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37 「轟業」
しおりを挟む目を細め、躊躇うように唇を震わせた。
辛抱強く待つ成瀬秀人と池脇竜雄の前で、西荻静子は囁くように、言った。
「お義父さんを、殺したのは」
和歌山にある保護施設にて西荻静子の口から語られた、義父・西荻平左殺害事件の容疑者は、
「…夫の幸助です」
平左の息子であり静子の夫、西荻幸助であった。
「正確に言えば、当時仲の悪かったお義父さんと幸助さんの反目を更に煽った、今井正憲という警官が事件の引金と言えます」
「…今井」
ここでその名前が出るのか、と秀人は意外そうな顔で口元を手で覆った。これまでの捜査で得た情報を物凄い速さで組み換え、筋立てているのだろう。しかしそんな秀人を目の端に捉えながらも、竜雄はほとんど思考停止状態に陥っていた。
秀人はゆっくりと歩いて静子の側を通り過ぎ、正面の壁際に立った。
「警察の調べでは、今井正憲は『本団』ではないかと噂されています。どうですか?」
横顔を少しだけ秀人の方に向けながら、静子は頷いた。
「ありがとうございます。となると、あなた方ご姉弟の上に立っていたのが、今井という事なんですね?」
「本も端も、結局はうちらが勝手に呼び始めた記号でしかありませんので、『本団』いう言葉が昔からあったわけやないですけど、立場的な事で言えば、今井は三郎に仕事を与える側の人間ではありました。ただ今井はお義父さんと違って、自分の資産を用いてなすべき事をなす、そういう人間ではありませんでした。単純に欲に目がくらんだだけの、中途半端で強欲な男です。しかしあの男の持つ国家権力という立場と、築き上げた途方もない実績と資産によって、三郎の生活はコントロールされてきました」
「仕事というのは、請負殺人と見て間違いないですか?」
秀人の言葉に静子は答えず、ゆっくりと頷いた。
竜雄はそんな静子から目を背け、俯いた。
秀人は職業病から逸る気持ちを抑えるように、短く溜息を逃がしてから続ける。
「平左さん殺害の引き金と仰いましたが、つまる所具体的には、今井はあなた方に何をしたんです?」
「私は直接関わってやしません。三郎と、夫の幸助から聞いた話では、お義父さんに引退を進めて後釜に座るつもりでいたようです」
「引退というと? 西荻平左と言えば赤江の大地主ですよね。ご自身で何かほかの職業についておられた、という事ですか? 土地関係以外で?」
秀人が自分の記憶を遡りながら眉をひそめて聞くと、静子は何度も唇を舐め、答えるべきかどうか逡巡する素振りを見せた。一瞬、自分を睨み付ける竜雄と目が合い、静子は怯えたような目をして、こう答えた。
「お義父さんは、西荻平左は、所謂『本団』側の御人です」
「え」
秀人は声を詰まらせた。
西荻家が『黒の団』と関係がある事は、松田三郎や今井正憲にその噂が出た時点で推測出来ていた。しかし誰もが口を揃えて言うように、確かな証拠と呼べるものは何一つ出て来ていない。それ所か、これまでの捜査で当該関係者ではなくほぼ当事者と言える人間の口から、「~らしい」という伝聞以外の断言を耳にする事自体が初めてだった。
バリマツこと松田三郎、今井正憲、西荻平左、西荻幸助、それら各人が既にこの世の者ではないか、行方知れずなのだ。西荻静子の証言は、成瀬秀人にとってはすべての情報を上回る衝撃だった。
秀人は自分の靴のつま先を睨んだ後、「え」と再び声を上げ、そして、
「これはつまり、権力闘争とか、相続争いとか、そういった類の事件なのですか?」
と思いを口にした。
静子に聞いているようにも、己の認識を自分で再確認している風でもあった。
「簡単にこうと安っぽく言えた話やありませんが、大雑把に言えば、そのようにも」
