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第3部 第2章・魂の存在
第7回
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5
玲奈と桜は駅前でバス停を降り、しとしとと降り始めた雨に傘をさして、並んで歩道を歩いていた。西の空に顔を向ければ、鈍色の雲がどんよりとたちこめている。どうやら、また強い雨が降ってきそうだ。
玲奈と桜は足早に道を行くと、玲奈の住むマンションの下でふたりはわかれた。
玲奈が桜に「また明日」と手を振ると、桜も「じゃねー」と笑顔で振り返す。
それから玲奈はマンションのエントランスに向かうと傘を折り畳み、エレベーターに乗ろうと体を向けたところで、
「――あっ」
そこにはあのスーツを着た変態男の姿があって、こちらに背を向け、今まさにエレベーターが下りてくるのを待っていたのである。
男は傘を持って出るのを忘れたのか、全身がびしょ濡れになっていた。体中からぽたぽたと水滴を垂らしており、少しうつむくように頭を下げて立っている。エントランスの灯りが薄暗いせいか、その背中には黒い影のようなものがかかり、何だか不気味だ。
このまま進めば、この男と一緒にエレベーターに乗ることになってしまう。同じエレベーターに乗ることほど恐ろしいことはない。物理的に襲われてしまうかもしれないのに、そんなこと、できるはずがない。
玲奈は足音を立てないように、男に気づかれないように、そろそろと外階段の方へ足を向けた。その間も、玲奈は視線を男から離さなかった。まさかこちらを振り向いて、追いかけてくるようなことはないだろうけれど、警戒せずにはいられなかったのだ。
なんとか無事に外階段まで辿り着いて、玲奈は大股で階段を駆け上がった。普段あまり運動をしないためか、部屋の前にたどり着いたころにはすっかり息が切れていた。
呼吸を整えながら玄関の鍵を開けて、急いで中に入る。
そこでようやく、玲奈は一息ついた。
「大丈夫? コトラ。目、回ってない?」
大急ぎで階段を駆け上がったものだから、通学鞄にぶら下がったままのコトラは振り回されて、さぞ目を回してしまったことだろう。
思いながら、玲奈はコトラの顔を覗き込む。
「……コトラ?」
コトラは返事をしなかったが、けれど目を回している様子はなく、まるで何かを深く考えているように眉間にしわを寄せていた。
「どうかしたの? 大丈夫?」
玲奈の呼びかけに、ようやくコトラはハッと我に返ったように顔を上げ、「えっ、あっ……」と口を濁す。
「どうしたの? 何かあった?」
コトラの様子は明らかにどこかおかしかった。何度も呼び掛けられてようやく気付くくらいに、何か深く考えていたのは確かだ。いったい、何を考えていたのだろうか。何があったのだろうか。
するとコトラは鼻をすんすんさせながら、何かの臭いを嗅ぐようにして、「――玲奈さん」と声を潜めて口にした。
「なぁに?」と玲奈は小首を傾げる。
コトラは辺りを警戒するように視線を巡らせて、小さくため息を吐いてから、
「臭います」
「何が?」
「死者の臭いです」
「――えっ?」
玲奈はその言葉に、一瞬慌てて辺りを見回す。神経を集中させて、五感を――六感を研ぎ澄ませる。けれど、どこにもそんな気配は感じない。臭いもしない。
「どこに?」
「今、ここにはいません」とコトラは首を横に振ってから、「でも、ここにいます」
「なにそれ、どういう意味?」
コトラの言っている意味が、玲奈にはよくわからなかった。
コトラはいったい、何を言おうとしているの?
