風の街エレジー

新開 水留

文字の大きさ
上 下
22 / 51

21 「夜撫」

しおりを挟む
 もしも竜雄や、春雄や、それこそ和明などが今の自分達を見れば、どれだけ嫌味の篭った口調で揶揄われるだろうと思うと、それだけで銀一は気が気でなかった。具体的なセリフまで簡単に予想出来る。『呑気なものよのー』『お前ほんま、勢いだけで生きてんのか』『ブチ殺したらあ言うて息巻いとったんはどなたさんでしたあ?』。皺を寄せた眉間に、明らかな冷やかしを浮かべてそう罵られる事は火を見るよりも明らかだ。そして実際の所、今こうしている間にも友穂の身に何が起こるか分からないというのが、直面している現実のはずだった。呑気であり、勢いだけだと言われても否定のしようがない。
 だが銀一は今、友穂が丸型テーブルの上におずおずと並べる料理から目が離せず、音を立てて生唾を飲み込んだ。
 銀一はパンツの上にズボンこそ履いているものの、上は肌着一枚だ。対する友穂はしっかりとスカートを履き、肌着の上にボタンシャツ、その上にニットセーターまで着込み、決してだらしなく気崩したままではいない。銀一がこれまで寝て来た女は、そういう意味では皆ルーズだった。セックスの後は布団で寝煙草が当たり前、散らばった服をかき集めて裸のまま立ち上がり、片足でふらつきながら下着を身に着ける姿などは決して色気のある様とは言えなかった。
 銀一はそれを悪いと感じた事もなかったが、友穂は違った。銀一だけを先に寝室から出したのだ。銀一は一瞬その意図が掴めず、隣の部屋に移ってから寝室とを隔てる襖をそっと開けてみた。すると気配を感じ取った友穂は、乱れた服装を隠すように腰を曲げて隙間から銀一を睨み上げた。ぎくりとして銀一が顎を引くと、友穂は両手の指で作った角を、頭の上に立てて見せるのだった。
 やがてきちんと身支度を済ませてから隣の部屋で待つ彼のもとへ現れた友穂は、無遠慮に自分を見つめる銀一に微笑み返すと、もうちょっと待って、と声を掛けて台所に立ったのだ。
「ええなあ…ッ!」
 小声ではあったが、思わず銀一は強くそう漏らした。一瞬は現実を忘れ去る程に、すぐそばにいる友穂の存在に感動すら覚えていた。
「残りもん、温めただけやけど」
 と言いながら、友穂は手料理をテーブルの上に並べた。
「量もないから、足らんやろうけど」
「ええよ」
「ごめんな、ご飯も一人分しか炊いてなかったから」
「構わんよ、急に来た俺が悪いんや。これ、食べてええのか?」
「え、うん、良ければ。…お腹鳴っとったもんね」
「バレてたか」
 きんぴらごぼうの入った小鉢や魚の煮付け、ほうれん草のおひたしなどが真っ赤なテーブルに並んでいる様子は、まるで料亭で出される懐石料理のようだった。一つ一つの料理は確かに少量だが、却ってその慎ましい姿が『友穂のようだ』と銀一に思わせた。
 目をキラキラさせながら大きな手で小さな皿を箸で突っつく銀一を見て、友穂は申し訳ないような気持ちになって目を逸らした。この人にはもっと大きなお皿でもっとたくさんのご飯を頬ぼって欲しい、そんな思いが彼女をいたたまれない心境にさせた。
「あ、お酒。お酒はあるよ!飲む!?」
 友穂は自分の膝を叩いて立ち上がる。すると、
「いや、酒は、やめとく」
 と、勿体ぶりながらゆっくりと料理を楽しんでいた銀一が返事をした。
「…ウソ。お酒大好きやろう?」
 中腰のまま友穂は振り返り、信じられないという顔でそう言った。
「おお。ただまあ、手当もしてもろうて、やることやって、挙句こうして飯まで食ろうて何から何まで、今更笑わせんなて話やけど、俺はお前の世話になりとうてここまで来たわけやないから」
