風の街エレジー

新開 水留

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44 「対煙」

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 狂気を孕み、ピンと張った膜が頭上に覆い被っているような、息苦しく不思議な気配の夜だった。
 赤江地区の住宅街から、川を挟んで反対側に位置する工場地帯の外れ。時代の好景気と需要が上手く嵌ったいくつかの会社を川沿いに残し、その向こう側は今や住人達ですら寄り付かない忘れられた残骸と化している。
 遠くで鳴り響いているパトカーのサイレンも、銀一の耳には届かない。銀一の意識は目の前の男に集中し、周囲の音そのものが遮断されたように静かだった。己の胸の鼓動以外は。
 最初に口火を切ったのは、銀一の方だ。
「俺とお前がサシで殴りおうてそれで終いにできるんなら、こんな簡単な話はないんやけどな」
 血眼になって探し回ったと言えば、ウソになる。
 しかしこうして対峙して改めて、銀一は思うのだ。
 やはりこの男、志摩太一郎に会う他に、絡まり合った過去と現在を解きほぐす術はないのだと。
 藤代友穂の隣にいる時間に似た、安堵と呼べるものがあった。
 似ているだけで、実際の性質は真反対である。
 ただ、こうするべきだった、ここにいるのが正解だと、治まり良く感じる心境だけで言えば、銀一にとっては同じだったのだ。
 志摩の表情はあくまでも飄々として、昔から見て来た通りである。
 銀一は拳を固く握って、言葉を続けた。
「ようけ人が死に過ぎたわ。いまだになんで死ななあかんかったのか、俺には分からん連中や。お前は話し合いに応じるつもりがないようやが、阿保な俺でも分かるように、力づくでも口割ってもらうぞ」
 銀一の発言に対し、志摩は直接的な返事を言葉で返そうとはしなかった。
 真正面から銀一の目を見返していた志摩は、やがて周囲を見回し、ある場所を指差した。
 その指の先には、長い間放置された土地故のうず高く積まれたゴミの山、その中に埋もれている捨てられた椅子を差しているようだった。無言で銀一がそちらを見やると、志摩は黙ってそこまで歩いて行き、ゴミの山から学童が学校で使う物に似た簡素な椅子を二脚引き抜き、その一つを銀一に向かって放り投げた。
 椅子は銀一から二メートル程離れた場所に、派手な音をたてて落ちた。銀一は警戒しながらもその椅子を起こして、腰を下ろした。
「んで」
 と、同じく椅子に腰かけた姿勢で、志摩が口を開いた。懐かしい声だと、銀一は思った。
「何が知りたいん」
「…」
 しかし実を言えばこのような状況を、銀一は想定していなかった。
 そもそもこの場に志摩がいるかどうかは半信半疑であり、仮にいたとしても、おそらくは命のやり取りをする事になるだろうと、そういう覚悟をもって島を探していたのだ。願っていた事とは言え、志摩が話し合いに応じるとは思っていなかったのである。
 志摩は銀一の胸の内を知ってか知らずか、右手の小指で耳の穴を掃除している。
 やがて銀一が何も言わずにいると、志摩は立ち上がって椅子に手を掛けた。
「お前は、黒の団か」
 絞り出すように、銀一が聞いた。
 志摩は動きを止めて、椅子に座り直した。
「そうや」
 志摩は答え、だからなんだという顔で、幼馴染を見返した。
「…なんで殺す」
「…なんて?」
「なんで人を殺す。なんで西荻平左を、バリマツを、今井という警官を、難波を、榮倉を、ケンジとユウジを、なんで殺した!この、殺人狂が!」
 志摩は腕を組み、堪え切れなくなった様子で笑い声を上げた。
「お前にとっては笑い話かよ」
 銀一の言葉に、
「まあ、待てや」
