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4 顔無しの郷③
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ニアの脳裏に一つのイメージが浮かんだ。
「…………まさか!」
眠気と酔いが一気に吹っ飛んだ。
周囲を見渡してみたが、露天風呂にも浴場にも人影はない。というより、さっきまでラーメン屋にいたのにいつの間にか温泉に浸かっている。あと自分の息がすごく臭い。
どうやらここはいくつかある温泉施設の一つらしい。洗い場に複数の蛇口と風呂椅子があるので貸切風呂ではないようだが。
あ、あ、あ、あ、あ、あ、あー、あ、あ、あ、
まだ聞こえる。
耳に掌を当てて聴覚に集中する。
どうやら声は浴場の端にある木戸の向こうから聞こえてくるようだ。
少なくとも過剰なカロリーと塩分とアルコールが見せたエロい夢ではないらしい。
男とも女とも判別のつかない、過呼吸気味の悲鳴混じりの吐息というべきか。
「いや、でも、まさか。こんな公衆の場所で!?」
そう呟きながらニアはここが普通の温泉施設でないことを思い出す。
「まさか、記憶が消せるから…………!?」
だからといって無礼講にも程にもあるだろう!? しかし、厳格な階級構造を持つ宗教団体ではそういう醜聞が多いという。被害者の記憶を消せるのであればもみ消すことも容易い。
「こ、これはちゃんと確認しないと、ね!」
ニアは独りごちると風呂から立ち上がり、木戸に向かってそろりそろりと歩き出した。
心臓がばくんばくん波打っている。
喉はすっかり乾き、緊張で指の先の震えが止まらない。
「いや、何テンパってるの、私っ!」
理屈はわかりきっているし、仮想空間で体験もしている。違うのは現実なだけ。きっと何も違わないし、仮想空間よりも貧相なのもほぼ間違いないだろう。
でも、どうしてこんなにもドキドキするのだろう?
それは自分が昔の人間だからか?
木戸の取っ手に手をかけると予想に反してするりと動いた。どうやら鍵はかかっていないようだ。隙間から先を伺ってみたが、植樹された楓の葉と湯気で何も見えない。
「しつれーいしますー、よっと」
後ろ手で木戸を閉め、足を踏みかけたときだった。
―――13年前、最後の入所者が旅立った直後、施設職員を含む団体関係者51名が巻き込まれる”事故”が起きた。
ふと、時山の声が蘇った。
いや、まさか。日常的に幽霊がいるのに何を今更。
しかし、理性とは裏腹に冷たい汗が背中を伝っていくのをニアは感じた。
―――51人全員が自我を喪失していたからだ。
喪われた自我が今もここを彷徨っている? 如何にもホラーじみたことを想像しかけたが、もう片方の本物ではない脳がひどく冷静に考えているのをニアを他人事のように感じた。
仮想空間の中を電脳化された魂がそれこそ幽霊のように存在することもあるのではないか? AIに自我が目覚めていないことは証明されていないし、半分作り物の自分にさえ本当に自我があるのかはわからないのだ。
そんなことを思いながら入ってきた木戸に手をかけると開かなかった。単に立て付けが悪いだけでそれ以上の意味は何もなかったが、あまりにもホラーゲームじみていてニアは逆に笑ってしまった。大昔の人間が「運命」とか「啓示」とかを信じたい気持ちも少しわかる気がする。
「ふん、どうにでもなりなさいよ!」
半ばヤケクソ気味に足を踏み出す。
ホモサピエンスの交尾だろうが、現実の幽霊だろうが、こうなれば何だって構いやしない。というか、こちとら生き返ってからこんなことばかりだ。
石畳を進んでいくと清掃用具が整然と置かれている。どうやらメンテナンス用の従業員通路らしい。当然のことながら客が目にするエリアではないので見るべきところなどない。植樹と植樹の間に設けられた獣道めいた通路は陰鬱としていて、ゴミ箱の陰は黒くぬめったもので覆われている。
湯浴み着が肌にぴったりとくっついて気色悪いうえ、湿気の不快感と空調の排気、通路を吹き抜ける風のせいで暑いのか寒いのかまるでわからない。
突き当りに着くと通路は二手に分かれていた。一方は男湯へと続き、あの奇妙な声もどうやらこちらから聞こえているようだった。ニアがそちらに足を踏み出しかけたとき、もう一方の方向から生温い風が吹き抜けると何処かで嗅いだことのある臭いが鼻孔をくすぐった。
首を横に向けると木戸が大きく開き、真っ黒なキャンバスを背景に檜の湯舟が見える。最初に目が覚めた風呂の場所と方向から察するにあちらも女風呂のエリアらしい。
冷静に考えなくとも半裸の状態で男湯に忍び込むなど蛮行以外の何物でもない。
「何を考えているんだ、私は」
こつんと頭を小さく小突くとニアは開かれた木戸から本来いるべき女湯に戻った。それでも一度だけ振り返ったが、あの奇妙な声はもう聞こえなかった。
そもそもあれは本当に人の声だったのだろうか?
