風の街エレジー

新開 水留

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19 「照葉」

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「自分が殺された日」 
 その日の事を、後に伊澄銀一はこう語る。
 そこから続く毎日は、貰い物のようでありおまけのようでもある。
 例えばそれが壮絶な大病からの生還であったり、事故などで受けた怪我からの回復といった場面で発せられた言葉であるならば、前向きな捉え方が出来なくもないだろう。心構えという観点でものを見れば、自分に与えられた時間に感謝してこの先の人生を大事に生きて行かねばならぬという、決意に似た思いが込められていると感じる事が出来る。
 しかし銀一の語る言葉の意味は、少し違う。
 当時の状況を聞けば、本当に彼は死んでいてもおかしくなった。
 ただ実を言えば、その日の銀一の記憶は曖昧な部分がとても多い。
 同じく現場に居合わせた、竜雄、和明に関してもそれは同じだそうだ。
 後々になって事の真相は解き明かされる。しかしこの時彼らの身に起きた出来事は、当事者である銀一達にしてみれば即座に理解し受け入れる事が容易な事態ではなかったのだ。
 藤堂の舎弟を名乗った男に案内されて銀一の向かった先は、使われていない廃倉庫だった。
 人目を避ける為だというのは理解出来たが、今更藤堂が自分をこんな人気のない場所に誘うだとろうかと疑う気持ちもあった。だが今回の事件に関して、分かった事があれば連絡すると聞いていた手前断る選択肢はなかった。
 以前『マルミツ自動車』という整備工場が使用していた、大型の倉庫だった。一時預りや整備待ち保管の為に大型の車を何台か並べて止めておける広い倉庫だが、会社が倒産して機材が全て運び出されてから中には何も残っていないはずだった。だだっ広い空間と高い屋根しかないその廃倉庫には、銀一達も数年前までは隠れて煙草を吸う為に侵入していた思い出がある。
 入口の前に、竜雄と和明の姿があった。銀一は内心ほっとして声を掛ける。
「お前らもか」
「おお、銀一」
「お疲れ」
 竜雄と和明が手を上げて挨拶を口にした。
 藤堂の舎弟は三人をその場に揃えると、御役御免とばかりにろくな説明もせぬままその場を後にした。去り際に一言、「中に、おりますんで」と言ったが、それが引っかかった。中に藤堂がいるなら呼んで来いよ。銀一達はそう思ったが、敢えて何も言わずに見送った。
 和明が銜えていた煙草を地面に投げ捨て、言った。
「ああいう名前もろくすっぽ分からん、印象の薄ーい輩が意外に、黒やったりするんかのー」
 竜雄は弾かれたように和明を見やり、
「お前、ろくでもないこと言うな」
 と怒った。和明は、
「びびっとるの?」
 と片眉を上げて竜雄を見返した。
「阿保言え」
 竜雄は顎をしゃくってそう言い返すが、銀一の目から見れば二人ともが普段通りではなかった。それもそのはずだ、白状はしないが自分だってびびっているのだから。
「入るか」
 と銀一が言った。
「もう一本吸わせ」
 と答えて和明が煙草を取り出した。
 銀一と竜雄は黙って一本ずつ拝借して、和明のライターで三人同時に火を付けた。
 煙を吐き出す息はどれも溜息に近く、そして無言だった。
 藤堂の舎弟を名乗る男に案内されている間銀一が感じていた通り、竜雄も和明もこの場に藤堂がいるとは考えていない様子だった。ここへ連れて来られるまでは半信半疑だったが、この廃工場を見上げてそれは確信に近い心境に様変わりした。工場の中にいるのが志摩なのか、あるいは別の人間なのかは分からない。ただ少なくとも、ここに藤堂はいないだろう。
