上 下
155 / 247
第3部 第1章・黒髪の少女

第1回

しおりを挟む
   1

 梅雨に入って、四六時中ジメジメしているように感じる時期がやってきた。湿気を含んだ髪がウネウネとうねり、その髪を整えるだけで毎朝数十分の時間を取られるようになって、玲奈は正直、辟易していた。どうにも綺麗にまとまらなくて、ただ頭の左右で軽くまとめるだけに諦めるようになったのは、比較的すぐのことだった。

 もう、このまま梅雨の間はこの髪型にしておこう。お姉ちゃんたちみたいにお小遣いがたくさんあるわけでもないし、そんなに頻繁に美容院には行っていられない。お姉ちゃんたちみたいにバイトをしてお金を稼ぐという選択肢もあるのだけれど、お父さんがそれを許してくれるとは思えなかった。麻奈が独り暮らしを始めた時にも酷く心配していたし、結奈がバイトをしたいと言い出した時は何故か酷く狼狽え、反対して結奈と揉めた末に、おばあちゃんの伝手を使って知り合いの神社でバイト巫女として働くことで話は落ち着いた。このうえ私までバイトがしたいと言い出したら、果たしてお父さんはなんて言ってくるのだろうか。たぶん、お姉ちゃんたちの時みたいにやっぱり動揺してしまうのだろう。

 すっかり手の離れてしまった麻奈と結奈の姿に、父はその寂しさを玲奈に求めるようになっていた。いずれは玲奈もまた父の手から離れていくというのに、父はことあるごとに、「玲奈はいつまでも家にいてくれるよな? よな?」と泣きそうな目で訴えてくるのが正直ウザい。

 こっそり結奈の働いている神社で自分も働かせてもらおうかと思ったこともあったのだけれど、そんなことをしたってすぐにバレてしまうのは目に見えている。かと言って、それを理由にお小遣いの値上げを交渉するのも何となく気が引けて、結局玲奈は美容院に行くお金すら工面できずにいたのだった。

 ……まぁ、この時期さえ抜ければまた元に戻るんだし。

 思いながら、玲奈はがちゃりと家のドアを開いた。

「いってきまぁす」

 リビングに向かって声をかけると、「いってらっしゃい」と声をかけてくれたお母さんの後ろから、
「おう、いってらー」
 結奈が軽く手を振っていた。

 玲奈もそんな姉に手を振り返し、ぱたんとドアを閉じてマンションの廊下をエレベーターに向かって歩いていった。

 空を見上げれば空一面を覆い尽くす鈍色の雲。しとしとと降り続けている雨は、天気予報によればどんどん酷くなっていくらしい。一応、あえて紳士用の大きめの傘を持って出はしたけれど、足元が濡れてしまうことからして玲奈は嫌で嫌で仕方がなかった。

 できることなら、雨を理由に学校を休んでしまいたいほどに。

 エレベーターホールに辿り着いて、玲奈は足を止めて大きなため息を一つ吐いた。

「――やっぱり」

 そこには、ぶつぶつと何かを呟いているお爺さんの姿があって、こちらに背を向けて立っていた。そのお爺さんはエレベーターが玲奈の住む階に到着しても乗り込むことなく、ただそこに突っ立ったまま、何か訳のわからないことを呟き続けるばかりだった。玲奈がどんなに聞き耳を立ててみても、その言葉はまったく解らない。たぶん、誰にも解らないだろう。それはもう、言葉ではなかった。何かを呪うように呟き続ける、呪詛の言葉。このお爺さんがいったい何を、誰を呪っているのか判らないけれど、雨の降るたびに現れるこのお爺さんがあまりに不気味で、気味悪くて、玲奈はエレベーターホールを離れると、階段で下まで降りることを選んだのだった。

 たぶん、あのお爺さんは人じゃない。生きてはいない。結奈にもあのお爺さんのことを聞いてみたが、結奈も玲奈と同じ結論で、「構わなければ害はないのだから、放っておけばいいんじゃない?」と答えただけだった。

