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第4部 序章・大樹
第14回
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翌日も空には黒い雲がたちこめ、大粒の雨がしきりに降り続いていた。ねっとりとした空気が辺りを支配し、ただこうして歩いているだけなのに気怠くてしかたがなかった。大樹は一日の始まりとしては望ましくない出だしだと思いながら、人の犇めくバスに乗ってここまで歩きで何とか登校してきた。けれど、鯉城のお堀に沿って設けられた歩道を歩きながら、目の前を歩く相原の姿に気付いて、その気怠さが一気に吹き飛んでいくのを大樹は感じた。
良かった。特に何かあった様子はなさそうだ。大樹は自分が思っていた以上に相原のことを心配していたことに改めて気付いた。昨日はなんとか平静を保とうと耐えてきたけれど、こうして相原を目の前にすると、何だか気持ちが昂ってくる。
思わず声をかけようとその背中に近づいた時だった。
「あっ……!」
相原の足元が一瞬ふらつき、縁石に足先が当たった瞬間、そのままぐらりと前のめりに倒れていったのだ。
「危ないっ!」
大樹は寸でのところで相原の左腕を強く掴んで、手前に引っ張る。
「きゃあああぁぁああぁっ――――――あぁっ!」
その叫び声に、大樹は思わずたじろいだ。掴んでいた手が強引に振り解かれて、眼を大きく見開いた相原がこちらを振り向く。
まるで左腕を守るように胸の前に寄せる相原に、
「……ご、ごめん。……大丈夫?」
大樹は狼狽しながら訊ねた。
今の叫び声はただ事じゃない。何かあったんだろうか。まさか、実はもう――?
相原もそんな大樹の視線に気付いたのだろう、慌てたように左腕を引っ込め、
「あ、その……」とどこか恥ずかしそうに、大樹から視線を逸らしながら、「ごめん……ありがとう」と小さく頭を下げた。
たぶん、僕の気にし過ぎだろう。この様子なら、何かされたわけではなさそうだ。きっと自分がいきなり腕を掴んだものだから、驚いて悲鳴をあげてしまっただけに違いない。
「ああ、いや……」大樹は頭を掻きながら、「僕こそ、力の加減が判らなくて。痛かったよね、ごめんね」
「う、ううん」相原は首を横に振って、小さく微笑みながら、「ありがと」
その微笑みが綺麗で、可愛くて、嬉しくて、大樹も自然と笑みが零れる。
それからふたりは、どちらからともなく並んで歩き始めた。互いの傘が触れ合わない微妙な距離を保ちつつ歩道を進む。やがて校門を抜けて、昇降口へ向かいながら、大樹はふと口を開いた。
「そういえば、もう、風邪は大丈夫なの?」
「あ、うん」と相原は頷いて、「一応、薬を飲んでるから、大丈夫」
「そう? 何かふらふら歩いてたから、まだ調子悪いんじゃない? 無理しないで休んだら?」
「でも、来週から期末テストだもの。ちゃんと勉強しておかないと」
「真面目だね」と大樹は笑う。「僕も頑張らなくちゃな。全然、授業についていけてないし」
「……そうなの?」
「まあ、元々頭は良い方じゃないからね。何でこの高校に入れたのか解らないくらいには頭が悪いよ」
「何か意外だね」相原は言って、ニヤリと笑んだ。「勉強くらいしか取り柄がないのかと思ってたのにな」
そんなふうに思われていたのか、と大樹は少しばかり驚きながら、「好きなことだけだよ、勉強ができてるのは」と苦笑した。
「それ以外はてんで駄目。テストの度に赤点で補習ばっかり。もう嫌になる。相原さんはどう?」
「私? 私は、勉強で困った事はないかな。むしろ、勉強しかやることなかったし。お父さんの転勤が毎年のようにあって、友達なんて全然居なかったから、一緒にどこかへ出かけるってこともなかったし。まあ、それは今も変わらないんだけどね」
