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第3部 序幕
初夏の少女
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憂鬱な夜だった。重たく空を覆う雲は月をもその身体に隠し、辺りは異様なほど暗く感じられた。すでに家々の灯りはその殆どが消えており、点々と道を照らす街灯もあまりに心許なかった。
彼はふらふらと道を歩きながら、ただ漠然とした不安に苛まれていた。それは職場の人間関係であり、将来に対する展望であり、初めての独り暮らしからくる寂しさでもあり、それらが混ざり合った何とも言い難い感情からくるものだった。
すでに時計の針は深夜を周り日付のうえでは明日だった。終わらない仕事に追われ、残業を繰り返す毎日に嫌気がさす。新人ということもあるからか職場からの信頼も薄く、ただただ孤独を感じていた。
朝も早くから出勤し、眠る時間もまるでない。学生時代から続けていた趣味の小説もめっきり書くことも無くなって、途中まで書き続けていた公開サイトでの連載も、すでに2年近く更新できていなかった。このまま続きを書くことができないのであれば、いっそのこと作品を消して公開サイトも退会した方がいいんじゃないか。そうは思うのだけれど、しかしいつかはまた続きを書ける日が来るんじゃないか、そんな小さな思いがあって、いまだに退会できないままでいた。
だがしかし、今の自分の状況を鑑みるに、そんな小さな思い──希望すらもやがては消えて無くなってしまうのではないか。それがあまりに怖くてならなかった。かつては作家を目指して書いていた自分だったが、もはやそんな気力も削がれ、社会の歯車として、ただ生きているだけの、つまらない日々。
彼は大きくため息を吐き、視線を足下に向けた。くたびれた靴と薄汚れたズボンが目に入り、そういえば最近は身だしなみにも無頓着になってきた自分に気がついた。たぶん、仕事の疲れからだろう。意識が微妙に散漫になり、就職したての頃はあったやる気も、会社に対する忠誠心も、今や皆無といって良いほどだ。
せめて付き合っている彼女、なんてものがあれば結婚を目標にして頑張れるかも知れないけれど、残念ながら生まれてこの方彼は女性と付き合うという経験すら全くなかった。たぶん、これからもそんなことは無いだろう。
なら、今のこの俺の人生とは、いったい何のためにあるんだろう。俺はどうしてこんな人生を生きているのだろう。この人生は、果たして本当に生きていると言えるのか。ただ惰性で、ルーティン的に生きているだけの今の俺は、果たして……
彼はふたたび深い深いため息を吐くと、誰も居ない小さな公園に足を踏みいれた。コンクリートでできているのであろうベンチに腰掛け、息を吐き出す。
いったい、俺の人生は、何のためにあるんだろうか?
その時だった。
「……大丈夫ですか?」
突然すぐそばから何者かに声をかけられて、彼は小さく叫んで顔を上げた。
そこには髪の長い少女の姿があった。
彼女は白いシャツに薄手の黒いジャンパーを羽織っており、デニムのショートパンツから伸びる脚がなんとも白く際立っていた。
やや釣り上がった目尻から一瞬、キツそうな性格を連想させたが、けれど少女は精一杯心配するような表情で、
「そんなに深いため息を吐いて、何かあったんですか?」
そう訊ねてきた。
彼はそんな彼女の姿に、瞬く間に魅了された。闇の中に浮かぶ白い肌はどこまでも美しく滑らかで、その整った顔立ちは見ているだけで吸い込まれてしまいそうなほどだった。あまり見つめては悪いと思いながら視線を足元に移せば、剝き出しの太ももやふくらはぎが目に入りドキリとする。
慌ててわずかに顔を戻せば、少女は彼の顔を覗き込むようにして腰を屈め、
「どうかしましたか?」
とその綺麗な顔に微笑みを浮かべた。
「あ、いや――」
それに対し、彼は声にならない声を漏らしながら、その微笑みから逃れるように視線を下に移して――少女の無防備にたるんだシャツの首元から覗き見える、その胸のふくらみに思わず目を止めてしまう。不埒と解ってはいるものの。彼の感情は本能的にその光景を目に焼き付けて、「そ、そんなことより」とはぐらかすように声を上げた。
「君だって、こんな夜遅くに何してるんだ?」
すると少女は再び腰を伸ばし、彼から一歩後ずさりながら、困ったように眉根を寄せ、
「私ですか? 探し物を、ちょっと」
「探し物?」
「えぇ、とても大切なものなんです」言って少女は大きなため息を一つ吐き、「先日亡くなった兄からもらった、大切なハンカチなんです。この辺りで失くしたのは間違いなくて、ずっと探しているんです……」
