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第4部 第1章・変貌
第5回
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5
宮野首麻奈はぼんやりと川を眺めていた。駅前を流れる猿猴川、その傍らに最近できたリバーサイドカフェで、コーヒーにちびちびと口をつけながら人を待っている。人、というよりは神に近しい存在。物怪の類。かつてはこの辺りで人を化かして驚かせていたらしい、狐の化生。
その昔、亰都の伏見稲荷まで神位を奪いに行ったという話だが、実際にどういう経緯で正一位なんて得られたのかまでは麻奈も知らなかった。或いは仕方なく渋々与えられた仮のモノだったりするんじゃないかとすら麻奈は思う。
五百を超える眷属を従えているらしく、そのうちの一匹は今、妹である玲奈のもとにいる。他にも何匹か会ったことはあるが、その全員が集まったところを見たことがないので、実際に五百匹も眷属がいるのか、ということも麻奈は知らなかった。もしかしたら、本当はそんなにいないのかも知れない。
決して人を殺めるようなことはなく、昔からなんだかんだで地元民とは仲良く暮らしていた、そんな存在。
本当の名前すら、麻奈は知らない。
通称は『おさん狐』。
彼女が祀られている神社には『伏見稲荷大明神』、その隣に『高寅稲荷大明神』とあるが、これは地元近辺で行われる亥の子祭の主祭神という話だそうだが、彼女――タマモ(由来は稀代の化け狐、玉藻の前による)によればそれは彼女の名前なのだそうだ。「つまり、虎の威を借る狐というわけだ」とタマモ自ら笑っていたので、それもまた本当かどうか怪しいところだ。それも実は嘘かもしれない。
生れてこの方、二十年以上も彼女と付き合っているが、いまだに齢数百歳の彼女のことをよくは知らない。逆にタマモからすれば麻奈や結奈、玲奈の三人は娘か妹のような感覚らしく、実際麻奈たち三人にとってタマモは姉のような存在に違いなかった。
そのタマモがいつごろから祖母である宮野首香澄と一緒にいるのか、それも麻奈は詳しく知らなかった。訊くところによれば、祖母が子供の頃にタマモの方から声をかけたらしい。祖母には生まれた時からいわゆる霊力というものがあり、タマモはそれに惹かれたのだとかなんとか。
宮野首家は元々田舎の神社で代々神職を生業としていた家系であったこともあって、霊的なものに関わりが深かった。それも関係しているのかもしれない。いずれにせよ、それ以来タマモはずっと宮野首家に寄り添うように生きてきた家族の一員に他ならなかった。
ここ数ヶ月は色々なことがあってなかなか会えなかったけれど、梅雨の終わり頃に起きたらしいあれやこれやが(一応の)決着がついたということで、その後始末を終えてようやく日常の生活に戻るという。彼女と行動を共にしていた祖母はまたどこかに行ってしまったらしいし、まぁ、そこは祖母の自由に任せよう、そう麻奈は達観していた。
今回の喪服少女の件にも、麻奈はほとんど関わっていない。関わらないようにしてきた。
昨年に一度、母校である鯉城高校をたまたま訪れた際、教室で倒れた相原奈央という少女を保健室で看病したことがある。その一度きりだ。あの時すでに相原奈央は喪服少女に目をつけられていたようだが、麻奈はそれにも気づかなかった。いや、気付きようがなかった。麻奈自身には霊力というものが一切にないからだ。
結奈には魔を祓う力がある。
玲奈にはどうやら“あちら”に接触する力がある。
けれど、麻奈自身には何の力もありはしなかった。だからこそ、麻奈はこれまで霊的事象には一切関わらず、何も知らないふりを続けてきたのだ。
そのことを知っているのはタマモだけ。ふたりだけの秘密。
麻奈はタマモから、祖母や妹たちの行動を話だけは聞いているけれど、何もできない以上、何も知らないことにしておいた方が周囲も動きやすいのではないか、そう考えた末の結論でもあった。
なんだか自分ひとりだけ蚊帳の外、という気持ちもあったが、下手にかかわって足を引っ張るのも違う気がして、麻奈は全てをタマモに任せていた。
ちょっとずるいかな、と何度も思いはしたが、けれど自分は何も知らないということにしている以上、どうしようもない。
「――何をぼんやりしている」
気づけば目の前の席に、タマモが腰を下ろしてこちらを見ていた。
金色の長い髪を無造作に束ね、白いシャツにジーパンというラフな姿だ。それなのにも関わらず、放っているオーラが違う。ただそこに居るだけで人を惹きつける。事実、周囲の人々の視線は皆、タマモに向けられていた。たぶん、タマモはあえてそうしている。気配を消すことだって簡単にやってのける力があるのにそうしないということは、今のタマモは「我の美しさをとくと見よ! 見惚れて跪くがよい!」というところだろうか。
