芥川繭子という理由

新開 水留

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48「いろどり橋にて」

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2017年、1月11日。


池脇竜二が足繁く通う小料理屋が、都内にあるという。
その店の事を教えてもらったのは、練習終わりの、雪の降る寒い夜の事だった。
今晩時間あるか?と声を掛けられて、驚きのあまりただ黙って頷いた。
そして私は池脇と初めて二人で街へと繰り出した。
時間は夜の11時半だ。
駐車場に止めてある彼の車に乗り込んだ時点では、まだ行く先を聞いていない。
たまには飯でも行こうかと、ただそれだけだった。
バンドメンバーとご飯を御一緒させていただくのは初めてではないが、
敢えてこの遅い時間に疲労を押して誘われたからには、何か理由があるのだと直感した。



車内。
-- カメラ回しても大丈夫ですか?
「今?」
-- 今と、この後。
「おお、全然構わねえよ。…あ、警戒してる?」
-- してませんよ今更(笑)。
「ああ、それで織江がびっくりしてたのか?」
-- してませんって。するわけないじゃないですか、私が。
「…ああ、あはは!」
-- 2017年です。
「なあ。早えなあ」
-- 早いですね。昨年は本当に大変な一年でしたが、今年もとんでもない事になりそうですね。
「全然見えねえけどな。とりあえずアルバム出して、日本で最後にでかいライブやって、拠点移して。その後どうなんのかな…」
-- どうなるんですかね。引っ越し先の相談もぼちぼち始まっているようですね。
「ああ、うん。織江だけに任せるわけにはいかねえし、そこは全員でちゃんと考えていかねえとな。生活スタイルを変えたくねえし、ある程度都市部への利便性も良くて、だけど今みたいにスタジオにこもって毎日練習が出来てってのが理想だしな。しばらくはファーマーズで過ごしたみたいな合宿スタイルが楽なのかもしんねえな、とか」
-- ああ、具体的なお話を聞くとぐっと淋しさが募ります。
「あはは。まあなあ、実の所どうなんだよ、取材の方は。記録とか資料映像とか、もう管理し切れねえ程あるんじゃねえか?」
-- 確かに膨大ですけどね。でも毎日きちんとバックアップとって整理してますから。
「ああ、そうか、そこらへんはちゃんとプロだもんな(笑)」
-- 何をもってプロって呼んでいいのか分からない時ありますけどね。この年で未だに新人の前で怒鳴られたりしますし、今年何本ボツ食らったかなあ。
「そんなに出来の悪い子には見えねえけどなあ。庄内とソリがあってねえんじゃねえか?」
-- あははは!あー、すみません、竜二さん相手に何を愚痴ってるんだろう。余計な心配を掛けてしまいましたね。
「構わねえよ、遠慮すんな」
-- いやいや。
「まだ終わってねえから口には出さねえけど、皆感謝してる」
-- まさかそんな、感謝だなんて。
「本当ほんと。上手く言えねえけど、時枝さんで良かったってのは皆思ってるよ。もし取材に来てたのがアンタじゃなかったら、翔太郎も、全てを話してみようなんて思わなかったって言ってるし。俺もそう思うよ。もちろん庄内が悪いって事じゃねえよ。女だからっていう言い方も好きじゃねえから上手く言い表せねえけど、なんだろうな」
-- 嬉しいです。勿体ないです。
「少なくとも去年一年カメラを回して俺達の言葉を記録し続けてくれた事は、特に織江が背負ってた広報の材料を全部用意してもらったようなモンだから、本気でありがたいって喜んでたよ」
-- ああ、でもそれは初めから条件に入ってたんですよ。商品化する映像や文章は詩音社が権利を所有することになりますが、資料は全てバイラル4と共有しますと。
「そうなんだ?」
-- 織江さん頭良いですよ、企画の段階でそこまで見越していらっしゃいましたからね。録画した映像ってこっちで宣伝用にアレンジして使い回していい?って言われて、私慌てて確認とりましたからね。
「あははは!あいつらしいな」
-- 肖像権や楽曲の著作権、使用料など色々と権利が絡んで来る仕事ですからね。…そもそも、私が来てカメラ回すまで、広報ってどうやってたんですか?