 と志摩が手を挙げて制した。
「えーっと、ちょっと笑いが抑えきれん」
「お前らに比べたら、裏神なんやらの方がよっぽどマシやの」
 銀一がそう言った時、ここへ来て初めて志摩の表情に険しさが滲んだ。
「お前、言うにことかいて、何をトチ狂った事言うとる」
 そう返す志摩の言葉に、銀一はしたり顔でつんと顎を上げ、
「竜雄の女は天童千代乃という名前じゃ。知っとるんだろう、お前も」
「それが何」
「あの子自身の口から色々聞いたわ。別に聞かいでもええ話ではあったがよ、あの子なりの筋の通し方なんじゃろう。若いくせにどえらい目におうてきとる。ガキの頃から色々と悪事を教え叩き込まれてきた、なんやそういう話やった。ただそれでも大本が宗教団体だけあって、年数が経てばいずれは解放されるのやとも聞いた。おそらくお前らではそうはいかんじゃろ。人の命を金に換えるような連中やものな」
「お前…」
 大きく開いた両膝に手を付いて、股の間に頭を下げたまま、志摩が言った。
「お前はやっぱり、どうしようもない喧嘩太郎やな」
「何がじゃコラァッ!」
 銀一が怒り狂って立ち上がるも、志摩は顔を上げて、情けない者を見る目付きで銀一を見返し、深い溜息を付いた。
「テンチヨやぞ。お前分かってんのか。あの女は、今、日本で一番でかい宗教団体の裏の顔、いや、その本体とも言うべき裏神天正堂当主の、娘やぞ」
「分かってる!それがなんじゃ!」
「お前に理解出来るような女と違うぞ。そもそもなんでテンチヨが正義やと、お前は思い込まされてんのや」
「なん、なんじゃあ!?」
 志摩の言葉は銀一の感情をグラリと揺さぶるのに十分すぎる威力をもっていた。
 銀一は誰かを、あるいはこの場合千代乃を、常日頃から疑って生きているわけではない。
 銀一はどちらかと言えば人を信じたがる男である。しかしそれは己の本能であり、理性や正義ではないのだ。他人を信じる事に、理由や意味など最初からないのである。だからこそ、何故信じると問われて吐き出せる満足な答えが銀一からは出て来なかった。
「お前らがテンチヨから聞かされた話なんぞ俺は知らんけど、聞かんでも大体察しが付くわ。どうせ、権八の事やろ」
 一瞬間があり、
「…誰や」
 と銀一は尋ねた。
「天童権八。天堂は代々その当主の名前に受け継いだ当代の数字を当ててきた。今が七代目当主で天童権七。権七は実の娘であるテンチヨに八代目を産ませたはずや。そいつの名が、天童権八。ちなみにテンチヨ言うのもホンマの名前と違うで。当主のもとに生まれたガキは全員、男ならテンケン、女ならテンチヨと呼ばれる事になったーる」
「ふざけんなよお前。そしたらチヨちゃんは、千代乃は、俺らにウソ言うてるとでも言いたいんか!」
「お前どんだけ己の阿保を晒す気や。ウソなんて話一言もしてないやろ。今の話を聞いてお前は、なんでその千代乃が正義で、俺が悪やと決めてかかる」
「おまっ…」
「そもそも!」
 志摩が立ち上がって叫び、銀一は気圧され、沸き起こる感情をぐっと呑み込んだ。
「俺に言わしたらあいつらこそ真正のド腐れよ。お前、時間が経てばあいつらは解放されると抜かしたな。じゃあそれは何でやと思う? 解放!? アホ言え、あれは洗脳と言うんや! あいつらの表向きは宗教団体の顔した金儲け主義の営利団体じゃ! 布教活動目的に人員を確保しとるだけで、誰も見てない裏っ側でバンバン人が死んどるわ! それをお前知らんとは言え解放ってなんじゃ! 小汚い赤江の住人が、ほならなんで大謁教の名前を知ってると思う。お前みたいに学のない人間でも見てみい、まんまと入れ知恵されて阿保面の上から正義面まで被されとるやないか! それが!あいつのやり口やとなんでお前は疑わん!?」
 負けじと銀一も立ち上がる。
