風の街エレジー

新開 水留

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40 「累鬼」

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 空き家街と赤江地区が隣接している辺りまで来ると、有刺鉄線を張り巡らせた街の境界線が見えて来る。
 建前上、そこは『林原商店』という銀一親子が勤務する屠畜場の敷地である為、牛豚などを窃盗から守る為の防護措置と言われているが、本来の目的以上に著しく街の雰囲気を悪化させている事は周知の事実である。
 しかし先にも触れた事だが、この赤江という地区自体に余所者の侵入や好奇による詮索を嫌っている性質があり、思い付きや気の迷いでふらりと足を踏み入れる部外者を突き放す意味もあった。
 そして街の住人から見るその有刺鉄線は、自分達の生活を守る刃であり、それ自体に攻撃的な威力はなくとも、安心を生むお守りのようにも見えたという。
 神波春雄は今、薄ぼんやりと滲む視界にようやく街のお守りを捉えて、歯を食いしばった。
 すでに街の明かりが心強く思える程、辺りは暗がりに沈みつつあった。
 頭がクラクラとして、吐き気を伴う眩暈が止まない。
 耳が遠く、自分の足音も小さい。
 懐かしい家畜の匂いに、己の血の味が混じっているのが分かる。
 俺は何で、こうなった…?
 事態を理解すべく考えを巡らせる間も、立ち止まるには怖すぎた。
 歩け、歩け、とにかく歩け。
 劣化したアスファルトを削り取るような甲高いタイヤの摩擦音が響き、再び春雄の身体が宙を舞った。
 地面に落下して転がる春雄の側に黒塗りの自動車が停止し、開いた運転席側のドアから紺色のスーツに身を包んだ色の白い男が降り立った。ポマードで撫でつけた頭にグレーのシルクハットを被り直したその男は、春雄には一瞥もくれずに後方のトランクへと周ると、中から車椅子を取り出して地面に置き、後部席の側まで押して戻った。男は一礼し、後部席を開いて、また頭を下げた。
 春雄は思い出していた。
 自分は車に跳ねられたのだ。日暮れ前に一度、そして今また、二度目である。
 春雄は『死体置き場』へと到着するまでに、かなりの時間を煙草屋での滞在に費やしていた。
 藤堂との接見は職員によって強制的に打ち切られ、得られた情報はごく僅かだった。その僅かな情報はこの上なく有益だったものの、導き出した相手である花原茂美が電話口で語った話は、春雄にとって無情なまでに残酷なものだった。
 煙草屋の店主である老婆は、ついには泣き崩れて動かなくなった春雄を心配し、熱いお茶を入れて戻って来た。春雄は頭を下げてお茶を口に含むと、その温もりにまた涙した。
 大袈裟でも誇張でもなく、しばらくは立ち上がれぬ程の衝撃を受けた春雄は、時間の概念が消え去る程の茫然自失に陥ったという。
 腕時計もしておらず、逐一煙草屋で時刻を確認していたわけでもない。何故か、ずっと不機嫌だった店の老婆が小銭の援助をしてくれていた事は気が付いていたが、春雄は自分がそこまで長話をしているという意識もなかったのだ。
 どれほどの時間をその煙草屋で費やしたのか、正確には分からないという。
 心の整理もおぼつかないまま礼だけを述べて煙草屋を離れ、歩き慣れた筈の『死体置き場』で経験した事のない悪い予感に足元がおぼつかぬ所へ、炎上しているパトカーと燃え盛る死体を目の当たりにした。何とか意識を引き剥がして伊澄家へと向かい始めて数分、突然背後から車に追突されて背中から地面に落ちた。
 激痛で朦朧となる意識の片隅で、春雄は『あいつよう車に跳ねられて笑い飛ばせたな。死ぬ程痛いやんけ』と銀一の事を思ったという。
 その車は全速力で突っ込んで来たわけではなかった。明らかに最初から春雄を跳ねる気であったと同時に、即死しない程度の加減が加えられていた事は明白だった。
 春雄はその時、自分はただ事故に合っただけだと思った。そして銀一のように、救急車を呼ばれて病院に運び込まれるわけにはいかない。そういった焦りが春雄の身体を動かし、途切れそうになる意識を必死で繋ぎ止めて立ち上がった。
