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4.永井かふかという毒 その一①
しおりを挟む4 永井かふかという毒 その一
「お腹、減った」
永井かふかはそう言うとサッシを開き、すたすたとリビングの中に入ってきた。そしてテーブルの前にどかりと足を広げて座る。
「メロス、カレー残っているんでしょ?」
「…………」
「メロス、カレー、メロス、カレー、メロス、カレー、メロス、カレー、メロス、カレー、メロス、カレー、メロス、カレー、メロス、カレー、」
「わかっているよっ」
「だったら、早くしなさいよ。ホント、使えないわねっ」
猛烈に殴りつけたかったが、そこをグッと堪えてキッチンに向かう。鍋に火をかけてから米などとっくにないことに気がつく。わざわざカレーうどんを作ってやるのも面倒なので電子レンジで一人前だけ炊いてやることにした。
ターンテーブルが回り始めてからリビングに目を向けると永井の姿がない。まさかと思い、ベランダを覘くが、段ボールと新聞紙の上には永井が寝るときに着ていた着衣が無造作に脱ぎ捨てられていただけだった。ボクサーパンツを嗅いでみたが、血の匂いはおろか永井の体臭すらない。あまりにも嗅ぎなれた僕の臭いだけだ。
「わけがわからん」
これで永井かふかが夜の闇の中に消えてしまえば、中一の頃の少々強烈な記憶としていつか大人になった僕が思い返したかもしれなかったが、永井かふかは感傷的を感じさせるような女ではない。リビングに戻るとシャワールームから水が流れ、下水管がゴボゴボ咳をする音が聞こえた。
「アイツっ―――」
母子家庭だからというワケではないが、ご近所関係にはそれなりに気を遣っていた。普段の何気ない関係性がいざというとき通報を防いでくれるかもしれないのだ。
「おい、今すぐやめろ」
永井は聞いているのか聞いていないのか、例のヘタクソな鼻唄を唄いながらシャワーを流すのを止めない。仕方がないので扉を3センチ開くと、バスタブに立つ白い尻に水滴が垂れ落ちていくのが見えた。
「なに?」
「深夜のシャワーは禁止なんだ。やめてくれ」
「いやよ。なんで部外者のかふかがそんなルールに縛られないといけないのよ」
…………日本語が通じない。どうやったらこの人モドキに道理を理解させられるのか。
「というか、もう身体は洗っているからいいじゃないか」
そうだ。そこがそもそもおかしいのだ。頼まれても風呂に入らないようなゴミ女が何時からきれい好きになったのだ?
「はあ? メロスはバカなの!? かふかはさっきまでアイツらに食べられていたんだよ? 涎まみれになって胃液に溶かされていたんだよ?」
「あっ」
「身体中がゲロまみれで臭くて仕方がないんだけど、それでもメロスはかふかにシャワーを浴びさせてくれないんだ? サイテーサイアク。本当にメロスは血も涙もない冷血動物だね」
足元がぐらりと揺れかけたとき、栓がギュッと閉まる音が聞こえた。それがまるで心臓を握り締められる音に聞こえたのは決して気のせいではないだろう。
殊更静かにバスルームの扉が開くと、中に立ち尽くした永井かふかが僕を見つめていた。背中を覆う黒髪からぽたぽたと雫が垂れている。やがて、それは起伏のない尻の上を流れると力なく落ちていく。
「…………メロスはかふかに言うことあるよね?」
「…………ごめん」
「バスタオル持ってきて」
背を向けるとシャワーが再び流れる音が耳に流れ込んできた。目を瞑りながら衣装ケースに入ったバスタオルを取り出す。柔軟剤と陽の光でふわふわになった感触を手に感じながら瞼の裏を見つめる。そこには網膜に刻まれた先ほどの永井の顔が映っていた。
優しい、天使のような微笑み。
それは歪まれた悪魔の笑顔より、はるかに恐ろしいものだった。
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