「たまたまやろ!そんなもん! 仮にお前の言うやり口が大謁教の手段やとして、そしたら千代乃と竜雄がええ仲になる事まで計算の内かいや!」
「そうじゃ!」
「…」
 銀一は開いた口が塞がらず、次いで発しようとしていた志摩への罵りも、泡と消え失せた。
「…なんやと?」
 狼狽える銀一を前に、志摩は落ち着きを取り戻したように椅子に座り直した。
「そうや。計算のうちじゃ」
「そんな事出来るわけないやろ!俺は聞いたぞ、千代乃と竜雄が出会うたんは…ッ」
「琵琶湖やろ?」
 口の中に手を突っ込まれたように、銀一の息が止まる。
「竜雄は長距離ドライバーや。配送中のあいつのルート辿る事なんぞ、俺でも出来る。あいつがいつ琵琶湖の畔を走りよるかは、仕事を手配した人間からでも配達先の業者からでも簡単に辿れるんや。相手は日本中に信者を抱える大謁教やぞ」
「…お前、本気で言うてんのか」
 志摩は溜息を吐き捨て、後頭部を掻いた。銀一の受けた衝撃はあまりにも大きく、見ていられないといった様子である。
「まあ座れよ。ただ、そこから先は竜雄次第で変わる場面でもあった」
「そやろがい!」
 一旦腰を下ろした銀一はすぐまた立ち上がる。息巻く銀一に志摩は溜息が止まらず、
「そやろがいと違うがな。結局竜雄とテンチヨは懇ろになったーるやないか。上手やったのは断然向こう側や。まあ普通に考えりゃあ、会った事もない人間がそこまで手の込んだ仕掛けを組んで来るとは思わんやろな。そこも含めての計画なんやが」
 と、諭すように銀一に言って聞かせた。
 確かに志摩の言う通りではある。しかし銀一はどうしても納得がいかず、首を縦に振ろうとはしない。
 尚も志摩は言う。
「一瞬見ただけやが、テンチヨはええ女なんやろな。ただお前が気を許した理由があの女の語った己の境遇だけやとしたら、それは大謁教がテンチヨに施した洗脳の思う壺でしかないわ」
「けどその、千代乃の話が本当なら、自分の父親である七代目を恨んどっても無理はないぞ。実際千代乃には死ぬ覚悟もあったそうや。そういう状況で竜雄と出会うて、お互い惹かれあってええ仲になったとしたらそれは別に竜雄の落ち度やない。それはそれで、かまへんやんけ。それが仮に仕組まれた計画やとしても、そんなもんに何の意味がある! 今あいつら自身がそれで満足しよるなら、それでええじゃろうが!」
 パン、パン、パン、…パン。
 志摩は乾いた音を立てて拍手する。
「そしたらぁ…ええんと違いまっか。人の気持ちを操って、計画通りに子供を身ごもらせ、やがてその子を母親から取り上げ、寄ってたかって新しい当主として祭り上げ、傷ついた母親を今度は筋書き通りに狙い定めた男と出会わせた。片や、学のないボンクラドライバーは考えもなしに優しさを振りまき、疑う事をせずアホな女を愛し、やがては絶望するのや。これに、お前ら全員がもろ手を挙げて満足しよるなら…、まあ、ええのんと違いまっか?」
「…」
「俺は、俺を正当化する気なんぞ最初からないよ。ただなあ、銀一。お前らは阿呆すぎる。そんな阿呆なお前の口から、大謁教の方がマシ、裏神の方がマシやなんて聞かされたらよ。そら、黙ってられんわ」
「なんでそこまでする必要がある。お前の言うように、竜雄と千代乃が出会うように仕組まれた事やとするなら、じゃあその理由を言うてみろ。なんで竜雄なんや! 知ってるんやろ!?」
 志摩は何度目かの溜息をついて視線を外し、足元を見つめた。
「言うてみろ!」
 尚も銀一が攻め立てると、志摩は急に興味を失ったかのような無表情で銀一を見返した。
「竜雄やないとあかん絶対の理由なんかない。それを言うならお前ら、なんで和明を殺した?」
 銀一は黙った。志摩の言うように、死を偽装する人間が和明でなければならなかった、絶対の理由などない。たまたま、和明であれば成功する確率が高かった、それだけである。
