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2.教室の幽霊④

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 永井は冷蔵庫に余分に用意していたサラダも平らげたうえにカレーもライスもおかわりした。鍋の中のカレーは既に4割近く減っている。米に至ってはすっからかんだ。カレーで連休の半分は乗り切る僕のプランは早々に崩壊してしまった。

「ねえ、メロスの残したカレー、食べていいわよね?」
「ばか、やめろ」

 焦りで震える手つきでルーをできるだけ具は掬わずに皿によそう。早くしないとブラックホールみたいな胃の中に僕のカレーが吸い込まれてしまう。
 カリカリに焼いたパンの耳を添えて永井の前に押しつけると、永井は特に不満を言うこともなくパンの耳をルーにつけてむしゃむしゃ食べ始めた。
 僕のカレーは意外なことに無事だった。テレビは益体も無いバラエティが始まったばかりで永井が夢中になって見るような内容でもない。嫌な予感がしてカレーを口に入れるとほんの少しだけ味に苦みが混ざっているような気がした。

「おまえ、何か混ぜただろ?」

 永井はニヤニヤ笑いながらパンの耳を齧り続ける。

「まったく……食べ物で遊ぶんじゃないよ」
「ねえ、知ってる?」

 そのとき見せた永井の顔は悪魔そのものだった。

「大昔のイギリスの女王は男たちに自分の生理の血を混ぜたお酒を飲ませたんですって。そのお酒を飲んだ人間はたちまち彼女の虜になったそうよ」
「なっ……!?」

 胃がぐるりと反転して逆流を起こしかける。あの鉄臭い苦みはまさか…………!? 永井はそんな僕の様子を腹を抱えて笑っている。それがたまらなく癪に障ったので麦茶で一度流し込むと気にせずに食べ続けた。何を入れられたか知らないが、スパイスが全部解決してくれるはずだ。

「そういえば、例のウワサは結局試したのか?」
「ウワサ?」
「モールの秘密通路の話だよ。自分で言っていたじゃないか」

 無表情に戻った永井はつまらないテレビをさもつまらなそうに見ていた。

「試したよ。つまらなかった」
「あ、そう」

 そりゃそうだろう。
 あまりにもテレビの内容がつまらなかったのでチャンネルを変えてみたが、代わりにつけた卓球中継は一瞬で眠たくなるほど退屈だった。中国人と中国系ドイツ人のラリーの応酬を永井は何も言わず楽しそうに見つめていた。

「そういえば、メロスのママはいないの?」
「何を今更…………」

 食器を洗っていると永井は唐突に言い出した。その手には冷凍庫で目ざとく見つけた母さん秘蔵のハーゲンダッツが握られている。ついでに言えば着ているパーカーもショートパンツも母さんのもの。もちろん、永井かふかに限って殊勝な考えを抱くはずもない。
 しかし、気がつけば僕は母さんのことを説明していた。他に話す話題もなく、沈黙が苦痛に感じたせいもあるかもしれない。簡潔に要点だけ話すつもりだったが、言葉が止まらなかった。もしかしたら僕は誰かに母のことを話したかったのだろうか? そういえば白瀬先生に今日のことを報告していない。きっとLINEには未読メッセージがたまっているに違いない。 

「ふーん、そうなんだ」

 永井の口から出てきた感想はたったそれだけだった。「うん」と「へー」としか相槌がなかったのでそれほど予想外ではなかったが、期待が急速に萎んでいくのを感じた。 

「そうだよ」

 それきり会話は止まってしまった。
 永井には聞きべきことがたくさんあったかもしれない。永井の家や保護者のこと、そして、永井自身のこと。しかし、何を聞いたとしても永井がまともに話すとはとても思えない。
 それに永井は―――。
 水道の栓を止めると肌に感じていたひんやりした感触が消えていく。そして、リビングに響いていた水の音も消えると空々しい笑い声がテレビから垂れ流される。
 リビングに戻るとテーブルにノートPCを広げた。イヤホンの向こう側から感情の欠けた英単語の羅列が耳に入ってくるが脳内には一向に定着しそうにない。画面を何とはなしに見つめているとラフランスの香りが鼻孔をくすぐる。母さんのシャンプーの匂いだ。
 こうしていると日常に戻ったかのようだ。
 母さんがすぐ近くに座っていて、僕は勉強している。教室に現れる幽霊のことなど想像だにしない穏やかな日々。
 もちろんそんなものは自分の美化された記憶しかないことはわかっている。
 母さんの精神は僕が生まれて以来ずっと安定することはなかったし、父さんも妹も今は近くにはいない。そして、僕は僕で前の学校でトラブルを起こしたせいで母さんと二人知らない町で暮らす羽目になってしまった。
 スマホを開いたみたが、母さんからの連絡はやはりなかった。代わりに白瀬先生と妹からのメッセージが山ほど届いている。完成したばかりのカレーの写真を送って問題ないことを報告すると、矢継ぎ早に白瀬先生から返信が返ってくる。

『めっちゃ美味しそう! 今度、先生のも作ってね‼』
 
 悪い人ではないのだが、カウンセラーとしては正直どうなのだろう。距離感が近すぎるというか。話しやすいは話やすいのだが、実際的な解決にはまるでならないので穴に向かって話しているかのような感覚になる。もっとも深刻に捉えられて家庭支援センターや児相にチクられるよりはよほどいいのだけど。
 そんなことを思っていると白瀬先生から電話がかかってきた。
 先生に今日のことを報告している間、永井かふかは黙ってテレビを見続けていたようだった。あまりの存在感の無さに永井がいることを忘れてしまっていたのだ。
 そのときの永井かふかは教室の幽霊に戻っていたかのようだった。
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