「良く分かんねえけど、多分織江がやってたと思うよ。やってたって言っても、あんまり大掛かりな事は出来てねえと思うけどな。正直、あいつにマネージャー付けたいくらいだよ」
-- ほんとですよね。
「外回りはテツを補佐に付けてるから移動に関しては何とかなってるけど、それでも手が回ってるとは言えないって嘆いてるからなあ。今年から一応誠がバイラルに入るって事になってるからマシにはなるだろうけど、仕事覚えるまでは苦労が絶えねえだろうし、だからホントに感謝してんだよ、そういう意味でも」
-- お役に立てて良かったです。誠さんなら即戦力ですよ。
「出来が良いのは知ってるけど無理してほしくねえからな。なんなら別に、遊んでりゃいいんだよ、あいつは。せっかく帰ってきて、今自由なんだから」
-- やはり、お優しいですね。
「そういう事じゃねえよ。俺達が自分で出来ねえ事を他人に押し付けて、当たり前の顔してんのが嫌なだけだ。自分の生き方見つけて頑張って来たあいつを、本当は巻き込みたくなんかねえよ。翔太郎について来るのは間違いねえから、そういう形を取るだけで」
-- うん、優しい。
「いやいやいや」
-- 私ここだけの話、詩音社とは別でバイラルの為に文章書いて提出してたんですよ。取材用の資料とか、バイオグラフィまとめるの得意なんで、スケジュール確認して、最新情報に全部更新して、刷新して関係者に送ったり。めちゃくちゃ楽しかったです。
「…知ってる」
-- ええ!そうなんですか。
「最近聞いた。見かねて手伝いを打診してくれたんだって、実は半年前から手伝ってもらってたって、織江が謝ってきた」
-- 謝るって、なんで織江さんが謝るんですか?
「あいつなりの筋の通し方だろうな。実は翔太郎や大成もそうだけど、俺が一番そういう所口うるさいの知ってるからな。背に腹は代えられねえからアンタの手を掴んだんだろうけど、本当は独断で決める事じゃないし、事前に話し合いの場を持って詩音社にも相談すべきだった。ズルをした気分だって。でもそれは、そこまであいつを追い込んでた俺達が悪いんだって話なんだし」
-- ううー、難しい話ですね。私は別に、そこまで真剣に仕事をした気でいませんでしたから。ただ単純にお役に立てる事が嬉しかったり、皆さんの活動に参加できている事がハッピーでした。それは、私の方でクリアにしておくべき状況でしたね。却って申し訳ない事をしました。
「そんなわけねえよ、現に助かったのはこっちなんだし。だから今日は、感謝の気持ちを込めてお年玉をあげようと思って」
-- おおおお、お年玉ですか!
「食えねえものとか、好き嫌いはあるかい?」
-- いえ、ないです。
「ちょっと、美味い物食わせようか」
-- やったー!



店の名前を『いろどり橋』と言った。
吹きすさぶ雪の中を歩いて、立ち止まった先に見上げた温もりのある小料理屋の提灯を見上げた時、なんとも昔懐かしい匂いが鼻の奥をくすぐった。
暖簾をくぐってガラリと扉を開け、まず池脇が中に入る。
続いて足を踏み入れた私を迎えたのは、
綺麗に和服を着こなしたとても綺麗な女将さんだった。
「寒い中ようこそいらっしゃいました。善明アキラの母でございます」
私はその言葉を聞いた瞬間、つま先から脳天まで勢いよく震えに突き上げられた。
両手で口鼻を押さえて涙が溢れるのを必死に我慢した。
そのまま何度も頭を下げた。
しかし声に出して挨拶をする事が出来ず、見かねた池脇が私の肩に手を置いた。
「こないだ話した、世話になってる出版社のライターさん。アキラの事も知ってる」
