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第3部 第2章・魂の存在
第4回
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***
ぬるりとした空気が漂っていた。
生暖かく、息苦しく、とても重たい空気だった。吸い込むごとに肺が何かよくないものに侵され、意識を失ってしまいそうな気さえしてくる。
夜の帳が下り、世界は闇に閉ざされてしまったかのように暗い。月はなく、星一つ見当たらない、まるで大きな穴が空いてしまったような空を見上げれば、ただ不安と恐怖の感情しか湧いてはこなかった。
三つ葉中学に入学してから半年以上が経過した、秋の入り口。蒸し暑かった夏も終わり、冬に向かって気温が下がりゆくなかで、玲奈は焦りを覚えながら帰途を急いだ。
どこから……?
玲奈にはその記憶がまるでなかった。
確か、桜の家で遊んでいて、気がついたら外は真っ暗になっていて、慌てて帰ることにした……ような気がする。
気がする、というのは、玲奈にはそんなことがあったという実感がないからだ。それはとても不思議な感覚だった。これまで、こんな感覚に陥ったことは一度もない。まるで夢現、幻の中を彷徨い歩いているような……
もしかしたら、ここは夢の中?
玲奈は立ち止まり、辺りを見回してみた。頼りなく光る街灯。灯りの消え去った家々が立ち並ぶ不気味な町並み。車の走る音も虫の鳴く声も全く聞こえてこない完全なる静寂。
やっぱり、そうだ。これは夢なんだ。
玲奈は確信し、それと同時に、肩から下げていた小さなショルダーに目を向けた。そこには狐のぬいぐるみキーホルダーが引っかかっており、プルプルと震えている。
「コトラ。これは、夢?」
話しかければ、コトラは周囲を警戒するように、大きく首を横に振って、
「違います。夢じゃありません」
「……えっ?」
その返答に、玲奈は一瞬、背筋を跳ねるように伸ばし、
「夢じゃ、ないの?」
はい、とコトラは返事して、
「ここは……たぶん、アワイです」
「それ、どういうこと?」
玲奈の問いに、コトラはぽんっと子狐の姿に変化すると、くんくん辺りを嗅ぎながら、
「わかりません。けど、道が“あちら”と繋がっています」
“あちら”と言われて玲奈が思い浮かべたのは、春先に起きたお化け桜の件で、玲奈が意識を飛ばされた場所だった。
“あちら”については、祖母はおろか、タマモやコトラも明確な説明をしてくれたことなど一度もなかった。ただ漠然と、死者の向かう場所、ここではない別のどこか、そんな説明しかされていなかった。
いや、そもそも誰にも“あちら”のことは解らないのだという。
どこまでも続く冷たい闇が広がっているというものがいる。
その逆に、眩しいほどの光に包まれた暖かい場所だというものがいる。
いずれにせよ、死して逝けば戻ってこられぬ場所であることだけは確かなようだ。
“あちら”の深淵まで踏み込んだものは、生者の中にはひとりもいない。
どこへ繋がっているのか、そこに何があるのか、誰にも解らないのだ。
その“あちら”へ、一時とはいえ、玲奈は意識だけ飛ばされた。
そこに広がっているのは、少なくとも玲奈にとっては闇だった。
どこまでも続く、真っ暗な闇。
上も下も右も左も前も後も解らない、ただ真っ暗なだけの世界。
それが、玲奈の認識した“あちら”だった。
ただ、その先に何かがあるらしい、というのは体感で理解していた。
何か、漠然とした、こことは違う別の世界。
その何かに対して、玲奈は恐れを――畏怖を感じていた。
何か強大なものが立ち塞がっているような、そんな印象だったように今なら思う。
越えることのできない、或いは越えてはならない、巨大な壁のような何か。
たぶん、あの闇の先には、それがある。
その闇に、何かが潜み、そして蠢いている。
祖母は確か、それをトコヤミと呼んでいたはずだ。
「このまま歩き続けるのは、危険かもしれません」
コトラは言って、玲奈に振り向く。
「でも、じゃぁ、どうすればいいの? 引き返す?」
玲奈は後ろを振り向き、その薄暗い、知っているようで知らないような、何とも言えない町並みを不安げに見つめた。
引き返すにしても、元の道に――例えば桜の家まで戻れるかどうかも判らない。
コトラも、もう一度鼻をひくひくさせて臭いを嗅ぎながら、
「ご、ごめんなさい。臭いが混ざり過ぎていて、この先に何があるのか、僕にも判りません――あっ!」
「え、なに? どうかしたの?」
玲奈は焦り、思わず腰を屈める。
「――何かいます」
コトラの視線の先、古びた街路灯の下に目を向ければ、真っ黒な人影が佇んでいた。
人影――いや、違う。人“影”ではない。
人だ。
真っ黒な姿の人が、うつむくようにして立っているのだ。
その服装から、恐らく女。
焼け焦げたような服にスカート、長かったのであろう髪はボサボサに縮れており、真っ黒に見えたその姿は、事実、その肌が黒く焼けただれていたからだった。
玲奈は息を飲み、立ち竦んだ。
たぶん、火事か何かで亡くなった人。
それだけなら、玲奈はこれまでに何度も目にしてきた。それが死者であるということを理解するまで、特に何も気にすることなく生きてきた。だから、その見た目に恐怖するということは特にない。或いは感覚が麻痺しているだけとも言えるかも知れないのだけれど。
その焼けただれた死者が、ぼそぼそと何か言葉を口にしている。
いったい、何を言っているの……?