「そ、そうか。それは大変だな。まぁ、でも夜も遅いから、明日の朝になってからでも良いんじゃないかな?」
それじゃぁ、俺はこれで、と腰を上げた時だった。
「明日じゃダメなんです」
少女はそう口にして、彼の腕をぎゅっと両手で胸に抱いた。柔らかいその感触に、けれど彼の身体は総毛だった。この少女は、なにかおかしい。何がおかしいのかはよく解らない。けれど、決して関わるべきじゃない。関われば、何か大変なことが起きる気がする。それなのに、何故か彼は少女の手から逃れることができなかった。
少女は彼の顔を見上げながら、目に涙を浮かべて訴えかけた。
「……一緒に、探していただけませんか?」
「え、いや、でも……」
しどろもどろになりながら、説教臭いことをぶつくさ口にする彼に対して、少女はぐいっとその顔をこれでもかというくらいに近づけて。
「――お願い」
少女の瞳はどこまでもどす黒く、その口元には怪しげな笑みを浮かべていた。少女の胸の鼓動が抱き着かれた腕から彼の身体に伝わり、彼の心は大きく揺れ動いていた。少女に対する疑念などもはやそこにはなかった。まるで魔術にかかってしまったかのように、彼の身体は動かなかった。じっと彼女に見つめられているただそれだけで、心を鷲掴みにされてしまったような不思議な感覚。もはや目を逸らせることもできず、彼は少女と見つめ合う。
「――貴方の力が、今の私には必要なの。だから、ね?」
少女がすっと瞼を閉じる。その唇が、彼の方に向けられた。
「貴方の全てを、私にちょうだい?」
何も持たない自分が今、ひとりの少女に必要とされている。自分という存在を、心の底から求められている。それは彼にとって至高の喜びに他ならなかった。存在意義を見失った自分に、彼女は居場所を与えてくれようとしているのだ。それは願ってもないことだった。自分の全てを捧げてでも、自分はこの少女のために何かをしてあげたかった。少女は彼を必要としていた。彼も少女を必要としていた。
――あぁ、ようやく俺も、自分の居場所を得られたのだ。
彼はゆっくりと瞼を閉じて、そして少女の唇に、そっと……
彼はふらふらと道を歩きながら、ただ漠然とした不安に苛まれていた。それは職場の人間関係であり、将来に対する展望であり、初めての独り暮らしからくる寂しさでもあり、それらが混ざり合った何とも言い難い感情からくるものだった。
すでに時計の針は深夜を周り日付のうえでは明日だった。終わらない仕事に追われ、残業を繰り返す毎日に嫌気がさす。新人ということもあるからか職場からの信頼も薄く、ただただ孤独を感じていた。
朝も早くから出勤し、眠る時間もまるでない。学生時代から続けていた趣味の小説もめっきり書くことも無くなって、途中まで書き続けていた公開サイトでの連載も、すでに2年近く更新できていなかった。このまま続きを書くことができないのであれば、いっそのこと作品を消して公開サイトも退会した方がいいんじゃないか。そうは思うのだけれど、しかしいつかはまた続きを書ける日が来るんじゃないか、そんな小さな思いがあって、いまだに退会できないままでいた。
だがしかし、今の自分の状況を鑑みるに、そんな小さな思い──希望すらもやがては消えて無くなってしまうのではないか。それがあまりに怖くてならなかった。かつては作家を目指して書いていた自分だったが、もはやそんな気力も削がれ、社会の歯車として、ただ生きているだけの、つまらない日々。
彼は大きくため息を吐き、視線を足下に向けた。くたびれた靴と薄汚れたズボンが目に入り、そういえば最近は身だしなみにも無頓着になってきた自分に気がついた。たぶん、仕事の疲れからだろう。意識が微妙に散漫になり、就職したての頃はあったやる気も、会社に対する忠誠心も、今や皆無といって良いほどだ。
せめて付き合っている彼女、なんてものがあれば結婚を目標にして頑張れるかも知れないけれど、残念ながら生まれてこの方彼は女性と付き合うという経験すら全くなかった。たぶん、これからもそんなことは無いだろう。
なら、今のこの俺の人生とは、いったい何のためにあるんだろう。俺はどうしてこんな人生を生きているのだろう。この人生は、果たして本当に生きていると言えるのか。ただ惰性で、ルーティン的に生きているだけの今の俺は、果たして……
彼はふたたび深い深いため息を吐くと、誰も居ない小さな公園に足を踏みいれた。コンクリートでできているのであろうベンチに腰掛け、息を吐き出す。
いったい、俺の人生は、何のためにあるんだろうか?