「……先程、エントランスにいた、あの男」
その瞬間、玲奈はコトラの言わんとすることをようやく悟った。
びしょ濡れのあの姿。てっきり傘を忘れて雨の中を駆けて帰ってきたのだとばかり思っていたのだけれど。
「まさか、あの人――」
はい、とコトラは小さく頷く。
「あの人は、もう、生きていません。死者です」
「な、なんで? どうして?」
玲奈は驚愕し、同時に身の回りの警戒を強めた。
肉体を失った今、あの男は――自由だ。
どこへでもいける。なんでもできる。誰にも咎められることなく。
それがどういうことか、玲奈には、よくわかる。
真の意味で“犯罪”とは無縁の世界。何をしても罪にはならない。
それは、つまり――いつどこで襲われるとも知れないということ。
でも、だとしたら、まさか。
「玲奈さんを教室で襲ったのも、アイツです。同じ臭いがしました」
その瞬間、玲奈の身体はゾクリとした。鳥肌が立って、手足が震え始める。
アレが――あの手が――あの男のものだったなんて。
それだけじゃない。
今もあの男は、このマンションの中に、いる。
しかも、肉体を失った死者となって。
「今のところ、この部屋にあの男はいません。けれど、確かに気配は感じます。今もこの建物のどこかに潜んでいるのは、間違いありません。もしかしたら、自分の家で時を窺っているのかも知れません」
「そ、そんな……!」
玲奈は身体を縮こまらせて、辺りを見回す。いくらこの部屋にはいないとしても、このマンションのどこかに、あの男は確かにいるのだ。どうしてそんなことになってしまったのかなんて解らないけれど、死者となって。それがどういうことなのか、考えずとも玲奈には解った。
あの男は、死してなお、玲奈の身体に執着していた。だから教室まで現れて、黒い影となって玲奈の胸をもてあそぼうとしてきたのだ。あの時は桜がいたから何とかなった。きっと玲奈が対峙したときのように、怖気付いて逃げ出したのだろう。或いはまだ生きていたときの感覚で、他者に感づかれていることに怯えたのか。
しかし、死者の感覚に慣れてしまえばそれも無くなる。誰にも咎められないことに気付いたとき、彼は真の自由を手に入れる。それがどういうことなのか理解したときが、一番、怖い。
「大丈夫です、玲奈さん」
「え?」
コトラに視線を戻せば、コトラはぽんっと子狐の姿に変化して、廊下に降り立ち、じっと玲奈の顔を見つめながら、
「僕が必ず、玲奈さんをお守りします。安心してください」
「……コトラ」
呟き、玲奈はこくりと頷いた。
そうだ、きっと大丈夫。あの男が死者になったのであれば、むしろコトラの鼻が利く。コトラの力で散らすことができる。それに、この家には結奈もいるのだ。あの男のことだから、私だけじゃなく、きっと結奈にも手を出そうとしてくることだろう。そうなれば、当然のように結奈も黙ってはいない。自分にも危害が及ぶとしたら、結奈は必ずあの男に“気合いパンチ”を振りかざすことになるだろう。
そう、何も心配することはないのだ。
玲奈は大きくため息を吐いて、自分にそう言い聞かせた。
それから腰を屈めて、いきり立つコトラの頭を撫でながら、
「私のこと、ちゃんと守ってね、コトラ」
「はい!」
コトラはファオンと、大きく吠えた。
玲奈と桜は駅前でバス停を降り、しとしとと降り始めた雨に傘をさして、並んで歩道を歩いていた。西の空に顔を向ければ、鈍色の雲がどんよりとたちこめている。どうやら、また強い雨が降ってきそうだ。
玲奈と桜は足早に道を行くと、玲奈の住むマンションの下でふたりはわかれた。
玲奈が桜に「また明日」と手を振ると、桜も「じゃねー」と笑顔で振り返す。
それから玲奈はマンションのエントランスに向かうと傘を折り畳み、エレベーターに乗ろうと体を向けたところで、
「――あっ」
そこにはあのスーツを着た変態男の姿があって、こちらに背を向け、今まさにエレベーターが下りてくるのを待っていたのである。
男は傘を持って出るのを忘れたのか、全身がびしょ濡れになっていた。体中からぽたぽたと水滴を垂らしており、少しうつむくように頭を下げて立っている。エントランスの灯りが薄暗いせいか、その背中には黒い影のようなものがかかり、何だか不気味だ。
このまま進めば、この男と一緒にエレベーターに乗ることになってしまう。同じエレベーターに乗ることほど恐ろしいことはない。物理的に襲われてしまうかもしれないのに、そんなこと、できるはずがない。
玲奈は足音を立てないように、男に気づかれないように、そろそろと外階段の方へ足を向けた。その間も、玲奈は視線を男から離さなかった。まさかこちらを振り向いて、追いかけてくるようなことはないだろうけれど、警戒せずにはいられなかったのだ。
なんとか無事に外階段まで辿り着いて、玲奈は大股で階段を駆け上がった。普段あまり運動をしないためか、部屋の前にたどり着いたころにはすっかり息が切れていた。
呼吸を整えながら玄関の鍵を開けて、急いで中に入る。
そこでようやく、玲奈は一息ついた。
「大丈夫? コトラ。目、回ってない?」
大急ぎで階段を駆け上がったものだから、通学鞄にぶら下がったままのコトラは振り回されて、さぞ目を回してしまったことだろう。
思いながら、玲奈はコトラの顔を覗き込む。
「……コトラ?」
コトラは返事をしなかったが、けれど目を回している様子はなく、まるで何かを深く考えているように眉間にしわを寄せていた。
「どうかしたの? 大丈夫?」
玲奈の呼びかけに、ようやくコトラはハッと我に返ったように顔を上げ、「えっ、あっ……」と口を濁す。
「どうしたの? 何かあった?」
コトラの様子は明らかにどこかおかしかった。何度も呼び掛けられてようやく気付くくらいに、何か深く考えていたのは確かだ。いったい、何を考えていたのだろうか。何があったのだろうか。
するとコトラは鼻をすんすんさせながら、何かの臭いを嗅ぐようにして、「――玲奈さん」と声を潜めて口にした。
「なぁに?」と玲奈は小首を傾げる。
コトラは辺りを警戒するように視線を巡らせて、小さくため息を吐いてから、
「臭います」
「何が?」
「死者の臭いです」
「――えっ?」
玲奈はその言葉に、一瞬慌てて辺りを見回す。神経を集中させて、五感を――六感を研ぎ澄ませる。けれど、どこにもそんな気配は感じない。臭いもしない。
「どこに?」
「今、ここにはいません」とコトラは首を横に振ってから、「でも、ここにいます」
「なにそれ、どういう意味?」
コトラの言っている意味が、玲奈にはよくわからなかった。
コトラはいったい、何を言おうとしているの?