玲奈は耳を澄ませてみたが、けれどまるで聞き取れない。
いや、そもそも死者の言葉に耳を傾ける必要などないのだ。
あれらはもう、存在しないものたちなのだから。
面倒ごとに自ら関わる必要など、ない。
「コトラ」
玲奈は、歯をむき出して唸るコトラに声を掛けた。
「はい」
コトラは短く答えて、
「――――ファオン!」
大きく、ひと鳴きした。
その瞬間、死者の身体が一気に吹き飛ぶ。
地面に叩きつけられ、身を震わせながら再び起き上がろうとする死者に、コトラはもう一度、今度はより大きく、
「――――ファオォーン!」
吠え声をあげた。
その吠え声に、死者の身体がより遠くに吹き飛ばされて――気づくとそこにはもう、死者の姿はどこにもなかった。
ただ先程までの静寂が、戻ってきただけだった。
「……もう、大丈夫です」
コトラの言葉に、玲奈はほっと安堵したところで、
「宮野首さん!」
突然声をかけられて、玲奈は大きく叫んでいた。
ぬるりとした空気が漂っていた。
生暖かく、息苦しく、とても重たい空気だった。吸い込むごとに肺が何かよくないものに侵され、意識を失ってしまいそうな気さえしてくる。
夜の帳が下り、世界は闇に閉ざされてしまったかのように暗い。月はなく、星一つ見当たらない、まるで大きな穴が空いてしまったような空を見上げれば、ただ不安と恐怖の感情しか湧いてはこなかった。
三つ葉中学に入学してから半年以上が経過した、秋の入り口。蒸し暑かった夏も終わり、冬に向かって気温が下がりゆくなかで、玲奈は焦りを覚えながら帰途を急いだ。
どこから……?
玲奈にはその記憶がまるでなかった。
確か、桜の家で遊んでいて、気がついたら外は真っ暗になっていて、慌てて帰ることにした……ような気がする。
気がする、というのは、玲奈にはそんなことがあったという実感がないからだ。それはとても不思議な感覚だった。これまで、こんな感覚に陥ったことは一度もない。まるで夢現、幻の中を彷徨い歩いているような……
もしかしたら、ここは夢の中?
