闇に蠢く

野村勇輔(ノムラユーリ)

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第3部 第2章・魂の存在

第1回

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 翌朝も空は灰色の雲に覆われていたが、けれど今日はまだ雲が薄く、時折思い出したように陽の光が地面を照らした。昨夕の大雨に地面はまだ濡れていたけれど、所々乾き始めているところも多くあった。このまま晴れてくれればいいのだけれど、と玲奈は思いながら、自身の心中と重ね合わせるように空を仰いだ。

 昨夜の風呂場でのことを思い出すと全身鳥肌が立って、いいようのない気持ち悪さに吐き気を催しそうになる。今後もアイツは、きっと私のことをどこかから覗き見てくるのだろう。そう思うだけで、玲奈の心はざわざわして仕方がなかった。コトラがいるとはいえ、相手が生霊である以上、根本的な解決にはならない。死者であればコトラが散らしてくれるけれど、相手が生者となると話は別だ。散らしても散らしても、恐らくそんなことはものともせず、アイツは何度でも玲奈のもとへとやってくるだろう。なにせ、その本体であるあの男は、玲奈と同じマンションに住んでいるのだから。魂が肉体に戻されたところで、もう一度抜け出せばいいだけの話なのだ。だから、コトラの力も意味をなさない。

 なんとかしなくちゃ、なんとか……

 結奈に相談する? けど、結奈は裸を覗かれることにそこまで頓着しない。玲奈とは違い、結奈は「減るもんじゃなし、別にいいでしょ」と言い切るほどだ。もちろん、あえて自ら他人に裸を見せつけるような変な意味ではないし、覗いてくるばかりか実害を加えてくるような輩にまで容赦する性格でもない。結奈には例の自称「気合いパンチ」なるものがある。そのパンチで手を出してくるような輩――生者も死者も関係なく――を蹴散らかしていくのが結奈のやり方だ。相談したところで、きっと以前のように改めてそのパンチの繰り出し方を伝授してくれるだけだろう。けれど、それでは意味がない。それはコトラが一時的に散らしてくれるのと大差ない。結局、同じマンションに本体――あの男が住んでいることが問題なのだ。何度散らそうとも、そこにあの男がいる限り、何の解決にもなりはしないのだ。きっとそれを結奈に相談したところで、「もう気にせず見せつけてやれば?」といってくるに違いない。

 実害――はあるのだけれど、それが物理的な行動、それこそ拉致監禁誘拐凌辱などの類でない限り、現状、男の行動をどうこうすることは難しいように思われてならなかった。

 あの男に狙われている限り、このままではどこにも逃げ場はない。

 それは玲奈にとって、絶望するには十分過ぎるのだった。

「おはよう、玲奈~」

 学校へと続く歩道を、どんよりとした気分で歩き続けていると、後ろから桜の声がして、玲奈は内心ほっとしながら振り向いた。

「おはよう、桜」

「なに? なんかあった? 朝っぱらからぼうっとしながら歩くのは危ないよ」

「ぼうっとなんてしてない。考え事をしてただけ」

「危ないことにはかわりないよ」と桜はへらへら笑い、「で? 今日は何を考え込んでたのさ?」

 問われて、玲奈は正直に、昨夜の風呂場での件を桜に話した。

 桜は目を見張り、眉間にしわを寄せ、歯を食いしばるような表情になったかと思えば、
「なにそれ! 最悪じゃん! 今度は玲奈ん家の風呂を覗き見! 羨ましすぎる!」

「……はい?」桜の言葉に、玲奈は思わず眉をひそめて、「今、羨ましいっていった?」

「ごめんごめん、冗談だよ」と桜は笑い飛ばしてから、再び真剣な表情で、「でも、マジで最悪じゃない。アイツ、生霊なんでしょ? 祓ったところで本体に戻られたら、結局同じことの繰り返しにしかならないじゃない。どうにかしないと、毎日毎日玲奈の裸を覗かれ続けるってことでしょ? いや、裸だけじゃないか。夜寝てるところに忍び寄って、その顔をじっと上から見つめ続けるなんてことも……」

「や、やめてよ! 想像するだけで気味悪いでしょ!」

「あぁ、ごめん」桜は謝りつつ、「けど、実際あり得る事でしょ? コトラは? どうにもしてあげられないの?」

 すると、玲奈の通学鞄にぶら下がっているコトラ――狐のぬいぐるみキーホルダーは申し訳なさそうに目を伏せ、
「あれが死者であれば何とかなるんですけど、生霊となると一時的に散らすことしかできません…… ごめんなさい……」

「そっか……」
 桜は腕を組み、う~んと唸り声をもらしてから、
「いっそ、殴り込みにいっちゃう?」

「な、殴り込み?」

「その方が早くない? だって、実際に何かをされてるわけじゃないから、警察に相談とかもできないわけじゃん? なら、もうこっちから直接注意しに行ってみるとかどう?」

「それは――どうなんだろう?」

 注意したところで、証拠も何もないわけだからどうすることもできない。まさか、「あなた、幽体離脱して私のところまで覗きに来てますよね? やめてもらえますか?」なんていえるはずもない。はたから見れば異常な行動でしかないし、最悪あちらから両親や学校に玲奈のその行動を注意するよう連絡が入ることになるだろう。それではどうしようもない。

「まぁ、無理だよねぇ……」

 桜もそれを理解しているのか、大きく嘆息して頭を掻いた。

 どんなに頭をひねってみても、なかなか正解にはたどり着けそうにない。このまま諦めてあの男に覗かれ続けるか、それとももう二度とお風呂に入らないようにするか――ううん、それは絶対に嫌! と玲奈は首を大きく横に振った。

 そんな玲奈に、桜は、
「結奈さんに相談は?」

「まだしてないけど、結奈お姉ちゃんに相談しても気にするなっていわれそうな気がして」

「そんなタイプだったっけ? 結奈さん」

「うん」と玲奈は頷いて、「減るもんじゃなし、むしろ見せつけてやれとかいいかねないタイプ。自分には祓うことができるから、あまり気にならないんだと思う。いつでもやってやるって感じだから」

「じゃぁ、タマモさん」

「タマちゃんは――」

 祖母が亡くなって以来ここ数年、タマモは玲奈たちの前から姿を消していた。

 いや、正確には姿を消したわけではない。亡くなった祖母の魂を追って、どこかへ行ってしまったのだ。今もきっと、その祖母と行動を共にしていることだろう。

 どこで何をしているのか、玲奈も知らない。

「コトラ、タマモさんにお願いは?」

 玲奈の代わりに桜が問うと、コトラは「えぇ、あぁ」と口を濁すように、
「た、タカトラ様は常にお忙しいようで、ぼ、僕の方からも連絡が取れません……」

「そっか……」
 桜は肩を落とすようにいってから、
「どうしたもんかねぇ……」

「どうしたら良いんだろう……」

 玲奈も桜も、深い深いため息を吐いたのだった。
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