 この場に竜雄と和明がいる事を、銀一は知らなかった。恐らく他の二人もお互いに知らなかっただろう。それでも、この場へやって来た。そんな幼馴染の横顔を見つめる銀一の頬が、少しだけ緩んだ。
「ほな、行こか」
 銀一がそう言って煙草を投げ捨てると、それより遠くに竜雄が投げ飛ばした。和明は更に遠くへ投げ飛ばし、
「っしゃ」
 と短く答えた。



 倉庫の中には誰もいなかった。
 相変わらず埃っぽいただの伽藍洞が広がっている。
 冬が近いこの時期の夕刻となれば、普段は既に明るくはない。しかしこの日の夕焼けはひと際赤く、廃倉庫の破れた天井から仄かな明かりが差し込んでいた。風に吹かれて舞い込んできた枯れ葉が赤く染まり、銀一達の足元に落ちる頃には汚れた黄土色となって、やがて地面に紛れて見えなくなった。
 人が隠れるようなスペースはない。大人の男が両手で力を籠めねば開かない鉄製の扉を開けて中に入ると、そこは反対側の壁まで遮るもがほとんどないただの大きな箱だ。あるとすれば、地面から天井近い梁まで伸びている鉄柱が数本立っているだけである。その鉄柱とて、人が一人隠れられる程幅のあるしろものではない。
 ジャリジャリと砂を踏む三人の足音だけが響く。しばらくは用心して誰も口を開かなかったが、やがて和明が大きく息を吸い込んで、
「うぉい!」
 と叫んだ。うるさ、と耳を塞いだ竜雄の横で和明は咳き込み、
「埃!」
 と相手もなく怒った。やはり何の反応もなく、誰も姿を現さない。人の影も気配すらもない。
 銀一は鼻から息を逃がし、辺りを見回した。担がれたのだろうか?
 銀一達が開けて入って来た扉が車の搬入口だとするならば、その正面に位置する壁にも小さいながら鉄製の扉があり、そこが事務所への通用口だと思われた。銀一は、整備工場だった施設の正面玄関とは反対側から入って来たのだと知り、
「ちょっと、向こう見て来るわ」
 と言った。竜雄と和明も同じく通用口を見やり、
「ああ、ほな行こか」
 と頷いた。
 通用口は既に扉が開いており、外の光が差し込んで来ていた。一旦屋外へ出なければならないようだ。
「向こうて事務所やろ。多分何もないで」
 と和明が言い、
「いや、向こうが玄関やろ、何かあるやろ」
 と、銀一が返事をした時だった。
 足音が聞こえた。
 銀一達は踏み出していた一歩を無理やり止めて、つんのめった。
 ザザ、ザザ、ザザ。普通に歩いてもそんな足音にはならない。聞こえて来る音に銀一達は身構え、通用口を睨んだ。足音はその向こう、倉庫の外から聞こえて来る。
「一人か二人やったらええなー。十人くらい来たら逃げよなー」
 声を落として和明が言った。
「お前が一番逃げへんやろ、頼むでマジで」
 何言うてるんや、という目で竜雄は和明を睨む。
「来たぞ」
 銀一が言った、次の瞬間だった。足音は不思議な歩調を変えぬまま、工場に飛び込んできた。
「は」
 と誰かが声を漏らした。
 工場内に入って来たのは、花原ユウジを肩で担いで歩く、黛ケンジだった。ユウジの左脇に体を潜り込ませ、右肩で支えて担ぐようにして歩くものの、ケンジ自身も右足を引き摺っていた。聞き慣れない足音はその為だった。
「おい!」
「ケンジ!」
 口々に叫んで駆け寄ろうとするも、二人の姿をはっきりと目で捉えた瞬間三人は立ち止まってしまった。
