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20 「銀友」
しおりを挟む昭和四十六年。東京。
夏が終わり、緩やかに秋へと移り変わる、九月。
久しぶりに聞いた母の声を耳に残したまま、藤代友穂は再び電話の受話器を持ち上げた。
壁掛け時計の針は午後九時十六分を指している。
出ないかもしれないな、そう思いながらもダイヤルを回し、呼び出し音を聞きながら気持ちを整理する。緊張などしていない筈が、不思議と眉間に皺が寄った。考え事をすると眉間に皺を作ってしまう癖があるようだと、仕事中も同僚からよく注意を受ける。力の入った眉間に右手の人差し指を当ててぐいぐいと押していると、電話が繋がった。
「はい、神波です」
「響子?」
「…友穂姉さん?」
「うん、ごめんね、遅い時間に」
「ううん、それは全然。それに、そろそろ掛かってくると思うとったんよ」
久しぶりに聞いた響子の声に懐かしさを感じる暇もなく、友穂は不安に駆られて服の襟元をぎゅっと握り締めた。
志摩響子とは友穂が赤江に暮らしていた頃からの友人関係である。年齢で言えば響子が四つ年下の為、友穂にとっては妹のような存在だった。響子がまだ義務教育も終えない年齢で、好いた男の元へ逃げたいと相談を持ち掛けた時、笑って逃走資金を握らせてやった事も大分と昔な気がする。
今はお互いが東京でそれぞれの暮らしを送っている。同じ東京とは言え広いもので、街で偶然すれ違うなどはこれまで一度もなく、赤江を出てから二年の間で顔を見ながら話をした回数は片手で足りる程度であった。友穂は響子の事が好きだ。しかし友穂の性格が、馴れ合いを拒んでいた。
「…それは、何か、悪い話をしようとしてる?」
と友穂が聞いた。
「そうなのかもしれんし、私はそうは思わんけど」
相変わらず幼さの残る声で、響子はそう答えた。
「え?」
「友穂姉さん次第ー、みとうな部分もあるもんねえ」
「私? え、響子何の話?」
「友穂姉さんがこうして普通に電話してきてくれた時点で、私にはええ話に思える。うん、簡単に言うとね」
「…何の話?」
「んー。よう分からん」
「おいー」
響子が脈絡なく話すのは悪気ではなく、昔からだ。自分よりも早くに赤江を出た響子の口調にはまだ訛りがあり、後発で東京に移った友穂はすでに標準語を話す。そんな二人の対比に、ブレないな、と思いながら友穂は苦笑し、先ほど母と電話で話した内容を響子に聞かせた。
赤江で暮らす銀一、竜雄、和明の三人がこの一か月の間消息が不明な事。街中で見知らぬ人間を見かける機会が増えた事。しかし話をしながら友穂は、順番を間違えたなと思った。先に、自分が今日職場の病院で、銀一と再会した話をするのが先だったかと、そう考えていた。その間響子は黙って耳を傾け、最後に溜息を付いた。
「春雄と一緒に暮らしてる響子なら、何か知ってるかなと思って」
「そっか、おばちゃんともう、先に話しよったんやね」
「要領を得ん話になったけどね。何が何だか分からないけど、とりあえず向こうは心配してるみたいだし、何て言ったかなぁ、竜雄の恋人さんも、気を揉んでるだろうから。…いやだから響子が、私がそろそろ電話すると思ってたのは何で?」
「電話は絶対あると思うとったよ。ただ、何で今か、そろそろかなっていうのはさ、それはさ、ほら、なんていうのかな」
「はい?」
「どちらにせよさ、それはさ、あると思うよ、そりゃ」
「響子、大丈夫?」
「あはは。こういうの、なんて言ったらいいのか分からんもの」
「こういうのって?」
「友穂姉さん、今日、銀一さんに会うとらんの?」
「え?」