自嘲気味に笑う相原に、大樹はしまったと、後悔する。そういえばこの一年の間に、何度もそんな話をしていたはずだ。そのたびに相原は寂しそうな表情で、同じように話していたじゃないか。大樹は顔を伏せ、猛省する。それと同時に、だったら、なおさら、僕が――と拳を握り締めた。それから、意を決して、勇気を振り絞る。
「じ、じゃあ、さ…… 今度、僕と、その…… どこか、遊びに行こう! 二人でさ……!」
大樹は顔をあげて、じっと相原の瞳を見つめた。
その言葉を口にしてから、一気に全身から汗が噴き出す。自分はなんてことを口にしてしまったんだ。これでは完全にデートの誘いじゃないか。けれど、今さら言わなかったことにもしたくなかった。今までずっと言いたくて言えなかったことだ。自分の本心だ。嘘偽りのない、自身の気持ちだ。
相原も突然のことに驚いているのだろう。ばさりと傘を取り落として、頬を紅潮させながら、両手で口を覆っていた。
相原は何を思っているのだろう、何を感じているのだろう、どう返事するのだろう。
しばらくの間、二人の間を沈黙が満たした。互いになかなか言葉が出ずに、ただ見つめあうだけの時が流れる。
やがて相原は、「えっと…… その……」としどろもどろになりながら言葉を探すように口を開いて、けれどなかなか続きが出てこない様子だった。
大樹はそんな相原に、相原の落とした傘を拾って手渡しながら、
「へ、返事は、また、今度でもいいからさ。予定もあるだろうし……! そそ、そんなことより、遅刻しちゃうし、早く行こう!」
「あ、う、うん……」
相原はぎこちなくこくりと頷いて傘を受け取ると、再び大樹と並んで歩き始めた。
昇降口を抜け、上靴に履き替えてから階を上がる。その間、ふたりは一言も会話をしなかった。いや、出来なかった。互いに互いを意識し過ぎて、まるで言葉が見つからなかった。
やがて相原のクラスが近づき、扉の前でようやく相原は口を開いた。
「……じゃあ、またね」
「ああ、うん……」大樹は小さく頷き、改めて相原に顔を向ける。その恥ずかしそうな表情の相原に、大樹自身も頬を染めながら笑顔で手を振る。「その…… あまり無理しないようにね。風邪なんだから、疲れたら、保健室に行きなよ?」
「うん…… ありがと……」
相原も微笑みながら大樹に手を振り返し、教室の中へ入っていった。
大樹はあまりの恥ずかしさから、そんな相原から逃げるように、脱兎の如く駆けだした。
翌日も空には黒い雲がたちこめ、大粒の雨がしきりに降り続いていた。ねっとりとした空気が辺りを支配し、ただこうして歩いているだけなのに気怠くてしかたがなかった。大樹は一日の始まりとしては望ましくない出だしだと思いながら、人の犇めくバスに乗ってここまで歩きで何とか登校してきた。けれど、鯉城のお堀に沿って設けられた歩道を歩きながら、目の前を歩く相原の姿に気付いて、その気怠さが一気に吹き飛んでいくのを大樹は感じた。
良かった。特に何かあった様子はなさそうだ。大樹は自分が思っていた以上に相原のことを心配していたことに改めて気付いた。昨日はなんとか平静を保とうと耐えてきたけれど、こうして相原を目の前にすると、何だか気持ちが昂ってくる。
思わず声をかけようとその背中に近づいた時だった。
「あっ……!」
相原の足元が一瞬ふらつき、縁石に足先が当たった瞬間、そのままぐらりと前のめりに倒れていったのだ。
「危ないっ!」
大樹は寸でのところで相原の左腕を強く掴んで、手前に引っ張る。
「きゃあああぁぁああぁっ――――――あぁっ!」
その叫び声に、大樹は思わずたじろいだ。掴んでいた手が強引に振り解かれて、眼を大きく見開いた相原がこちらを振り向く。
まるで左腕を守るように胸の前に寄せる相原に、
「……ご、ごめん。……大丈夫?」
大樹は狼狽しながら訊ねた。
今の叫び声はただ事じゃない。何かあったんだろうか。まさか、実はもう――?