 暴虐の喧嘩師と謳われた、当代きっての武闘派ヤクザ二人である。しかしまるで現実味のない光景がそこにあった。花原ユウジは原型を留めない程に顔面を腫らし、意識があるのかないのかすら分からない。首筋から上半身全てが血に塗れており、明らかに自分一人では立っていられない状態だった。片やそんな相棒を支えるケンジもまた無惨である。左腕は破壊されたように力なくダラリと垂れ下がり、真新しい血がボロボロの指先から滴り落ちている。右足は膝から下が不自然に曲がり、体を支える機能を失っている。常人ならば立っていられない程の状態にありながら、ケンジはそれでも尚ユウジの体を支えて離さなかった。彼の呼吸は激しく、充血した目をひん剥き前を睨んではいるが、しかしケンジの左目は潰され塞がっていた。血の涙が、右目から流れた。
「ああ、お、あああ」
 言葉にならない声を上げ、ケンジの目が銀一達を捉えた。
「ケンジ?」
 と、恐る恐る竜雄が声を掛けると、ビクっと痙攣したようにユウジの体が跳ねた。
「ユウジ!」
 と和明が名を呼ぶと、ユウジはゴブリと血の塊を吐き出して、言った。
「疲れた…」
 銀一の全身を鳥肌が駆けた。普段全く理解出来ないユウジの言葉が、短いながらもはっきりと聞き取れた。なんという、その言葉の響きの悲しかった事か。
 ユウジの声を聞き、彼の体をギリギリの力で支えているケンジの両目から涙が溢れた。やはり、血の色をしていた。
「あかんかったわ」
 とケンジが言った。
「待て、誰にやられんじゃ!志摩か!?」
 と叫ぶように銀一が聞いた。しかしケンジは銀一を見返さず、薄れ行く意識を繋ぎ止めようと踏ん張っているように見えた。竜雄と和明が口々にケンジの名を叫ぶ。しかし、足枷を嵌められたように、誰もケンジ達には近づけなかった。
「ユウジ、今、逝きよったわ」
 と、消え入りそうな声でケンジは言う。
「阿保言え!病院連れてこ!な!」
 和明は言い、工場を出ようと踵を返しかける。
「あかん、あかん。分かるねん」
 ケンジはそう答え、ついにユウジの体を手放した。どさりと音を立ててユウジの体が砂埃と共に横たわる。
「おい!」
 怒りでも驚きでもない声を、銀一は上げる。
 ケンジは両腕をだらしなく下げたまま天井を仰ぎ見て、鼻から細く長く息を吸った。
「煙草、吸いたいなぁ」
「おお、持ってるぞ、吸うか、火点けたろか!」
 和明が上着の内ポケットから煙草を取り出す。
「ええわ。俺だけ、吸いとおない」
 ケンジは答え、ゆっくりと銀一達を見やった。
「…任せたで。…仇、取ったってくれよ」
 とケンジは言った。
「阿保言うな!体治してお前が取るんや!せやろ!」
 竜雄が叫ぶと、ケンジは微笑んで頭を振った。小さく僅かな動きでしかなかった。
「ユウジを一人には、でけん。もう、俺らは、離ればなれには、なったらあかんのよ」
 ケンジの言った言葉の意味が恐ろしくて、和明も竜雄も子供のように頭を振った。
「アカン!」
「死んだらあかんぞケンジ、こっち来い! 病院行こ。頼む!俺らと一緒に生きよう!」
 竜雄の言葉にケンジは大粒の涙を零し、
「竜雄君、和明君、銀一君、そういうんは、もっと早うに、ユウジにも言うてやって欲しかったのう。俺は、あんたらがおる、この街におれて、幸せやったと思うんじゃ」
 と、切れ切れにそう言った。言いながらケンジの右腕がゆっくりと背中に周り、そしてナイフを握りしめて戻って来た。
「ケンジやめろ!」
 竜雄と和明、どちらかがそう叫ぶ。
「ああああ、はあああ」
 喉を鳴らしてケンジは息を吸い込み、天井を見上げた。首筋にナイフをあてがう。
「血に塗れたクソみたいな人生やったけどよう、これはこれで…。お前ら絶対仇取ってくれぇ!ユウジ!今からそっち行くから待っとれよぉ!うわあああああ!」