 だが次の瞬間には、これが事故ではないと悟った。人を跳ねて慌てふためいた運転手が下りて来るでもなく、見ぬふりをして逃走するでもなく、自分の横を黒塗りの車がピタリとついてくる事に、春雄は嫌でも気付かざるをえなかった。
 何度も自分の真横を通り過ぎては急ブレーキを繰り返すその車に、春雄は怒りと恐怖を同時に味わった。
 やがて春雄を二度跳ねた車から、杖を付いた老人が顔を出した。しかし自らで地に下り立つ事をせず、紺色スーツ姿の男に抱えられて車椅子に収まった。
 老人には一見、威厳と呼べるものがなかった。
 どちらかと言えば、ほとんど音を立てず、無駄な所作を一切省いた身のこなしに洗練された品すら感じる紺色スーツの男にこそ、美と冷徹さを備えた恐ろしさがある。
 だがその老人は対照的で、灰色のパジャマのような物を着ていた。九月とは言え、日の差さないこの時間はさすがに肌寒い。しかし素足には靴も履かず、身に着けているのは見るからに粗末で色褪せたパジャマなのだ。やはり老人も寒いと見えて、手足を折りたたんで自分の身に引き寄せている。すると紺色のスーツの男が、大きな黒のコートを老人の肩に被せて体を覆った。
 痩せこけた頬、枯れた蔦ように元気のない白銀髪。染みと皺で表情の判別が出来ない顔の真ん中に、大きな鷲鼻が少し右に曲がっている。重く垂れさがった瞼の奥で、小さな眼だけがギラギラと光っていた。その二つの眼光にだけ、この老人の生きている証が感情となって浮かんでいるようだった。
 春雄を見下ろす目には、殺意が浮かんでいた。
 ゴホゴホと咳き込む音が聞こえたが、老人の身体は僅かに振動しただけで、ほとんど身動きしなかった。
 紺色スーツの男が、老人に耳打ちする。
 老人は杖を持ち上げて倒れ伏せる春雄を指し示しすと、紺色スーツの男は軽く頷き、春雄の身体を軽々と持ち上げた。
「殺したる」
 消えかかる意識の中、春雄は誰ともなく向かってそう言った。しかし紺色スーツの男は何も聞こえていないかのように、春雄の身体を車のトランクへと投げ捨てた。


 
 完全に日が暮れて、夜が訪れた。
 伊澄家で目を醒ました和明は、自分を覗き込む友穂の顔を見て思わず彼女に抱き着いた。
 銀一が後頭部を叩き、和明は目を丸くし、友穂は涙を拭って笑った。
 しかし和明の意識が戻ったのを合図に、銀一は片膝を立てて、側にいた翔吉に頷きかける。
 和明の身体には刃物による無数の裂傷が見られ、明らかに出血多量の状態であった。
 聞けば、一対一の喧嘩で負けた事のない和明を、幸助はほとんど一方的にいたぶったという。だが危うい場面で駆け付けた成瀬刑事の登場で、西荻幸助は警察の手により拘束されたと和明は語った。この時点で彼はまだ、その後の顛末を知らないのだ。
 ずっと行方不明だった成瀬刑事が無事戻って来た事と、西荻幸助を逮捕出来た事は確かに朗報と言えた。問題はしかし、いまだ竜雄と春雄の安否確認が取れない事の方だった。
 二人ともが、各々自らに課した用事を済ませて伊澄家に向かう約束だった。何より二人は、『午前中に自分達よりも早くに』東京を発っており、日の暮れた今になっても現れない事が銀一達の不安に拍車を掛けていた。明らかに、何か問題が起きたのだ。
 突如現れた幸助が警察の手に落ちた以上、確定的な危険が二人の目の前にあるとは言えない。
 だが、と銀一は思った。
 今度は自分が動く番だ。自分が体を張る番が回って来たのだと。
「母ちゃんが今美味い肉焼いとる、それでも食うて休んどれ。こないだからお前、ちょっと怪我負い過ぎよ。円加に叱られるんは俺やもん、ここらでもうお前の出番は終いや。俺がちょっくら行って、駅の方まで戻って見て来るわ。電車が遅れたりなんだり、あったんかもしれんしの」
 銀一がそう言うと、和明は蒼白い顔を綻ばせて力なく頷いた。
 銀一も和明も、電車が遅れたなどと思ってはおらす、明らかに友穂に対する気遣いであった。朝から行動を共にし、西荻幸助に襲われた現場に居合わせた友穂は当然それを分かっている。分かられていると知っていて尚、銀一には他に言いようがなかったのだ。