その時だった。
「……大丈夫ですか?」
突然すぐそばから何者かに声をかけられて、彼は小さく叫んで顔を上げた。
そこには髪の長い少女の姿があった。
彼女は白いシャツに薄手の黒いジャンパーを羽織っており、デニムのショートパンツから伸びる脚がなんとも白く際立っていた。
やや釣り上がった目尻から一瞬、キツそうな性格を連想させたが、けれど少女は精一杯心配するような表情で、
「そんなに深いため息を吐いて、何かあったんですか?」
そう訊ねてきた。
彼はそんな彼女の姿に、瞬く間に魅了された。闇の中に浮かぶ白い肌はどこまでも美しく滑らかで、その整った顔立ちは見ているだけで吸い込まれてしまいそうなほどだった。あまり見つめては悪いと思いながら視線を足元に移せば、剝き出しの太ももやふくらはぎが目に入りドキリとする。
慌ててわずかに顔を戻せば、少女は彼の顔を覗き込むようにして腰を屈め、
「どうかしましたか?」
とその綺麗な顔に微笑みを浮かべた。
「あ、いや――」
それに対し、彼は声にならない声を漏らしながら、その微笑みから逃れるように視線を下に移して――少女の無防備にたるんだシャツの首元から覗き見える、その胸のふくらみに思わず目を止めてしまう。不埒と解ってはいるものの。彼の感情は本能的にその光景を目に焼き付けて、「そ、そんなことより」とはぐらかすように声を上げた。
「君だって、こんな夜遅くに何してるんだ?」
すると少女は再び腰を伸ばし、彼から一歩後ずさりながら、困ったように眉根を寄せ、
「私ですか? 探し物を、ちょっと」
「探し物?」
「えぇ、とても大切なものなんです」言って少女は大きなため息を一つ吐き、「先日亡くなった兄からもらった、大切なハンカチなんです。この辺りで失くしたのは間違いなくて、ずっと探しているんです……」
「そ、そうか。それは大変だな。まぁ、でも夜も遅いから、明日の朝になってからでも良いんじゃないかな?」
それじゃぁ、俺はこれで、と腰を上げた時だった。
「明日じゃダメなんです」
少女はそう口にして、彼の腕をぎゅっと両手で胸に抱いた。柔らかいその感触に、けれど彼の身体は総毛だった。この少女は、なにかおかしい。何がおかしいのかはよく解らない。けれど、決して関わるべきじゃない。関われば、何か大変なことが起きる気がする。それなのに、何故か彼は少女の手から逃れることができなかった。
少女は彼の顔を見上げながら、目に涙を浮かべて訴えかけた。
「……一緒に、探していただけませんか?」
「え、いや、でも……」
しどろもどろになりながら、説教臭いことをぶつくさ口にする彼に対して、少女はぐいっとその顔をこれでもかというくらいに近づけて。
「――お願い」
少女の瞳はどこまでもどす黒く、その口元には怪しげな笑みを浮かべていた。少女の胸の鼓動が抱き着かれた腕から彼の身体に伝わり、彼の心は大きく揺れ動いていた。少女に対する疑念などもはやそこにはなかった。まるで魔術にかかってしまったかのように、彼の身体は動かなかった。じっと彼女に見つめられているただそれだけで、心を鷲掴みにされてしまったような不思議な感覚。もはや目を逸らせることもできず、彼は少女と見つめ合う。
「――貴方の力が、今の私には必要なの。だから、ね?」
少女がすっと瞼を閉じる。その唇が、彼の方に向けられた。
「貴方の全てを、私にちょうだい?」
何も持たない自分が今、ひとりの少女に必要とされている。自分という存在を、心の底から求められている。それは彼にとって至高の喜びに他ならなかった。存在意義を見失った自分に、彼女は居場所を与えてくれようとしているのだ。それは願ってもないことだった。自分の全てを捧げてでも、自分はこの少女のために何かをしてあげたかった。少女は彼を必要としていた。彼も少女を必要としていた。
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