 最後の絶叫を上げるケンジの首筋で、ナイフが横にスライドする。
 口々に名を呼ぶ声。
 鮮血が飛沫となって一瞬舞い上がり、そして滝の如くケンジの体を流れ伝った。
 すーっとケンジの背後から手が伸びて、ナイフを握る彼の拳を上から包み込んだ。
 今まさに事切れんとするケンジの顔の後ろから、もう一つ顔が覗き見えた。
 その顔が、ケンジの耳元に囁きかけた。
「お涙頂戴はあかん、よう見てられんのう」
「志ィィィィィ摩ァァァァァ!!」
 誰とは言わず全員がそう叫んだ。ケンジの背後から顔を覗かせたその白い顔は、いつの間にかケンジの真後ろまで忍び寄り、まるで黒子のようにピタリと体を重ねて立っていた。今見れば、志摩がケンジの首をナイフで掻き切ったように思えなくもない。
「そういうガキ臭い無駄な感情の昂りが、お前らの弱さであり、敗因でしたと、日記にそう書いとけ。あ、お前らはもう無理やから俺が書いといたるわな」
 この場にそぐわぬ飄々とした口調で志摩はそう言い、銀一を見つめた。
 そこまでだった。
 この日の銀一の記憶はここで途切れる。
 ト。
 と背中に何かが触れた感触があり、そのまま銀一の体は前のめりに倒れた。
 砂利と埃と雑草が口に入り、視界を覆った。銀一は自分の体を跨いだ黒い革靴を見たように思うが、それも定かではない。
 そしてそのまま、意識を失った。



 そこから先は銀一自身の記憶ではなく、後に彼が聞いた話である。
 銀一はあの日、刃物で背中のど真ん中を刺されて昏倒した。背後から誰かが忍び寄っていたことは、銀一はおろか誰も気が付かなかった。
 銀一を刺したのは背の高い男性で、全身が黒い衣装に覆われていた事は誰もが覚えているが、肝心の正体については誰にも分からなかった。顔を見ている筈だがほとんど印象になく、庭師かと聞かれればそうかもしれないし、違うかもしれないという曖昧な記憶しか残らなかったという。複数の人間が同時に目撃していたにも関わらずだ。
 実の所、竜雄も和明もそれどころではなかった。相手の顔を確認して犯人を特定、又は手掛かりを得るという、当たり前に出来そうな事がその場では至極困難だった。
 銀一が声も上げずに倒れ伏せた時、竜雄らは銀一が死んだと思ったそうだ。突然どこからともなく現れた、立体的な影を思わせる黒い男と志摩という二人を相手に竜雄と和明の取った咄嗟の行動は、銀一の体に覆い被さる事だった。
 和明は、腹部を切り裂かれ内臓の飛び出した難波の死体を見ている。竜雄も今また、人相が変るほど殴られたユウジの顔や、ズタズタに引き裂かれたケンジの腕や潰された右目を目の当たりにしている。竜雄も和明も、迫り来る二人を相手に受けて立つ心構えが出来なかった。その時はただ、銀一の体にこれ以上危害が加えられぬよう、守る事しか思いつかなったという。
 結果的にはこの時の二人の行動が、銀一の命を繋いだと言える。誰もが凄惨な死に際を迎えた。その中で銀一が唯一生還出来たのは、致命傷を与えられながらもトドメを刺させなかった竜雄と和明の身を挺した行動が故であった。
 その分、全く身動きの出来ない二人は殴る蹴るの暴行を受け続けた。これについては意見が分かれる。本来志摩やもう一人の男に殺意があったなら、瞬く間に竜雄と和明を死に至らしめる事が可能だったのだ。その時志摩達が楽しんでいたかどうかは分からない。しかし彼らに殺す気はなく、竜雄らの命を弄んでいるように感じられた。後々までこの時の屈辱を、竜雄と和明は忘れ去る事が出来なかった。
 その一方で、あと数分藤堂義右と伊澄翔吉が駆け付けるのが遅ければ、あるいは殺されていただろうという見方もあった。