「友穂、和明に飯食わしたってな」
「…気ぃつけて行きや」
 友穂は答えた瞬間、後悔して唇を噛んだ。
 本当は、行かせたくなどないのだ。
「行くか」
 そう言って、翔吉が腰を浮かせた。
「え? 父ちゃんも行くん」
 銀一が驚くと、
「これは、これは。ひゃくにんりー…いや、千人力よ!」
 と、思わず興奮気味に和明が言った。
 奥からリキが顔を覗かせ、友穂と顔を見合わせて首を横に振った。止めても無駄だ。二人はそれを理解していた。
 だが正直、『探す』と言っても銀一と翔吉に当てなどなかった。竜雄と春雄が伊澄の家に来る前に済ませた筈の用事は、もちろん銀一も知っている。成瀬秀人刑事への訪問と、時和会・藤堂への接見である。確かにそのどちらの目的地も伊澄家からは遠く離れているが、今この時間も同じ場所に留まっているとは考え難い。用事を済ませ、こちらへ向かった筈なのだ。その道中、何かがあったのだろう。
 連絡がない事も不安だが、そもそも当時の伊澄家には電話機がなく、こちらから尋ねてみる事は出来なかった。
 銀一の隣を半歩下がって、ハンマーを握った翔吉が歩いた。
 翔吉の年齢はこの時五十代にさしかかっている。若くはない。しかし老いているわけでもなかった。銀一には後ろを歩く父親の威圧感が頼もしくもあり、しかしその由来を思い返しては複雑な心境にも陥った。
 翔吉の話を聞いた今も、問題は何一つ解決していない。それ所か、銀一はかつてない苦悩を抱える羽目になってしまった。
 歩き始めて十分程経った頃、
「父ちゃん」
 銀一は前を向いたまま、言う。
「何じゃあ」
「人を殺した事は…あるか」
「なんでそんな事聞く」
「…もしよ」
「…」
「もし、友穂や、あいつらの身になんかあったらよ。そいで、そん時目の前に、敵と呼べる相手がおったらよ」
「…」
「俺、堪える自信ないんよな」
「アホか。堪えろ」
「…」
「お前は獣やないんじゃ。考えろ」
「…自信ないのぅ」
「自分に抑えのきかん男なんぞ、クソじゃ。そんなもん自慢すな。クソ以下じゃ」
「自慢しとらんよ。自信がない言いよんじゃ」
「そういう自分を認めてもらおうとしとるやないけ。言い訳するなドアホ」
「ほな父ちゃんは、どうやってそういう、しゅ、衝動みたいなもんを抑えとるんよ」
「考えろや」
「なんでや、教えてくれてもええじゃろうが」
「考えろ考えろ、お前は、楽しようとすな」
 父の言いように銀一は少し笑ってしまい、心持ち元気を取り戻した。
「父ちゃん」
「何じゃ」
「爺ちゃんは、イタリア娘とええ仲やったんか」
「イタリア!? またイタリアか、何なんじゃお前ら!」
「何がよ」
 銀一は四ツ谷組の沢北から教えられた、祖父翔二郎の思い出話をして聞かせた。
 沢北が名乗った『ブリガンテ』というあだ名は、その昔翔二郎と恋仲であったイタリア娘の口癖から取って付けたという事だった。だが翔吉は、息子の話を聞くなり大きく溜息を付いた。
「おい、ワシの可愛いボンクラ君よ。お前は一体何の為に、店の高級肉を大学生に渡しとったんじゃ?」
「…ああ?」
 思わず銀一が立ち止まって振り向く。
「読み書き計算習いに行かしたんは何の為じゃボケ!昭和十年代言うたらワシ生まれてるやんけ!ワシの顔がお前にはイタリア人との混血に見えるんか!笑わせんなカス!」
 もちろん、沢北との会談に同席していた友穂はその話を聞いた時、複雑な事情があったのだろう、という理解の仕方をした。まさか隣で同じ話を聞いている銀一が、計算の合わぬ恋模様の思い出話をそのままの意味で受け止めているとは思わず、改めて説明する気にはならなかったのだ。
「…ほんまや」
 茫然としたまま前を行く銀一に、翔吉は鼻で嘲笑った後、語った。
「関係あるかないかで言うなら、あるわ」
「何が?」
「なんで、あいつの組を潰さんといたろう思うたか。それも関係しとる」
「どういう意味や」
「ジジイとあのイタリア人が…ワシは当時何人やて知らなんだけど、まあ、ええ仲とは言わんが横恋慕とう奴やったのは知っとったんじゃ」
「横れん…、イタリア娘が、爺ちゃんをか?」