 そう言いながら箸の止まってしまった銀一の正面に座り、友穂な真剣な目で頷いた。
「私が声かけなかったから、ずっと外におったの?」
 友穂の問いに、銀一は黙って頷いた。
「そう。ほとんど不義理にしとったもんね。今日、おかあさんに電話で嫌味言われて」
 と友穂が言うと銀一は小さく笑い、
「ここへ来るのにも苦労したわ。響子に聞いたら一発で分かったけど、俺そう言えば全然なんも聞いとらんじゃったー思うて」
「おそ」
「勘弁せえ」
「ウソや。全然連絡せんかった私が悪い。あっちで、色々ありよったんやね」
 銀一は頷いて、一瞬どこから話したものかと思案した。とても寝物語に話して聞かせるような事ではないと銀一は今まで黙っていたが、やはりこのまま伝えないわけにはいかなかった。
「お前が向こうを出る年、覚えとると思うが、平助のじいちゃん、西荻平左が殺されたじゃろう…」
 意を決して話を始めた銀一に、友穂は真剣な眼差しで耳を傾けた。



 それは初めて聞く人間にとっては陰惨とも思える殺人事件が、事の始まりだった。
 まさに怪死と呼んで差し支えない西荻平左の変わり果てた遺体には、熟練刑事の成瀬や亡くなった榮倉刑事が「心底恐ろしい」とまで口にした、犯人の悪意が怨念のように纏わりついていた。遺体発見時の状況から、住民の中には赤江に永く伝わる『投げる者』『握る者』の都市伝承を連想した者も多く、インターネットが確立されていないこの時代、人々の口伝いに広まる噂話が友穂の耳に届く頃には、ほとんと怪談話のように脚色、歪曲されていた。
 その後事件についての進捗が警察側から市民に発表される事はなく、いつしか街の人々も西荻家を揶揄する程度でしか噂話をしなくなっていった。
 友穂が赤江を出て一年が過ぎた頃、隣県に事務所を構える広域指定暴力団・四ツ谷組の大看板、『バリマツ』こと松田三郎が惨殺される。世間に広く公表されることはなく、いまだに彼が死んだ事を知らない人間も多い中、銀一はバリマツの死も西荻平左と同じく『首を絞められ』、そして『高所から投げ落とされ』ていたという怖気を震う事実を人伝に聞く事となった。
 それだけではない。時期を同じくして、長年赤江に勤務する巡査部長、今井正憲までもが同様の手口で殺された。大地主とは言え一般市民、次に大物ヤクザ、そしてついには公僕、警察官が同一犯と思われる連続殺人の犠牲者として名を連ねる事となったのだ。
 尋常ではない悪意、かつてない事態が赤江を包み込もうとしていた。
 そんな中、赤江の隣町で看板を掲げる広域指定暴力団・時和会の若頭、藤堂義右の作為によって弱みを握られた銀一達が、しぶしぶ藤堂とその舎弟・志摩太一郎に促されるまま一番目の犠牲者である西荻平左の家を訪れる。
「待って」
 と友穂が止めた。
 友穂は赤い丸型テーブルに右肘をついて、自分の額を抑えるようにして銀一の話に聞き入っていた。九月と言えど今夜は風が冷たく、少し寒い。それなのに友穂の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
「弱みって?」
 抑えた声で、友穂が尋ねた。
「揉めたんじゃ、時和の若いのと」
「喧嘩?」
「ああ」
「それがなんで弱みになるの?」
 やはり友穂も赤江の女である。喧嘩の一つや二つ、彼女も飽きる程見て来た。その程度の事で銀一達が弱みを握られる謂れが理解出来なかったのだ。
「刺したんじゃ、和明が若い衆の太腿刺して使いもんにならんようにした。竜雄は灰皿で相手の脳天カチ割った」
「やりすぎや…」
