風の街エレジー

新開 水留

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26 「哀音」

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 この一年で起きた二つ目の出会いが銀一と友穂の目の前に広がったのは、昭和四十六年の、ある日の事である。
 それは運命という呼び方でしか表現の仕方が分からない程、強い結び付きで引き寄せられた女たちの物語だ。
「第一印象は良かったよ。向こうは、…どうなんだろうね」
 後に、苦笑いを浮かべて友穂はそう語った。
 竜雄からの連絡を受けて、彼の失踪に心を痛めていた恋人が赤江から東京へと駆けつけて来た。
 名を、天童千代乃といった。この時、響子の二つ上の二十歳だった。
 そして同じく、和明からの電話を受けて赤江の隣街から追いかけて来た女もいた。
 名は、能登円加。何を隠そうキャバレー『イギリス』で銀一達と出会い、和明に見初められた女給、マリーことまどかである。あれから一年が過ぎ、この時十九歳である。
 四人の女たちが顔を揃えた発端は、銀一と友穂の再会だった。
 銀一が友穂に打ち明けた通り、竜雄と和明は仕事を放り出したまま東京で友穂の警護を手助けする毎日を送っていた。だがついには銀一が友穂に見つかり、事の真相が明るみ出た。となれば竜雄達が家族や職場の人間にだんまりを通す意味はなくなり、すぐさま家族を通して恋人に連絡を取ったというわけだ。
 それは女たちにとって、決して面白い理由であるはずがなかった。居所と安否の確認が取れ、恋人が東京で自分を待っている(そう告げたわけではない)と胸を膨らませ、竜雄と和明の元へ馳せ参じてみれば、見知らぬ先客が二人いる。しかも、当たり前のように男達をはべらせ、愛される事が自然体であるという振舞いに、悔しい程の美貌まで備えた女二人だった。もちろんそれは片側から見て一方的に断じた、嫉妬からくる思い込みにすぎない。だが千代乃達には、出会いの瞬間はそれが目に映る真実だったのだ。
 藤代友穂と、志摩響子。二十二歳と、十八歳。
 千代乃と円加にとってはこの時が初めての出会いである。しかし友穂と響子の二人が持つ女としてのパワーは、初対面の円加に「えげつな」と言わしめる程の輝きを放っていた。
 タイミングの悪さもあったのだ。東京で女たち四人が顔を合わたこの日に先んじて、赤江では千代乃と円加が男達の思惑により引き合わされており、すでに顔馴染みとなっていたのである。そうなれば、二対二の様相を呈するのは自然の流れと言えた。
 そもそも、竜雄と和明は赤江に戻るべきかどうかを決めかねていた。仕事を優先するなら一刻でも早く戻らねばならない。だが銀一と友穂がニ年振りに再会したとはいえ、それは偶然の結果であり、事態が好転したわけではないと分かっていた。
 一度は、探偵まがいの行動をすっぱりと諦めた。銀一が刺されて一年間のリハビリ生活を送る間は、新たな出会いや周囲での変化こそあったものの、人が死ぬ事はなかった。
 ケンジとユウジが、目の前で死んだ。それが終わりなのか、始まりなのかも分からない。ただこれ以上知った顔が傷ついていく姿を見る事に耐えられない思いも男達にはあったし、一連の事件を忘れられるものならば、忘れてしまいたかった。
 しかし、銀一が退院したと時を同じくして、待っていたかのように友穂の写真が奪われた。ただ奪われたのではない。家宅侵入を犯した上に、犯罪行為を見せつけるが如く写真の飾り面を変えてあった。 
 …まだ終わっていない。具体的な何かを想像するのは死ぬ程怖かった。だが不安だけが一方的に、銀一達に大きく圧し掛かってきた。
 そして、赤江から遠く離れた東京の地で幼馴染四人が顔を合わせた。側には大切な女たちもいて、一時の幸福感に包まれた。「だが果たして、自分達はこのまま赤江に戻ってよいものなのか、否か」竜雄と和明が頭を悩ませていた折、友穂の母からアパートへと連絡が入る。竜雄達からの電話を受けて、恋人の帰還を待たずして千代乃と円加が赤江を発ったというのだ。心配させた事は十分聞いている。東京駅まで迎えに出て、そのまま一緒に帰ろうかと竜雄が提案した時、友穂が言った。
「お会いしたいなぁ」