私の動揺を驚きの目で見ていた女将さんは、
池脇の言葉に納得したような笑みを浮かべ「そう」と頷いた。
席に案内されて、よくやく私は自分の言葉で名乗る事が出来た。
カウンターに池脇と並んで座り、向こう側に回った女将さんに頭を下げる。
-- 失礼いたしました。時枝可奈と申します。
「ご丁寧にどうも。この子にアキラの母親だとわざわざ名乗るように言われて、その意味を図りかねてたの。今ようやく理解出来たわ。改めてまして、善明まどかと申します」
「まあまあ、良いよ堅苦しいのは。…イクは?」
「先に帰らせたよ、こんな時間だもんね」
「そっか、いねえのか」
「でも色々作って残してくれたから、ちゃんと出せるよ」
「ありがたいね。この店の板前でな、イクってのが作るメシがまた美味いんだよ。でもせっかくだし、久しぶりにおばちゃんの作ったのも食いてえなあ」
「それは構わないけど、そんな事より竜二。こないだ連れて来た女性よりもお若いようだけど、あんた、おかしな事してないよね」
これには笑った。涙も鼻水も、女将さんの言葉で全部出し切る程に笑った。
聞いた話では、女将さんなりの気を使ったジョークらしかった。
職業柄お客の交遊関係を話のネタにする事など絶対にしない人だが、
池脇が少し困っているような雰囲気だったのを見かねて、助け船を出したそうだ。
しかし私は出版社の人間なので、これはある意味ギリギリの、(池脇の)身を削ったジョークと言えた。
「…おばちゃん頼むぜえ」
「まずかった?」
「まずかねえけど、…ビビったあ」
「あんたでもビビることあるんだね。熱燗でいい?」
「おお、熱めで頼む。時枝さんは?」
-- 同じものを。
「2本。いや、3本」
「少々お待ちを」
ニッコリ微笑んで女将さんが店の奥へ姿を隠す。
ふう、と言いながら池脇がライダースを脱ぐ。
私はそれを手伝い、私の右側へ自分の上着と共に畳んで置いた。
ずっしりと重たい革ジャンだった。
池脇が背負って来たであろう様々なものを勝手に想像する。
「古くていい店だろ」
-- 素敵ですね。落ち着きがあって、歴史を感じます。…もしかして貸し切りですか?
「ああ、(普段)12時には閉めてっからなあ」
時計の針は零時を15分程回っている。
-- ありがとうございます。私の為にわざわざ。
「あんまり遅くならねえように帰すから、まあ気楽にやんな」
-- すみません、何から何まで。
女将さんが戻って来て私達の前に熱燗を並べる。
片方の手で着物の袖口をつまみ、もう片方の手で「ト」と置くその所作がとても素敵で、
ただそれだけの事に私は嬉しくなって笑ってしまう。
互いにお酌し合い、同時に口をつける。
その背後で音もなく暖簾をしまう女将さん。
「あああ、沁みる」
-- 美味しいですねえ。
「いつも通り、お任せでいいかい?」
「いいよ」
-- こちらへはよく通われてるんですか?
「一番の常連客じゃねえかな。な?」
「まあね、ご贔屓にしてもらってますよ。いっつも一人でふらっと来て、熱燗3本とお任せで2品食べて帰っちゃうんだけどね。一時間もいないよね。その代わり多い時は週4で来てた事もあるね」
-- 週4ですか、それは凄いですね。全然知りませんでした。
「今年は忙しかったみたいでご無沙汰が続いたけどね。いつも昔話をちょろっとだけして、特に酔いもしないケロっとした顔で帰ってくよ。最初は何しに来てんだろうって思ってたけど、この子はきっと私の事心配して顔見に来てんだろうなあと気付いてからは、もう可愛くてしかたないよ」
-- それは可愛いですね!