会った。だが会ったと答えるより先に、怖わ、と思った。響子は昔から素直で純情な子である。年齢より幼く見えるのも彼女の人柄が大きく関係しており、人を揶揄い笑いに換えるような場面は一度として見た事がなかった。真面目で、常に一生懸命な子なのだ。思いついた事をそのまま口に出してしまう場面も多く、年頃を迎えて成長したとは言え、話にとりとめがなくなるのはその為だ。今ここへ来て、その響子が友穂に対して驚かせてやろうなどと画策しているとは考え辛く、だからこそ純粋に、怖かった。
「…なんで?」
と友穂は受話器を握りしめて聞いた。
「声低。え、何でって。会うとらんの?」
「会った」
「だから今、私に電話してくれとるんやないの?」
「え、違う。いや違わんけど、私が銀一と会うた事なんで響子は知っとるの? ほいでその事と、竜雄らがおらんようなった話は何か、関係がありよるん?」
思わず友穂の口から故郷訛りが突いて出た。
「なんで知っとる言うたって…」
言い淀む響子の背後が急に騒がしくなる。
物音が聞こえたかと思うと、響子の側へ駆け寄る足音と雑音。誰や、と声が聞こえ、響子が電話口から遠のく気配が感じられた。
「友ちゃんか?」
友穂の耳へ飛び込んできたのは、男の声だった。
「…春雄?」
「おう、久しぶりやな。取りあえずは良かった。無事なんやな?」
電話の向こうでそう言う春雄の声が、更に友穂の不安を煽った。
「無事て何、何が?」
「無事ならええわ。銀とは、会うたか?」
「会ったんは会ったけど…」
「今、家か? とりあえず、怪しい奴ウロウロしとらんか、外見てくれん?」
「え、今? 外? 何で? 何が?」
「ええから、話はちゃんとするから、急いで!」
友穂は急かされるまま立ち上がった。しかし先程母と電話で話す最中窓を開け放っていた事に気が付いて、急に怖くなった。友穂の住む部屋はアパートの二階にあり、少し肌寒いと感じる夜風がカーテンを揺らしていた。ほんのついさっき、明るい気持ちで見上げた筈の夜空が今は殊更暗く見えた。電話の脇に置いた受話器から春雄の騒がしい声が聞こえて、友穂は一旦腰を下ろした。
「うん」
「おったか!」
「まだ見てないけど」
「おい!」
友穂は四つん這いになって窓辺に近付き、指先だけでそろりと窓を半分閉めた。友穂の部屋の前は自転車とバイクの駐輪場である。普段住人以外の往来はなく、午後九時を回ったこの時間に人がいると考えただけで恐怖が弥増す。
鼻から上を覗かせて、外を見下ろした。そして友穂は全力で頭を下げた。
いた。街灯の光の輪からは逸れて立っている為顔は分からないが、男のシルエットに思えた。友穂は震えながら四つん這いで電話まで戻り、受話器を両手で握りしめた。
「いた」
「ほんまか!」
囁いた友穂の声よりも大きな春雄の叫び声に、思わず友穂はぎゅっと目を閉じた。
「びっくりさせんといてよ。…誰なん」
「男か!? どんな奴や! 友ちゃんの部屋覗き見よるんか!」
言われて友穂は答えに窮した。内心人などいるはずがないと思っていただけに、シルエットが目に飛び込んだ瞬間震え上がる程の恐怖を感じたのだ。相手の特徴など確認していない。
「見てみる」
「今から行くわ!鍵閉めて静かにしとれよ!人が来ても絶対開けんなよ!」
喚きたてる春雄の声を、友穂は既に聞いていなかった。再び四つん這いで窓枠に両手を掛けると、息を止め、両目を出して外を見下ろした。そして慌てて電話まで戻り、
「春雄!春雄!」
と押し殺した声で叫んだ。
「春雄さん!友穂姉さん!」
家を飛び出す寸前だった春雄を響子が呼び止め、荒々しい音を立てて春雄が戻って来た。
「どないした!」
「大丈夫や」
「何が!?」
「大丈夫。…あとで掛け直す」
そう言って一方的に電話を切った友穂は、逃がしてなるものかと窓辺に駆け寄った。
街灯の輪の中で、今は男の体の左半分が浮かび上がっている。友穂の部屋を見上げるでもなく、誰の物とも知れない自転車の荷台に腰掛けて、男は座っていた。