 あのお爺さんの霊も、最初からあそこに居たわけではない。玲奈の記憶だと、確か二、三年くらい前だったはずだ。玲奈も結奈も例のごとく、最初そのお爺さんが霊だとは気づかなかった。ただボケたお爺さんがそこに突っ立っているだけなんだと思っていた。それはそれで心配なので、しばらくして父親と母親に相談してみたのだが、ふたりの答えはどちらも同じだった。

「そんなお爺さん、知らないなぁ」
「ボケて迷い込んできたんじゃないの? お母さんも見たことないわ」

 両親ともに玲奈や結奈、そして祖母である香澄のように霊を視るような力はまるでなく、至って普通の人であるため、すぐにあのお爺さんは生者ではないことが判明したわけなのだが、そうなってくると、どこか怖ろしく思えてくるのが玲奈だった。結奈の方はまるで気にするふうでもなく普通にエレベーターを使って下まで降りるのだけれど、玲奈はそのお爺さんがいつ一緒のエレベーターに乗り込んでくるともしれない、そのことが気がかりでどうしてもエレベーターを使う気になれなかったのである。

「悩むねぇ、玲奈は。悩んだって仕方ないんだから、割り切っちゃえばいいのにさ」
「お姉ちゃんは気合で何とかしちゃうから良いけど、私には無理なの!」
 玲奈がそう返すと、結奈は小馬鹿にするように、玲奈の頭を撫でて笑ったのだった。

 自分が悩みすぎる人間であることは間違いなかった。考えて考えて、なかなか結論に至らなくて、決断ができなくて。その代わり、結論が出た時の行動の早さは桜の言う通りだった。

 いずれはあのお爺さんの霊の件も、どうにかしなければならない日が来るのだろうか?

 そういえば、梅雨前に対峙したあの変態霊も、あのあとは一切出てこなくなったな、と玲奈はふと階段を駆け下りながら思い出した。或いは自分たちのクラスの時に出てこなくなっただけで、他のクラスが体育の授業であの更衣室を使用している際には、やっぱりあの時のように現れているのかもしれないのだけれども。

 さすがに玲奈もそこまでは確かめる気もなくて、とりあえず自分の着替えているところを覗かれなくなったのだから良しとしよう、そう思った時だった。

「――うおっと!」
「きゃっ!」

 二階まで降りたところで、丁度廊下の角を曲がってきた若いサラリーマンとぶつかってしまい、玲奈は変な声を漏らして一瞬躓きそうになりながらも立ち止まった。

「ごめんごめん、大丈夫?」

 声をかけてきたサラリーマンに、玲奈は慌てたように顔を向けて、
「あ、こ、こちらこそすみませんでし……た?」
 その男の顔に、思わず目を見張りぽかんと口を開けてしまう。

「――え、あぁっ!」
 男も驚いたように目を見開き、次いでしどろもどろになりながら「え、あ、いや、そんな、ウソ」と口にしたあと、
「じゃ、じゃぁ、気を付けて!」
 そんなことを口にして、ドタドタ慌てたように、階段を駆け下りていったのだった。

 玲奈は男の背中を見送りながら、小さく呟く。

「へ、変態の霊の人……?」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

【怖い話】とある掲示板の書き込みpart1【集めてみない?】

市井安希
ホラー
2ちゃんねる風の怪談を投稿していきます。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

女子切腹同好会

しんいち
ホラー
どこにでもいるような平凡な女の子である新瀬有香は、学校説明会で出会った超絶美人生徒会長に憧れて私立の女子高に入学した。そこで彼女を待っていたのは、オゾマシイ運命。彼女も決して正常とは言えない思考に染まってゆき、流されていってしまう…。 はたして、彼女の行き着く先は・・・。 この話は、切腹場面等、流血を含む残酷シーンがあります。御注意ください。 また・・・。登場人物は、だれもかれも皆、イカレテいます。イカレタ者どものイカレタ話です。決して、マネしてはいけません。 マネしてはいけないのですが……。案外、あなたの近くにも、似たような話があるのかも。 世の中には、知らなくて良いコト…知ってはいけないコト…が、存在するのですよ。

鬼 遊戯(おにごっこ)

風見星治
ホラー
ルールは簡単。鬼から逃げきれればアナタの勝ち。だけどもし捕まってしまったら…… ※ホラーだと思わせておいて……

処理中です...