 偶然その日、廃倉庫のある『マルミツ自動車』跡地の側を通りかかった男がいた。藤堂の待つ時和会事務所へ、歩いて向かう途中だったというその男は実は覚醒剤の運び屋で、賭場が開かれる前日になると藤堂の元へ届けるのが仕事だった。警察や強奪目的の輩の目を欺く為、その男は常に何パターンもの経路と移動手段を用いて藤堂の元へ向かうのだが、この日『マルミツ自動車』跡地の側を歩いて通る事はただの偶然にすぎなかった。
 本来運び屋の通過する筈だった元々のルート上で、血まみれのヤクザを見かけて瞬間的に踵を返したそうだ。今厄介事に巻き込まれるわけにはいかないという嗅覚を働かせた判断だったが、状況から見て運び屋の目撃した血まみれのヤクザは、ケンジとユウジであろう。
 そして別ルートを経由していた薬の運び屋は、『マルミツ自動車』跡地横の路上で断末魔のような男の声を耳にし、怖くなって一目散に時和会へと駆けた。
 結果、意図せずしてケンジとユウジは銀一達の命を助けていた事になる。
 無事藤堂本人に品物を納品した運び屋は、今しがた体験したヤクザの抗争と思しき話を面白おかしく聞かせてみせた。世間の関心は今、時和会と四ツ谷組の抗争に集まっている。関連話としても、仕事中のエピソードトークとしても旬の筈で、面白可笑しく会話に華が咲くと思われた。
 しかし運び屋は藤堂に首を締めあげられ、「場所を言え、それはどこの現場じゃ」と凄まれた。
 『マルミツ自動社』の跡地は、銀一達の勤務する『林原商店』からそう遠くない場所にあり、藤堂から連絡を受けた翔吉と、先に事務所を飛び出した藤堂はほぼ同時に廃倉庫へと辿り着いた。
 その時藤堂と翔吉が見たものは、竜雄の背中に刃を垂直に滑らせ、文字を書くように斬り付けている、そのナイフの煌めきだったという。
 志摩の姿を見つけた瞬間、藤堂は狂ったように、言葉にならぬ咆哮を上げた。
 翔吉が無言のまま駆け寄ると、志摩と黒い人影はぱっと竜雄達から離れ、物凄いスピードで通用口から飛び出して行ったそうだ。
 後から現れた藤堂と翔吉を新手の敵だと思ったのだろう。和明は銀一の体を掻き抱きながら絶叫し、竜雄はボロボロの体で立ち上がってファイティングポーズを取った。しかしそのまま、意識を失って倒れたそうだ。
 銀一と同時に病院へと運ばれた竜雄と和明は、重度の打撲と刃物による裂傷を複数個所に負い即座に入院と判断された。しかし二人は翌日目を覚ますと銀一のいる集中治療室へと駆け付けた。顔を見る事も声を掛けることもできず、それでも二人は治療室の側を離れようとしなかった。後に銀一が父である翔吉から聞いた話では、竜雄も和明も本来歩ける状態ではなく、診察した医者に言わせれば自動車事故に近い程の重症で、「車に跳ねられでもしなければここまで酷い打撲にはなり得ない」と語ったそうだ。高熱による全身の震えと筋肉の痙攣に見舞われながらも、竜雄と和明は一言も弱音を吐かず、祈るようにして銀一の側に居座り続けた。
 翔吉からの連絡を受けて東京から春雄が戻って来た。深夜遅くになって到着した春雄は、その時間になってもまだ銀一の手術が終わっていない事と予断の許されない状況を翔吉から聞き、藤堂からはケンジとユウジの死を聞かされ、病院の廊下で泣き崩れた。竜雄と和明が二人して春雄を抱きしめて、「すまん、すまん」と何度も謝りながら一緒になって泣いた。
 銀一はなんとか一命を取り留めた。しかし銀一の背中を刺したナイフは神経を傷つけており、手術が終わった後も、首から下を動かす事が出来なくなっていた。

 