 友穂は溜息を付き、そして細めた目で銀一を見つめた。
「銀一は?」
「…ビール瓶でしばいた」
「それだけ?」
「っはは。まあ、血吹いとったけど」
「死んでない?」
「それはない。ただまあ冷静に考えたら時任建設いう会社からも、バックにおる時和会からもそれなりの落とし前要求される場面やでな。藤堂が俺ら目の前に座らせてニヤニヤしよるの見て、ゾッとしたわ」
「ほんまにもう…」
 とは言え藤堂側にも思惑があった事は、後に彼自身が語る通りである。
 かねてより西荻平左の孫である平助から父親の事で相談を受けていた竜雄の話もあって、銀一達としても様子を見に伺う程度の事は大した問題ではないと考えていた。
 所が、頭のおかしくなった幸助が小便を撒き散らしながら家から逃走し、山へ逃げた彼を追った銀一と、西荻家の使用人として住み込みで働いていた難波が何者かに襲われる。
「ほんまに亡くならはったん」
 友穂の言葉に、銀一は首を傾げた。
「ん、難波か。…ああ、俺らの目の前で逝ったわ」
「そうか。…大変やったね。実感ないから、こんな薄情な言い方しかできんけど」
「ああ」
「銀一はひと晩山で倒れてる間、何もされてないの?」
「何も盗られるようなもん持ってなかったしな。殺されんかったんはラッキー言うやつや。気ぃついたら朝やったわ」
「うん」
 殺された平左の息子である西荻幸助は、あの日から一年が過ぎようとする今もまだ見つかっていない。その幸助が逃走の際包丁で刺したという、彼の子である平助はなんとか回復し、今は普通の生活に戻っている。だが生と死の境を彷徨った挙句、入院先の病院で『何かが』起こった以上、精神的な平穏が戻ったかどうかは定かでない。その時の事を平助自身は語ろうとしないが、銀一には大体の事情は掴めていた。
「やっぱり、平助と同じように、銀一らを襲ったのって、幸助さん?」
 和明や竜雄と同じ推測をもとに、友穂は銀一に尋ねた。
 銀一は首を横に振り、
「違う」
 とだけ答えた。
「じゃあ、誰? 知らん人?」
「友穂は聞いた事ないかもわからんけど、昔からヤクザもんの世界では当たり前に語られて来た、黒誠会が絡んどるんやと思う」
「コクセイカイ…。よく『黒』とか噂されてた、あれの事?」
「そや」
「ほんまに存在するんやね。今日お母さんが電話で言うてたよ。ここ最近、見かけん連中が近所ウロウロしてるって。関係あるのかな」
「それは多分、四ツ谷組やと思う」
「ヤクザ? なんで?」
「志摩を追ってるんや」
「…ん、太一郎さんの事?」
「ああ」
 突然出た志摩太一郎の名に、友穂は右手で支えていた顔を真っすぐに起こした。友穂にとっても志摩は知らない人間ではない。自分を姉と慕う志摩響子の兄なのだ。
「また何か、問題でも起こさはった?」
 友穂の問い掛けに銀一は逡巡するように俯いたが、すぐに顔を上げて友穂を見つめた。
  その真剣な熱い眼差しを受けて、友穂はテーブルに乗せていた肘を下ろした。
「友穂」
「…はい」
「俺は、お前が好きや」
「え?」
「好きや」
「…うん。私も好きや」
「だからお前にウソはつかん。これはもう響子の耳にも入れた事やから正直に言うが、今俺が話して聞かせた一連の事件に、志摩が絡んでる」
 友穂は自分を好きだと言った銀一の突然の告白が、彼に抱かれた事と同じくらい嬉しかった。赤江を出てから過ぎ去った二年という時間を巻き戻せたかのように、友穂はずっと伝えたかったあの日の思いを銀一に話して聞かせ、そして今また、別れ際まで無言を通した銀一の口から、告白を聞く事が出来た。二度も。この上ない幸せを感じた瞬間だった。