 東京駅まで恋人達を迎えに行った竜雄と和明は、心配を掛けたお詫びと称して観光案内を買って出た。だがもちろん東京の土地勘に明るいわけもなく、同じく地方出身の千代乃と円加を連れて右往左往したそうだ。女たちは初め違和感こそ持ったものの、夜も眠れぬままこのひと月を過ごしただけに、明るい笑顔の男たちと都会の街並を歩けるだけで、終始穏やかで朗らかな笑みを浮かべていたそうだ。
 しかしこれにも、裏事情があった。やがて友穂の住むアパートまで戻って来た竜雄達一行を出迎えたのは、春雄と響子の二人だけだった。そこへ示し合わせたように、病院勤務を終えた友穂と、一日中側に張り付いていた銀一が並んで帰って来た。実を言えば示し合わせたのは竜雄達の方で、『会いたい』と言った友穂が仕事を終えて帰宅するまでの間、不慣れな観光案内に時間を費やしたというわけだ。
 竜雄と和明によって見知らぬ人間の住まいへと連れて来られた千代乃と円加は、部屋の主である友穂を一目見て、絶句した。
「あかん。これは、…勝たれへん」
 言葉には出さなかったものの、千代乃はそう悟った。そして友穂の隣には、まだあどけなさの残る美少女がニコニコと笑みを浮かべて立っていた。
 キャバレーで様々なタイプの女性を見て来た円加は、響子の目を見た瞬間相当な危機感を抱いたという。
 千代乃にせよ円加にせよ、自分の男が簡単に持って行かれそうな程の魅力を、友穂と響子に感じとったのだ。この二人に出会っていながらよくぞ自分と付き合っているものだと、恋人達に感心すらしたそうだ。
「初めまして、藤代友穂です」
「こんばんわ、志摩響子です」
 銀一と春雄の間に立って頭を下げる二人に対し、負けてなるものかと思ったのだろう。千代乃は手に持っていたボストンバッグを地面に落とし、直角にお辞儀して声を張り上げた。
「天童千代乃です!」
「わわ、能登、円加ですっ」
 それに見習い同様にして頭を下げる円加。友穂と響子は顔を見合わせて笑う。嫌味や揶揄いではない。心から、この出会いを喜んでいた。
 しかし千代乃はそれを魅力的な女の余裕だと受け取り、円加はますます自信を喪失した。
 だが友穂に言わせれば、この日初めて見た千代乃と円加は道ですれ違う男達を振り返らせる程、十二分に整った顔立ちをしていた。千代乃は赤江の隣町にある弁当屋に勤務しており、キャバレーの女給である円加程の派手さはないものの、とにかく笑顔が良かった。話をしなければ、傍から見る限り少しぼーっとした印象があるのだが、ひと度口を開けば満面の笑みでもって答える、その落差は簡単に男を虜に出来た。竜雄が千代乃に惚れた理由も、料理の腕前とそんな彼女の笑顔だった。癖のない透明感のある顔立ちをしており、数年後には出版社にスカウトされてモデルの道へ進みかけた程だ。決して他人よりも見劣りのする顔なのではなく、単純に自信がなかっただけなのだ。
 一方円加は、自信と不安の間で揺れていた。彼女はある種分かりやすい色白の美人で、切れ長の大きな目とその下の涙袋、艶のある唇に浮かぶ繊細な表情が魅力的であり、誰よりも男を落とす術を心得ているのはこの円加のはずだった。着飾る事や化粧映えも含め、他人に自分を見せる方法を彼女は熟知している。例え今いる場所がキャバレーでなくとも、基本的な要因さえ外さねば、他の女に負ける筈がないと思っていた。所が、何も着飾っていないにも関わらず、素で圧倒的に美しい女が二人も現れたのだ。負けているとは思わはい、だが胸を張って勝てると言えるだろうか。そんな思いが円加の中で不安となって渦を巻いた。
 友穂の部屋でくつろぎ談笑している間も、千代乃と円加の胸中から焦燥と小さな苛立ちは消えなかった。二人に会いたいと願い出たのは自分だと友穂が明かした時、千代乃はそれを『愛されて来た女の余裕』だと受け取った。
 東京という誰もが憧れる大都会。部屋数こそ二部屋と少ないが、整理整頓されて清潔感のある家具と細部に心配りを感じる理知的な配置。サラリと着こなす友穂の上品な衣服。落ち着きのある話し方と母性的な優しい声。線が細いせいで余計に小柄に見える割には、決して幼くはない体のライン。零れそうな大きな瞳に、小さな口。女性らしさを少しも損なわぬ綺麗なショートヘアに、温もりのある笑顔。そんな友穂の全てに千代乃と円加は腹を立て、同時に敗北を感じた。
「ごめんなさい」
 と友穂が頭を下げたのは、千代乃が『黙って東京へ身を隠すなんて。どれだけ心配した事か』と、今回の上京に対する思いを口にした時だった。
 この時まで、千代乃と円加は自分の恋人が行方を眩ませた本当の理由を知らなかった。幼馴染である銀一が困っている。何を置いてでも助けに行かねばならなかった、という話までは竜雄たちから聞かされていた。だがその実、訪れてみればそこにいたのは可憐で非力そうな美人なのだ。女心をざわつかせるなと言う方が、無茶だった。
