなど記憶していなくても不思議ではない。
「とにかく、政治と宗教と野球以外のネタなら何でもいいから、こいつらに話しかけてやってくれ」
久野に諭すように言われた向坂は、むっとした顔で煮物を頬張った。人参をもぐもぐごくんと片づけると、パックのウーロン茶を一口飲んで三人を順番に見つめる。
「向坂縁。5―B所属、久野のルームメイトだ。さあ、次は君の番だ」
ぴしっと人差し指を突きつけられたのは、矢部だった。森下と五十嵐があからさまに安堵の表情を浮かべる。久野は、意外だ、と思った。先程の自己紹介発言を、彼は単なる皮肉として受け取っていたのが、どうやら向坂は、相手が自分のことを知らないのではないかと本気で考えているらしい。ミスター七葉にしてゴッドオブ七葉たる向坂縁のことを知らない人間など(県内最凶顔面たる久野知之を知らない人間と同じように)この学園には存在しないはずなのに、向坂にはそのあたりの認識が綺麗に欠けているようだ。信じられないことだが、もしかしたら向坂は己が神のような立ち位置にあることを、正しく認識していないのかもしれない。
向坂に真っ直ぐ見つめられた矢部は、見るも無残なという形容しか思いつかないくらいの見事さであわあわした。
「や、や、や、矢部、陽太、です。ええと、えーと、同じ五―Bの生徒で、久野のオトモダチ、です。せせせ、生年月日と星座と血液型と身長と体重とスリーサイズと好きな食べ物は……」
「なんで敬語なんだよ。それにお前のスリーサイズなんて誰得だよ。ていうか計ってんのかよ。どういう嗜みだよ」
友人の乱れ具合に、久野は渋々ツッコミを入れた。すると矢部は、仕方ねえだろ、と彼に噛みついた。
「お、お前と違って、俺は女の子と喋るのなんて小学校以来なんだから、緊張してんだよ!」
「いやそれにしてもな……」
そのときだった。
「――女の子じゃない」
聞こえてきたのは、奇妙な声だった。抑揚も震えも何もない、ひたすら平坦な声。
「僕は、女じゃない」
感情を欠いた向坂の声に、三人が絶句する。久野は一人、神妙な顔で肯いた。
「そうだな。向坂は向坂だ。驚くほど何も変わってない」
いっそ中身も外見同様可愛らしく変わっていればよかったのに、と物憂く彼が肯くと、向坂の瞳が久野に向けられた。無言でじいっと見つめられ、彼は首を傾げた。
「どうかしたか?」
「――いや。さあ、次は君の番だ」
「ひぇあ」
指された森下が悲鳴を上げる。久野は向坂に対し何か言おうと思ったが、しかし、しどろもどろになった友人にツッコんだり助け舟を出しているうちに、昼休みは終わってしまった。
午後の授業が終わると、久野はさっさと荷物をまとめた。そして後ろを振り返り、向坂に声をかける。
「向坂、お前今日、掃除当番か何かあるか?」
向坂は例によって優雅に読書していた。少し憂いを帯びた表情は、病める深窓の令嬢といった風情だった。元々顔立ちから立ち居振る舞いから発声の仕方に至るまで、ありとあらゆるところから品の良さがダダ漏れしているお坊ちゃんであったのだから(喋らせなければ、北欧系の小国の王子が日本へお忍び旅行した際に現地女性と一夜の恋に落ちた結果生まれた奇跡の少年だと言っても、誰も疑わないだろう。喋ってしまうともうイエスヒーイズゴッドとしか評せなくなるのだが)当然といえば当然なのだが、やはり腹立たしいくらい麗しい。
「理科室の掃除が当たっているな」
「そうか。俺は教室掃除だから、お前のところの掃除が終わったらここに戻って待っていてくれ。たぶん、一緒に寮に戻った方がいい」
美術室での一件を考えると、憂鬱な話ではあるが、なるべく向坂と行動を共にした方がいいだろう。同じことを考えたのかどうかはわからないが、向坂も素直に了承した。
終礼が終わり、掃除が始まる。同じ当番の生徒たちは、床を掃いたり机を運んだりしながら、ずっと向坂の話をしていた。仕方ないことだとわかっているのに、久野にはそれが妙に気に入らなかった。話の内容は、本当なんだろうか、とか、ありえないだろう、とか、そういったことだ。苛立つ要素など何処にもない。このもやもやが何に起因しているのか特定できず、思わず低く溜め息をつくと、それを聞いた周りの生徒は首を竦めて小さくなった。いつものことながら心ならずも周囲を怯えさせてしまった久野だったが、今回は特に傷つきはしなかった。皆が向坂の噂話をやめ、掃除に集中し始めたからだ。周りが向坂の話をやめて自分がほっとしたこと、そして恐らくそれゆえに周囲の反応にも痛みを感じていないこと、この二点に気づくと、彼は何ともいえない表情になった。
途中から全員が真面目に取り組みだしたため、掃除はスムーズに進んだ。雑巾がけの段階に入ったとき、理科室の掃除当番だった生徒たちが、鞄を取りに教室に戻ってきた。しかし、その集団の中に向坂の姿はなかった。不安を覚えた彼は、仕方なく理科室当番組の一人に声をかけた。
「なあ、向坂はどうした?」
「うわあっ」
背後から久野に話しかけられたクラスメイトは、二十センチくらい飛び上がったあと、びくついた様子で振り向いた。
「こ、向坂なら、掃除のあと立ち話してたから、そのまま置いてきた。まだ理科室にいるんじゃないか」
「立ち話って、誰と」
「あー、と、六年生だ、ほら、去年停学喰らって留年した、あの……」
「何だと」
久野の表情が、青く苦い怒りを湛えた修羅のごとき形相に変化する(季節も上手い具合に春である)。哀れな生徒は首を絞められた鶏のような声を上げると、転びそうになりながら教室の外へ逃げていった。修羅と化した久野もまた、凄まじい勢いで教室を飛び出す。
クラスメイトが話していた人物には、心当たりがあった。いわゆる札付きの不良で、昨年他校の生徒と喧嘩をして停学処分となり卒業を逃した、『七葉のアンタッチャブル』と呼ばれる六年生である。この男の最も恐ろしいところは、見た目は至って平凡で、校内では模範的といってよいくらい真面目な生活態度、学習態度を貫いているという点である。それも演技をしているのではなく、「素」らしいのだから気味が悪すぎる。と、七葉のアンタッチャブルよりも遥かに周りから恐れられている久野は考えた。
畜生、やっぱりずっと傍についていればよかった。美術室の件もあったし、何か起きてからじゃ遅いって、わかっていたはずなのに。
心の中で歯噛みして、彼は走り続けた。
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