首を捻るニアであったが、その5秒後、そんな疑問を覚えたことすらも記憶から雲散霧消してしまう。
「ごきげんよう」
…………幽霊が本当にいた。
呆けたように口を開けたニアにその幽霊は小首を傾げて微笑む。
「…………」
メガネを外そうとしたが、無かった。それでも人差し指と中指を重ねてフリックしてみたが何も起こらないし、目の前に座る銀髪の少女が消えることもなかった。
「こんばんは、良い夜ですわね」
「えっ?」
少女が空を見上げる。
雨はいつの間にか止んでいた。厚く垂れこめていた雲は風に流れ、やがて雲間から柔らかな銀色の光が差し込むのが見えた。
「…………本当に、いい夜」
しかし、少女はそう言いながら空を見ていない。
夜風に揺れる月色の髪。
この世にたった一つしかない、不思議な虹色の瞳がニアを見つめていた。
そして、山々に咲き誇る花びらよりも可憐な唇が口にする白い立方体は―――、
「豆腐?」
「はい、お豆腐ですわ」
月光の生まれ変わりのような少女は何が嬉しいのか満面の笑みを浮かべた。
まるで満月が生まれ変わるようにあの夜の記憶が再生される。
「…………まさか!」
眠気と酔いが一気に吹っ飛んだ。
周囲を見渡してみたが、露天風呂にも浴場にも人影はない。というより、さっきまでラーメン屋にいたのにいつの間にか温泉に浸かっている。あと自分の息がすごく臭い。
どうやらここはいくつかある温泉施設の一つらしい。洗い場に複数の蛇口と風呂椅子があるので貸切風呂ではないようだが。
あ、あ、あ、あ、あ、あ、あー、あ、あ、あ、
まだ聞こえる。
耳に掌を当てて聴覚に集中する。
どうやら声は浴場の端にある木戸の向こうから聞こえてくるようだ。
少なくとも過剰なカロリーと塩分とアルコールが見せたエロい夢ではないらしい。
男とも女とも判別のつかない、過呼吸気味の悲鳴混じりの吐息というべきか。
「いや、でも、まさか。こんな公衆の場所で!?」
そう呟きながらニアはここが普通の温泉施設でないことを思い出す。
「まさか、記憶が消せるから…………!?」
だからといって無礼講にも程にもあるだろう!? しかし、厳格な階級構造を持つ宗教団体ではそういう醜聞が多いという。被害者の記憶を消せるのであればもみ消すことも容易い。
「こ、これはちゃんと確認しないと、ね!」
ニアは独りごちると風呂から立ち上がり、木戸に向かってそろりそろりと歩き出した。
心臓がばくんばくん波打っている。
喉はすっかり乾き、緊張で指の先の震えが止まらない。
「いや、何テンパってるの、私っ!」
理屈はわかりきっているし、仮想空間で体験もしている。違うのは現実なだけ。きっと何も違わないし、仮想空間よりも貧相なのもほぼ間違いないだろう。
でも、どうしてこんなにもドキドキするのだろう?
それは自分が昔の人間だからか?
