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36 「飛団」
しおりを挟む東京にある酒和会の組事務所へ電話を掛けた春雄は、名前を告げてから幹部である花原茂美へと取次いでもらうまでに十五分程若い衆と揉めた。東京での暮らしも五年を超え、花原茂美や彼から苗字を譲り受けたユウジと親しくしていたとは言え、春雄は間違いなく堅気である。その自分を知らぬ若い衆に対して、「何で俺の名前を知らんのじゃ!」などと口が裂けても言える筈がなく、春雄はただ「取次いでくれたら分かるから!」と繰り返すほかなかった。
酒和会の若い衆としては、現在本部団体である時和会と四ツ谷組が抗争状態にある事と、つい先だってその四ツ谷組の親分が上京して来たとの情報を耳にしており、必要以上にナーバスになっていたと言える。あるいは春雄が自分を何々組の者だが、と名乗った方が話の通りは良かったのかもしれない。しかしこの非常時に、そこまで頭が回らなかった。
「お前一人の裁量でどないか出来る話と違うんじゃ!上のモン出せこのクソガキが!」
痺れを切らした春雄が受話器を握りしめて叫ぶと、煙草屋のお婆が両手を合わせて念仏を唱え始めた。ぎょっとして春雄がそれを見つめていると、電話の向こうで舌打ちする音が聞こえ、別の人間へと受話器が手渡された。そこでようやく神波春雄の名を知る人間へと話が繋がり、すぐさま花原へと取次いでくれた。
「おう、春雄か。どうした」
久しぶりに聞く威厳に満ちた花原の声に、春雄は涙ぐみながら受話器の向こうに頭を下げた。
「すみません、電話で。ユウジから番号聞いとったもんで」
「おう、構わんよ。お前の声聞くのも久しいな」
「すみません、今赤江に戻りよるもんで、ほんまはこんな事電話でする話と違うんやろけど」
「改まって何だよ。大層な剣幕だったらしいじゃねえか。揉め事か?」
「お聞きしたい事があります」
「ああ」
「四ツ谷組のバリマツ。…松田三郎が最後に向かったという場所を、親父さんはご存知やないですか?」
「…藤堂か?」
「はい!」
春雄は両手で受話器を握りしめ、小銭を入れろとジェスチャーで催促する煙草屋のお婆に小銭を手渡した。
「ワシも、断片的な情報しか知らねえよ」
と花原は語ったが、その話難そうな口ぶりから察するに、決して何も知らないというわけではないようだった。
時和会・若頭である藤堂義右と、二次団体である酒和会・幹部の花原は年齢と縄張りで大きな違いあれど、もちろん知らぬ関係ではない。それどころか特にこの花原と、時和会・若頭補佐として藤堂を盛り立て、自身はセミリタイアを公言していた幹部・黛光哲は、亡くなったケンジとユウジを介して組織の中でもひと際縁の深い間柄だった。そこへ若頭である藤堂を加えた三者は、組織の西と東を統括する中心人物としての信頼も厚い。情報通信技術が今程発達していなかったこの時代いおいて、三人は何度となく交流会を通して情報の共有に努めてきた。
藤堂はかつて、志摩に対する内偵とも言える調査を行ううち、彼が『黒』かそれに近い人物であると確信を得たような口振りで話をして聞かせた。
『ここまで条件を揃えて、実は志摩は黒の巣やありませんでしたと、そういう結果になるもんならなってほしいわ。ただ、俺かて遊んでたわけやない。色々と調べに調べて、まあ、行きついた結果や。これは多分、素人さんや警察には辿りつけん事実なんと違うかの』
藤堂が自らの言葉でそう断言し、春雄に言って聞かせた「東京のジジイ」が花原である以上、志摩に繋がる情報はこの花原茂美もしくは黛光哲が共有しているに違いなかった。
「なんでもええです、ご存知なら教えてください」
春雄がそうすがり、花原は「うーん」と低く唸った。
「場所がどこを言ってんのか、正確にはワシも知らねえんだ。ただ、三郎が最後に話をして聞かせた舎弟を、ちょいと知ってるもんでな。四ツ谷の事とは言え、同じ業界でしのぎを削ったモン同士、三郎のあんな死にざまを聞かされちゃあ、探りを入れてみたくもなるってもんでよ。その舎弟を呼んで、ちいとばかし話を聞いたんだ」