「ええ事教えたろか」
 と志摩が続ける。
「…」
「八代目。テンチヨが産み落とした権八な、まだ二歳とかそんなんやけど、こないだ突然死したらしいわ。そやから今、親父が千代乃を探して赤江に来とる。もういっぺん権八をこさえるつもりやろ。…今度は自分の種で」
 銀一が、座っていた椅子を力一杯にぶん投げた。
 椅子は、志摩から十メートル離れたゴミ山に当たって壊れた。
 志摩は冷静にその様子を眺め、そして銀一に向き直った。
「竜雄が戻って来んのもその為か!」
 銀一が吼えると、しかし志摩は首を傾げて、
「えへ?」
 と間の抜けた声を出した。
「千代ちゃんの子供の事知って、竜雄はあの子の親父を探し回りよるんか!そうやろ!」
「…知らんがな。戻って来んて何?」
「今朝東京を出たはずのあいつが、今になっても姿を見せん。何かあったとしか思えん!」
「アホクサ。ガキの使いか。たった半日姿を見せんだけで何をピーピー言うとる。そもそも、今初めてお前に話して聞かせた事をなんで竜雄が知っとるんじゃ」
「お前が裏で噛んで竜雄動かしたんと違うのか!ほな、春雄は!」
「知らんて!春雄がどないしたんや。…あいつも戻って来てないんか」
「おお、そうなんじゃ」
 一瞬、銀一の気が緩んだ。ついこの間まで、銀一にとって志摩は狭い故郷で肩をいからせているだけのチンピラだった。時和会の次代を期待されるニューエースとして、我が物顔で街を闊歩するヤクザ者でしかなかったのだ。しかし一連の事件に巻き込まれて行く中でいつの間にか、自分達の間には埋めようのない深い溝が出来上がったように感じていた。
 それがふと、消えて無くなったような錯覚に陥ったのだ。
「違うやろ!」
 銀一が叫ぶ。
「ええ顔すんな!今更あいつらを心配するような顔すんな!俺は全部聞いたぞ!お前は…!」
 うっすらと涙を浮かべているようにも見える銀一の目を、志摩は笑うでも揶揄うでもなく、静かに見つめ返した。その時志摩の目を睨み付けていた銀一は、こう思ったという。
『なんでこいつは、こんな寂しそうな顔しよるんじゃ。自分が一体どれほどの罪を重ねて来たか、まるで分かってないのか?』
 不意に志摩が視線を外し、上着の懐から煙草を出して銜えた。
 マッチで火を点け、息を吸い込み、玉のような煙を吐き出した。
「西荻平左が死んでしばらく経った頃、響子の様子を見に、東京へ行った」
 突然の志摩の告白に、銀一は気色ばんで一歩前へ出た。
「響子を監視してたんは、お前なんか」
 銀一の質問に志摩は頷きだけで答え、話を続ける。
「四ツ谷組の松田が組の交流会で東京へ行く時期と俺の上京が重なったのは、ほんまにたまたまでしかなかったわ。ただ、あいつらが裏でこそこそと動きよったのは当然知ってるから、嫌な予感はあった。お前、俺と松田に因縁がある事は、聞いたんか」
 今度は銀一が、志摩の問い掛けに頷きだけで答えた。
 松田三郎と志摩太一郎が共に『黒の団』の人間である事を、銀一は父である翔吉から聞いた。バリマツこと松田三郎が、黒の団の『端団』側の人間だという話は既に成瀬秀人から聞いていが、目の前にいる志摩太一郎までもが『黒であるという事実』は、先程耳にしたばかりだった。
 銀一は一瞬、成瀬老刑事の顔を思い出した。成瀬刑事はかつて志摩太一郎に対し、『黒ではない』と自身の考えを述べていた。老刑事の経験と勘を銀一達は信じたかったが、小さな希望はやはり打ち砕かれたと言って良い。
 志摩が話を続ける。
「松田の事もそうやが、俺や『他』のもんは殊更『今井正憲』を嫌っててな」
「今井?警官の、今井か」
「松田に仕事をさせてた人間や。知らんか?」
「…知っとる」
「その今井がけしかけたんじゃ、西荻殺しを」