「違う違う違う。気持ち悪い気持ち悪い。飯、飯食いに来てるから」
「あんたみたいな図体のでかい男が2品食べた程度で足りるわけないでしょうに」
「今ちょっと糖質抜きダイエットにはまってて」
「…あんた10年前から何飲んでると思ってんのさ」
「あははは!」
「かと言ってツケて経費で落とすような無粋な真似もしないし、イイ男になったよ」
「落として上げるのがうめえなあ」
「ここらで長い事お店やってりゃあね。どうだい、気分いいだろ?」
「違いねえ」
上品に笑う女将さんと池脇の満開の笑顔を見ているだけで、とても幸せな気持ちになれた。
地獄を生きた少年と、その親友の母親なのだ。
ドラマのワンシーンのような粋な大人のやりとりを見ているのとはワケが違う。


出される料理全て、顔面の筋肉がとろけて崩壊しそうな程美味しい。素材の良さ、味付け、温度、量、全てが丁度良い。しかし女将さんの言う通り、夕ご飯目的で訪れるには2品だと少々物足りないであろう事は同意出来た。大衆食堂ではないのだ。池脇がそもそも熱燗3本で引き上げる以上それ以外の目的がある事は容易に頷ける。
「おっちゃん元気か」
「元気よ。今日もね、築地終わった後また船出してこれ、竜二に食わせろって釣ってきたんだから」
私達の前に出されたアコウダイの煮つけを指さして女将さんが言う。
おっちゃんとは女将さんの旦那様であり、善明アキラの父、和明(カズアキ)さんだ。
「へえ、ありがてえ。よろしく言っといてよ。日本にいる間に必ず顔見せるから」
「うちの人の事よりさ、ちゃんとチヨの所へは行ったの?」
「まだこれから」
「ちゃんと行きなさいよ。あんただけじゃなくて、翔太郎や大成の所へもね」
「分かってるよそんな事」
「ホントかねえ。織江ちゃん所にも行くべきなんだからね?」
「分かってる(笑)。ちゃんとするよ」
チヨというのはおそらく池脇竜二の母親の名前だったと記憶している。
父・池脇竜雄さん、母・池脇千代乃さんである。
「…やっぱり、聞いてもいいかねえ、どうしても気になっちゃって」
「何」
女将さんの視線が私を捉える。
私は思わず口に運んだお箸を止めて、見つめ返す。
「こないだのさあ、なんてったっけ、あの人。ほんとに、あんたでいいのかい?」
「またその話かよ!」
「だってさあ、あ、ごめんね、時枝さんよね。時枝さんは、竜二と付き合ってないんだものね?」
-- はい、お付き合いしてません。気にせずお話を続けてください。
我関せずという口調で話の先を催促する私に、池脇が「おい」と突っ込みを入れる。
「私あんな綺麗な人見た事ないもの、びっくりしちゃってさあ。有名な人なんでしょう?」
「まあ、少なくとも俺達よりはな」
どんなご様子でしたか?と、私は我慢出来ずに割って入る。
池脇は驚いた顔で私を見つめ、女将さんは斜め上を見上げて思い出しているご様子。
「どんな。…そうねえ、終始ニコニコして気立ての良い、一見お嬢様タイプなんだけど、苦労知らずというワケでは決してない。このお店も20年やってるけど、あれ程の女性はちょっと見た事ないねえ。マコちゃんやマユちゃんを初めて見た時以上の衝撃を受けたわね。まああの子達は出会った頃子供だったけどね。どことなく雰囲気は織江ちゃんに似てるけど、でもなんだろう、もっと別世界の人というか。宝石みたいな目で竜二や私を見つめてくれてね。とっても素敵な人だったけど、却って不安になるというのかしらね。あの人には、もっといい人いそうなもんだけど。…アラブの石油王とか」
女将さんの例えに、池脇は吹き出しそうになり日本酒を少し零した。
-- どういう意味ですか? 釣り合っていないという意味ですか?
「だってこの子、粗野な面が一番手前に来るような子でしょう」
女将さんの言いように私は思わず笑い声を上げる。
隣では池脇が頬杖を突いて苦笑を浮かべているが、しかし嬉しそうだ。
「ちゃんと見てやれば、そこらへんにはそうそういないイイ男なんだけどねえ。あの人にそれが本当に伝わっているのか、心配になっちゃうのよね。一番引っかかったのがさ、お互い良い年なのに結婚はしないって言うのよ。それも笑顔で。びっくりしてさぁ」
-- そうなんですか、それは残念ですよね。
「そうでしょう。実際にするしないは別に当人同士の事かもしれないけど、他人に向かって、しないって宣言しちゃうのは聞いていて寂しいというのかしらね。この子も色々あったもんだから、私としては…どうにか」
そこで女将さんが言葉を詰まらせる。
私は視線を落とす。