三郎の死に様。それは春雄自身が榮倉刑事から直接聞かされた話でもある。
首の骨をへし折られて高所から投げ落とされていた、との事だった。
「前にケンジも言いよったらしいです。船作るとこ見てくるとか、なんやそんな」
春雄が言うと、電話の向こうで花原は「おー」と声を上げた。
「そうじゃ、そうじゃ。それが、その船言うのはよ、別に船そのものを見たかったわけじゃねえらしんだよ」
「どういう意味ですか?」
「三郎曰く、要は人と会う約束があって、その落ち合う場所が造船所近くの埠頭だったっつー事らしいんだよ。いやだからこれ、本当に聞いた話でしかねえよ。裏はとってねえぞ」
「人と会う?」
ここへ来て存在が浮き彫りになる新たな人物の影に、春雄は言いようのない怖さを見てとった。
「それ、誰の事か分かりますか?」
春雄が聞くと、花原はしばし黙りこくった後、短く、
「いや」
とだけ答えた。春雄は大きく息を吸い込み、破裂しそうな胸の痛みに堪えながら、
「もしかして、テンケン、とか」
と言った。
「春雄!お前!」
春雄はただ、手持ちにあった形の定まらないパズルのピースを、空いた穴へ放り投げただけだった。それはしかし、テンケンというわけの分からない真っ黒いパズルのピースを、自分一人が抱えている状況に耐えきれなかったとも言える。放り出したかった。そして、真っ向から否定してほしかったのだ。だが花原茂美の過剰とも言える反応は、その真っ黒いピースこそが正解なのだと指し示す導きの手のようだった。
「春雄、お前どこまで足突っ込んでんだ」
「どうなんやろ。自分でもよう分かりません」
「藤堂がお前に何か言ったのか。なら、これ以上はもうやめておけ。何を知りたいのか分からねえが、堅気のお前が相手にしていい奴らじゃねえよ」
「親父さんは、どこまで知ってんすか」
「春雄!これは冗談でもなんでもねえぞ!」
「もう無理なんすよ」
「なんでだ!」
「親父さん。そのテンケン言うのは、天童権七。つまりは大謁教であり、裏神天正堂の、七代目現当主という事なんですよね」
「…そうだ」
「その男が今、俺の幼馴染の、池脇竜雄と一緒におるかもしれんのです。なんでもええ、知ってる情報全部下さい!三郎はなんで東京なんかで死んだんや!誰に殺されたんや!志摩は東京で何をしよったんじゃ!俺達が相手しよるんは、黒か!裏神か!一体誰なんや!」
「春雄!落ち着け!」
「落ち着いてなんぞいられるかッ!」
「ユウジ!」
その一瞬、春雄は花原がなんと叫んだのかが分からず、耳を澄ますと同時に呼吸を止めた。煙草屋のお婆が、じっと春雄の横顔を見つめる。
「…なんて?」
「今、お前らがどういう状況にいるのかワシは知らん。ただ、お前の口からテンケンの名前が出るのあれば、言うておかにゃあならん事も出て来る」
「…何?」
煙草屋のお婆はぶつぶつと文句を垂れ続けていた。
いつまで喋る気なんや。大きい声で耳が痛い。これやから男前は…。
そう言いながらもお婆は春雄の手から小銭が無くなったのを見てとり、店のレジからそっと、小銭を投入口へ入れてくれたのだった。
東京の、神波春雄と響子が暮らすアパートの一室に、響子、円加、そして千代乃の姿があった。
銀一達が赤江に戻る事を決めた時、まず第一に考えたのが残していく彼女達の身の置き場である。どこに誰が潜んでいるか分からない。見知った人間の本性すら疑わしい。そんな状況に於いて確かな安全など、どこにもないかもしれない。
ならば、少なくともひと塊に身を寄せ合っていた方がましだろうとの理由で、春雄の部屋に陣取ったわけだ。
「心配です」
何をする間も、千代乃がそう声を漏らした。
事態は今、常識的な思考が追い付かぬ程複雑怪奇な様相を呈していた。
赤江で起きた一連の連続殺人事件に恋人達が関わっているだけでなく、そこへついこの間までは都市伝説の類だとまともに取り合う事もしなかった、『黒の団』なる組織の存在が浮かび上がって来た。そして千代乃は自らを、東から来た『大謁教・裏神天正堂』現当主の娘だと語り、響子は自分の素性を、渦中の中心人物とも言える志摩太一郎の妹であると明かしていた。お互いの決して平凡とは呼べない出自が、此度の騒動にどこまで深く関わっているかは分からない。分からないからこそ不安であり、心配なのだった。