相原もそんな大樹の視線に気付いたのだろう、慌てたように左腕を引っ込め、
「あ、その……」とどこか恥ずかしそうに、大樹から視線を逸らしながら、「ごめん……ありがとう」と小さく頭を下げた。
たぶん、僕の気にし過ぎだろう。この様子なら、何かされたわけではなさそうだ。きっと自分がいきなり腕を掴んだものだから、驚いて悲鳴をあげてしまっただけに違いない。
「ああ、いや……」大樹は頭を掻きながら、「僕こそ、力の加減が判らなくて。痛かったよね、ごめんね」
「う、ううん」相原は首を横に振って、小さく微笑みながら、「ありがと」
その微笑みが綺麗で、可愛くて、嬉しくて、大樹も自然と笑みが零れる。
それからふたりは、どちらからともなく並んで歩き始めた。互いの傘が触れ合わない微妙な距離を保ちつつ歩道を進む。やがて校門を抜けて、昇降口へ向かいながら、大樹はふと口を開いた。
「そういえば、もう、風邪は大丈夫なの?」
「あ、うん」と相原は頷いて、「一応、薬を飲んでるから、大丈夫」
「そう? 何かふらふら歩いてたから、まだ調子悪いんじゃない? 無理しないで休んだら?」
「でも、来週から期末テストだもの。ちゃんと勉強しておかないと」
「真面目だね」と大樹は笑う。「僕も頑張らなくちゃな。全然、授業についていけてないし」
「……そうなの?」
「まあ、元々頭は良い方じゃないからね。何でこの高校に入れたのか解らないくらいには頭が悪いよ」
「何か意外だね」相原は言って、ニヤリと笑んだ。「勉強くらいしか取り柄がないのかと思ってたのにな」
そんなふうに思われていたのか、と大樹は少しばかり驚きながら、「好きなことだけだよ、勉強ができてるのは」と苦笑した。
「それ以外はてんで駄目。テストの度に赤点で補習ばっかり。もう嫌になる。相原さんはどう?」
「私? 私は、勉強で困った事はないかな。むしろ、勉強しかやることなかったし。お父さんの転勤が毎年のようにあって、友達なんて全然居なかったから、一緒にどこかへ出かけるってこともなかったし。まあ、それは今も変わらないんだけどね」
自嘲気味に笑う相原に、大樹はしまったと、後悔する。そういえばこの一年の間に、何度もそんな話をしていたはずだ。そのたびに相原は寂しそうな表情で、同じように話していたじゃないか。大樹は顔を伏せ、猛省する。それと同時に、だったら、なおさら、僕が――と拳を握り締めた。それから、意を決して、勇気を振り絞る。
「じ、じゃあ、さ…… 今度、僕と、その…… どこか、遊びに行こう! 二人でさ……!」
大樹は顔をあげて、じっと相原の瞳を見つめた。
その言葉を口にしてから、一気に全身から汗が噴き出す。自分はなんてことを口にしてしまったんだ。これでは完全にデートの誘いじゃないか。けれど、今さら言わなかったことにもしたくなかった。今までずっと言いたくて言えなかったことだ。自分の本心だ。嘘偽りのない、自身の気持ちだ。
相原も突然のことに驚いているのだろう。ばさりと傘を取り落として、頬を紅潮させながら、両手で口を覆っていた。
相原は何を思っているのだろう、何を感じているのだろう、どう返事するのだろう。
しばらくの間、二人の間を沈黙が満たした。互いになかなか言葉が出ずに、ただ見つめあうだけの時が流れる。
やがて相原は、「えっと…… その……」としどろもどろになりながら言葉を探すように口を開いて、けれどなかなか続きが出てこない様子だった。
大樹はそんな相原に、相原の落とした傘を拾って手渡しながら、
「へ、返事は、また、今度でもいいからさ。予定もあるだろうし……! そそ、そんなことより、遅刻しちゃうし、早く行こう!」
「あ、う、うん……」
相原はぎこちなくこくりと頷いて傘を受け取ると、再び大樹と並んで歩き始めた。
昇降口を抜け、上靴に履き替えてから階を上がる。その間、ふたりは一言も会話をしなかった。いや、出来なかった。互いに互いを意識し過ぎて、まるで言葉が見つからなかった。
やがて相原のクラスが近づき、扉の前でようやく相原は口を開いた。
「……じゃあ、またね」
「ああ、うん……」大樹は小さく頷き、改めて相原に顔を向ける。その恥ずかしそうな表情の相原に、大樹自身も頬を染めながら笑顔で手を振る。「その…… あまり無理しないようにね。風邪なんだから、疲れたら、保健室に行きなよ?」
「うん…… ありがと……」
相原も微笑みながら大樹に手を振り返し、教室の中へ入っていった。
大樹はあまりの恥ずかしさから、そんな相原から逃げるように、脱兎の如く駆けだした。
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