「別に、なんでもない」麻奈は小さくため息を吐いて、「それで、全部終わった?」
「とりあえずはな」
言ってタマモは、胸をそらせて大きな伸びをひとつした。それと同時に、周囲から男たちの吐息が聞こえる。タマモは満足そうに口元に笑みを浮かべて、そんな彼らに流し目をくれてやった。楽しそうに男心を翻弄している。
「あの女が住んでいた家は取り壊しが決まった。もともとマンションを建てる計画があったらしいが、あの女が消滅したおかげでようやく着工するらしい」
「そうなんだ。まぁ、あんな不気味な廃墟、ない方がいいよね」
「これからが大変だけどな。なにせ、あの庭の井戸の処理から始めなければならない。色んなものが出てくるぞ」
「色んなもの?」
「決まっているだろう。人の残骸」
「うわ」
麻奈は思わず顔を歪める。
「まぁ、しばらくは警察やら何やらが世間を賑わせることだろうな」
「そんなところにマンションなんか建てて、人なんて住むかな?」
「住むだろう。人なんてあちらこちらで死んでいる。いちいち気にしてられない」
「え~? でも、さすがにあそこは気持ち悪いよ」
「住めば都だ。どうせ時と共に忘れ去られる。或いは何も井戸からは出ない可能性もある」
「何も? どういうこと?」
「あの井戸は“あちら”と繋がっていた。もしかしたら“こちら”には何も残っていないかもしれない。その場合はただ井戸を埋めて、マンションを建てるだけだろう。いずれにしろ、ここから先は我々の領分ではないからな。我の知るところではない」
「そりゃまぁ、そうか」
それから麻奈はコーヒーをひと口飲んで、
「おばあちゃんは? 元気にしてる? あ、いや、死んでるんだから元気にしてるってのも変な話か」
タマモは途端に顔を歪めた。唇を尖らせ、あからさまに不満そうな顔で、
「――元気すぎて困っている。また、どこかへ行ってしまった。今度は何に足を突っ込むつもりなのか、冷や冷やしている」
「それは、相変わらずだね」
「そう、相変わらずだ」
ふたりは肩を落とし、川を眺た。しばらく無言でキラキラ光る水面を眺めていたが、やがて麻奈はゆっくりと口を開いた。
「しばらく、ゆっくりできそう?」
「そうだな。今回の件では少し疲れた。今は休みたい」
麻奈はそっと瞼を閉じて、
「……良かった。タマちゃんが居なくて、ちょっと寂しかったから」
「もう、そういう歳でもなかろうに」
苦笑するタマモに、アサナも瞼を開き、小さく微笑んだ。
「――おかえり、タマモ」
タマモはうむと頷く。
「ただいま、朝奈」
宮野首麻奈はぼんやりと川を眺めていた。駅前を流れる猿猴川、その傍らに最近できたリバーサイドカフェで、コーヒーにちびちびと口をつけながら人を待っている。人、というよりは神に近しい存在。物怪の類。かつてはこの辺りで人を化かして驚かせていたらしい、狐の化生。
その昔、亰都の伏見稲荷まで神位を奪いに行ったという話だが、実際にどういう経緯で正一位なんて得られたのかまでは麻奈も知らなかった。或いは仕方なく渋々与えられた仮のモノだったりするんじゃないかとすら麻奈は思う。
五百を超える眷属を従えているらしく、そのうちの一匹は今、妹である玲奈のもとにいる。他にも何匹か会ったことはあるが、その全員が集まったところを見たことがないので、実際に五百匹も眷属がいるのか、ということも麻奈は知らなかった。もしかしたら、本当はそんなにいないのかも知れない。
決して人を殺めるようなことはなく、昔からなんだかんだで地元民とは仲良く暮らしていた、そんな存在。
本当の名前すら、麻奈は知らない。
通称は『おさん狐』。
彼女が祀られている神社には『伏見稲荷大明神』、その隣に『高寅稲荷大明神』とあるが、これは地元近辺で行われる亥の子祭の主祭神という話だそうだが、彼女――タマモ(由来は稀代の化け狐、玉藻の前による)によればそれは彼女の名前なのだそうだ。「つまり、虎の威を借る狐というわけだ」とタマモ自ら笑っていたので、それもまた本当かどうか怪しいところだ。それも実は嘘かもしれない。
生れてこの方、二十年以上も彼女と付き合っているが、いまだに齢数百歳の彼女のことをよくは知らない。逆にタマモからすれば麻奈や結奈、玲奈の三人は娘か妹のような感覚らしく、実際麻奈たち三人にとってタマモは姉のような存在に違いなかった。
そのタマモがいつごろから祖母である宮野首香澄と一緒にいるのか、それも麻奈は詳しく知らなかった。訊くところによれば、祖母が子供の頃にタマモの方から声をかけたらしい。祖母には生まれた時からいわゆる霊力というものがあり、タマモはそれに惹かれたのだとかなんとか。
宮野首家は元々田舎の神社で代々神職を生業としていた家系であったこともあって、霊的なものに関わりが深かった。それも関係しているのかもしれない。いずれにせよ、それ以来タマモはずっと宮野首家に寄り添うように生きてきた家族の一員に他ならなかった。
