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第3部 第1章・黒髪の少女
第2回
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2
「なにそれ、どういうことさ?」
玲奈が出がけにぶつかったサラリーマンの男の話を桜にすると、桜は大きく首を傾けて、眉を寄せながら、
「つまり、どういうこと? あの人、生きてるの? 死んでるの? どっちなの?」
「――わかんない」玲奈は答えて、「だけど、たぶん、生きてる人。死んでる感じは全然しなかった。ぶつかった感覚も、階段を駆け下りてった足音も。それに、逃げるみたいに駅の方へ走ってくのを見てたんだけど、通りを歩いてる人たちにも、あの人の姿はちゃんと見えてるみたいだったから……」
桜はふうんと腕を組んでから、思案するように教室の天井を仰ぎ見て、
「ただ似ているだけの赤の他人とかは?」
「それもないと思う。だってあの人、私の顔を見て明らかに動揺してたし……」
「となると、考えられるのはアレかなぁ」
「アレって?」
「麻奈さんと一緒だよ。幽体離脱ってやつ」
――あぁ、なるほど。その可能性もあるのか。玲奈は妙に納得して頷いた。だとするなら、あの人は自分の意思で幽体離脱して、うちの高校まで更衣室を覗きに来ていたのだろうか。それとも、麻奈のように無意識的に? 自覚あってのことならその体質を悪用した迷惑行為だし、無自覚にやっていたことだったとしても、心理的な嫌悪感を拭うことなど到底できそうにない。
いずれにせよ、あの男は玲奈の顔をちゃんと覚えていた。だからこそ、あれだけ動揺して逃げていったのだ。しかもたぶん、あの男は同じマンションの、下の階に住んでいる。着替えているところを覗かれ続けていたこの約一年間、そして姿を見せていなかったこの一、二週間。彼は玲奈と同じマンションの下の階で、普通に生活していたのだ。そう思うと、腹立たしいやら気持ち悪いやら、いったいどうすればいいのか、玲奈にはよく判らなかった。
「まぁ、何にしても気を付けなよ? 玲奈、ただでさえ狙われやすいんだからさ。その体質?的にも、成長著しいお胸的にも」
「もう、やめてよ!」
ムスッとして怒る玲奈に、桜は軽く笑ってから、
「ジョーダン、ジョーダン……いや、あながち冗談ではないか。玲奈って、今までだって何度も幽霊に話しかけて面倒なことに巻き込まれたりしてんだから、本気で気を付けてよね。特に今回の変態霊は幽霊ってより、幽体離脱的なことができる変態覗き魔みたいだし。おまけに同じマンションに住んでるかもしれないんでしょ? 絶対に気を付けた方が良いって」
玲奈はため息を吐いてから、「うん、そうする」と肩を竦めた。
実際、これからは家に帰って制服から着替える時、或いは部屋着から寝間着に着替える時、そしてお風呂に入る時――とにかく、常に周りに注意しておかなければならないだろう。いつまたあのサラリーマンの男が霊体?になって覗きにやってくるとも判らないのだ。警戒はしておいたほうが良いだろう。
……まぁ、いざとなった時のボディーガードが一応、居はするのだけれども。
思いながら、玲奈は通学鞄に付けられた、狐型のぬいぐるみキーホルダーをちらりと見やった。そのぬいぐるみは小さな瞳をちらりと玲奈の方に向けると、「くちゅんっ」と小さくくしゃみをする。玲奈は一瞬慌てたけれど、しかし教室の喧騒の中にあって、その音は静かに掻き消されたのだった。
と、そこへふわりと石鹼のような、清々しい気分にさせてくれる香りが漂ってきて、玲奈は後ろの席に、ひとりの少女が登校してきたことを振り向かずに悟った。
玲奈の後ろの席に座る、相原奈央という少女である。彼女は玲奈や桜と違って随分と大人っぽく、長い黒髪がさらさらと風になびいて、とても美しかった。玲奈と違って梅雨時でもあまりその影響が見受けられないのが羨ましい。少し吊り上がったような眼はどこか自信を感じさせるし、小鼻の下の形の良い唇はどこか憂いを帯びているように玲奈には感じられた。まるでモデルさんのようなその姿に、玲奈は時折見惚れてしまうこともあるのだった。