「心配やね」
響子もそう応じ、微笑み切れない表情を俯かせた。
能登円加はそんな二人を元気付けるように、
「でも、きっと大丈夫よ」
と言う。
「だって、一緒についてった和明さんね。知ってる? めちゃくちゃ強いのよ」
響子と千代乃は一瞬何を言われたか分からず、目を丸くして円加を見つめた。
「あの人ね、めっちゃくちゃ、喧嘩が強いんですわ」
円加の言葉に、響子と千代乃は手を叩いて大笑いした。
「何で笑いはるの!? ほんまよ?」
口を尖らせて拗ねる円加に響子は何度も頷き返し、
「それは、ほんまにその通りよ。うん、それは心強い」
と答えた。
「でも円加さん、言うたら悪いけど。そりゃあ竜雄さんだって負けてないと思うよ?」
千代乃が言うと、
「いやいやいやいや!」
と円加は膝立ちになり、大袈裟に両手を振って応戦する。響子はただ嬉しそうに笑い、
「まあ、結局最後に頼りになるのは、春雄さんやけども」
と言った。
口をぽかんと開けて呆れる千代乃と円加を見つめて、響子はぷっと吹き出して笑った。
「響子さんは、皆さんと幼馴染でいらっしゃるのよね」
と千代乃が聞いた。
「そうです。それこそ喧嘩ならば、もう嫌になる程見て来ました。ただそれで言うなら」
「…言うなら?」
円加が響子に顔を近づけて、聞く。響子は上目使いに円加を見返し、
「もう、圧倒的に銀一さんが、凄すぎて」
と言った。言いながら、半分笑っていた。
「竜雄さんも、和明さんも、春雄さんも、喧嘩となったらそれはそれはえげつない人達です。せやけど、どう言うてええのかな。例えば竜雄さんや和明さんの喧嘩て、横綱相撲みたいなんですよ。圧倒的に喧嘩慣れした人の、うん、強さというか。そやけど銀一さんの喧嘩は、ちょっと、正直怖いんです」
響子の言いように、千代乃と円加が口を閉じた。
「これは私実際には見てないし、聞いただけですけど、銀一さん前に、今多分日本で一番大きい暴力団の幹部と一対一で喧嘩して、勝ったって言うてました。そんな人、いてます?
それに、ほんまに真っすぐな人ですから、誰に対しても加減がでけんのです。物凄い優しくて、頼りがいのある人なのは間違いないけれど、今まで人を殺していないのが不思議なくらい、怖い喧嘩をする人です」
千代乃と円加は顔を見合わせ、俯いた。円加が持ち掛けた笑い話が思わぬ展開となり、場が静まり返ってしまった。大笑いの後だけに、余計と沈鬱とした空気が流れた。
「そういう意味では」
と響子が続ける。
「まあ…友穂姉さんの圧勝、という事で?」
各々が理解するまでの沈黙があり、やがて円加が響子の肩を押した。もお、と言いながら千代乃がそれを押し返した。響子は二人の間で揺れながら、コロコロと笑い声を上げた。
「でもなんというか、普段、喧嘩なんてほんまは見るのも嫌やけど、こういう非常時にはなんでか頼もしく思えたりするから、男の人ってずるいと思わはりません?」
円加が苦笑しながらそう言うと、同様の思いがあったのだろう。響子も千代乃も、口々にそうだそうだと大きく頷いて見せた。
「なんかね、あの人達がするいのはね」と響子が嬉しそうに言う。「あれだけ喧嘩っ早い性格のくせして、そういう時でも意外とジェントルメンなんです。その落差がね、ずるいんですよ」
「分かります!」
千代乃が拳を握り締めて同意する。
「竜雄さん、一度うちのお店で他のお客さんと揉めはってね。バーンて一撃でその相手をのした後に、両手上げて『すんませんでしたー!もう終わりましたんでー、楽しゅう昼飯食いましょうやー!』って満面の笑みで他のお客さんに謝って。底抜けに明るいんですよ、人殴った後やのに。そんな事します?普通」
嬉しそうに話す千代乃に、
「ねえ。喧嘩自体を、そない大した事やと捉えてないんでしょうね」
と響子は頷いて答えた。