友穂が音を立てて窓を開け放った。驚いた様子で、男が顔を上げた。
「寒ないのん?」
腰に手を当てて仁王立ちする友穂は、そう言って男を見ろした。
「まぁ、上がりーよ」
疲れの滲んだ顔で静かに微笑み、友穂を見つめ上げるその男は、
「なあ、銀一」
伊澄銀一であった。
二年という歳月が長いか短いかは分からない。そして時間よりも如実に、東京と赤江といういかんともしがたい距離が銀一という存在を遠からしめていた。しかし手を伸ばさずとも触れられる場所に座っている銀一の姿を見て、友穂は懐かしさを通り越して二年前にタイムスリップしたような気持ちにさせられた。銀一は友穂の視線から照れ臭そうに顔を背け、嬉しさの隠せない表情を俯かせた。
物欲の無い友穂の部屋には家具が少ない。同僚に譲ってもらった真っ赤な丸型のテーブルも、狭い自分の部屋には小振りなサイズが丁度良いと見て、それだけの理由で使っている。そんな思い入れのないテーブルの横に想定外の男が座っている、その事が友穂にはおかしかった。飛びぬけて身長が高いわけでもないが、肉体労働で鍛えた銀一の体躯はやはり大きく、彼が隣に座ると丸型テーブルが子供の玩具に見えた。
友穂は包帯を手に戻って来ると、銀一の前に膝をついて座り、俯き加減の彼の横顔をまじまじと見つめた。夕刻見た通り、銀一の頭には乾いた血がまだ残っている。それもそのはず、車に跳ねられて救急で運び込まれたのだから、こうして普通に座っているが骨の二、三本が折れていてもなんらおかしくはないのだ。
「変わらないね」
友穂は静かにそう言った。
銀一は顔を上げて友穂をチラリと見やり、やはり照れ臭そうに俯いた。首の後ろにこびり付いている血の塊が見え、友穂は溜息を付いて包帯をテーブルに置いた。
友穂が立ち上がると、その動きを銀一は釣られるように目で追った。友穂はそんな銀一の視線を感じ取り、ふわふわとした居心地で頬を染めた。まるで自分の部屋ではないような、そんな気がした。
やがて濡らしたタオルを手に戻ってくると、友穂は何も言わずに銀一の首筋を拭いた。血の塊の下にはまだ新しい傷が見えた。友穂が一瞬下唇を噛む。
「痛い?」
「全然」
「ウソつき」
「痛ないよ」
「ほなコレは」
そう言って友穂が銀一のこめかみを押すと、銀一は眉間を曇らせて体を引いた。
「ごめん」
思わず友穂が謝ると、銀一は真顔で首を横に振って、
「痛ない」
と言った。
二人は見つめ合い、そしてしばし笑い合いうと昔を懐かしむように、笑顔のまま黙った。
あらかた見える部分の血を拭い終えると、友穂は銀一の頭に包帯を巻きながら言った。
「元気に、してた?」
「まあ、うん」
「びっくりした。突然病院に運ばれて来て、そのまま逃げて、街で会って、また逃げて」
「おう」
「今日久し振りにうちのお母さんと電話で話して。そしたら、あんた達みーんな街から消えたんだーってすっごい心配してて、私はなーんも知らないで、響子に電話したら、銀一さんと会うとらんのー? …だってさ」
「…おう」
友穂は包帯の端をテープで止め終えると、正座して銀一の横顔を見つめた。
「ほんまの事言うてみ。…元気に、しとったの?」
友穂の言葉に銀一は答えず、やがて眼を逸らすように顔を背け、そして俯いた。銀一の顔から次第に笑みが取れ、真顔になる。自然と友穂の表情も険しくなったが、彼女は銀一から目を逸らそうとはしなかった。
あぐらをかいて座っていた銀一が、右手の拳を少しだけ持ち上げて、どすんと自分の太腿に落とした。一瞬気を取られた友穂は、銀一の横顔に視線を戻して、はっとなる。
友穂は狼狽えた。昼間、路地裏へ引っ張り込まれた一瞬の出来事。それを防いでくれたように思えた銀一の怪我。電話で母から聞いた赤江の様子。春雄の慌て振り。何か良くない事が起きていると、漠然とそれだけは感じていた。しかし友穂の知る伊澄銀一はそれでも、人前で簡単に涙を流す男ではなかったのだ。