「……先程、エントランスにいた、あの男」
その瞬間、玲奈はコトラの言わんとすることをようやく悟った。
びしょ濡れのあの姿。てっきり傘を忘れて雨の中を駆けて帰ってきたのだとばかり思っていたのだけれど。
「まさか、あの人――」
はい、とコトラは小さく頷く。
「あの人は、もう、生きていません。死者です」
「な、なんで? どうして?」
玲奈は驚愕し、同時に身の回りの警戒を強めた。
肉体を失った今、あの男は――自由だ。
どこへでもいける。なんでもできる。誰にも咎められることなく。
それがどういうことか、玲奈には、よくわかる。
真の意味で“犯罪”とは無縁の世界。何をしても罪にはならない。
それは、つまり――いつどこで襲われるとも知れないということ。
でも、だとしたら、まさか。
「玲奈さんを教室で襲ったのも、アイツです。同じ臭いがしました」
その瞬間、玲奈の身体はゾクリとした。鳥肌が立って、手足が震え始める。
アレが――あの手が――あの男のものだったなんて。
それだけじゃない。
今もあの男は、このマンションの中に、いる。
しかも、肉体を失った死者となって。
「今のところ、この部屋にあの男はいません。けれど、確かに気配は感じます。今もこの建物のどこかに潜んでいるのは、間違いありません。もしかしたら、自分の家で時を窺っているのかも知れません」
「そ、そんな……!」
玲奈は身体を縮こまらせて、辺りを見回す。いくらこの部屋にはいないとしても、このマンションのどこかに、あの男は確かにいるのだ。どうしてそんなことになってしまったのかなんて解らないけれど、死者となって。それがどういうことなのか、考えずとも玲奈には解った。
あの男は、死してなお、玲奈の身体に執着していた。だから教室まで現れて、黒い影となって玲奈の胸をもてあそぼうとしてきたのだ。あの時は桜がいたから何とかなった。きっと玲奈が対峙したときのように、怖気付いて逃げ出したのだろう。或いはまだ生きていたときの感覚で、他者に感づかれていることに怯えたのか。
しかし、死者の感覚に慣れてしまえばそれも無くなる。誰にも咎められないことに気付いたとき、彼は真の自由を手に入れる。それがどういうことなのか理解したときが、一番、怖い。
「大丈夫です、玲奈さん」
「え?」
コトラに視線を戻せば、コトラはぽんっと子狐の姿に変化して、廊下に降り立ち、じっと玲奈の顔を見つめながら、
「僕が必ず、玲奈さんをお守りします。安心してください」
「……コトラ」
呟き、玲奈はこくりと頷いた。
そうだ、きっと大丈夫。あの男が死者になったのであれば、むしろコトラの鼻が利く。コトラの力で散らすことができる。それに、この家には結奈もいるのだ。あの男のことだから、私だけじゃなく、きっと結奈にも手を出そうとしてくることだろう。そうなれば、当然のように結奈も黙ってはいない。自分にも危害が及ぶとしたら、結奈は必ずあの男に“気合いパンチ”を振りかざすことになるだろう。
そう、何も心配することはないのだ。
玲奈は大きくため息を吐いて、自分にそう言い聞かせた。
それから腰を屈めて、いきり立つコトラの頭を撫でながら、
「私のこと、ちゃんと守ってね、コトラ」
「はい!」
コトラはファオンと、大きく吠えた。
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