池脇がクイっとお猪口を傾けて、言う。
「向こうもこの業界の人間だし、俺なんかよりずっと抱えてるもんも多い。今どきの若い奴らみてえに勢いだけで幸せ面できりゃあそれが一番かもしれねえが、そもそも公表すらおいそれとは出来ねえよ。こっちは再来月にアルバムを出してアメリカに打って出る。向こうもリリースの予定が控えてるし、同じタイミングで俺の昔の曲をカバーすると来た。やましい事なんか何にもありゃしねえとは言え、この時期に浮いた話が出ようものなら売名だなんだと扱下ろされて、癒えてもいねえ昔の傷口ほじくり返された挙句、魂込めた大切なモノまで引きずり降ろされる。そんなのはもう糞食らえだ」
池脇の声には、少しの怒りと諦めが含まれているように聞こえた。
私は何も言えず、何故だかとても悲しくなって、お猪口を持つ手に力が入る。
「分かるけどさ。だけどそれはあんた一人の言い分だろうに。実際男と女なんて、損得勘定で生きられる程論理的に出来てやしないものよ」
「分かってるよ」
「あんたはウソをつかないからね。ちゃんと考えての事だってのは理解してるよ。でも、これだけは言うよ。あの人の優しさとあんたの優しさを同じ物だと勝手に決めつけたらダメだよ」
池脇は言葉を返さない。
沈黙。
私は零れそうになる涙を日本酒と一緒に飲み込んだ。
「時枝さん、あの人さ」
と女将さんは私に言う。
「私を見て色々察したんだろうねえ。『私達、似たもの同志ですから』って言うの。それからね。『もう十分ですから』って。私年甲斐もなく胸が痛くなっちゃってさぁ、思わずこう言ったのよ。『この世にはさ、体から色が抜け落ちる程自分に我慢を強いてしまう生き物だっているからね。そんな風になっちゃダメなんだよ。幸せにもう十分なんて事はないんだよって』。そしたら彼女、パッと朗らかな笑顔になってさ。『白き蟷螂』って言ったの。もう感動しちゃったわよ。…分かる?」
-- すみません、勉強不足です。白き、トウロウ…?
カマキリ、と池脇が言った。
-- カマキリですか、へえ。
「大昔の詩なんだけどね。カマキリってほら、交尾の後メスがオスを食べちゃう事があるって言うでしょ。大体がオスの悲しみを皆言うけど、そこにはきっとメスの悲しみだってあるんだよっていう詩。生き残る為、産卵の為、命の為にオスを貪りながら、全身が白くなるまで耐え忍ぶメスの悲しみを歌った詩なの。実際にカマキリが白くなっちゃう事なんてないんだろうけどね、そういう表現が詩の中に出て来るの」
-- 凄い詩ですね、調べて私も読んでみます。
「あはは。昭和初期に読まれた詩だからさ、今でも手に入る物なのか分からないけどね。でもあの人は私が直接詩を諳んじたわけでもないのに、ポツリとその名を口にしたのよ。それ聞いて、この人は分かってる人だなあって、とても感動したの」
-- 博識な方なんですね。
「そうねえ。私が思春期の頃に読んで衝撃を受けた詩だもの、相当古いわよね。そもそも、メスカマキリが無自覚な悲しみに全身を白く変えるなんて事は、作者の想像でしかないと思うのよ。ちゃんと調べたわけじゃないからはっきりとした事は言えないけど、確かメスカマキリってオスを食べているっていう自覚はないそうなの。ただ目の前に動く餌があると思って食べている。だけどそれは今まさに自分と子を成さんと奮闘しているオスであった、という事なんだけどね」
-- か、悲しい…。
「そうなの。でも傍から見れば悲しいけれど、それは生物として持つ本能だったり、あるべき姿なのよね。そこへ、メスとしての感情を悲劇として投影したばかりか、全身を白く変えたとまで言い表している。無自覚なままオスを貪っているように見えて、そこには表に出さないメスの悲哀が確かに存在し、色が抜け落ちる事で喪失感を表現しているのよね」
「語るねえ」
カラカラと低く優しい笑い声を上げて、池脇が言う。
女将さんは少し照れて、私に「ごめんなさいね」と小さく謝った。
私は思わず池脇の腕を叩き、「物凄く勉強になります!」と首を横に振った。
「イイ子だねえ。だけどそういった事はさ、実際にその詩を読んで自分なりに思いを巡らせてみないと見えてこない、情景とでも言おうかしらね。大体がそういう物でしょう、詩には答えなんて書いてないんだから。でもあの人は、きっと私と同じように、そのメスカマキリの白さが悲しい事を知っているし、感じている人なんだなって思って。それが凄く嬉しかったのよ」
-- はい。
「…竜二」
「聞いてるよ」
