未来世界のモノノケガール

希依

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8 忘れ去るべきもの②

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認知行動療法CBTとは別物なのです。CBTは何かあったときに嫌な記憶と感情、つまり、自動思考への紐づけを解除することが目的ですが、我々の施術は、例えるなら燻る火があればいっそ全焼させてしまうのですよ」
「……はあ? つまり、こういうこと? 仮に学校の教師から虐待を受けたとして、その強い記憶を目立たなくさせるために学校の嫌な記憶を全部強化して、学校生活そのものが最悪だった―――て、こと?」

 狐面が縦に揺れる。

「……いやいや、それじゃ事態がもっと悪化しているでしょ。何の解決にもなってないじゃない」
「あなたは、本当にそう思われますかな?」
「…………」

 人間というものは良い記憶と悪い記憶が混在している。
 しかし、良い記憶とははたして何だろう? 悪い記憶とは何だろう?
 AKIは言った―――AIには記憶も情報の一つに過ぎないと。情報に優劣の差をつけて、後生大事にとっておいて苦しんでいるのは人間なのだと。
 本来は生存本能に基づく機構システムであった。
 まだ人間が大地を彷徨っていた頃、手痛い失敗にタグをつけて次に似たような状況が起きたときに対処がしやすいようにするため。
 しかし、社会を形成するようになると生命維持のための機構システムは必ずしもそぐわないものになり、やがて、機構システムに人生を支配されるようになった。

「…………最初から何も望みがなければ諦めもつくということか」

 狐面は何も答えなかった。
 無茶苦茶なやり方だ。精神的な負荷は明らかに大きいし、下手したら廃人になってもおかしくない。だからこそ、公にできない裏世界の方法なのだろう。
 しかし、奇妙に納得している自分がいることにニアは気付く。
 確かに、戦争のような極限の状況を除けば、人は電車内で直接的に絡まれた酔っ払いのクズよりも、一度は信頼し、あるいは愛し合った相手の方に強い殺意や悲しみを抱くのかもしれない…………消したくなるような記憶っては良くも悪くも…………。
 
 ―――なら、自分が本当に忘れ去りたいものは。

「ニア様、そろそろ施術を始めてもよろしいかな?」
「…………ねえ、ムジナ」
「はい?」
「消してもらいたい記憶があるんだけど」
「わかっておりますとも。キュクロプスのことでしたらご心配なく」
「違う」
「はい?」
「どうせ消すなら、山本似愛の記憶全部を消しちゃってよ」
「……っ!? それは―――」

 暗闇の中で微かに動揺する気配がした。

「…………ニア様、それが何を意味するのかちゃんと理解していらっしゃるのですか? 生まれ変わりたいという願いはそもそも生まれ変わる前の自分がなければ成立しないのですよ?」

 そんなことは百も承知。
 それは心の海の底で浮き上がる小さな泡のような願い。
 以前の記憶を寸分違わず持っていたとしても、容姿が違っていたら、細胞のほとんどが別のものに入れ替わっていたら、それは果たして同一人物といえるだろうか。
 ニアがニアとして生まれ落ちたときから、山本似愛の記憶は呪いそのものだった。海馬と大脳皮質にこびりついた化石みたいな情報パターンがニアとニアの身体を支配し続けている。

「あなたは自死に等しいことをしようとしているのですよ?」
「ふふふ」

 ざまあみろ。この身体もこの身体の人生もアタシニアのものだ。81年前に間抜けに事故って死んだボッチ女のものなんかじゃない。
 ワタシはワタシの人生を楽しむのだ。

「それだけはお受けできません」
「はあ? ふざけるなよ?」
「―――あっ!?」

 照明が灯ると室内が明らかになる。
 白く無機質そのものだった部屋は無惨に汚されていた。
 ベッドを起点に流れ落ちる赤黒い代謝物。秩序性はまるでなく、ベッドに、壁に、椅子に、そして、白衣の上にまで飛び散っている。

「…………ニア様、あなたはどうかしている」

 白衣についた血痕を忌まわしそうに見た後、ムジナは吐き捨てるように言った。それを見たニアはいかにも楽しげに喉をくつくつと鳴らした。その腕にはスカートの下に隠していたナイフが深々と突き刺さっている。

「…………覗き見が趣味の変態ヤローに言われる筋合いはないわね」
「私は女ですよ」
「どうでもいい。とにかくアタシの中にいる山本似愛を殺せ。それがアンタにとっても、アタシにとっても利益になることなんだから」
「私の趣味は殺人じゃありませんよ」
「イーから聞いているわよ。ムジナ、アンタはそもそも顧客の記憶データがどうなろうと知ったこちゃないってことは。アンタはどこまでも蒐集家。下着フェチが盗んだ下着に偏執するように、アンタは記憶を集めることしか頭にない」
「…………チッ、キュクロプスめ、余計なことを」

 血がぽたり、ぽたりとベッドの縁から滴り落ちる音をニアは聞いている。目の前の仮面は何も言わず、何も語らず、魂が抜けたかのように静止していた。
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