 そんな友穂の両目から、自覚のない涙が流れた。
「…一連の事件て、何? 今銀一が話しよったんは、赤江で起こった殺人事件の話やろ。太一郎さんが、それに関係してるの?」
「そや」
 友穂は涙に気が付いて慌ててそれを拭い、何故だから分からない怒りに、銀一を睨んだ。
「犯人やとでも言うの?」
「そうかもしれん」
「ウソよ!」
 思わず友穂は叫び返していた。何の確信もないし、志摩太一郎に対して好意的な感情があったわけでもない。何故大切な思いを言葉にした次の瞬間、警察でもない銀一がそんな訳の分からない推測を同じ口で語るのかと、友穂の女心が叫び返したのかもしれなかった。
「一個一個の話がどうつながるのか、どうつなげてええのか俺にもまだ分からん。ただ、四ツ谷組が志摩を探してるのは一年前からそうやし、それは多分バリマツ殺しに関係してるか、そう思われてるからや」
「知らん知らん、そんなん知らん」
「友穂」
「…」
「ケンジとユウジが俺達の目の前で死んだんじゃ。殺されたんじゃ。そこにいたのが志摩や」
「…」
 友穂は両手で顔を覆い、泣いた。感情と、現実と、思考が追い付かなかった。
「俺もやられた」
「…え」
 銀一の仕事は常に危険と隣り合わせの屠畜、精肉業である。暴れ狂う牛達の悲鳴、血と臭気と熱気に満ちた世界で大小様々な刃物も使えば、一撃で牛を失神たらしめるハンマーを毎日振っているのだ。昔から銀一の体には生傷が絶えず、今でもいくつか治りきらなかったそれらの跡が刻まれている。
 だから、友穂も気が付かなかった。正面から銀一の体に両腕を回せど、小柄な友穂では銀一の背中に届き切らない箇所があったのかもしれない。
 銀一が肌着を脱いで、その場で回転して友穂に背中を向けた。
「背骨の横に、縦に長い縫い傷があるやろ」
「うん」
 まだ新しく見えるその傷に、思わず友穂は指で触れた。
「刃物でいかれた」
 指先で傷を撫でながら、友穂は反対側の手で何度も涙を拭った。
「刺された場所が悪うてな。神経いかれて、しばらく体が全く動かんでよ、難儀したわ。リハビリ言うのを入院しながら頑張って、自力で起き上がるんに半年かかった。立って歩くまでにもう半年かかった。だから、ついこないだよ。まあ、もうぴんぴんしとるけど、実際医者は揃いも揃って白目剥いとったわ。えげつない回復力ですねー言うてなぁ」
「もうええよ、銀一」
 銀一の明るすぎる語り口が、友穂には耐えられなかった。
 二年前と少しも変わらぬ印象を受けた、精悍な銀一の横顔と鍛え抜かれたその肉体は、即死すらあり得たという重傷に対して必死に抗い続けた、その筆舌に尽くしがたい努力と精神力の賜物なのだ。友穂が指で触れ、感じる銀一の体温は、決して二年前と変わらない地続きの命などではない。強引に皮膚が破かれ、肉が裂かれて血を吹き、感覚を寸断されて無力だけが残り、途切れかけ、この世から消えかけた命の温もりだったのだ。
 心の底から愛おしさを感じる。孤独を好んで生きてきた自分の中から女心を引き出してくれた銀一の頑張りの前では、衝動的な嫉妬に価値などないと友穂は思い知った。友穂は奥歯を噛んで、手の平全体を銀一の傷に押し当てた。
「太一郎さんがやったんか」
 憎しみすら感じる友穂の低い声に、銀一は若干の焦りを滲ませ、
「そうやないけど。俺をやった犯人と一緒にその場から逃げた事を思うと、な」
 と答えた。
 友穂は涙を拭くと鼻をすすり、
「服着い、風邪ひくわ」
 と優しくそう言った。
「響子は何て?」
「うん」
 銀一は肌着を頭から被りながら、
「信じてない言うてたわ」
 と力なく答えた。