「分かるかい。あの人は、そういう優しさを持ってる人だよ。自分がどんなに辛くたって、それを表に出さずに最後は白くなってしまうまで耐えてしまう人だ。あの人に、うんと優しくしておやりよ」
「ああ」
「あんただって…もう十分頑張ったんだから」
「はは、なんだよ」
「ちゃんと幸せにおなりよ。…アキラの分まで」
まだ熱いであろう徳利を、池脇は震える手で握りしめながら涙を堪えている。
「…なんだよ」
「あんたらがちゃんと幸せになんないうちは、私はアキラに会いに行けないからね。うちの人も言ってるよ。アキラは死んだけど、俺達にはまだ悪ガキが3人もいるよな。あいつらをちゃんと何とかしてやるまで、俺は船下りねえよって」
「っは、よせよ。おっちゃんもう70近いんだからさ…」
「竜雄さんだってそうだよ、相当腰の具合が悪いってのにまだトラック乗ってるって聞いてるよ。銀一さんも、ユウちゃんも、響子も。織江ちゃんとこの恭平さん達だってそうだよ、皆現役で頑張ってる。別にあんたらが金に困ってるなんて思ってリタイアしないわけじゃないよ。皆、あんた達がちゃんと幸せになるまで踏ん張ってるんだ。アメリカ行くのもいいだろうさ、大成功収めて帰ってくるがいいよ。でもさ、ちゃんと地に足を着けた幸せってもんを疎かにせず、大事にしておくれよ。竜二、頼むよ」
「おばちゃんよぉ、…それはずるいって」
「知ってるよ。あんたの気持ちはずっと前から痛い程知ってるよ。だからって、はいそーですかと黙って見てられるわけないでしょうが。私はね、竜二。結婚する事が最高の幸せだなんて言ってるわけじゃないんだよ。ちゃんと自分の幸せと向き合おうとしないあんたを叱ってるんだ。もうこれ以上幸せから逃げるのはやめておくれよ。アキラも、乃依ちゃんも、絶対にそんな事望んでやしない。あんたがどんだけブチ切れたって、余計なお世話だと怒り狂ったって、チヨに代わって私は言い続けるよ!幸せになれ!竜二!ちゃんと幸せになれ!」
「おばちゃん」
「竜二!幸せになれ!幸せになれ!」



あらかじめ予定していた通り、帰りはタクシーを呼んで別々に岐路に着く事になっていたのだが、私はどうしても帰るのが嫌で、気が付けば始発の動き出す時間まで話し込んでしまった。
どういう会話の流れだったかは失念してしまったのだが、メンバーのご両親についてはお名前と年齢ぐらいは伊藤から聞いて知っていた。
しかしこの日池脇の口から改めて、伊澄の御両親の名前が「銀一(ぎんいち)」と「友穂(ゆうほ)」である事を聞き、神波の母の名前がレモネードではなく「響子(きょうこ)」である事を教わり、正式に紹介されたような気持ちになって、とても嬉しかった。
そして更には、池脇は少し込み入った御自分の家庭の話も聞かせてくれた。
彼の母親・千代乃さんはアルツハイマーを患っており、近年は息子の事も分からない時が多いそうだ。辛うじて夫である竜雄さんの事は認識出きるようだが、それでも時間軸が交錯している事がほとんどで、悪い時は子供時代へ記憶が逆行していたりするそうだ。
今回アメリカ進出が決まって家族への報告をする段階になっても、未だに池脇は母親にその事を伝えられないでいる。
アメリカへ行く事も、両親と遠く離れて暮らす事にも不安はない。
ただ、事実をありのまま伝える事の難しさに彼は苦心していた。
父親の竜雄さんは厳格な方で、そもそもアメリカ行きを遊びのように捉えている節があって、何度か衝突したそうだ。
複雑な思いがあるように感じる。
話せば分かるといった、認識違いによる齟齬では済まされない家族間の思いが存在するからだ。
もしかしたら、竜雄さんも息子の偉業を頭では理解しているのかもしれない。
ただ自分達の元を去ってアメリカへ旅立つ息子を心配もすれば、不安に思う事もあるだろう。ご自身の体が昔のように動かない忸怩たる思いも当然あり、素直に喜べないだけではないかと、池脇と女将さんの会話を聞きながら考えていた。
「カメラ回して欲しいんだけど、頼める?」
と言われて初めは何の事なのか分からなかった。
しかし日程を聞かされ、その日池脇が実家を訪れ両親にきちんと事情を説明すると聞いて、一旦は辞退した。
そこにはエンターテイメント性の欠片もないからだ。
仮にあったとしても、不特定多数の目に触れてよい光景ではないと思った。
しかし彼は「ただ、記録してほしいだけなんだよ」と微笑みながら言ったのだ。






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