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4.永井かふかという毒 その一③

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 あれは転校して2週間目の木曜日のことだった。
 母さんは介護疲れで首を括った支援者の後始末でてんやわんやになっていた。放課後、三者面談のために相談室で白瀬先生と待っていると母さんはそのことを喚き散らし、一方的に電話を切ってしまった。結局、母さん抜きではもう話すこともないので先生が定時で上がるまでスマブラをして遊んだ。
 夕暮れに差し掛かった校舎裏はひっそりとしていた。園芸部が丹精込めて育てたチューリップやマーガレットが橙色に染まっているのをぼんやり眺める。四階にある音楽室から吹奏楽部の演奏が風に乗って流れ、グラウンドの声に混じるメロディの中に聞き慣れた「きらきら星」が混ざっていることに気づく。
 ふと、視線を感じたような気がした。
 調理室の真裏、西日を遮るように校舎が立つその場所は影がひと際濃くなっていた。その奥から微かにバタバタと動く音がする。そして、よくよく耳を澄ますとくぐもった声が聞こえてくる―――「たすけて」―――まるで口を手で塞がれたような。
 まさか。
 この学校の治安は悪くないはずだ。いじめもここ数年は表立ったものは報告されていないことは転校前に調べてわかっている。誰かさんのように明らかに爪弾きにされている者はいるようだが、それは集団においては許容範囲のレベルだろう。

「やめておけ」

 自分を律するために呟いた独り言だったが、まるで得体の知れない何かが僕の口を借りて発したように今は思える。
 やめておけ。
 しかし、僕は足を進めてしまった。
 こんな僕でも何かできることはあるのではないかとまだ思っていたのだ。
 角からそっと覗くと影の中に一人の女子生徒がいた。腕は力なく垂れ、半分捲れたスカートからは足が覗いている。明後日の方向を向いた視線は生気というものがまるでなく、そして、頬には涙の痕がくっくり残っていた。その顔には見覚えがあり、すぐにそれが教室にいた幽霊であることに気がつく。

「な―――」

 永井さん、と続けることはできなかった。
 ぞくりとするような冷気が首筋を撫でると悪寒となって全身に伝播する。何かがおかしいと直感で理解した。これ以上見てはならない。今すぐ立ち去らないといけない。
 立ち竦む僕を嘲笑うように風が校舎を駆け抜けていった。
 生温い血の臭いとともに永井かふかの身体がコトリとコンクリートに倒れる。しかし、倒れたのは僕の視界から見えていた右半身だけで左半身は影の中に消え失せていた。

「―――っ!?」

 このときの永井かふかは理科準備室にある人体模型状態であったが、すぐに残りの右半身も影の中に少しずつ消えていくのがわかった。
 永井かふかは“影”に喰われていたのだ。
 その瞬間、僕の中に遺っていた善意やら正義といった、魂を縛るだけでまるで役に立たない感情は今度こそ粉々に砕け散った。心にぽっかりと空いた割れ目の向こうに闇よりも暗い影がが広がっている。
 僕には永井かふかを助けることはできない。
 相手が人間なら、いや、世界のルールに縛られている存在なら僕でも何かできることはあるのかもしれない。しかし、永井かふかを貪り喰らっているのは世界の常軌から外れた存在だ。
 できるわけがない。
 僕には無理だ。
 ハッと我に返ると僕はその場から逃げ出した。アパートに戻ると部屋中の電気もつけ、TVもPCも、スマホもつけっぱなしにした。全身の骨が軋むほど恐ろしかった。暗闇に包まれたら、僕もあの“影”に喰われてしまうのではないか。
 警察の事情聴取を終えて帰ってきた母さんは部屋の異様な状況に一切気がつかずに布団にくるまって眠ってしまった。そんな母さんを部屋に残して登校し、教室の扉を潜ると俯いたままの永井かふかが椅子に座っていた。
 驚きのあまりまじまじと見つめていると永井が顔を上げた。
 幽霊と目が合う。
 僕はつい言ってしまった。

「おはよう」
「おはよう、メロス」

 永井かふかはぷっと吹き出すと笑いを噛み殺すような笑顔を浮かべた。
 そして、僕は永井かふかという幽霊に本当に憑りつかれることになった。永井に絡まれる僕を見つめる級友たちの視線は悪霊に憑りつかれた人間を見る目だった。
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