友穂は震える銀一の肩に手を伸ばした。
「色々あった」
友穂の手が触れる寸前、銀一がそう答えた。
「そうか」
「友穂」
「ん?」
「爆発しそうじゃ」
「…そうか」
友穂が銀一の肩に手を置いた。しかし銀一はその手を掴んで離し「あかん」と首を振った。
「すまん、そういう意味やない」
「そういう意味て何?」
友穂は努めて明るく笑い、膝立ちになって銀一の首に手を置いた。小柄な友穂はそうしなければ銀一の首の後ろに手が届かないのだ。
「難波が死んだ」
不意をついて出た銀一の言葉に、友穂は反射的に手を退けた。
「え?」
「ケンジも、ユウジも死んだ。ようけ人が死んだんじゃ」
友穂にとってそれは衝撃的な告白に違いなかった。しかしすぐには返す言葉が出て来なかった。
「ほんまは、全部にカタがつくまでお前に会いとうなかった。お前に会うたら俺は」
銀一はその先を言わず、友穂も彼が言わないであろう事が分かった。
友穂は銀一へと伸ばした手を引っ込めると、再び腰を下ろして俯いた。指先に残る体温を確かめるように、銀一に触れた手を反対側の手で包みながら、友穂はふっと笑った。
「よう、分からんのやけど、銀一は、精一杯やっとるんじゃない?」
友穂の優しい声と言葉に、銀一は下げた頭を、更に丸め込むように深く垂れた。
「私が知っとる銀一は、優しい男やもんね。…精一杯、やっとるんじゃない?」
おそらく顔を見なくても、銀一が泣いている事は分かる。それでも彼は涙を見られまいとしている。ならば、自分は決してその事に触れないでおこう。そんな風に冷静な判断が出来ていたにも関わらず、銀一へ掛ける言葉を口にしながら、友穂は何故だか泣けて仕方がなかった。
溢れるように頬を伝った涙の意味を、友穂自身理解出来なかった。難波やケンジ、ユウジの死が怖かったのか、只ならぬ銀一の様子に感化されたのか、理由を考える余裕もなかった。洪水のように流れ出る涙を抑える術がない中、ただ一つだけ、確かに言える事があった。
銀一を、心の底から愛おしいと思った。
「とりあえず、まあ、ゆっくり休むのがええんやない?」
友穂の声と呼応するように、銀一の握った拳が、彼の膝の上で震えていた。
「ありがたいが、今はまだ休めんよ。会うつもりはなかったがこうなったら仕方ない。安全な場所へお前を連れていく」
大きな拳で自分の目を拭い去ると、銀一ははっきりとした口調でそう言った。友穂は銀一の言葉の意味を推し量るように沈黙し、そして、
「…今から?」
と明らかに訝しむ声でそう聞き返した。
「今から」
「…今から?」
「ふふ、今からじゃ言いよろうが」
「…どこへ?」
「安全な場所じゃ」
「嫌よ、仕事あるもん」
「休め」
「無理言うなよ」
「どうせえ言うんじゃ」
「こっちの台詞よ。何から逃げるのか知らんけど、ここにおれば良いでしょうが」
「誰がじゃ」
「銀一が」
「何でじゃ」
「はああああ?」
「いや、安全な場所へ…」
「そんなもん、銀一の側が世界一安全なんと違う?」
「お前、そういう事を、ポンと、お前、…東京は怖いなぁ」
「あはは。私は何も知らされんまま連れ去ろうとするあんたが怖いわ」
と、目尻の涙を指ですくいながら微笑む友穂の仕草に見惚れながら、
「…萎えるわぁ」
と銀一は笑った。友穂はニンマリと笑みを浮かべ、そして口をすぼめた。
「ほお。…萎えたん?」
「…いや、全然」
俄然やる気の漲る表情で銀一が目を見開くと、友穂は両手を眼前にかざした。
「いやいや、ちょっと待って、こういうお笑いのノリ切っ掛けで抱かれるのは嫌かな。思い描いてたんと違う」