 銀一が目を開けた時、足元には竜雄と和明が立っていた。手術が終わった日から三日目の夕刻だった。
 銀一はこの時既に医者から、体が動かせない事を聞いていた。それでも眠りから覚める度に、言う事を聞かない自分の体に戸惑い、首から上しか存在しない生首になってしまったのではないかと怖くて仕方がなかった。
 病院に運ばれてから、竜雄達の姿を見るのはこれが初めてだった。竜雄と和明も同じ病院に入院しており、今も立っているのがやっとながら、二人は努めて明るい顔で笑った。
「お目覚めかい。もう夕方やぞ」
 と竜雄が言った。
「体、動かんのんじゃ」
 と答えた銀一の声は、痰が絡んでガラガラだった。
「すぐ良うなるよ、手術、成功したらしいから」
 と和明は軽い口調でそう言った。ウソではなかった。手術は成功し、損傷した神経も回復の見込みは十分あるとの事だった。しかしそれは本人のリハビリに対する努力次第であり、『すぐに良くなる』というワケではなかった。元通りの生活に戻るまでにかかる日数は、医者の診断では三年と言われていた。そして元には戻らない可能性も、ゼロではなかった。
「今朝まで、春雄が戻って来てたんやけどな。こないだ帰って来たばっかりやろ。もうええわて、追い返したわ」
 苦笑しながら竜雄は言い、銀一は頷き返した。しかし自分がちゃんと頷けていたのかも、自信がなかった。
「ケンジらは…、やっぱアカンかった」
 そう言った竜雄の目から大粒の涙が流れた。隣では和明が俯き、歯を食いしばっていた。
「すまんかった銀一。…すまん」
 竜雄はそう言って泣き、頭を下げた。
「阿保言えや。俺が生きとるのは、お前らがかばってくれたからやて、昨日父ちゃん言うてたわ。もう泣くな。こんなもんすぐ治る。おい、聞いてんのか。…なあ、頼みあるんや」
 銀一の言葉に、竜雄と和明が顔を上げた。
「煙草吸わしてくれ」
 病室の窓を全開にし、銀一の口に煙草を銜えさせて三人で火を付けた。
 倫理的な問題ではない。大手術を終えて三日しか経過しておらず、背中の神経を損傷した銀一の体は呼吸器系、内臓も含めてかなり衰弱しており、咽るなどの生理的な反応に対し自発的な防衛行動(寝返る、体を抱え込む、身をよじるなど)を取れない状況での喫煙は、ほとんど自殺行為だった。
 三人は駆け付けた医者に死ぬ程怒られた。しかし、生きている事が死ぬ程嬉しかった。



 銀一が入院して一週間程経った頃に、成瀬が見舞いに訪れた。たった一度っきりであったが、銀一はその日の出来事をずっと覚えているとう。ベッドの上で目を覚ました銀一は、自分が今どこにいるのか前後不覚に陥り、体が動かない事も相まって、耐えがたい程の恐怖に襲われた。ふと視線を動かすとベッド脇の暗がりに人影が座っており、思わず絶叫しかけた程だった。
 だがその人影が成瀬刑事だと分かると、不思議と恐怖と焦りが波のようにすうっと引いて行くのを感じた。
「目ェ、覚ましたんか?」
 と言った成瀬の声はとても優しく、初めて聞く人間の声に思えた。
 体の動かない銀一は、視線だけを成瀬に向けた。
「うん、うん」
 と言って成瀬は頷き、人の好い老人さながら目を細くして笑った。
「よお、生きとってくれたの」
 と成瀬は言い、銀一の反応などお構いなしに話を始めた。
「西荻の平助な、良うなったぞ。こないだ退院していきおった。お前の事も心配しとってな、うん。ワシ、その平助にえらい怒られてなあ、うん。…ワシは赤江の人間が嫌いやから、ついついお前らにもそういう態度で物を言うてまうんやが、平助は涙ながらに、銀一らを悪しざまに言うような人間に限って、ろくでもない生き方しかしてこんかったんじゃ、真っ直ぐに物が見えてない証拠じゃ、言うて、きっつう怒られたわ。誰に言いよんじゃクソガキがあ言うてしばきよったけど、まあ、あいつが正しいわ」