「ええなあ。そういうのん、ええですよね。和明さんもやっぱり、似たような明るさのあるお人ですけど、うち、弟いてるんですけどね、いっつもなんやぁ、暗いんですわ」
思わず愚痴を零した円加の口振りがあまりにも可愛く、響子が彼女に抱き着いて笑った。
「弟も喧嘩ばっかしよるんですけどね、なんか、暗いんですわ」
と円加は二度言い、千代乃も堪え切れずに笑った。
「千代乃さんは、ご兄妹は?」
と円加が聞いた。
この時点ではまだ、円加は千代乃の過去の境遇を深く聞かされていなかった。一部とは言え髪の色が白く抜け落ちる程のストレスを受けた直後なのだ。気を失い、ようやく目覚めた彼女に対して更なる衝撃を与える事はどうにも躊躇われ、日を改めて打ち明けようという相談が他の者との間でなされていた。
響子が思わず下唇を噛んだ。千代乃は一瞬俯いたが、意を決したように、
「兄が、一人」
と答えた。響子が驚いて、千代乃を見つめた。
「へえ、今はどちらに?」
円加が聞くと、千代乃は首を傾げて、
「さあ、長い事連絡とってなくて。あ、でもね、連絡は取ってないけど、写真をずっと持ち歩いてるんです」
と答えた。
見ます?と、千代乃が首にかけていたネックレスを襟元から手繰り寄せ、手のひらに乗せて見せた。ネックレスは先端がロケットペンダントになっていた。
「子供の頃の写真しか持ってなかったんですけどね。何年前かな、二年、くらいかなあ。写真だけ送られて来たんですよ。それをこうして、持ち歩けるようペンダントに入れて」
円加は千代乃の思い出話に首を捻りかけた。何年も会っていない、子供の頃の写真しかない、写真だけが送られてきた? ひょっとして、千代乃と彼女の兄については聞いてはいけない間柄だったのかと、円加は返事をすることも出来なかった。
千代乃がロケットを開き、響子と円加に中の写真が見えるように差し出した。
「これです」
「…え?」
響子はそう声を漏らし、ぐらりと体が傾く程の眩暈に襲われた。響子はこめかみを手で押さえながら、荒れ狂う脈動が頭蓋の内側でのたうつのを感じた。
円加が響子の異変に気付き、彼女を見やった千代乃の顔がさっと曇った。
「響子さん?」
と千代乃が声を掛けた。
響子は千代乃の手の中を凝視したまま、震える手で口を押えた。
「なんで」
と響子は呟いた。
「響子さん?」
今度は円加が名を呼んだ。
「千代乃さん。この人、お兄さんなの?」
「…はい。一つしか年の違わない…、ご存知なんですか?」
「名前、聞いてもええですか」
「はあ」
千代乃は一瞬円加と顔を見合わせた後、自分の手の中、ロケットの中で微笑む兄の名を口に出した。
「ケンジです。天童権児」
…なんでよ。響子がそう嘆いた瞬間突然電話が鳴り、三人は一斉に悲鳴を上げた。
電話は、春雄からであった。
『響子か!春雄や!お前あれあるやろ、あれ、あの、あれや!ケンジが置いてった酒和会の電話番号!あれ読み上げてくれ!それから、千代ちゃんに代わってくれ!』
「あんたひょっとして、…平助くんの」
日焼けした肌、黄色く濁り落ちくぼんだ目、白髪交じりの無精髭、特徴的な太い眉。
友穂は必死で自分の記憶を辿りながら、何かの間違いではないかと思おうとした。
気が動転しているに違いない。なにせ突然刃物を向けられたのだ。自分を庇い和明が受け止めてくれはしたものの、間違いなく自分か銀一どちらかの背中目掛けて突進して来た凶刃なのだ。そんな状態で、二年以上振りに見た男の顔をはっきりと思い出せという方が、無茶だ。
小柄とは言え、優しく微笑めば昔はきっと女たちが放っておかなかったであろう男前だった筈だ。しかし今見る人相はまるで記憶とは違い、こんなに痩せてはいなかったし、汚らしくもなかった。それでもやはり、目の前で和明と組み合うその男の顔は、西荻平助の父・幸助にしか見えなかった。
「おっさんお前ワレこらぁッ」
和明の表情が鬼のように変貌し、右手で掴んだ幸助の手首をギリギリと締め上げながら唸った。
ガシ、と幸助の頭を銀一の両手が挟み込み、真横からこめかみに膝蹴りが減り込んだ。そのあまりの衝撃の強さに、思わず和明の手が幸助の手首から離れた。だが破壊力のあるその攻撃の一手は悪手と言えた。ちょっとやそっとの力では逃げられない和明の握力から解き放たれ、たたらを踏みながらも幸助はその場から距離を取った。