けれども、相原奈央はいつも独りぼっちだった。独りで教室に入ってきて、誰にもあいさつすることなく席に着き、鞄を机の横に引っ掛けると、顔を伏せて眠ってしまう。その際、机の上に広がる艶々した長い黒髪が、まるで芸術品か何かのように輝いていた。
玲奈は相原が机に突っ伏したらしい気配を感じて、ちらりと後ろの席を盗み見るように視線を向けた。相原は寝息を立てることなく、ただ黙って、静かに顔を伏せているだけだった。そんな相原の姿を見て、玲奈はいつも声を掛けるべきか掛けないべきか迷っていた。玲奈としては、せっかく一緒のクラスになれたのだし、席も前後になったのだから、少しでも仲良くなれればと思っていたのだけれど、とにかく学校に登校してくるなり黙って机に突っ伏し、連絡事項を伝えるために話しかけても二言、三言で会話は終了し、話しかけようと試みるたびにタイミングを合わせたかのように席を立ってどこか――たぶん、おトイレだろうか――へ行ってしまう奈央に対して、もしかしたら話しかけないでほしいってことなのかな、と勘繰ってしまい、二年生に進級してからのこの二か月間、一向に話しかけられずにいたのだった。
桜も「そのうちそのうち」というばかりで相原に話しかけようとしたことは一度もないし、果たしてこのまま仲良くなることなく二年生を終えてしまうんじゃないだろうか、そんなことを玲奈は思ってしまうのだった。
「――なに、どしたの、玲奈」
そんな玲奈に、桜は怪訝な表情で声を掛けてきた。どうやら、またぼんやりと考え事をしてしまっていたようだ。あんまりぼんやりしていると、また桜が胸に手を伸ばしてくるので、玲奈はそれを警戒しながら顔を前に戻して、
「ううん、なんでもない」
「そぅ? ま、いいけどさ」
と、ちょうどその時、校内に予鈴が鳴り響いた。もう間もなく、担任がやってきて朝礼が始まる。桜は前を向き、ざわざわしていた教室内を、他の生徒たちもそれぞれ自分の席へと戻っていった。
ふと窓に顔を向ければ、相変わらず重たい雲が空を覆い隠しており、ざぁざぁと強く雨が降り続いていた。
玲奈はそれを見ながら、ただとにかく憂鬱な気分になるのだった。
この雨はいったい、いつまで降り続けるのだろうか、と。
「なにそれ、どういうことさ?」
玲奈が出がけにぶつかったサラリーマンの男の話を桜にすると、桜は大きく首を傾けて、眉を寄せながら、
「つまり、どういうこと? あの人、生きてるの? 死んでるの? どっちなの?」
「――わかんない」玲奈は答えて、「だけど、たぶん、生きてる人。死んでる感じは全然しなかった。ぶつかった感覚も、階段を駆け下りてった足音も。それに、逃げるみたいに駅の方へ走ってくのを見てたんだけど、通りを歩いてる人たちにも、あの人の姿はちゃんと見えてるみたいだったから……」
桜はふうんと腕を組んでから、思案するように教室の天井を仰ぎ見て、
「ただ似ているだけの赤の他人とかは?」
「それもないと思う。だってあの人、私の顔を見て明らかに動揺してたし……」
「となると、考えられるのはアレかなぁ」
「アレって?」
「麻奈さんと一緒だよ。幽体離脱ってやつ」
――あぁ、なるほど。その可能性もあるのか。玲奈は妙に納得して頷いた。だとするなら、あの人は自分の意思で幽体離脱して、うちの高校まで更衣室を覗きに来ていたのだろうか。それとも、麻奈のように無意識的に? 自覚あってのことならその体質を悪用した迷惑行為だし、無自覚にやっていたことだったとしても、心理的な嫌悪感を拭うことなど到底できそうにない。
いずれにせよ、あの男は玲奈の顔をちゃんと覚えていた。だからこそ、あれだけ動揺して逃げていったのだ。しかもたぶん、あの男は同じマンションの、下の階に住んでいる。着替えているところを覗かれ続けていたこの約一年間、そして姿を見せていなかったこの一、二週間。彼は玲奈と同じマンションの下の階で、普通に生活していたのだ。そう思うと、腹立たしいやら気持ち悪いやら、いったいどうすればいいのか、玲奈にはよく判らなかった。
「まぁ、何にしても気を付けなよ? 玲奈、ただでさえ狙われやすいんだからさ。その体質?的にも、成長著しいお胸的にも」
「もう、やめてよ!」
ムスッとして怒る玲奈に、桜は軽く笑ってから、