友穂の言葉に銀一は腹を抱えて笑った。体中の至る所が痛みで悲鳴を上げている。しかし銀一にはどうでもよかった。それ所か、友穂の側に自分はいて、大声で笑っている事が生きているという事なのだと、体の痛みが教えてくれているようにすら感じた。
笑いながら、涙が出た。友穂の口から『抱かれる』などという言葉が出るとは思ってもみなかったし、もちろん銀一はそんなつもりでここへ来たわけでもない。
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友穂は唇をぐっと噛み、銀一の頭を抱きしめた。一緒になって泣いてはいけないのだという思いが、友穂の気持ちを支えた。
「ずっと会いたかったって、今気付いた」
そう言った友穂の言葉に、銀一の体が熱くなるのが友穂にも伝わった。
「なんでかって言うと。…二年前、言えなかった事があるの」
静かに涙を堪えて泣き続ける銀一の顔を胸に抱いたまま、友穂が言った。
「銀一がずっとこのまま赤江におるつもりなら、いつか、私は帰って来ようと思う。本当はそう言いたかった」
「…」
「ただ、それは旅立つ前に言うべき言葉じゃない気がして、言い訳を用意してると思われたくなくて、言えんかった。私はずーっと自分に自信がなかったし、色々あったから、そういう気持ちを頼りに生きて行かなくても済むように、人の役に立てる仕事に就いて、一人でだって生きていける、そういう人間になりたかったんよ」
「…」
「向こうを出る日、竜雄やら、和明やら、迎えに来てくれてた響子や春雄らの言葉とか雰囲気が、なんとなく、銀一の黙りくさった顔には意味があるんやと、教えてくれてる気がした。餞別や、お弁当や、洋服やらを皆がくれる中、銀一は、小さい頃ずっと隠れて泣きよった、あの神社のお守りをくれたね。嬉しかったよ」
「…」
「一緒に、二人で写真も撮ったな。今でも写真立てに入れて持ってる。お守りも、ずっと身に着けてる」
「…」
「私は確かに街を出たかった。逃げたかった。銀一は何も言わずに送り出してくれたけど、私あの時本当は、いつか帰って来ようと思っとるって、伝えておきたかったよ。そん時はあんたと一緒にハンマー振ってもええ。今でもどっかで、それは思ってる」
「…」
友穂は銀一の頭を抱いたまま、涙を零さぬよう睨みつけるように天井を見上げた。しかし堪え切れずにぎゅっと目を閉じ、銀一を抱く両腕に力を込めた。
「銀一。私は、本当は、いつかあんたの子を産みたいと思いよった」
堰を切ったように、抑え込んでいた銀一の喉から嗚咽が零れ出た。万力のような銀一の腕に抱きしめられながら、友穂は涙を堪えて何度も頷いた。
「だから負けんな。無責任な事言いよると思われようが、あんたは負けたらいかんのよ。あんたがおったから、私は負けんかったやろ? 今は私が付いてる。だから、銀一も負けたらいかん」
「春雄、来んなあ」
布団にくるまれて、灯りを消した天井の電球を見上げながら友穂が呟いた。
友穂が起きている事に気が付いて、銀一は彼女の頭の下に腕を潜り込ませた。正直小柄な友穂には銀一の太い腕枕は高く、寝心地はあまり良くない。なるべく銀一の体に身を寄せて、横向きになるようにしてもたれかかった。
「来るんか」
と銀一が言う。
「電話、掛け直すて言うたから。えらい心配しとったもの」
「来んよ。あいつ、勘がええから」
「あはは、勘かあ。想像はされとうないなぁ」
「想像したら殺す」
「物騒やなあ。あ、…今日、なんで逃げた?」
「友穂の、喋り方が変わりよったから、びっくりして」
「ウソつき」
「…友穂は、元気にしよったか?」
銀一は自分の腕の中で頷く友穂の体温と柔らかな髪の肌触りを感じて、全身に力が漲るのが分かった。性的な衝動ではない。ガス欠だった彼の中に、燃料が満たされていくのがありありと感じ取れたのだ。
「なら、ええ」
優しく答えた銀一の声を聞いて、友穂は布団の中で仰向けに寝返り、