玲奈は立ち止まり、辺りを見回してみた。頼りなく光る街灯。灯りの消え去った家々が立ち並ぶ不気味な町並み。車の走る音も虫の鳴く声も全く聞こえてこない完全なる静寂。
やっぱり、そうだ。これは夢なんだ。
玲奈は確信し、それと同時に、肩から下げていた小さなショルダーに目を向けた。そこには狐のぬいぐるみキーホルダーが引っかかっており、プルプルと震えている。
「コトラ。これは、夢?」
話しかければ、コトラは周囲を警戒するように、大きく首を横に振って、
「違います。夢じゃありません」
「……えっ?」
その返答に、玲奈は一瞬、背筋を跳ねるように伸ばし、
「夢じゃ、ないの?」
はい、とコトラは返事して、
「ここは……たぶん、アワイです」
「それ、どういうこと?」
玲奈の問いに、コトラはぽんっと子狐の姿に変化すると、くんくん辺りを嗅ぎながら、
「わかりません。けど、道が“あちら”と繋がっています」
“あちら”と言われて玲奈が思い浮かべたのは、春先に起きたお化け桜の件で、玲奈が意識を飛ばされた場所だった。
“あちら”については、祖母はおろか、タマモやコトラも明確な説明をしてくれたことなど一度もなかった。ただ漠然と、死者の向かう場所、ここではない別のどこか、そんな説明しかされていなかった。
いや、そもそも誰にも“あちら”のことは解らないのだという。
どこまでも続く冷たい闇が広がっているというものがいる。
その逆に、眩しいほどの光に包まれた暖かい場所だというものがいる。
いずれにせよ、死して逝けば戻ってこられぬ場所であることだけは確かなようだ。
“あちら”の深淵まで踏み込んだものは、生者の中にはひとりもいない。
どこへ繋がっているのか、そこに何があるのか、誰にも解らないのだ。
その“あちら”へ、一時とはいえ、玲奈は意識だけ飛ばされた。
そこに広がっているのは、少なくとも玲奈にとっては闇だった。
どこまでも続く、真っ暗な闇。
上も下も右も左も前も後も解らない、ただ真っ暗なだけの世界。
それが、玲奈の認識した“あちら”だった。
ただ、その先に何かがあるらしい、というのは体感で理解していた。
何か、漠然とした、こことは違う別の世界。
その何かに対して、玲奈は恐れを――畏怖を感じていた。
何か強大なものが立ち塞がっているような、そんな印象だったように今なら思う。
越えることのできない、或いは越えてはならない、巨大な壁のような何か。
たぶん、あの闇の先には、それがある。
その闇に、何かが潜み、そして蠢いている。
祖母は確か、それをトコヤミと呼んでいたはずだ。
「このまま歩き続けるのは、危険かもしれません」
コトラは言って、玲奈に振り向く。
「でも、じゃぁ、どうすればいいの? 引き返す?」
玲奈は後ろを振り向き、その薄暗い、知っているようで知らないような、何とも言えない町並みを不安げに見つめた。
引き返すにしても、元の道に――例えば桜の家まで戻れるかどうかも判らない。
コトラも、もう一度鼻をひくひくさせて臭いを嗅ぎながら、
「ご、ごめんなさい。臭いが混ざり過ぎていて、この先に何があるのか、僕にも判りません――あっ!」
「え、なに? どうかしたの?」
玲奈は焦り、思わず腰を屈める。
「――何かいます」
コトラの視線の先、古びた街路灯の下に目を向ければ、真っ黒な人影が佇んでいた。
人影――いや、違う。人“影”ではない。
人だ。
真っ黒な姿の人が、うつむくようにして立っているのだ。
その服装から、恐らく女。
焼け焦げたような服にスカート、長かったのであろう髪はボサボサに縮れており、真っ黒に見えたその姿は、事実、その肌が黒く焼けただれていたからだった。
玲奈は息を飲み、立ち竦んだ。
たぶん、火事か何かで亡くなった人。
それだけなら、玲奈はこれまでに何度も目にしてきた。それが死者であるということを理解するまで、特に何も気にすることなく生きてきた。だから、その見た目に恐怖するということは特にない。或いは感覚が麻痺しているだけとも言えるかも知れないのだけれど。
その焼けただれた死者が、ぼそぼそと何か言葉を口にしている。
いったい、何を言っているの……?
玲奈は耳を澄ませてみたが、けれどまるで聞き取れない。
いや、そもそも死者の言葉に耳を傾ける必要などないのだ。
あれらはもう、存在しないものたちなのだから。
面倒ごとに自ら関わる必要など、ない。
「コトラ」
玲奈は、歯をむき出して唸るコトラに声を掛けた。
「はい」
コトラは短く答えて、
「――――ファオン!」
大きく、ひと鳴きした。
その瞬間、死者の身体が一気に吹き飛ぶ。
地面に叩きつけられ、身を震わせながら再び起き上がろうとする死者に、コトラはもう一度、今度はより大きく、
「――――ファオォーン!」
吠え声をあげた。
その吠え声に、死者の身体がより遠くに吹き飛ばされて――気づくとそこにはもう、死者の姿はどこにもなかった。
ただ先程までの静寂が、戻ってきただけだった。
「……もう、大丈夫です」
コトラの言葉に、玲奈はほっと安堵したところで、
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