 そんな二人に対して、友穂は真相とまでは言えないながら、自分の身を案じて竜雄と和明が黙って銀一を手助けしてくれていた事を打ち明けた。しかし千代乃と円加は驚きこそしたものの、やはり納得のいかない表情を隠す事が出来ずに、押りこくった。
 これには友穂よりも響子の方が気に病んだ。
「友穂姉さんのせいやないんです。事情は複雑ですぐには納得してもらわれへんやろうけど、責めるなら私を叱って下さい」
 千代乃達よりも低い位置に顔を下げて、覗き込むようにして響子が言った。
「コラ」
 と、友穂が響子を窘めた。
 友穂は既に、響子に言い聞かせてあったのだ。おそらく千代乃と円加が竜雄たちの失踪理由を知れば、心中穏やかではいられない筈だ。実際二人は自分の安全を確保する為に黙って東京へ来てくれたのだから、その恋人である千代乃と円加が誰かを責めたいのであれば、自分を責めたら良い。そこで響子が口を挟もうものなら事態がややこしくなるだけだから、何も言うんじゃない。
 仕事へ向かう直前、友穂は響子にそう言って部屋を出た。響子は真剣な面持ちで頷き、いってらっしゃいと答えた。だが、
「友穂姉さんはほんまに悪うないんです!」
 と、忠告を全く無視して千代乃達に詰め寄っている。
 ああ、そうだった。響子は、こういう子だった。
 友穂は溜息を飲み込んで、黙って頭を下げた。やめよう、と言いながら響子が友穂の肩に手を置くも、友穂は顔を上げずに「筋は通さなあかん」と呟いた。
 しばらくの沈黙を得て、意を決したように一度頷いた後、千代乃が俯かせていた顔を上げた。
「…色々、ありますよ!私らも、皆さんも!」
 と、千代乃はそう言った。ただそれだけだったが、頬を紅潮させて笑う彼女に、友穂は危うく涙を零す所だった。友穂は噛み締めるように何度も頷き、
「はい」
 と答えた。円加はそんな二人を見てほっとした顔で微笑むと、
「まあ聞いた所で、すぐには理解でけんのやろうけど、確実にこれだけは言えます。美人というものは、いつの時代も、薄幸なんですよね」
 そう言いながら、右手で自分を仰いで見せた。女たちはパっとお互いを見つめ合い、やがて声を上げて笑った。
 打ち解けた女たちが安堵の笑い声を花咲かせている間、男四人はアパートの外で煙草を吸っていた。既に日は暮れていたが、アパート前の街灯一本の灯りを頼りに、立ち話に興じている。女たちに気を使ってか、部屋に上がって来ようとはしなかったのだが、途中一度だけ銀一が部屋に戻って来くると、申し訳なさそうに「友穂、酒あるって?」と小声で聞いた。友穂は「ほい来た」と同じく小声で答え、キッチンシンクの下から見た事もない上等な洋酒の瓶を取り出し、銀一に手渡した。目を見開いて嬉しがる銀一に、「全部飲まんでよ、私も一緒に飲みたいから」と釘を刺した友穂の囁き声が、同じ女たちですら思わず頬を染める程の愛情に満ちていた。
 女たちの話題はやがて赤江へと移った。友穂と響子は赤江出身であり、円加と千代乃は隣町で育った。街同士が積極的に関わり合いを持つ関係性ではないものの、思い出話を語るだけなら困らぬ程度には、同じ情景を見て来たと言える。と場の牛が逃げた話、どこそこにあった食べ物屋の話、子供の頃遊んだ小川の話、独特の雰囲気があった工場地帯の話。ヤクザ同士の抗争…。赤江は決して愉快な街でも、静かで情緒的な街でもない。すぐに話題は逸れて、お互いの仕事の話へと移り変わった。
「響子さんは、東京へ出て来た頃は何をしてらしたの?」
 と聞いたのは千代乃だ。響子は四人の中で一番年下だったが、千代乃はこの日全員に対して敬語で貫いた。友穂はこの時の千代乃の姿勢に、深く感じ入った。年齢ではなく他人という存在をそのまま尊重し、詰めすぎない彼女の距離感が好きだと思ったのだ。ずっと孤独を好んで生きて来た友穂だから思う、千代乃の魅力の一つだった。
「私はなんも資格と呼べるものを持っていないから、まずは生活と、資格を取る学費の為に、今も水商売しよります」
 笑顔で答える響子に、千代乃と円加は少なからず衝撃を受けた様子だった。
「お若いのに、お店よう見つけはりましたね。きちんとしたお店なの?危なくはない?」
 嫌味のない千代乃の心配そうな声に、響子は笑って頷いた。
「春雄さんが顔の広いお人やから、そのツテもあって、ほんまに良くしてもろてます。せやけどさすがにお店では、年齢サバ読んでますけどね。…上に」