「和明、血」
と友穂が手を伸ばす。和明は無言で友穂の身体を自分の背後へ回し、銀一と二人並んで幸助と相対した。
「すまん」
銀一は短く言い、
「ええ」
と和明は答えた。右耳から滴る血などお構いなしだ。二人の目は幸助を睨み続けている。
銀一にとって一年振りに再会を果たした西荻幸助は、しかし全く初めて見る男のようだった。衣服が浮浪者のように汚れ切っていたからでも、全身から魚の匂いが漂っていたからでもない。
彼の目だ。何度となく顔を合わし、挨拶を交わして来たはずの幸助の目は、まるで今日初めて会った人間を殺そうとしているかのような、微塵にも慈悲を感じない目だった。
「今までどこにおったんじゃ!」
銀一が叫んだ。
幸助は答えず、銀一に蹴られたこめかみを押さえて、首にぐっと力をこめる素振りを見せた。
「匂いで分かるわ。船やろ」
と、幸助の代わりに和明が答えた。
「見つからんわけやで。多分こいつ、ずっと船で生活しよったんじゃ。おそらく海に出て赤江にはおらんかったはずや。停泊してる漁船は全部俺が調べたからな。くそが。うちのもんが誰ぞ手貸しとったんじゃあ思うたらありえん程殺意湧いてきよるわ」
はん、と鼻を鳴らして幸助は笑った。
「殺したろうかいのぉ」
と和明が目を見開いて、一歩前に出た。
「頭おかしいなってたわけや、なさそうやな」
と、和明の肩に手を置いて引き留め、銀一が言った。
今この時まで、銀一達にとって幸助は発狂して姿を眩ませた被害者という認識であった。息子の平助を刺した事は許されないとは言え、あくまでも何者かに追われる立場で、悪くするれば既にこの世にはいないのではとまで考えていたのだ。
「あああ」
煩わしそうに、幸助は溜息のような声を発しながら首を回した。銀一の膝蹴りが効いているように見えたが、溜息程度の感想しかないのだとも取れた。
「わけ分からん。一年間逃げとったくせに、こいつなんで今頃出てきよんじゃ」
と和明が言う。
「問答無用で俺らを殺しに来たっちゅう事は、まあ、こちら側ではない言うことやな。危ないとこや、また背中イかれるとこやったな」
と銀一が和明に礼を言うと、
「こっち側やないてこたあ、ほな、平助刺したんも…こいつ、わざとか?」
和明がそう口にし、銀一と二人して幸助を睨んだ。
「警察呼んでこよか」
と二人の後ろで友穂が囁いた。
「動いたらあかん」
と銀一が答え、
「もうちょっと後ろ下がっといて」
と和明が言った。
友穂が二、三歩後退する様子を、幸助が首を伸ばして目で追った。そして突然持っていたナイフを友穂に向かってノーモーションで投げつけた。銀一が咄嗟に友穂を突き飛ばし、友穂は尻もちをついた。その右脇の地面に、ナイフが突き刺さった。
スイッチが入ったように和明が走り出した。
向かって来る和明に、幸助は低く身構えた。和明が機関車のように突進し、両手で幸助の身体を掴んでそのまま空き家の塀に突っ込んだ。右手が幸助の首、左手が彼の右手首を握っていた。幸助は後頭部、背中、腰を強烈に叩きつけられたはずだが、声一つ上げずに目の前の和明を睨み付けた。その目は、街の住民達から平凡太郎とこき下ろされたかつての幸助のものではなかった。
「和明!」
銀一がそう叫んだのは、いつの間にか幸助の右手に別のナイフが握られていたからだ。
幸助は眉間にびきびきと縦皺を刻んだかと思うと、
「あああああああああ!」
空き家街に響き渡る絶叫を上げた。
幸助の二つの小さな黒目が高速で左右に動き、グルンと上に回って白目だけになった。
カカカカカカ、と幸助の歯が連続で噛み合わさる音が聞こえる。
和明は襲い来る恐怖心に負けじと全力を込め、幸助の首と手首を握りつぶさんばかりに締め上げ、空き家の塀に押し付けた。
「あああッ!」
幸助が全身を左右に振った。その瞬間和明の両手が振りほどかれ、幸助の握ったナイフが空中を横一線に走った。
「和明!」
尻もちをついたまま、友穂が叫んだ。