「け、けしかけた? 平助のじいちゃん殺すようにか。 え、今井て、おい、警官やろ? そいつは単なる被害者と違うのか?」
 志摩は頷き、
「違うな。野心の塊いうか、金の亡者というか、昔からそういう男やったらしいわ。まあ死んだんやから、ホンマに亡者になりおったな。だからまず、お前が最初に言うた西荻殺し。これは俺やない」
「待てよ、それを俺が信じると思うか?」
「ああ。お前は信じるな」
 銀一は明らかに馬鹿にされたのが分かって、
「ほな誰が犯人か今すぐ名前を言うてみい!」
 と拳を突き出して声を荒げた。
 志摩は眉一つ動かさずに、答えた。
「西荻幸助や。平左の息子」
 銀一は驚愕のあまり、椅子に腰を下ろそうとして、その場に椅子がない事に気が付いた。しかしそのままバランスを崩して派手に尻もちをつくも、銀一の表情は茫然と固まったままだった。
 志摩が、銀一は信じるだろうと言い放った意味がすぐに理解出来た。
 ついさっき、銀一、和明、友穂の三人は西荻幸助に襲われたばかりである。銀一は、行方知れずだった幸助が突如姿を現したばかりか、目に見える程くっきとした殺意を纏って繰り返し遅い来る幸助に困惑し、最も重要な動機を考えられずにいた。
 何故、西荻幸助は現れたのか。何故、西荻幸助は自分達に殺意を向けるのか。
「あの、おっさんが、犯人なんか」
「驚くのはまだ早いぞ銀一。幸助は実の親である平左をその手に掛けた。これは、ただ人を殺すという罪だけやない。親殺しというご法度であると同時に、最大の禁忌と言われた組織内での共食いをやってのけた。その理由が、同じ仲間内である今井にそそのかされた上での謀反である事に加えて、長年敵対してきた組織との癒着までが明るみに出た。どや、びっくりするやろ!」
 椅子に座ったままではあったが、志摩は何か芝居の台詞でも読み上げるような熱を持って、目を見開いた。
 しかし銀一はかえって、そんな志摩との温度差を感じて目が覚める思いがした。
 銀一は立ち上がると、右手を差し出した。
「ああ?」
 志摩が片眉を下げると、
「煙草!」
 と銀一が右手を上下させ、怒鳴り声を上げた。
 志摩はぶつぶつと悪態を口ごもりながら、煙草とマッチの箱を捨て去るように投げた。銀一は足元に滑り来たそれらを拾って、銜え煙草に擦ったマッチを近づけた。
「理由はまあ、色々ある。なんとなくやが、それは俺も分かる。時代が時代や、いつまでも地下茎みたいな人間としてこそこそやりよるよりも、今井には警察の人間として築き上げた人脈と地盤もある。ここいらで長老格やった西荻を喰ろうてその地盤を揺るぎないもんにしようという発想も、まあ、昔から持ってたのは間違いないやろ。ただ、今井の読みは甘かった。全くもって、阿保らしいぐらいに甘かった」
 志摩の話に銀一はしっかりと耳を傾けながらも、しかし何も言わず、頷きもせずただ志摩を見返すだけに留めた。言いたい事は山程あった。疑問も、罵倒も中傷も、それこそ湯水のように湧いて出た。銀一はそれらを煙草の煙と一緒に飲み下し、白い息だけを吐き出した。
 志摩は続ける。
「俺達は一人一人が独立した稼業主であると同時に、同じ看板を背負った運命共同体でもあった。仕事で下手こいて殺されるのは仕方ない。病死や寿命で死ぬなら最高や。ただ看板に泥を塗るどころか自分で叩き割る、それを敵対組織に手土産で持って行くような真似は、例えこの俺が許しても、あの男が許すわけがない。今井はそれを見誤った」
「あの男…?」
 銀一の問いかけに志摩は頷き、
「お前は、先生から話を聞いただけやろ。そしたら知らんやろうな。今俺達の世代には、正真正銘の化け物がおるんじゃ。それは銀一、例えお前でも、全盛期の先生でも太刀打ちでけん、おっそろしい化け物よ」