「私も!」
 と円加が声を上げる。キャバレー『イギリス』では年齢を二十歳だと偽っているが、今年でまだ十九歳である。
「私は向こうで、二十歳のマリーでやってます。響子さんは?」
「私も二十歳です。名前は…、え、何で外人なの?」
 思わずそう聞いた響子の表情が可愛らしく、他三人は一斉に笑い声を響かせた。
「ちなみに、何の資格をお取りになるの?」
 と千代乃が尋ねた。
「保母さんになろう思って」
 照れながら答える響子に千代乃と円加は歓声を上げ、似合う!可愛い!と口々に誉めた。
「まだ十八歳ですってね。苦労なさって」
 千代乃が言うと、響子は目をぐるぐるさせて首を縦横に振り、
「毎日がこんなんです」
 と言った。千代乃と円加はそれを真似て大笑いし、友穂はまたもや零れそうになる涙を、指でそっとすくい取った。
 そうこうするうち、円加の視線が友穂に釘付けされたようになった。響子や千代乃と話をしながらちらちらと友穂を窺っていたのだが、彼女の仕草や表情に吸い寄せられて、そのまま目が離せなくなってしまった。
「私、自分より綺麗な人初めて見たかもしれない」
 円加ははっきりとそう言った。千代乃と響子は口元を手で覆って大笑いし、友穂は困ったようにその様子を見つめた。
「や、まあ、自分うんぬんは冗談やけど、友穂さんホンマに素敵」
「なんの嫌味よ!恥ずかしいわ!」
 褒め称える円加の言葉に、友穂は思わず悲鳴に近い声で嘆く。
「ほんまです!ウソやないわ。なんや、とても美しいわ。私も姉さんて呼んでいいかしら」
「ダメです。そんな年上扱いせんとってよ、もう」
「じゃあ、『イギリス』に来てもらえませんか?」
「えー!」
 どこまで本気にしてよいか分からない円加の口調に、さしもの友穂も仰け反って音を上げたが、苦笑を浮かべたままこう切り返した。
「ああ、じゃあ、どうしようか。二十二歳、キャサリンでどうかな」
「誰や!」
 絶妙な友穂の返しと響子の突っ込みに、千代乃も円加もこの日一番の高らかな笑い声を上げた。その楽し気な声は、外で煙草と酒を味わっていた男達の耳にも届いた。
 やがて円加は女性としての友穂の魅力について熱弁を振るい始め、
「勝てるとしたら、もう、身長だけやわ」
 と言い出す始末だった。それを聞いた響子はケラケラと屈託なく笑い、その無邪気さに千代乃は思わず苦笑する。
 ちなみに当時の背丈の順番は、高い順に円加、千代乃、響子、友穂である。円加の身長は百六十五センチ程だが、友穂の身長が百五十五センチあるかないかで、その差は十センチもあった。友穂は眉をハの字にして笑い、
「まだ伸びてるもん。来年は分からんよ、それは」
 と言った。そう言われた円加は正直、嬉しかった。今日出会ったばかりの友穂に、もう来年の話をされたのだ。これが最後ではない、友達になろうよ、そう言われた気がしたのだ。
「あははは、えげつなー。もう、完敗やわー」
 円加はそう言って笑い、それ以降友穂に対して張り合う事をやめた。
 二人のやりとりを見ながら、千代乃も自然と理解してた。友穂も響子も、女として自分達の敵になる人間ではない。そして敵に回しても、勝てはしないのだと。
 だがそれは、友穂も響子も同じ様に感じている事だった。本当ならば二人は、千代乃や円加のようにありたかったのだ。
 年を経て付き合いを重ねるうちに、千代乃と円加がただ楽しく生きて来ただけの人間でない事は、やがては理解するようになる。ただこの日、初めて会った千代乃と円加を前に、友穂と響子は心から二人を羨んだ。
 千代乃と円加の顔は似ていない。しかし、美人である事を覗いて共通点が一つだけあると、友穂は気が付いていた。二人が明るい声を上げて笑うと、目が細くすぼまり一本の力強い線になって見えるのだ。それは抱きしめたくなる笑顔でもあり、幸せを運んで来る女の顔に見えた。
 愛する男の側には、この人達のような女性こそが相応しい。重い不幸を撒き散らして生きている女など、必要ない。そう思ったのだ。
 千代乃が真顔で話題を振る。
 それに対して円加が風変わりな意見を口にする。
 響子が愛くるしい感想で疑問を投げかける。
 そして友穂が冷静に突っ込むと、四人は明るい笑い声を響かせるのだ。
 やがて死ぬまで続く女たちの友情物語、その産声が聞こえた夜だった。


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