木戸の取っ手に手をかけると予想に反してするりと動いた。どうやら鍵はかかっていないようだ。隙間から先を伺ってみたが、植樹された楓の葉と湯気で何も見えない。
「しつれーいしますー、よっと」
後ろ手で木戸を閉め、足を踏みかけたときだった。
―――13年前、最後の入所者が旅立った直後、施設職員を含む団体関係者51名が巻き込まれる”事故”が起きた。
ふと、時山の声が蘇った。
いや、まさか。日常的に幽霊がいるのに何を今更。
しかし、理性とは裏腹に冷たい汗が背中を伝っていくのをニアは感じた。
―――51人全員が自我を喪失していたからだ。
喪われた自我が今もここを彷徨っている? 如何にもホラーじみたことを想像しかけたが、もう片方の本物ではない脳がひどく冷静に考えているのをニアを他人事のように感じた。
仮想空間の中を電脳化された魂がそれこそ幽霊のように存在することもあるのではないか? AIに自我が目覚めていないことは証明されていないし、半分作り物の自分にさえ本当に自我があるのかはわからないのだ。
そんなことを思いながら入ってきた木戸に手をかけると開かなかった。単に立て付けが悪いだけでそれ以上の意味は何もなかったが、あまりにもホラーゲームじみていてニアは逆に笑ってしまった。大昔の人間が「運命」とか「啓示」とかを信じたい気持ちも少しわかる気がする。
「ふん、どうにでもなりなさいよ!」
半ばヤケクソ気味に足を踏み出す。
ホモサピエンスの交尾だろうが、現実の幽霊だろうが、こうなれば何だって構いやしない。というか、こちとら生き返ってからこんなことばかりだ。
石畳を進んでいくと清掃用具が整然と置かれている。どうやらメンテナンス用の従業員通路らしい。当然のことながら客が目にするエリアではないので見るべきところなどない。植樹と植樹の間に設けられた獣道めいた通路は陰鬱としていて、ゴミ箱の陰は黒くぬめったもので覆われている。
湯浴み着が肌にぴったりとくっついて気色悪いうえ、湿気の不快感と空調の排気、通路を吹き抜ける風のせいで暑いのか寒いのかまるでわからない。
突き当りに着くと通路は二手に分かれていた。一方は男湯へと続き、あの奇妙な声もどうやらこちらから聞こえているようだった。ニアがそちらに足を踏み出しかけたとき、もう一方の方向から生温い風が吹き抜けると何処かで嗅いだことのある臭いが鼻孔をくすぐった。
首を横に向けると木戸が大きく開き、真っ黒なキャンバスを背景に檜の湯舟が見える。最初に目が覚めた風呂の場所と方向から察するにあちらも女風呂のエリアらしい。
冷静に考えなくとも半裸の状態で男湯に忍び込むなど蛮行以外の何物でもない。
「何を考えているんだ、私は」
こつんと頭を小さく小突くとニアは開かれた木戸から本来いるべき女湯に戻った。それでも一度だけ振り返ったが、あの奇妙な声はもう聞こえなかった。
そもそもあれは本当に人の声だったのだろうか?
首を捻るニアであったが、その5秒後、そんな疑問を覚えたことすらも記憶から雲散霧消してしまう。
「ごきげんよう」
…………幽霊が本当にいた。
呆けたように口を開けたニアにその幽霊は小首を傾げて微笑む。
「…………」
メガネを外そうとしたが、無かった。それでも人差し指と中指を重ねてフリックしてみたが何も起こらないし、目の前に座る銀髪の少女が消えることもなかった。
「こんばんは、良い夜ですわね」
「えっ?」
少女が空を見上げる。
雨はいつの間にか止んでいた。厚く垂れこめていた雲は風に流れ、やがて雲間から柔らかな銀色の光が差し込むのが見えた。
「…………本当に、いい夜」
しかし、少女はそう言いながら空を見ていない。
夜風に揺れる月色の髪。
この世にたった一つしかない、不思議な虹色の瞳がニアを見つめていた。
そして、山々に咲き誇る花びらよりも可憐な唇が口にする白い立方体は―――、
「豆腐?」
「はい、お豆腐ですわ」
月光の生まれ変わりのような少女は何が嬉しいのか満面の笑みを浮かべた。
まるで満月が生まれ変わるようにあの夜の記憶が再生される。
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