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18 「増飽」
しおりを挟む「それは、春雄の勤めてる造船会社の事言うてるんか?」
銀一の問いかけに、ケンジはかぶりを振った。
「知らんよ。ただ船作る言うたらそれ以外思いつかんし、まあ、おちょくりがてら春雄君の顔でも見よるかて、その程度。でも春雄君は別に怪しい奴見てない言うてたわ。そらお前なんぼ平和ボケした狂犬・神波春雄でも、東京で志摩やらバリマツやら見たらぎょっとするで、言わずにはおれんと思うよ。せやし、ウソは言うてない思うで」
ケンジの話を黙って聞いていた和明が、口を開いた。
「てことはバリマツ、東京で殺されたんか。てっきりこっちでの話やと思うてた」
ケンジとユウジが眉間に皺を刻んだ顔を見合わせ、首を傾げた。
「ややこしいのはな」
と藤堂が言う。
「行方不明になってたバリマツが遺体で発見された時、普通は『東京で何かあった、東京で抗争に巻き込まれたか、現地の輩に襲われたか』、そういう発想になりよるのが筋や。所が向こうで、志摩の姿を見たっちゅう目撃証言が出たんや」
「え」
銀一達は顔を見合わせて、言葉を失った。状況が、嫌でも志摩を『黒』へと追い立てて行く気配を感じていた。藤堂が続ける。
「本来人探し程度の仕事ならケンジかユウジどちらか片方でええ。こいつら最近調子こいとるで、えらい法外な依頼料ふんだくってきよるでな。ただ志摩の姿が東京で目撃されたせいで、別の人間追わすにしても結局二人ともが東京行きや。しかも厄介な事にその目撃情報のおかげで、うちの方へ確認の為に使い回しみとうなガキがやって来た」
「四ツ谷組から?」
と和明。
「そうや。電話やのうて本家の方へ直接に見に来よった。今ちょっとおりませんと追い返そうとしたが、ほなお見えになるまで待たせてもらいますと来た。こっちは焦ったわ。どこ探しても志摩はおらんし、東京で目撃された言う話かて四ツ谷の策略かもしれんとは思いながらも、こらひょっとしてっちゅう疑いも消えん。ケンジらもよう見つけんとほざきよるし、どないせえ言うんじゃ、ほんま」
藤堂は今思い出しても腹が立つのだろう。苛立ちを隠さぬ口調でそう言い、手当たり次第にテーブルのグラスを掴んで酒を飲み干した。
竜雄が言う。
「志摩は、バリマツを殺すつもりで東京へ追いかけて行った、そういう事でええんか」
「そういう疑いを、四ツ谷どころか身内の人間まで抱いてるっちゅう話やんけ。ただ、そうは言うても帰って来た志摩の首根っこ引っ掴んで四ツ谷に突き出すわけにはいかんやろ。仮に先走ってバリマツを殺ったとしても、それはあいつなりに組の事を思ってしでかしたんかもしれん。組のもんにしてみたら考えられる理由はそれしかないし、こういうケースやと組内は大体賛否両論に分かれるが、それでも身内を売るような真似はせん」
藤堂が答えると、竜雄は俯いて大きなため息を吐き出した。事実関係がどうであれ、言葉の返しようがなかった。
「俺は志摩を側に置いて、好き勝手に動かさんようにしとったんやけどな。今度は間を置かずに警官殺しや。何やら一年前の事件と関係がありそうやと西荻の家に目を付けたのはええが、…その件に関して志摩を動かすのは、どうにも上手くない気がしてな」
銀一達は頷いた。
ここまで聞けば、納得のいく話であった。
竜雄がずっと引っかかっていた、何故藤堂が自分達を利用したのかという理由も明白だった。自分達を利用したかったのではなく、志摩を自由にさせたくなかったのだ。所が、
「え、待って。お前らさっきから何の話しよるん。まさかお前、志摩が黒の巣や言うて、そういう疑いで話進めとんのか?」
意外にもここへ来てそんな言葉を口にしたのは、ケンジだった。
「ほなら何かい、三年前俺とユウジがやられた相手が、志摩やて言うつもりか? 待て待て、笑わせんなて。なんぼなんでも俺らあんなもんにやられはせんて。つうか待てや、ほな藤堂さんはアレか。志摩が怪しいと分かっていながらこないだ、俺とユウジをあいつにぶつけたんかい。いけ好かん言うた理由はなんやってん、おいおいおい、待て待て待て」
