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5.永井かふかという毒 その二③
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「…………」
足元を何気なしに見つめると靴紐が結ばれていないスニーカーがあった。引っ越す前に父さんに買ってもらったノースフェイスのトレッキングシューズ。ほとんど汚れていない新品の靴はどこまでだって歩いていけるようだ。
永井の視線をずっと感じる。この女の性格からして、意思を無視すればどんな手を使ってでも邪魔をしてくるに違いない。たとえその理由が本人もよくわかっていないとしても。
「助けたいんだ」
無表情の顔を目にした途端、言葉が口から勝手にこぼれた。
「顔を知らない他人よりも目の前にいるかふかを助けてよ」
「僕は永井を助けられない。でも、モールに閉じ込められた女の子は助けられるかもしれない。今、行けば間に合うかもしれない」
永井の表情は変わらない。じっと僕のことを見つめている。まるで魂の底の底まで見通すように。嘘や誤魔化しは一切効かない。なんとなくだが、答えの内容次第では僕は永井かふかに殺されるかもしれないと思った。だから、ありのままを答えた。
「もし今夜その女の子を助けなかったら一生後悔すると思う」
「そんなのはメロスのエゴだよ。驕りだよ。メロスは何様のつもりなの」
「この感情を、心臓のもっと深いところから湧き上がってくるこの感情を否定したくない。間違っているかもしれないけど、きっとこれは何よりも純粋で尊いものだ。これを否定したら、僕はこの先どんなに美しいものを見たとしても、心から感動できなくなると思う」
永井は何も答えない。僕も既に後悔している。誰もがあるがままで生きられるのなら人生は苦労しない。母さんは好きなひとを好きなときに愛せただろうし、父さんも苦労をしょい込むこともなかった。そして、僕や妹はこの世に生まれることはなかったのだ。
「うそつき。メロスはかふかのことを―――」
その声はほんの少しだけ力がなかったように思えた。
「後悔しているよ。ずっと後悔している。そして、たぶんこの先も、僕は一生永井かふかという女の子を助けられなかったことを後悔し続けるんだと思う」
「そう。いい気味だわ」
冷たく言い放つと飽きたとばかりに180度向きを変えてすたすたと部屋の奥に戻ってしまう。しかし、内心では相当怒っているのだろう。
「勝手にすれば」
後髪から覘く耳は真っ赤になっていた。
「なあ」
「なによ、うっさいわね! ばかメロスなんて勝手にくたばっちまえっ!」
「僕を助けてくれ」
布団に潜りかけた永井の動きがぴくりと止まり、スローモーションのように振り向く。大きな瞳は驚きで大きく見開かれていた。
「信じられない」
そして、吐き捨てるようにそう言った。
「かふかを助けてくれないだけでなく、自分の目的のために利用するの? サイテー。死ね」
「そうじゃない。永井は晦虫のことを詳しく―――」
「それでかふかにクラヤミに喰われろというワケ? かふかがクラヤミたちに凌辱されているうちにメロスはその女の子と逃げるんだ。ほんと、サイアクなんですけど。死ね、死ね死ね死ね、クズヤロー!」
全身の血がすーっと引いていく。僕はなんて大馬鹿野郎なのだろう。永井を晦虫たちのいる場所に連れていくということはすなわちそういうことなのだ。
しかし、同時にそれは―――。
「ああ、そうだよ。永井はクラヤミたちに対する唯一無二の武器だ。永井がいればあいつらから女の子を助けることができる」
飛んできた目覚まし時計が額に当たり、生温かい血が音もなく流れていく。
「…………最低だよ、本当に」
少し前まで一緒にカレーを食べていたクラスメイトを犠牲にしないと顔もよく知らない誰かを助けられない。僕はなんて無力で役立たずなのだろうか。
「そこまで言うならそれ相応の対価は払うつもりはあるんでしょうね?」
紅く染まった視界の中心に永井かふかが立っている。沁みて痛くて目を開けていられないので一瞬だったが、確かに永井かふかは笑っていた。
「僕のすべてをおまえにやるよ」
「いらない。かふかはメロスのくれるものはもらうけど、メロス自体は全然いらないから」
止めとばかりに「ゴミよ、ゴミ」とまで言い切った。全くひどい言い草だが、不思議と腹が立たないのはなぜだろう?
