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第4部 第2章・煽情

第2回

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 相原奈央はぼんやりと青く広がる空を眺めていた。

 カーテンを開けたその先は太陽から降り注ぐ明るい光に包まれており、鳥のさえずりが耳に心地よく響いている。そよ風が開け放たれた窓の網戸越しに部屋を吹き抜け、奈央の肌を軽く撫でていった。

 今日も忌々しいほどの眩しさに奈央は思わず目を細める。とてもいい天気。梅雨時のあの重たい空気に比べれば、この暑さなんて大したことはない。肌に張り付くような湿気もなく、心はとても軽かった。滲み出てくる汗さえ我慢すれば、完璧な一日の始まり。

 奈央は両腕を高く上げて胸を反らし、大きく伸びをすると一気に息を吐いて身体を弛緩させた。時計に目を向ければ、時刻は六時を過ぎたところだった。これから朝ごはんを摂って、シャワーを浴びてから着替えても、メイクする時間は充分にある。待ち合わせはいつもどおり、十時過ぎに駅前で。バスに乗れば駅までは十分くらいだし、もう少しのんびりしていても大丈夫なくらいだろう。

 奈央はいつものように大樹に『おはよう』のメッセージとスタンプを送り、微笑んだ。

 たぶん、大樹はまだ夢の中にいるのだろう。返信はない。或いは夢の中で、この女と。

 よし、と奈央は自室をあとにして、廊下に出る。階段に向かおうとして、ふと響紀の部屋の扉が視界に入った。

 たぶん、もう、響紀が帰ってくることはない。

 あたりまえのことだろう。のだから。

 今やアレらは井戸の底――あちら側に堕ちてしまった。

 道は閉じられ、戻ってくることも恐らくない。

 奈央はにやりと口元に笑みを浮かべると階段を降りる。

 ダイニングへ向かうと、そこには朝食の準備をしている小母と新聞を開く小父の姿があった。

「おはよう、小父さん、小母さん」
「奈央ちゃん、おはよう」
「おはよう」

 何度も交わした、いつもの挨拶。

 小父はあっという間に朝食を平らげると、時間に追われるようにして仕事に行ってしまった。

 いってらっしゃい、と奈央は小母と共にその背中に声をかける。

 奈央も朝食を終えると食器を片付け、風呂場へ向かった。

 手早く寝着と下着を脱ぐと洗濯機の上に置き、軽くシャワーで身体を流す。

 腹部に左手を当て、そして小さく擦った。

 ……足らない。全てが圧倒的に足らなかった。

 本来であれが、数多の男どもから吸い上げるべきモノがまるで足らない。自身を形作る為に必要なアレが、あの男ひとりで賄えるはずもないのだ。けれど、この身体があの男以外を強く拒む。他の男を決して受け入れない。頑なに身体を明け渡さない。きっと私は本当に大樹のことが好きなのだろう。彼のことを愛している。今は他の人のことなんて考えられない。そう奈央は思っていた。できればこのまま、ずっと好きでいたい。愛したい。永遠にこの気持ちが続けばいいのに。心の底から奈央は思い、そしてそれに抗わざるを得なかった。

 脱衣所に戻り、奈央は下着を身に着ける。鏡に映る自分の身体をチェックし、もしこの姿を大樹に見られても良いように、何度も身体の角度を変えてポーズをとる。もう少し可愛らしいデザインの方が良いだろうか。それとも、セクシーで大人っぽい方が大樹は好みだろうか。

 けれど、そんなことを考えてしまう自分が途端に恥ずかしくなって、奈央はそそくさと脱衣所をあとにした。

 昨日のうちに小母さんと相談して決めた服に着替えてダイニングに戻ると、食器洗いを終えた小母が化粧道具を準備して待機してくれていた。

「小母さん、時間は大丈夫?」

 そろそろ小母もパートに向かわなければならない時間のはずだ。

「大丈夫」と小母は微笑み、「さぁ、今日はどうする? 可愛くする? 大人っぽく?」

「この服なら、可愛い方がいいかな?」

「そうね、そうしましょう」

 小母にメイクしてもらいながら、奈央は居間の方に視線を向けた。

 そこはかつて、ビールを飲みながら寝転がってテレビを観ていた響紀の姿があった場所だ。

 あれから小母は、響紀のことを決して口にしなくなった。

 たぶん、自ら口にしたくないのだ。

 今でも警察によって捜索は続けられているようだが、果たして小母は響紀が戻ってくると信じているだろうか。

 本当に、無駄なことだ。

 テーブルの上に置かれた鏡に視線を戻せば、桃色のリップが奈央の唇を可愛らしく煌めかせている。うっすらと赤い頬もとても服に合っていた。

 昨日は大人っぽい服装とメイクで出かけたけれど、今日の可愛らしいメイクは新しい自分を見つけたようだ。普通よりも背の高い奈央は普段から大人っぽいと言われてきたけれど、自分としてはもっと可愛くなりたいと思っていた。服装やメイクでこんなに変われるのであれば、もっと早くからそうしていれば良かったと本当に思う。

「どう?」

 小母に訊ねられて、奈央は何度も角度を変えて自身の顔を鏡でチェックし、
「うん、完璧! ありがとう、小母さん」

「どういたしまして!」

 小母もにっこりとほほ笑み、そして時計に視線を向ける。

「あら、もうこんな時間! 急がないと!」
 小母は手早く薄いコートを羽織り、バッグを肩にかけると、
「じゃぁ、いってくるわね! 奈央ちゃんも気を付けて、楽しんできてね!」

「いってらっしゃい! 小母さんも気を付けてね!」

 その背中を見送り、奈央も出かける準備を整える。

 まだ少し早いけれど、自分もそろそろ出かけようかな。

 或いは今のうちに、ひとりふたり手籠めにできれば良いのだけれど。

 思いながら奈央は家をあとにすると、ふと家の前の道路に視線を落とした。

 どこから這い出てきたのか、無数の蚯蚓が干からびて至る所に転がり、死んでいる。

 その姿が横たわる大樹と重なり、奈央は思わず微笑んでいた。
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