「…引退と言えば、引退か。ですが、そんな事可能なんですか? 稼業を譲るわけではないですよね、相手が同じ組織である今井なのであれば、それは譲渡や継承ではなく、…合併? 規模の拡大か」
「仕事をする権利、のようなものですから、当人同士の合意があれば可能です。もちろん当人達だけで全てが決定するわけではないですが、これまでもそういった例は、ありました。しかしお義父さんは首を縦に振りませんでした。高齢でしたから、稼業から足を洗う心づもりは出来ていたと思います。しかし自分の抜けた場所に今井を座らせる、あるいは誰かに後を継がせる、そういう発想がそもそもないようでした」
「根本的な廃業、つまりは足抜けを?」
「希望としてはそうですが、それこそが不可能な事なんです」
「何故? 確かに平左さんは高齢だった。一般的な職業における定年を優に超えておられただろうし、引退を考えても全然おかしくはない。むしろ彼が何某か裏の世界で暗躍していたとするのであれば、引退を考えるのは遅いぐらいですよね。完全な足抜けが不可能であっても、それこそ相手が今井じゃなくても良い、合意があれば誰か別の人間に地盤を引き継ぐ事もできたんですよね」
「それは、そうですが」
「あ、ひょっとして彼も、今井と三郎のような関係と同じで、いわば実動隊と呼べる『端団』を抱えていたのですか? 仮に平左さんだけが誰かに地盤をスライドさせても、その下にいる『端団』の人間が納得しない、とか」
「そんな簡単な話と違います」
「では?」
「…幸助です」
「え? なにがですか」
「西荻家だけは他の『本団』と違い、よその人間を使役しません。親が本団、そして子を端団として常に一族だけで稼業を担っていたからです」
「親子でもありうるのか!」
「何が面白いんじゃ!」
突然、竜雄が吼えた。
「黙って聞いとればべらべらと!」
秀人は弾かれたように我に返り、再び警棒を抜いた職員に目敏く気が付き、手をかざして制した。
静子は寒いのか、右手で左腕を摩りながら下を向いて、秀人をしきりに気にしている。
それはまるで、この目の前にいる猛獣のような竜雄から、果たして自分を守れる男だろうかと値踏みしているようにも見えた。
しかし秀人は竜雄の訴えを深刻には受け取らず、別に面白くて話をしてるんじゃないよ、と軽く受け流して静子に向き直った。「それで?」
静子は代わる代わる、何度も竜雄と秀人に視線を走らせた。
「大丈夫です。続けて」
秀人が窓際を離れて、静子と竜雄の間に立って促した。静子は竜雄と目を合わせぬよう膝の向きを少しずらして、言った。
「…お義父さんが自分の代で家業を断ち切るという事は、そのまま西荻の家が途絶えると言う事です。そして西荻が途絶えるという事は、赤江が終わるという事に他なりません」
「赤江が…終わる?」
秀人が首を捻った。
もう、ええ加減にしてくれよ。
と竜雄は言った。それは叫び声ではなく、静かだが力のこもった願いだった。
秀人は鼻から溜息を逃し、頭を振った。
「若い彼には刺激が強すぎるようだ。焦ることはない。どうだろう、少し話題を変えてもいいですか」
「…」
静子は答えず、秀人ではなく竜雄を気にする視線を向けた。
「静子さんの弟である松田三郎は、東京で亡くなりました。暴力団同士の交流会で訪れたと聞いています。なぜ、東京だったのでしょう」
三郎の名を出されては、静子も答えざるを得なかった
「何故、いうのは?」
「犯人が誰であれ、動機がなんであれ、その機会を得ようと思えば赤江かその周辺にいた方が良いと思うんです。それが交流会で舎弟を引き連れた同業者が多く集まる場であれば、尚更普通は二の足を踏みますよ。逆にですね、あるいは三郎が『黒』の実動隊である『端団』なら、もし自分に危険が迫っていると知れば東京には行かなかったはずだ、とも考えられますね。そこを思えば何故あの時、東京だったんでしょうか」