「ああーあ、あかん、あかんなぁ」
と言った。
「何が」
「…私は一人が好き。私の事を誰も知らない都会の森で、周りから一定の距離を置いて、社会の歯車として、飄々と風のように生きて行くのが夢やった」
「…」
「朝は、パン。午前中急がしく立ち働いて、遅めの昼食は手作りのお弁当。ほとんど残業のない病院やから定時に終わって、夕暮れの街を歩く。繁華街よりも、住宅街の方が寂しげで、好き。知らないお家の夕ご飯の匂いがふわあっと流れて来て、私は今日は何が食べたいかなあって考える。一人は良いよお。何時までに帰って、何時までに夕飯の支度して、何時までに食べないと、とか考えなくてええもの。さんまが良いかなあ、まだ少し高いかなあ、焼き魚には日本酒が良いなあ。そうやってオレンジ色の街を歩いて、ぱぱっとお買い物を済ませて、この部屋に帰ってくる」
「…」
「…うん。一人は寂しい。けど、その寂しいという気持ちが、私は、今日を生きて明日に繋がる、そういう力になってた気がするなあ。赤江の事、嫌いなようで、やっぱり好きなのもある。思い出すのは良い思い出ばっかりで、お父さんやお母さんや、ミニー、覚えてる? ミニー」
「あの、雑種やろ?」
「言い方って、大事よ」
「ごめん」
「…うん、ミニーの事や、銀一の事も思い出してたよ。そうやって、自分のこの二本の足で立って、一人っきりで生きている事の贅沢さっていうものを、味わっていたわけですよ」
「うん」
「でも、あかんわ。何か、自分の中でそういうの、終わった気がする」
「何で?」
銀一の問いかけに友穂は答えず、天井を見上げたまま黙った。
銀一は、友穂の額から鼻筋、唇から顎にかけての曲線を指でなぞりたいと思いながら、
「分かる気はする」
と言った。
「広い世界に出て、自分がどこまでやれるか試してみたい、みたいな事やろ?」
「…喧嘩の話と違うよ?」
「馬鹿にしとんのか」
「ごめん、言い方が青春漫画みたいやったから」
「すんませんなあ」
「ただ私は、休憩してただけなんかなあ。なんか、そういう風に思うんよ」
「休憩? 東京でか? それはないやろ。詳しくは分からんけど、響子からお前の仕事聞いとるよ。看護婦て実際何しよるのかあんまり想像出来んじゃったけど、手術の手助けとかしよんやろ?」
「あはは、手助けか。面白いな。ただ、んー、仕事内容は多分どこで働いても、そこまで違いはないように思う。私は多分、もといた自分の場所を遠くから眺めて、いつかそこに戻りたいと思いながら、やっぱり休憩しよったのよ。だから、一人でおりたかったん」
「分かるような、分からんような」
「ええの。私は分かってしもうたから」
「何を?」
「うん。私、やっぱり、あんたと一緒におりたいわ。だからもう、休憩は終わりにする」
今度こそ、突き上げられるような欲動で体を跳ね起こした銀一であったが、すぐ隣で横たわる友穂の泣き顔を見て、胸の締め付けられる思いがした。藤代友穂という女性が、銀一の知らないこの街で生きてきた二年という月日が、実りある幸福な時間だったかは分からない。友穂の言うように、会わなかったこの時間全部が『休憩』だったのだとしても、銀一にとって友穂は誰よりも魅力的であり、二年前よりもずっと大切な存在に違いなかった。そして、ただ休んでいただけの人間が流す涙には、銀一にはどうしても見えなかった。
「ごめん」
と友穂は謝った。
「悲しくて泣いてるわけじゃない。ただ…」
銀一は体を倒し天井を見上げると、再び友穂の頭の下に自分の腕を滑り込ませた。
そして銀一は何度も、自分に強く言い聞かせた。
この先例え何があろうと、自分の体が砕け散ろうと、友穂を守り通そう。
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