「ジョーダン、ジョーダン……いや、あながち冗談ではないか。玲奈って、今までだって何度も幽霊に話しかけて面倒なことに巻き込まれたりしてんだから、本気で気を付けてよね。特に今回の変態霊は幽霊ってより、幽体離脱的なことができる変態覗き魔みたいだし。おまけに同じマンションに住んでるかもしれないんでしょ? 絶対に気を付けた方が良いって」
玲奈はため息を吐いてから、「うん、そうする」と肩を竦めた。
実際、これからは家に帰って制服から着替える時、或いは部屋着から寝間着に着替える時、そしてお風呂に入る時――とにかく、常に周りに注意しておかなければならないだろう。いつまたあのサラリーマンの男が霊体?になって覗きにやってくるとも判らないのだ。警戒はしておいたほうが良いだろう。
……まぁ、いざとなった時のボディーガードが一応、居はするのだけれども。
思いながら、玲奈は通学鞄に付けられた、狐型のぬいぐるみキーホルダーをちらりと見やった。そのぬいぐるみは小さな瞳をちらりと玲奈の方に向けると、「くちゅんっ」と小さくくしゃみをする。玲奈は一瞬慌てたけれど、しかし教室の喧騒の中にあって、その音は静かに掻き消されたのだった。
と、そこへふわりと石鹼のような、清々しい気分にさせてくれる香りが漂ってきて、玲奈は後ろの席に、ひとりの少女が登校してきたことを振り向かずに悟った。
玲奈の後ろの席に座る、相原奈央という少女である。彼女は玲奈や桜と違って随分と大人っぽく、長い黒髪がさらさらと風になびいて、とても美しかった。玲奈と違って梅雨時でもあまりその影響が見受けられないのが羨ましい。少し吊り上がったような眼はどこか自信を感じさせるし、小鼻の下の形の良い唇はどこか憂いを帯びているように玲奈には感じられた。まるでモデルさんのようなその姿に、玲奈は時折見惚れてしまうこともあるのだった。
けれども、相原奈央はいつも独りぼっちだった。独りで教室に入ってきて、誰にもあいさつすることなく席に着き、鞄を机の横に引っ掛けると、顔を伏せて眠ってしまう。その際、机の上に広がる艶々した長い黒髪が、まるで芸術品か何かのように輝いていた。
玲奈は相原が机に突っ伏したらしい気配を感じて、ちらりと後ろの席を盗み見るように視線を向けた。相原は寝息を立てることなく、ただ黙って、静かに顔を伏せているだけだった。そんな相原の姿を見て、玲奈はいつも声を掛けるべきか掛けないべきか迷っていた。玲奈としては、せっかく一緒のクラスになれたのだし、席も前後になったのだから、少しでも仲良くなれればと思っていたのだけれど、とにかく学校に登校してくるなり黙って机に突っ伏し、連絡事項を伝えるために話しかけても二言、三言で会話は終了し、話しかけようと試みるたびにタイミングを合わせたかのように席を立ってどこか――たぶん、おトイレだろうか――へ行ってしまう奈央に対して、もしかしたら話しかけないでほしいってことなのかな、と勘繰ってしまい、二年生に進級してからのこの二か月間、一向に話しかけられずにいたのだった。
桜も「そのうちそのうち」というばかりで相原に話しかけようとしたことは一度もないし、果たしてこのまま仲良くなることなく二年生を終えてしまうんじゃないだろうか、そんなことを玲奈は思ってしまうのだった。
「――なに、どしたの、玲奈」
そんな玲奈に、桜は怪訝な表情で声を掛けてきた。どうやら、またぼんやりと考え事をしてしまっていたようだ。あんまりぼんやりしていると、また桜が胸に手を伸ばしてくるので、玲奈はそれを警戒しながら顔を前に戻して、
「ううん、なんでもない」
「そぅ? ま、いいけどさ」
と、ちょうどその時、校内に予鈴が鳴り響いた。もう間もなく、担任がやってきて朝礼が始まる。桜は前を向き、ざわざわしていた教室内を、他の生徒たちもそれぞれ自分の席へと戻っていった。
ふと窓に顔を向ければ、相変わらず重たい雲が空を覆い隠しており、ざぁざぁと強く雨が降り続いていた。
玲奈はそれを見ながら、ただとにかく憂鬱な気分になるのだった。
この雨はいったい、いつまで降り続けるのだろうか、と。
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