 銀一は成瀬が何の話をしているのかさっぱり分からなかったのだが、かつてない程穏やかな成瀬の語り口は、いつまでも聞いていたくなるほど慈愛に満ちた安心感を滲ませていた。
「…すまんかったの、銀一」
 そう言うと成瀬はハンチングを自ら取り、座ったままではあったが、確かに頭を下げた。そして、
「安心せえ」
 と言って顔を上げたその表情は、いつもの成瀬に戻っていた。犯罪者に対して容赦がなく、常軌を逸するとまで言われた執着心で犯人を追う、老刑事の眼力が戻っていた。
「必ず、ワシが犯人を追い詰めちゃる」
 念仏を唱えるが如く低く、銀一よりも自分自身に向かって言い聞かせているような声だった。
 成瀬はパンと音を立てて自分の首を叩いた。
「例えこの老いぼれ、生首一つになったとしても、必ずや喰らいついて犯人を上げてみせる。それで許してくれや。のう、銀一」
 成瀬は最後にもう一度優しく微笑むと、挨拶もせずに病室を出て行った。
 いつの間にか銀一は眠ってしまい、翌日になって成瀬の来訪が夢ではなかった事を看護婦から聞いた。そしてその日、銀一は病室に訪れた藤堂から、成瀬にまつわる思い出話を聞いた。
 成瀬はまだ二十代の頃に妻と子供を亡くしているそうだ。既に刑事職についていた成瀬はその日、仕事を終えて自宅に戻ると、強姦されて殺された妻の傍らで、今まさに首を絞められている娘と犯人を見た。成瀬はその場で犯人を包丁で刺し殺した。犯人は赤江出身のヤクザで、買い物に出ていた成瀬の妻を尾行し、自宅に侵入して計画的な犯行に及んだという見立てがなされた。成瀬の妻が立ち寄った八百屋の店番が、犯人の顔を同じ時間帯に店の側で目撃していた事を証言し、それが単なる空き巣ではない事の裏付けとされた。夫である成瀬の職務が警察官であり怨恨の線も疑われたが、通報があった時点で成瀬が犯人を刺し殺しており、捜査はうやむやになった。現場の状況を鑑みて正当防衛であると判断されたが、成瀬自身はどうでもよかったそうだ。その時点では己の中の正義は失われており、ただ犯人を殺したかった。それしか考えていたかったと、後に成瀬は藤堂に語った。
 成瀬が赤江の人間と犯罪者を憎む気持ちには、そのような重く苦しい過去が関係している。
 ただ、と藤堂は付け加える。
 これは成瀬自身が自覚している事だが、成瀬の刑事としての根幹に正義感はない。犯罪者を憎み、悪として裁きたいわけではない。妻子を救えなかった自分に対する罰であり、全ての犯罪者への個人的な復讐で生きている。だからこそ己の体を燃やすが如く執念を抱き、そこには常識も忖度も一切通用しないのだ。
 だが藤堂は、こうも言った。
 成瀬という男は、本当は優しい男なのだと。



 術後の経過を見ながら少しずつリハビリを始め、三か月が過ぎ、半年経ってようやく自力で起き上がれるまでに回復した。
 銀一が自らの足で立って歩く事が出来るようになったのは、彼が背中を刺されて意識を失った日から、一年近くが経過した頃だった。それでも医者に言わせれば、その回復力は驚異的だった。順当に行って三年、あるいは一生寝たきりになったとしてもおかしくない程の重傷だったのだ。
 銀一がベッドから立ち上がって両腕を広げて見せた時、医者も看護婦も感動のあまり拍手をしながら泣いたとの事だった。







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