「どこへも行かんがな」
矢継ぎ早に言葉を繋ぐケンジに思わず藤堂は吹き出し、
「お前らの実力は俺が一番分かってる。せやし、お前らに負けるようなら志摩が黒である可能性は低いっちゅう算段もあった。実際、簡単やったて言うてたがな」
と答えた。
「おいおいおい、まじかいや」
ケンジは信じられないという顔で額に手を置き、隣のユウジを見やった。ユウジもまるで思い至らなかったいう顔で、首を振った。
二人を横目に見ながら、銀一達に向かって藤堂が言った。
「お前らも気つけよ。志摩はともかく、いつ四ツ谷が絡んで来るか分からんでな。今四ツ谷とうちが揉めとるんわ、その志摩の件があったからやし、なんかあったらいつでも言うて来いや」
竜雄はソファに座ったまま身を乗り出した。
「それはおかしないか? 俺が銀一から聞いた話と違うな。俺はこいつから、志摩はあんたの為に四ツ谷と揉めてる言うてたらしいぞ?」
「どういう意味や」
藤堂は竜雄ではなく、銀一を睨んだ。
「四ツ谷に対して、バリマツを殺ったのは黒かもしれんとはよう言わんから、藤堂さんが殺った可能性もある言うて向こうの人間に匂わせたんやと言うてた。藤堂さんの代わりに四ツ谷の面倒見たってるんじゃいうて、得意そうに言いよったけど」
銀一の言葉に、黙って聞いていたケンジとユウジが笑い声を上げた。
「こらあ、完全に飼い犬に手噛まれてるわ」
とケンジが言う。
「銀一君、竜雄君、それはないわ。そっちの話の方がおかしいわ。笑うで、藤堂さんな、ついこないだまで盲腸切って入院しとってん。和明君が時任建設の何人か刺したァ言う日があれやろ、ささやかな快気祝いやったらしいやんけ。そんなもんバリマツなんか、とてもやないけど殺れるわけないで。てか、今でもまだ本調子やないのに」
「チッ」
と藤堂は舌打ちして、テーブルに置かれた何が入っているか分からない誰かの酒を一気に飲み干した。尚もケンジが言う。
「その程度の事は四ツ谷の人間かて分かっとる。今更藤堂さんが殺した可能性チラつかせた所で誰も信じんよ。あいつらが今志摩を追い回しよるんは、少なくとも藤堂さんの代わりやない。あいつ自身が狙われとるんよ」
銀一は驚いた顔で藤堂を見やったが、すぐに深刻な表情を浮かべてケンジを睨んだ。
「笑い事と違うやろ。そしたらお前、バリマツを東京で殺ったんは誰やてはっきり名前言うてみい。同じ殺され方をした今井言う名前の警官殺したん誰なんか言うてみい。お前それでも笑ろてられるけ?」
「いや、…そない言うたかて…、あいつには無理やろう。志摩には」
銀一の気迫に気圧されたようにケンジは口ごもり、
「ほんまか」
と言った銀一の声に、ついにはケンジは押し黙ってしまう。
「あいしゅ、…強いしょ…」
ユウジがそう言った。『死体置き場』にて志摩をぶっ倒したユウジのドロップキックは、ケンジを救う為の条件反射だったという。事前の打ち合わせでは志摩の相手をするのはケンジ一人と決まっており、ユウジは手を出す予定ではなかった。ユウジの目から見て、ケンジと志摩の強さは互角であり、勝敗はどちらに転んでもおかしくなったそうだ。
竜雄が口を開いた。
「ただ、志摩の事もそうやけど、もう一つややこしいのはさっきケンジも言うてたけど、おかしな動きしとるんは実は二人おるんやないかという事なんや。おそらくやけど、昨日殺された榮倉いう刑事から聞いた話では、その時代によって仕事しよる『黒』の頭数は多くはないらしいから、昔藤堂さんをひっくり返した男と、志摩が、そういう人間なのかもしれんと俺は思うとる。成瀬さんから、そういう話は聞いてないんか?」
竜雄の視線を受けて。藤堂は苦々しい顔で眉間に皺をよせ、低く唸り声を上げた。まさか若い素人衆相手にここまで込み入った内情を話して聞かせる事になるとは、藤堂にも予想出来ていなかったのだ。