「今井の指示やと思います」
「ほう? ここでも今井ですか」
「三郎が何かをした、狙われていたという話は、表向きのヤクザ稼業の事で言えば知りません。しかし本業として見た場合、幸助をそそのかしてお義父さんを殺すように仕向けた段階で、他の『本団』に事が知れた瞬間、今井に対して粛清が入る事は分かりきっていました」
「粛清。つまり身内同士の喰い合いはご法度だったわけだ。それでもなお今井は、平左さんを殺したかったわけですか」
「そうでしょうね。今となってはどこまでの考えがあの男にあったのか、幸助との間でどのような約束事を交わしていたのか、事細かに知ってる人間はおらんようになりましたが、生前三郎は自分達を助けてくれるかもしれない人間にあてがあると、そう言うてたのは覚えてます」
「助け…。『黒の団』である三郎を? 外部の人間ですか?」
「相手が誰かまでは知りません」
「それで、東京に?」
「覚え違いやないなら、そのはずです」
…と、そこへ笑い声が聞こえた。
思わず吹き出したといった様子の、竜雄の鼻から出た嘲笑だった。
竜雄は既に静子の事も秀人の事も見ていなかったが、反対に静子の方が話の途中から竜雄に敵愾心のこもった目を向けていた。
静子の話を聞くうち、竜雄の顔からは苦しみや悲しみの表情が抜け落ち、呆れたように嘲笑う笑みが張り付いていたのだ。
秀人はそんな竜雄の様子を横目で見ながらも、冷静な口調で話の続きを促した。
この時の竜雄の怒りと異変は、本物だった。打ち合わせや計画にはない、彼の素の感情が剥き出しになっていたのだ。しかし秀人は若い竜雄の突発的な行動を危惧しながらも、再度お互いの視線を遮る形で己の身体を差し挟み、言った。
「ではそもそも、件の西荻平左さん殺害において、主犯があなたの夫である幸助さんだとして、その時あなたや三郎はどういうお気持ちだったんでしょう。静子さんが仰るようにこれは共食いです。内紛とでも言いましょうか。目に見えない地盤というものを独り占めしたい本音が今井にはあった。その今井に唆された形とは言え、実の父親を幸助はその手に掛けた。赤江の街中が震えあがる程恐ろしく無惨なやり方で。その時、あなた方はどう思いました?」
「…それは」
「物事には動機があります。今井という男の動機を理解し、同調した? あるいはそこまで、今井という男は恐ろしかったのですか?」
「いえ」
「ならなぜ?」
「お義父さんはええ人です。表向きは実業家として徳の有る顔も持ってらした。今の西荻の家に、お義父さんのホンマの顔を知ってる人間はおらんと言うてもええ程です。そこだけは、今井や三郎とは違うて尊敬でける部分ではあります。しかし、私らのようなごく限られた一部の人間は、自分や、彼らが何をして生きて来たのかを知ってます。知っているからこそ天秤の間に立って揺れていた。その天秤はしかし」
「しかし?」
「すべての者の同意があってこそ吊り合う。そうやって初めて天秤は天秤やと言えるんです」
「…西荻平左の、他を捨て置いた独断先行であったと?」
勘の鋭い秀人の言葉に、静子は怒りに似た興奮を滲ませるその顔を、ゆっくりと頷かせた。
「つまり、殺すべきだった?」
「そんな事は言うてへ…あんたなんやさっきから!」
突然静子が立ち上がり、叫んだ。
「ええ加減にしいや!そんな目で人を見るな!」
椅子に座ったまま冷たい目で見上げる竜雄を、静子は煮えたぎるような目で睨み下ろした。先程まで竜雄の視線から逃れるように体ごと背けていた静子の態度が一変し、秀人も驚くほどの気丈な表情がぶるぶると震えているのが分かった。
「なあ」
と竜雄が言った。
静子の前に立って、秀人が竜雄に一歩歩み寄った。余計な事を言うな、余計な事をするな。そんな感情が秀人の顔には浮かんでいる。秀人にしてみれば、この場での会話は全て捜査の一環である。彼にとってはこの上なく大事な仕事の真最中なのだ。静子の機嫌を損ねて口を閉ざされては、ここへ来た意味がなくなる。