「せやろな」
「ただ、もし仮に本当にあいつが一連の事件の犯人なら、縁を切ると言うとった。春雄の手前言いたくはないやろうが、そう言いよったわ。響子も辛いと思う」
「うん。もし、もしな。もし、太一郎さんが銀一の言うように犯人なのやとしたら、理由は何?」
「分からん」
「こうなるまでの間に、太一郎さんとは全然話してない?」
「いや、色々引っ掻き回すような事やっとったわ。実際に話もした。あいつの兄貴分で藤堂いう図体のでかいヤクザがおったやろ。あいつを黒に仕立て上げようとしたり、四ツ谷に戦争仕掛けたり」
「戦争」
「志摩がバリマツ殺しに関わってるという話が出回ってしもてるからな。時和会と四ツ谷組をぶつけてなんの得があるのか分からんけど、現実問題街は今抗争の真っ最中や。もう一年近く続いてる。世間的には公表されてないけど、そのバリマツと、地元の警官やった今井という男の殺され方が同じと言うてええ程似てる以上、もしかしたらそっちにも志摩が噛んどるかもしれん。あいつは今、警察とヤクザ両方から追われとるんや」
「なんでそんな事に…」
「友穂」
 銀一が名を呼んで、正面に座る友穂の手を取った。
「はい」
「…怖がらんで聞いてくれ。二年前、お前と二人で撮ったあの写真な、俺も額に入れて飾っとったんじゃ」
「え、うん。ありがとう」
「真ん中半分で折って、お前が映ってる部分だけが見えるように置いてた」
「あはは、そんなんせんでええのに。自分の顔見るの嫌なん?」
「この間、その写真が額の中で裏返ってた」
「…え?」
「友穂の写真は毎日拝みよったから、すぐに気が付いた。額の中で俺の顔がこっちを睨んでたんじゃ。おかしいぞと思うて額から出したら、写真が半分切り取られて、お前の映った部分だけが無うなってた。持ち去られたんやと思う」
「…太一郎さんが?」
「違うと思う。あいつならお前の顔は分かるはずやから」
「ほな、誰」
「もう一人、今回の事件に絡んでる男がおるんよ。俺を刺した得体の知れん奴や。俺らは『庭師』と呼んどるが、おそらくそいつの仕業やろうと思てる」
「庭師。…私を狙っとるの?」
「そうでもあるし、違うとも言える」
「どういう意味?」
「あいつらの狙いは多分、友穂」
「うん」
「おそらく響子や。その為に、まずはこっちで仲のええお前を狙って来る可能性がある」
「……響子?」



 その時だった。
 ドンドンドン、玄関の扉を激しく殴打する音が響いた。
 友穂の顔が青冷め、小柄な体が更にぎゅっと委縮する。
 反射的に銀一は友穂の体を抱きとり、背中を玄関に向けた。
 銀一の腕の中で震える友穂の冷たい吐息が、彼の首筋にかかった。
「大丈夫や。怖がらせすぎたな、すまん。お前には指一本触れさせんから」
 銀一が友穂の耳元でささやいた。
「…うん」
 言葉にならぬ上擦った声で友穂は答え、目を閉じた。
 玄関の扉がさらに強く叩かれる。
 殴打の音に呼応するかのように、友穂の体が激しく震えた。
「隣の部屋、いこか」
 銀一が静かにそう促した時、突然叫び声が聞こえた。
 俺や、春雄や、友ちゃん大丈夫か!
 扉の向こうから聞こえた春雄の声に、銀一と友穂は顔を見合わせ、大きくため息をついた。
 友穂は目を閉じたまま、まだ震えの残る小声で呟いた。
「なんでかな、ちょっと、居留守使いたいな」
 銀一は嬉しそうに笑って、友穂を強く抱いた。
 玄関扉の向こうで一人ごちる、春雄のくぐもった声が聞こえた。
 …蹴破るか。
「今行く!」
 たまらず顔を上げて友穂が叫ぶと、銀一は再び友穂を抱き寄せ、そして口付けた。



しおりを挟む

処理中です...