「おう。そやけどそん時はもちろんジジイには女房もワシもおる。生来ジジイも相手もそれを気にするようなタマやなかったのかもしれんが、言うてもババアがまあ、これがまたえげつない怖い」
 銀一は眉を下げ、
「婆ちゃん? ウソやろ、大人しい人やんけ」
「お前がババアの何を知っとるんじゃ、ボケた後しか知らんやろうが。そんなもんお前、えげつない女やったぞ」
 銀一の祖母、翔吉の母であり、祖父翔二郎の妻は名を『ハル』と言った。痴呆が進む晩年を迎えるまでは地元でも有名な女傑として知られ、『竹やり一本で戦闘機を撃墜せしめるは軍神でも御上でもなく伊澄ハル』と讃嘆された逸話もあるという。
 余談だが、神波春雄の父親の名は『成吾』である。しかしその成吾に息子が生まれた際、幼馴染である翔吉の母の名前『ハル』にちなんで春雄と名付けた程、この界隈では人気者であったのだ。
 翔吉は言う。
「そこへ来て、しかもそのイタリアの子はまだ若かったし、ジジイも真面目に相手しとりゃあせんかったよ。そら相手の気持ちを知った上や、可愛がってはいたろうがよ。それに、ワシからすれば惚れ抜いてたのは沢北の方なんじゃ。あのオッサンが、ずっとあの子の事を好いてたんや。男は自分を見てない女の事は、スパっと諦めるんがええ。あのオッサンもそういう筋の通った考えの男やったが、今より若かった分抑えの効かん思いもあったやろう。ワシは人の色恋なんぞどうとも思わん男やし、だからというてヤクザ者を認めたりはせんが、まあ、気持ちのええ男やというのは、それはあったよ」
「でも爺ちゃんが死んだ時、噛み付いて来よったな」
「あれは沢北やないわ。当時の四ツ谷はまだ頭がヤジロ(四ツ谷甚六)でな、ジジイとワシ、あいつ嫌いやったんじゃ。お互いが嫌い合うとった。そのせいもあって、な」
「ふうん」
「沢北がブリなんたら言うて名乗りよるんも知ってはいたが、それを『なんじゃあ』言いもって揶揄うんも、それはそれで男が廃る気がしてよ」
「なるほどな。…父ちゃん」
「何じゃ」
「父ちゃんは…」
 大謁教の事を知っているか。裏神天正堂の事をどこまで知っているか。
 銀一がそう切り出そうとした、まさに瞬間だった。
 銀一のすぐ後ろ、半歩程右後ろを歩いていた翔吉の身体が突風に煽られたように激しく揺れた。
 翔吉は、左肩から先を仕事場の事故により失っている。今も残された右手にハンマーを握り、死角とも言える左半身を庇うように、銀一の右側を歩いていたのだ。その翔吉の身体が、右によろめいた。
「父ちゃん?」
「抜け」
「え?」
「はよ抜け!」
 見れば、翔吉の右肩のすぐ下あたりに小型のナイフが突き刺さっていた。
 銀一は慌ててそのナイフを引き抜いて、通りを振り返った。
 このナイフはまさか。成瀬刑事に逮捕されたのではなかったのか。
 しかしいくら目をこらせど、日の暮れた通りは街灯の頼りない灯りだけではどれ程も見通す事が出来ない。見える範囲に、西荻幸助の姿は、ない。
「どこじゃ!」
 と翔吉が叫ぶ。
「挨拶だけじゃ」
 と、どこからか返事が聞こえて来た。幸助の声には違いないが、姿が見えない。
「ほんまはワシが直接殺してやりたい所じゃが、もう間もなく御膳立てが終わる。お前らの家が途絶えるのも、その時よ」
 まるでトンネル内で反響する音のように、幸助の声がいたる所から跳ね返って聞こえて来た。
 あるいは目まぐるしい速度で、本当に幸助が動き回っているのではないかと困惑する程である。
「姿を見せんかい!今更何を怖がっとるんじゃ!」
 翔吉が尚も叫ぶ。
 ストンと音がして、翔吉の身体の同じ場所に、ナイフが突き刺さった。
 銀一が通りの奥へと走り出した。一瞬、動く人影のようなものが見えたのだ。
「行くな銀一!」
 翔吉の声に、走り出した速度と同じ勢いで銀一が戻って来た。銀一が耳元で何事かを囁くと、それを聞いた翔吉は目を見開いて、お前、と呟いた。
 銀一は父に向かって強く頷くと、再び通りの奥へと走り出した。
「行くな!」
 翔吉の制止を振りきり、銀一の身体が夜の闇に呑み込まれて消えた。
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