「事の発端が西荻平左殺害から始まっとるなら、確かに志摩一人の犯行とは考え難いな。仮にバリマツ殺しが志摩の手柄やとしても、少なくとも今井という警官殺しの方は違う。ただその、榮倉たらいう刑事を殺したのが志摩かもしれんという話なら、分からんとしか言えん。恥ずかしい話やが、志摩と最後に会うたんはお前らが最後なんや。ケンジらにのされて以来事務所には顔出しとらんし、あいつが借りてるアパートにもおらんようや」
藤堂が言い終える前に、銀一が聞いた。
「なあ。藤堂さん。今まで聞いた話を考えると、確かに志摩は怪しい。それは、今日この話を聞く前から俺達も思ってた事や。ただな、俺らもあんたらも、あいつの事はガキの頃から知ってるよな。仲がええかて言われたら分からんけど、同じこの街の出身である事は間違いないし、他所から来た素性の知れん殺し屋とかそんな絵空事の話やない。実際のとこあんたは何で、志摩が『黒』やと疑ってたんや? 血の気の多い、ふらふらした、ただの阿呆なんかもしれんよな。もしかしたら人を殺してるんかもしれん。けど『黒』ではないかもしれんよな?」
藤堂は、志摩が『黒』であって欲しくないと願う銀一の言葉を噛締めるようにして聞き、頷いた。
「俺かて、面倒見て来た立場から言えば、お前の言う通りやと言いたいがな」
そう答える藤堂に、察しの良い銀一を始め、ケンジやユウジまでもが驚きの入り混じった落胆の色を浮かばせた。
藤堂はそこにいる筈のない志摩を見つめるような、遠い眼差しを浮かべて言った。
「ここまで条件を揃えて、実は志摩は黒の巣やありませんでしたと、そういう結果になるもんならなってほしいわ。ただ、俺かて遊んでたわけやない。色々と調べに調べて、まあ、行きついた結果や。これは多分、素人さんや警察には辿りつけん事実なんと違うかの」
事実、という言葉に俯き加減だった銀一達の顔が上がる。
「どういう意味や。事実て何?」
と言ったのは和明だ。
「もうちょっと待っとれ。まだ俺が調べてた事の全てに結果が出てない。それが全部分かったら、しゃあないし、教えたるよ」
藤堂と、ケンジ・ユウジを残して銀一達は店を出た。入り口側の受付を通り過ぎる際、先程のまどかが和明を追いかけて出て来た。銀一と竜雄は気を利かせて二人だけで外に出る。しかし交わす言葉もなく、出て来るのは溜息ばかりだった。
やがて和明が追い付いて来ると、銀一達は彼の顔を見て尚一層大きな溜息を付いた。
「何よ、失礼しちゃう」
お道化た調子で和明が言うと、銀一は苦笑して首を横に振り、竜雄は乾いた笑い声を上げた。
「なあ」
と、笑い終えた竜雄が言った。
「もう、ええやろ」
竜雄の言葉は重く、短いながらもその一言で銀一達には全てが理解出来た。
「悪かった、銀一。和明も。俺が余計な事頼んだばっかりに、お前らを巻き込んでしもて、ほんまにすまんと思ってる」
竜雄はそう言い、奥歯を噛み締めて下を向いた。
銀一と和明は竜雄から目を逸らした。
「…毎日毎日、仕事忙しいもんな」
と和明が言った。銀一は頷き、
「ええ加減な事してると、怪我するしな」
と答えた。
「あとは成瀬に任せよ。明日、平助の見舞いに行って、三人で頭下げてこよか」
銀一がそう言い、竜雄と和明は吹っ切れたように笑って頷いた。
しかし、誰一人吹っ切れてなどいなかった。
殺された難波の事、志摩の事、一人東京へ戻った春雄と、志摩の妹・響子の事。そして何より、入院中の平助の元へ現れた、まるで銀一達を待ちわびていたかのように思える、犯人の行動。殺された榮倉刑事の事。庭師という、謎の存在。それら全ての現実が強靭な蜘蛛の糸のように、体のいたる所に張り付いて銀一達の自由を奪った。あらゆる角度で彼らの意識を引っ張った。銀一達にとって、こんなにも重苦しい日々を経験した事はかつてなかった。
逃げてしまおう。竜雄がそう言ってくれなければ、今この場で押し潰されてもおかしくはなかった。しかし却って、言葉ではっきりと『終わりにしよう』と区切りを打った事で、現実に立ち向かう気丈な心を失わずに済んだのかもしれないと、銀一は後に考えるようになったのだという。
例え終わりにしたくとも、逃げようとも、現実は向こうから追いかけて来る。銀一達はその事を、既に知っていたのだ。