ここ数ヶ月は色々なことがあってなかなか会えなかったけれど、梅雨の終わり頃に起きたらしいあれやこれやが(一応の)決着がついたということで、その後始末を終えてようやく日常の生活に戻るという。彼女と行動を共にしていた祖母はまたどこかに行ってしまったらしいし、まぁ、そこは祖母の自由に任せよう、そう麻奈は達観していた。
今回の喪服少女の件にも、麻奈はほとんど関わっていない。関わらないようにしてきた。
昨年に一度、母校である鯉城高校をたまたま訪れた際、教室で倒れた相原奈央という少女を保健室で看病したことがある。その一度きりだ。あの時すでに相原奈央は喪服少女に目をつけられていたようだが、麻奈はそれにも気づかなかった。いや、気付きようがなかった。麻奈自身には霊力というものが一切にないからだ。
結奈には魔を祓う力がある。
玲奈にはどうやら“あちら”に接触する力がある。
けれど、麻奈自身には何の力もありはしなかった。だからこそ、麻奈はこれまで霊的事象には一切関わらず、何も知らないふりを続けてきたのだ。
そのことを知っているのはタマモだけ。ふたりだけの秘密。
麻奈はタマモから、祖母や妹たちの行動を話だけは聞いているけれど、何もできない以上、何も知らないことにしておいた方が周囲も動きやすいのではないか、そう考えた末の結論でもあった。
なんだか自分ひとりだけ蚊帳の外、という気持ちもあったが、下手にかかわって足を引っ張るのも違う気がして、麻奈は全てをタマモに任せていた。
ちょっとずるいかな、と何度も思いはしたが、けれど自分は何も知らないということにしている以上、どうしようもない。
「――何をぼんやりしている」
気づけば目の前の席に、タマモが腰を下ろしてこちらを見ていた。
金色の長い髪を無造作に束ね、白いシャツにジーパンというラフな姿だ。それなのにも関わらず、放っているオーラが違う。ただそこに居るだけで人を惹きつける。事実、周囲の人々の視線は皆、タマモに向けられていた。たぶん、タマモはあえてそうしている。気配を消すことだって簡単にやってのける力があるのにそうしないということは、今のタマモは「我の美しさをとくと見よ! 見惚れて跪くがよい!」というところだろうか。
「別に、なんでもない」麻奈は小さくため息を吐いて、「それで、全部終わった?」
「とりあえずはな」
言ってタマモは、胸をそらせて大きな伸びをひとつした。それと同時に、周囲から男たちの吐息が聞こえる。タマモは満足そうに口元に笑みを浮かべて、そんな彼らに流し目をくれてやった。楽しそうに男心を翻弄している。
「あの女が住んでいた家は取り壊しが決まった。もともとマンションを建てる計画があったらしいが、あの女が消滅したおかげでようやく着工するらしい」
「そうなんだ。まぁ、あんな不気味な廃墟、ない方がいいよね」
「これからが大変だけどな。なにせ、あの庭の井戸の処理から始めなければならない。色んなものが出てくるぞ」
「色んなもの?」
「決まっているだろう。人の残骸」
「うわ」
麻奈は思わず顔を歪める。
「まぁ、しばらくは警察やら何やらが世間を賑わせることだろうな」
「そんなところにマンションなんか建てて、人なんて住むかな?」
「住むだろう。人なんてあちらこちらで死んでいる。いちいち気にしてられない」
「え~? でも、さすがにあそこは気持ち悪いよ」
「住めば都だ。どうせ時と共に忘れ去られる。或いは何も井戸からは出ない可能性もある」
「何も? どういうこと?」
「あの井戸は“あちら”と繋がっていた。もしかしたら“こちら”には何も残っていないかもしれない。その場合はただ井戸を埋めて、マンションを建てるだけだろう。いずれにしろ、ここから先は我々の領分ではないからな。我の知るところではない」
「そりゃまぁ、そうか」
それから麻奈はコーヒーをひと口飲んで、
「おばあちゃんは? 元気にしてる? あ、いや、死んでるんだから元気にしてるってのも変な話か」
タマモは途端に顔を歪めた。唇を尖らせ、あからさまに不満そうな顔で、
「――元気すぎて困っている。また、どこかへ行ってしまった。今度は何に足を突っ込むつもりなのか、冷や冷やしている」
「それは、相変わらずだね」
「そう、相変わらずだ」
ふたりは肩を落とし、川を眺た。しばらく無言でキラキラ光る水面を眺めていたが、やがて麻奈はゆっくりと口を開いた。
「しばらく、ゆっくりできそう?」
「そうだな。今回の件では少し疲れた。今は休みたい」
麻奈はそっと瞼を閉じて、
「……良かった。タマちゃんが居なくて、ちょっと寂しかったから」
「もう、そういう歳でもなかろうに」
苦笑するタマモに、アサナも瞼を開き、小さく微笑んだ。
「――おかえり、タマモ」
タマモはうむと頷く。
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