竜雄は首を伸ばして、秀人の背後を見やる。
「どけや。なあ、おばちゃん。一個聞いてええか。あんたらぁ、あれか。人を殺した金で平助に飯食わしてたんか」
竜雄。苦み走った顔で秀人が嘆いた。
「それをあいつは、美味い美味い言うて食うとったわけか?」
「成瀬さん言うたな、あんた」
と、静子が言った。彼女の目は今、視界を覆う秀人の身体を貫通し、竜雄を睨み付けていた。
「…ええ」
と秀人が答えた。
「聞いてぇな。あんた、聞いてぇな。何で今になって、そないベラベラほんまの事喋りよるんでっか。何で今、その気にならはったんですかぁて、私に聞いてぇな」
秀人は振り返るのが怖い程、信じられない圧力を背中に感じていた。
それは確かに、恐怖だった。やはりこの女も只者ではないのだ。
秀人はこめかみを伝う冷や汗も気にならぬ程張りつめた顎をガクガクとさせ、言った。
「何故、ですか?」
「この子見てたら、腹立って来てん」
「…」
「何も知らんとぬくぬくと育って来たんは、うちの平助だけやないわ。この子の、正義感に燃える目ぇ見た? 人をゴミクズみたいな目で見腐ってからに、よう人の事言えたもんやでえ。笑わしよるなあ。せやさかい、もう全部言うたろう思うてん」
「…何をです?」
「っはは」
突然、静子が発狂したように笑い始めた。両手で自分の腹を押さえ、可笑しくてたまらないのだと言わんばかりに甲高い笑い声を響かせた。
振り返った秀人は愕然とし、竜雄は座ったまま凍り付いたように動けない。
背後に控えていた職員は入り口のそばまで後退した。その顔は、今にも泣き出しそうだった。
ベニヤ板と同程度の厚みしかない玄関の戸を突き破って、銀一の身体が表に転がり出た。友穂が悲鳴を上げて駆け寄り、庇うように銀一の上に覆いかぶさる。
のし、のし、という表現がぴたりと当てはまる様で、銀一の後から翔吉が表に出て来た。更にその後ろからリキが慌てて追いすがり、夫である翔吉の腕を掴んで引いた。
「あきません」
語気はそこまで強くないものの、芯のある口調でリキが言い聞かせるも、翔吉は妻の手をひと払いして地面に転がった銀一の腰を蹴った。
「そんな男に育てた覚えはないぞ」
翔吉は鼻息を荒くして良い、
「リキ、ハンマー持って来い」
と続けた。
「何しはるつもりですか!」
友穂が尚も銀一に覆いかぶさったまま叫んだ。
「何をて、和明ん所へ行くに決まりよろうが!」
「俺は和明を信じる!」
上体を起こし、銀一が叫んだ。屈しない目で、翔吉を見上げていた。
翔吉は尚も銀一の胸を正面から蹴りつけ、
「ハンマー!」
と声を荒げた。
「竜雄を信じる!春雄を信じる!せやから俺だけ裏切るわけにいかんのじゃ!」
「生意気言うなチンピラッ!」
翔吉の怒りは凄まじかった。
ほんの十五分程前までは、二年振りに再会した友穂を前に、彼の鼻の下は伸びていた。しかし銀一と揃って家を訪れた理由が前向きな話ではないと知り、志摩が置いて行ったという不吉極まりない文書をちゃぶ台の上に差し出されると、翔吉の顔の筋肉が金剛力士像のように吊り上がった。
銀一と友穂が畏まって翔吉の前に正座した時、彼は息子とその恋人が結婚の報告でもしに来たかと喜んだのだ。だが、
「父ちゃん、知ってる事全部話してくれ」
と銀一が言った瞬間、翔吉の身体を覆っていた目には見えない膜のようなものが張りつめた。ビシ、と音が聞こえる程の急変振りに、銀一と友穂は思わず顔を伏せた。翔吉の全身から立ち昇る気配は、昨夜会った四ツ谷組組長・沢北要を彷彿とさせる覇気に満ちていた。
「一年前、俺が刺された時、父ちゃんは俺に謝ったな。俺はあん時、駆け付けるのが遅かったとか、そういう意味で言うてると思うてた。けど、違うんか? 父ちゃん何か、大事な事を知ってるんと違うか?」