 と不気味な笑みを浮かべ、そして続ける。
「今井も別に許されると思うたわけやない。ただ、あの化け物は普段日本の外で仕事してるもんやからな。今ここで爺一人殺して息子に跡目継がせた所で、知らぬ存ぜぬで通せると高を括ったわけや。…ああああー、甘いなあ、甘い」
「お前何を言うてるんや、さっきから。誰や、その化け物言うんは」
 訝しむ銀一に対し、それでも志摩は笑みを浮かべたまま、
「心配するな、嫌でも会えるよ」
 と答えた。
「…おるんか、今、赤江に」
 呟いた銀一には、それでも不安や恐れは感じられなかった。
 銀一はこの時思っていたのだ。
『ようやくだ。ようやく、終着駅が見えて来た』と。
 銀一の目に浮かんだのが恐れでも不安でもない事に気づいた志摩は、やや不機嫌そうに顔をしかめた。
「話が逸れたな。…松田が東京で死んだ事に対して、お前何か聞いてるか?」
 志摩の言葉に、銀一は首を捻った。確かに、何かを聞いていた気もする。しかしここへ来て直に志摩の口から聞く話の衝撃が強すぎるあまり、この一年で見知った情報がスムーズに思い出されなかった。
「…船」
 と、やがて銀一が一人ごちるように言った。
「船?」
 と志摩が聞いた。
「誰に聞いたか、バリマツの最後の言葉が、なんやそんなんやった。船見て来るとか、せや、それで春雄の現場かと思うて…」
「ああ、ああ、ああ」
 志摩が声を差し挟んだ。心当たりがあるような素振りだった。
「それな、今井の差し金やったらしいぞ」
 と志摩は言う。
「今井は幸助をそそのかして平左を殺った。けど同じ看板背負う俺らからの粛清を恐れて、最悪の手を打った。松田はその手を実行に移したが為に殺された。もちろん、今井もそう」
 銀一は、白々しい顔でさも真実であるかの如く話をする志摩に、
「お前が殺ったのと違うんかい」
 そう迫った。
「俺はなあ、銀一」
 志摩は煙草を指で弾き、両膝に手を置いて、銀一を見上げた。
「…全員死んだらええと、そう思ってるんや」
「ああ?」
「そしたらよ、全部綺麗になるやんか」
「…はあ?」
「松田も今井も、俺は殺してないぞ」
「ウソ言え!」
「あいつらを殺したのは、あいつら自身が仲間やと思うとった、敵対組織の人間や」
「さっきから何を漫画みたいな話をしとんじゃ。なんじゃい敵対組織て!ヤクザやろがい!時和か!四ツ谷か!どこのもんじゃ!はっきり言え!」
「ケンジとユウジや」
「…は。…はあああ?」
「敵対組織言うのは、さっきから何回も言うてるやんけ。裏神天正堂や。あいつら二人はそこの人間や。先生は、やっぱりなんも知らんねんな」
「なにを…、何がどうなってそうなる」
「俺かて驚いたよ。笑うよな。ガキの頃、トルエンで歯溶けたユウジの顔見てよ、ケンジ、自分で眉毛剃りよったもんな。あいつ毎日手入れして、わざわざ剃ってたらしいぞ。見てみい、これで極悪コンビの出来上がりよー言うて、笑ってたらしいやんか。ガキの頃から見知った二人やもん。そら、そんな不細工な顔なるわな。ただお前、忘れんでくれよ。俺もお前らの幼馴染やで。その俺の事を、お前どれだけ知ってる?何も知らんやろが」
「なんでケンジとユウジが」
「ああ?」
「なんであいつらがバリマツ殺さないかんのじゃ!」
「無視すんなや腹立つのォ。…仕事に決まってるやろ! あの二人はもともと裏神から出て来た人間や。俺らの側に張り付いてコソコソ嗅ぎ回りよったんよ。それだけならなんの事はない。そういう奴はこれまでもごまんとおった。ただ問題は、あの二人はそこいらのプロが逆立ちしても歯が立たん程の腕っ節を武器にしとった。今井はなあ、銀一。俺らを裏切り、平左の地盤を幸助に継がせた後、それらを手土産に裏神天正堂に鞍替えする算段やったのよ。そらそうやで。これからの時代、宗教団体を表立てにして大手を振って歩ける犯罪者が、そこいら中にあふれるわけや。こんなゴミ山だらけの腐った街で生きるよりも、よっぽど将来性があるよ」