和明は上体を反らせて切っ先を交わし、再び右手で幸助の手首を掴み、左手を添えた瞬間そのまま、折った。ごきりと音がして幸助の右手首が折れ曲がり、ナイフが地面に落ちた。
和明が一歩、二歩と後退する。パっと、彼の胸から血が飛んだように見えた。和明が咄嗟に胸を押さえ、銀一の脳裏に内臓を撒き散らして死んだ難波の死に様が過った。
銀一が、和明の名を呼んで駆け寄った。だがそれより早く、幸助が左手に握った別のナイフで和明を切りつけた。和明は身を捩ってかわそうとするも、右腕を切られて鮮血が滲み、彼の服を赤黒く染め上げた。
銀一は、幸助の意識を和明から逸らすべく大振りのパンチを放った。
それを幸助のナイフが迎え撃った。
銀一の拳と幸助のナイフが交錯する寸前、和明のさらなる突進が幸助の身体を再び空き家の塀に叩きつけた。
幸助は面倒臭そうに頭を振る。
和明は渾身の力を込めて幸助の身体を押さえつけながら、言った。
「銀ちゃん先行け。友穂が気になって集中でけん」
「呼び捨てにすんな」
場違いな返答を口にする銀一に、
「はよ行けや!」
と和明が叫んだ。
銀一は無言で踵を返し、走り出した。そして友穂の手を掴んで立ち上がらせると、有無を言わさず赤江に向かって駆けた。
友穂はもちろん和明を残して逃げたくなどなかった。しかし咄嗟に言葉も出ず、一人で立ち上がる気力も今の友穂にはなかった。自分の身体など片腕一本で抱え上げる銀一の力に、友穂はただその身を任せる他なかった。
「…一緒じゃぁ」
走り去る銀一と友穂の背中を横目に見つめながら、幸助が呟いた。
「ああ?何?」
和明が唸ると、
「離せ」
と言って、幸助が全身を回転させるように振った。また、和明の手が離れた。
握力や腕力で負けているわけではないのに、理解しがたい術に和明の膂力そのものが無効化されたように思えた。和明は自分の両手をまじまじと見つめ、
「なんで」
と音もなく呟いた。
和明にはその瞬間隙があった。しかし幸助はその隙を、和明を襲う事には使わず、折れた右手首を背後の塀に叩きつけて関節を繋ぎ直す時間に費やした。
和明がその行為に驚いて、飛び退った。
「おっさんバケモンか」
と和明が言った。
幸助は再び、見えなくなった銀一達の背中を追うように見つめ、
「翔吉の息子、銀一」
と言った。和明には少なくとも、正気を失った狂人の声には思えなかった。
「そいでその嫁となるおなごじゃろぉ。ならば殺さねばなるまいて。なぁんでじゃ。お前らだけのうのうと続いて行くのは、おかしかろうてぇ」
そう言った幸助の目が、和明を捉えた。
狂ってはいないのだろう。しかし和明は全く意味の理解出来ない幸助の話を聞きながら、こんなに怖い男には出会った事がないと、心底震える思いがしたという。
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ある放課後。上城は豊(ゆたか)という少女から、半年前に起きた転落事故の現場に鈴代が居合わせたことを知る。彼女は人殺しだから関わるなと憎らしげに言われ、上城は余計に鈴代のことが気になってしまう。
そして、鈴代の目の前で、父親の殺人未遂事件が起こる……
――呪いを解くのと、謎を解くのは似ている?
初々しく危うい恋人たちによる謎解きの物語、ここに開幕――!
マクデブルクの半球
ナコイトオル
ミステリー
ある夜、電話がかかってきた。ただそれだけの、はずだった。
高校時代、自分と折り合いの付かなかった優等生からの唐突な電話。それが全てのはじまりだった。
電話をかけたのとほぼ同時刻、何者かに突き落とされ意識不明となった青年コウと、そんな彼と昔折り合いを付けることが出来なかった、容疑者となった女、ユキ。どうしてこうなったのかを調べていく内に、コウを突き落とした容疑者はどんどんと増えてきてしまう───
「犯人を探そう。出来れば、彼が目を覚ますまでに」
自他共に認める在宅ストーカーを相棒に、誰かのために進む、犯人探し。
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