翌日、夕刻。それぞれの仕事を終えた三人は連れ立って、西荻平助の入院する病院を訪れた。難波の殺された日から、一週間以上が経過していた。
銀一達はバツが悪そうな表情を浮かべて、受け付けで教えてもらった病室に足を踏み入れた。六床が並ぶ大部屋で、今は平助の他は一人しかベッドに寝ている者はいなかった。
「おう」
と竜雄が声を掛けると、仰向けに寝ていた平助の目が開いた。
「遅うなってすまんかったな、平助」
意識が定かでない平助に向かって竜雄が言うと、平助は視線だけを竜雄らに向け、そして微笑んだ。
銀一、竜雄、和明の三人は内心ほっと胸を撫で下ろす思いだった。病室に入り眠っている平助をひと目見た彼らは、予想以上に具合の悪そうな平助の顔色に一瞬息を呑んだ。管に繋がれてこそいないものの、痩せ細った平助の体は彼自身の力だけでは維持出来ないのではないか、声を掛けた所で平助の耳には届かないのではないか、そう思わせた。
平助がゆっくりと体を起こす。
「ええよええよ、寝とけ」
竜雄が平助の肩を抑えて、そう言った。和明は使われていない椅子を二つ持って来て並べると、
「すまんな、春雄はもう東京なんよ」
と声を掛けた。平助は微笑んで、首を微かに横に振った。気にするな、という事だろう。
「具合悪そうやな。血が足りてないんと違うか。はよ退院できるとええな、ええ肉用意して待ってるわ」
銀一がそう言うと、平助は両目に涙を浮かべて頷いた。
本当は、聞きたい事が山程あった。榮倉がこの病院で殺された日、一体何があったのか。この病室へ訪れたという人間は誰なのか。平助は何を見、何を聞いたのか。聞けるものなら聞きたかった。しかし憔悴しきった平助の震える顔を見て、銀一達はその願望を捨てた。
病室の外には警察官が椅子を置いて見張りについており、これ以上所平助の身に危険が迫るような事はないだろう。もし平助の容態が安定して快方に向かっているのであればと思っていたが、事態はそこまで甘くなかった。
銀一達は他愛のない事を一方的に喋って、言葉を返さない平助の表情だけを見て頷き、笑った。やがてそろそろ帰ろうとかという空気になった時、竜雄が言った。
「平助、また来るから心配すんな。それよりも、今聞いておきたい事はないか。それか、言うておきたい事はないか」
平助はじっと竜雄の顔を見返して、こう囁いた。
「ありがとう。もう、関わるな」
竜雄の目から涙が零れた。
ここへ来て一度も、竜雄らは平助に対して事件の話をしなかった。幸助の行方についても、難波の死についても、榮倉の殺害についても、何も言わなかった。あくまでも、怪我を負って入院した友人の見舞いにやって来た、その体裁を崩さず笑顔を絶やさなかった。
しかし、平助には分かっていたのだ。彼が竜雄に相談事を持ち掛けて以来ずっと今日まで、竜雄らが目に見えない恐怖から逃げずに戦っている事を、分かっていたのだ。平助自身、祖父である西荻平左の死や家族同然に暮らして来た難波の死に直面し、なおかつ自らも発狂寸前の恐怖を味わっている。あるいはだからかもしれない。目の前に座る三人の友人が、平助と同じように戦っている事が、言葉はなくともすんなり理解出来たのだ。
「何を言うとるんじゃ。ええから、ゆっくり休んどったらええ」
竜雄は涙を拭ってそう答え、立ち上がった。
平助が、立ち上がった竜雄の手を握った。
「相手にしたら、あかん」
小さな声だったが、はっきりと平助はそう言った。
竜雄だけではなかった。銀一、和明の背中を震えが駆け上った。誰も、何も言い返せなかった。
そこから更に一週間が経過した。と場で仕事を終えた銀一を、藤堂の舎弟だと名乗る男が待っていた。帰り支度を終えて出て来た銀一と、銀一の父翔吉を呼び止め、その男は言った。
「兄貴が、銀一さんをお呼びです」
「…俺だけか?」
銀一が翔吉を横目に見ながらそう言うと、男は気のない口調で「へえ」と答えた。
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