「でも、メロスの身体には興味があるかも」
「さっきのセックスの話か?」
「えろメロス! 今はそうねー、メロスを食べたいかな。クラヤミたちがかふかをいつも美味しそうに食べるから、かふかもニンゲンを食べてみたいとずっと思っていたの」
楽しそうに永井はそう言うと僕の額に指を這わせ、指にこびりついた血液を舌で舐め取ったた。そして、酒やコーヒーを初めて飲んだみたいに顔を顰める。
「全部はいらないから、耳たぶでいいよ。柔らかくて美味しそう。フライパンに油を引いてカリカリに焼いてね」
答えは言うまでもない。
「指切りげんまん~♪、嘘ついたら怨霊になってメロスが死んだあとも憑り殺して呪ってやる~♪ あっぷっぷ~♪」
「なんだそれ」
小さな指が離れていくが、僕と永井かふかを結ぶ契約の糸はしっかりと結びついている。
永井は笑っていた。
足元を何気なしに見つめると靴紐が結ばれていないスニーカーがあった。引っ越す前に父さんに買ってもらったノースフェイスのトレッキングシューズ。ほとんど汚れていない新品の靴はどこまでだって歩いていけるようだ。
永井の視線をずっと感じる。この女の性格からして、意思を無視すればどんな手を使ってでも邪魔をしてくるに違いない。たとえその理由が本人もよくわかっていないとしても。
「助けたいんだ」
無表情の顔を目にした途端、言葉が口から勝手にこぼれた。
「顔を知らない他人よりも目の前にいるかふかを助けてよ」
「僕は永井を助けられない。でも、モールに閉じ込められた女の子は助けられるかもしれない。今、行けば間に合うかもしれない」
永井の表情は変わらない。じっと僕のことを見つめている。まるで魂の底の底まで見通すように。嘘や誤魔化しは一切効かない。なんとなくだが、答えの内容次第では僕は永井かふかに殺されるかもしれないと思った。だから、ありのままを答えた。
「もし今夜その女の子を助けなかったら一生後悔すると思う」
「そんなのはメロスのエゴだよ。驕りだよ。メロスは何様のつもりなの」
「この感情を、心臓のもっと深いところから湧き上がってくるこの感情を否定したくない。間違っているかもしれないけど、きっとこれは何よりも純粋で尊いものだ。これを否定したら、僕はこの先どんなに美しいものを見たとしても、心から感動できなくなると思う」
永井は何も答えない。僕も既に後悔している。誰もがあるがままで生きられるのなら人生は苦労しない。母さんは好きなひとを好きなときに愛せただろうし、父さんも苦労をしょい込むこともなかった。そして、僕や妹はこの世に生まれることはなかったのだ。
「うそつき。メロスはかふかのことを―――」
その声はほんの少しだけ力がなかったように思えた。
「後悔しているよ。ずっと後悔している。そして、たぶんこの先も、僕は一生永井かふかという女の子を助けられなかったことを後悔し続けるんだと思う」
「そう。いい気味だわ」
冷たく言い放つと飽きたとばかりに180度向きを変えてすたすたと部屋の奥に戻ってしまう。しかし、内心では相当怒っているのだろう。
「勝手にすれば」
後髪から覘く耳は真っ赤になっていた。
「なあ」
「なによ、うっさいわね! ばかメロスなんて勝手にくたばっちまえっ!」
「僕を助けてくれ」
布団に潜りかけた永井の動きがぴくりと止まり、スローモーションのように振り向く。大きな瞳は驚きで大きく見開かれていた。
「信じられない」
そして、吐き捨てるようにそう言った。
「かふかを助けてくれないだけでなく、自分の目的のために利用するの? サイテー。死ね」
「そうじゃない。永井は晦虫のことを詳しく―――」
「それでかふかにクラヤミに喰われろというワケ? かふかがクラヤミたちに凌辱されているうちにメロスはその女の子と逃げるんだ。ほんと、サイアクなんですけど。死ね、死ね死ね死ね、クズヤロー!」
全身の血がすーっと引いていく。僕はなんて大馬鹿野郎なのだろう。永井を晦虫たちのいる場所に連れていくということはすなわちそういうことなのだ。
しかし、同時にそれは―――。
「ああ、そうだよ。永井はクラヤミたちに対する唯一無二の武器だ。永井がいればあいつらから女の子を助けることができる」
飛んできた目覚まし時計が額に当たり、生温かい血が音もなく流れていく。
「…………最低だよ、本当に」
少し前まで一緒にカレーを食べていたクラスメイトを犠牲にしないと顔もよく知らない誰かを助けられない。僕はなんて無力で役立たずなのだろうか。
「そこまで言うならそれ相応の対価は払うつもりはあるんでしょうね?」
紅く染まった視界の中心に永井かふかが立っている。沁みて痛くて目を開けていられないので一瞬だったが、確かに永井かふかは笑っていた。
「僕のすべてをおまえにやるよ」
「いらない。かふかはメロスのくれるものはもらうけど、メロス自体は全然いらないから」
止めとばかりに「ゴミよ、ゴミ」とまで言い切った。全くひどい言い草だが、不思議と腹が立たないのはなぜだろう?
「でも、メロスの身体には興味があるかも」
「さっきのセックスの話か?」
「えろメロス! 今はそうねー、メロスを食べたいかな。クラヤミたちがかふかをいつも美味しそうに食べるから、かふかもニンゲンを食べてみたいとずっと思っていたの」
楽しそうに永井はそう言うと僕の額に指を這わせ、指にこびりついた血液を舌で舐め取ったた。そして、酒やコーヒーを初めて飲んだみたいに顔を顰める。
「全部はいらないから、耳たぶでいいよ。柔らかくて美味しそう。フライパンに油を引いてカリカリに焼いてね」
答えは言うまでもない。
「指切りげんまん~♪、嘘ついたら怨霊になってメロスが死んだあとも憑り殺して呪ってやる~♪ あっぷっぷ~♪」
「なんだそれ」
小さな指が離れていくが、僕と永井かふかを結ぶ契約の糸はしっかりと結びついている。
永井は笑っていた。
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