「どういう意味じゃ」
「昨日、東京で四ツ谷組の親分さんに会うた」
「それがどないした」
「十年前、じいちゃんが死んだ日、四ツ谷の事務所に乗り込んで父ちゃん言うたそうやないか。赤江を守れ、そう言うたそうやないか」
「だからなんじゃあ」
「もう、ごまかさんと教えてくれ!」
銀一はそう言って、和明から預かった文書をちゃぶ台の上に滑らせて置いた。
『翔竜成明鏖殺』。
それを見た瞬間の、殺意を帯びた翔吉の形相を銀一は死ぬまで忘れないだろうと語った。
「翔吉の翔、竜仁おじさんの竜、成吾おじさんの成、明緒おじさんの明。鏖殺は、みなごろし。これはどういう事なんや。何度見ても、このクソ汚い字は銀一の銀にも、春雄の春にも見えん。なんで俺らやのうて、父ちゃんらの名前がここに書かれるんじゃ!これを持って来よったんは『黒の団』志摩太一郎やぞ!どう説明してくれるんや!」
頑丈さだけが取り柄のような肉厚のちゃぶ台が、その足を畳に減り込ませてひび割れる程の剛力で叩かれた。銀一の差し出した怪文書は、翔吉が繰り出した自前のハンマーの下敷きとなった。
あまりの恐怖に友穂は目を閉じたまま、伏せた顔を上げる事が出来ない。
「母ちゃんの前でそないな話、でかい声で言うな」
と翔吉が言った。
「なら、もう言わん。父ちゃんの口から、聞かせてくれ」
銀一がそう言うと、物音を聞きつけたリキが家の奥から顔を覗かせた。手には盆にのせたお茶とお菓子を持っていた。気配を察した翔吉が首を少しだけ曲げ、
「母ちゃん、しばらく奥にいといてくれ」
と言った。
「はい」
茫然とした顔でそのまま帰ろうとするリキに、友穂が立ち上がってそばへ寄り、
「あの、頂きます」
と手を差し出した。リキは微笑んで盆ごと友穂に手渡したが、そのまま何も言わずに台所へ戻った。友穂はひび割れたちゃぶ台をひと目見て息を呑み、盆をそのまま自分の傍らに置いて座り直した。
銀一は言った。
「志摩がこの家に来た日。初めて父ちゃんと、平助のじいちゃんの話をしたな。バリマツが死んだ話、今井いう警官が死んだ話、藤堂が事件の後ろに黒の連中がおるんやないかと疑ってた話。あん時も父ちゃんは怖い顔しとった。まだ何も分からん状態で、平助の頼みを聞いてやりたい竜雄の代わりに話を聞きに行くだけや言うて、それでも父ちゃんは『ろくなことにならんから、やめとけ』て止めた。勘じゃと言うてた。…父ちゃん。父ちゃんは、何を知っとるん」
「友穂、茶」
はい、と返事をして、友穂が翔吉に湯飲みを差し出した。勢いが良すぎたせいか、湯飲みの中の緑茶が跳ねて友穂の手にかかった。熱かったが、何も言わずに翔吉に差し出した。するとその茶を翔吉は一息で飲み干した。友穂は思わず自分の喉を押さえた。
「だから、言うた通りになったろうが」
と、翔吉は言った。
「ろくなことにならんのじゃ。関わってほしいなかった」
「事件の事。その裏っかわにある色んな事、初めから知ってたんか」
銀一が身を乗り出すも、翔吉はぐしゃぐしゃになった怪文書を見つめたまま、
「事件の事なんぞ俺が知るわけない」
と答えた。
「ほな…」
「俺が知っとるのは、自分の事だけじゃ」
ポツリ、ポツリと翔吉は話し始めた。
饒舌でなかったが、要点だけを言葉にしていく朴訥な話し方が箇条書きされた文面のようで、理解するには容易な筈だった。だがその内容は銀一と友穂の許容できる常識の範囲を遥に超えていた。
湧き上がる怒りもあった。悲しみにくれる思いがした。しかしそれ以上に、
『一体父ちゃんは(翔吉おじさんは)、誰の何の話をしてるんだ?』
そんな疑問が二人の冷静な思考力を奪い、いつまでも消え去る事がなかった。
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