「そしたら、なんで…」
「だから甘いと言うとるんや。裏神天正堂が、共食いで看板に泥を塗った今井なんぞを迎え入れるわけがない。表と裏の顔を完璧に使い分けてこれまで勢力を拡大して来たあいつらが、今更意味もなく敵対組織の人間引き入れるような危険を冒す筈がないし、そもそも、あっちも分かっとったろうよ。このまま今井がのうのうと見逃されるわけはない。そんなに甘い世界やない事くらい、ガキにでも分かる。向こうも思うた筈や。うちの化け物相手にするくらいなら、こっちから今井を始末してやった方が特やとな。そいで差し向けられたんが、ケンジとユウジや。あいつらは確か藤堂の指示で、俺と松田を探すたらなんや言うて上京したはずや。聞いてないか」
「…聞いた」
「せやろが。順番が逆なんじゃ。松田は今井の指示で裏神に助けを求めようとして、東京で接触を試みた。それがお前の聞いた『船見て来る』の理由や。人気のない埠頭で落ち合う筈やった。…俺は忠告したんじゃ、松田にな」
「お前が?」
「松田にしてみりゃあ、はた迷惑な話でしかない。今井と組んで仕事しよった言うたかて、松田自身は何も裏切り行為を働いたわけやない。体張ってでも今井の愚行を止めなんだ罰と言えば、そういう意味では全く否がないわけでもないが、まあ、普通に考えたらとばっちりや。だからまあ、気を付けた方がええくらいの事は言うてやったんや。あん時も、俺が響子の様子見に上京したタイミングで松田が東京に出たもんで、嫌な予感がする思うてな。顔くらい見せといたろうとした所へ…。せやから、俺達を探す目的でケンジとユウジが追って来たわけやないんじゃ。そもそも松田は裏神であるケンジとユウジに会いに上京し、そこで殺されたわけやからな。もちろん松田も俺も、そん時はまだあの二人が裏神やと気付いてなかったけどな」
「…」
「だからお前と二人で隣の空き家街歩いとる所へケンジとユウジが現れた時は、っはは、ほんまに焦ったわ。時和会として来たんか、裏神として来たんか予想がつかん。ガンガン攻めて来よるがな!って腹括ったけどよ、あれはあれやな、藤堂が俺を疑ってかましただけやったみたいやな。本気出さんで正解やったわぁ、三日間くらい寝込んだけどよ」
「…」
「…そんな顔するなよ」
「…なにがじゃ」
「お前には分からん世界の、そこでしか通用せん正義もあるいう話やんか。俺も、あいつらも、人を殺して生きて来た咎人よ。ただなあ、銀一。ケンジらにだって…」
「お前があいつらを語るな!だからか!その報復としてあの二人を殺し返したとでも、お前はそう言いたいんか!」
 涙を飛ばして、銀一が叫んだ。
 その叫びには、はっきりとそうだと分かる涙声が含まれていた。
 志摩は立ち上がり、椅子を持ち上げるとそのまま元のゴミ山へと放り投げた。
「銀一。はっきりと言うといたるわ。確かに俺は人を殺したよ。ただお前が知ってる人間で、俺が自分でその手に掛けたのは一人だけや」
「…」
「知りたいか?」
 銀一は答えない。
 言葉はなく、表情が、涙が、手足が、今にも志摩に襲い掛からんと震えていた。それが銀一の、答えと言えば答えだった。
「ほんまに知りたいか?」
 志摩が聞いた。
「…お前、殺すぞ」
 銀一が一歩、殺意の乗った右足を前に出した。
「難波や」
 と志摩が言った。




「銀一!」
 名を呼ばれて振り返った。
 そこに立っていたのは、上半身を血だらけにした、下着姿の藤代友穂であった。



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