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第2部 第4章 イド
第9回
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5
がらりと開けた玄関の扉には鍵などかかっておらず、むわっとした甘ったるい匂いが重く充満していた。
天井からはいつか見たドライフラワーがいくつもぶら下がっており、あの喪服の女が纏っていた香りをこれでもかというくらい強く放っている。あの時この匂いに至高を感じた響紀だったが、今となっては反吐が出てくるほど忌々しい、汚れた香りでしかなかった。その臭いに響紀は眉間にしわを寄せ、なるべく息をせず、身体の中に取り込まないように上がり框に足をかけた。当然のように息をしていなくても苦しくなることもなく、響紀は思わず自嘲する。ここまで来てまだ生を意識している俺が居るのか、と。
玄関を抜けると廊下は一度左に折れ、便所の前で再び右に折れる。
と、そこで聞き覚えのある声に響紀は一度足を止めた。
誰の声だろう、と思いながら一旦響紀は廊下の角まで戻って身を隠し、じっと聞き耳を立てる。
「まだ、ダメよ」
「でも」
言い淀む何者かの声。しばらくして、
「まだ彼女は私たちを受け入れていないの。だから、もう少し待ってあげて。この娘はきっと、私たちを受け入れてくれるはずだから。それまでは、ね? 私が貴方を愛してあげる……」
待つ? 何を? この娘、というのは恐らく奈央のことだろう。やはりここに居たんだ。でも、この声はいったい誰だ? あの喪服の女の声じゃない。どこかで聞き覚えのある女の声だ。あれは確か、幼いころ、突然やってきた――奈央の母親。
まさか、と響紀は眉間にしわを寄せる。確かにあいつは、昨日の夜もうちの家の前で怪しげな男と車の中にいたはずだ。あの化け物をぶちのめしたあと、逃げるようにどこかへ行ってしまったが、まさか、喪服の女と繋がっていた……?
どういうことだ? と響紀は狼狽する。最初から、あの母親は奈央を女に売り渡すつもりだったのか? もしかして、奈央をここへ連れてきたのも母親だったのか? 木村はどうした? あの野郎、奈央をこんなところへ連れていかれて、いったいどこへ行きやがった。しっかり守ってやれよ、彼氏じゃないのかよ!
ぐっと拳を握り締めて、響紀は声のする部屋――庭を見渡せる廊下の、右側の部屋をじっと睨む。
「ここではダメ。続きはあっちの部屋で、ね?」
母親の優しげな声が聞こえる。
かたり、と襖が開け放たれて、響紀は咄嗟に身を隠した。
「――絶対に、覗いちゃダメよ?」
言い含めるような声に続いて、ぱたりと襖が閉じる音。そうして母親のものと思われる足音が廊下の向こう側へ消えていくのを確かめてから、響紀は奈央を助け出すなら今がチャンスだと確信した。幸いなことに、あの女に付き従う男たちの気配は感じられない。あの母親がどこへ行ってしまったのか知らないが、今のうちに――
「――っ!」
再び庭に面した廊下に顔を戻した時、響紀はあまりの驚愕に眼を疑った。
「……どこへ行く気だ?」
何故ならば、すぐ目の前に、自分と同じ姿をした男が一人、立ち塞がっていたからである。
何だ、何なんだこいつは。どうしてこいつは俺と同じ姿をしているんだ。こいつはいったい何者なんだ。俺は確かにここに居る。なら、目の前のこいつは誰だって言うんだ?
まるで鏡を相手にしているかのようなその姿に、響紀は微動だにできなかった。身体が強張り、どう対処して良いか解らないまま立ち竦んでいると、目の前の男は急に両腕を伸ばしてきて、響紀はあっと思った時にはブレスレットを巻いた右腕を強く掴まれ、自由を奪われていた。
「は、離せ……!」
響紀はその腕を振り払おうとしたが、しかし態勢を崩してしまい、ガタリとそのまま仰向けに倒れてしまった。大した衝撃はなかった。痛みもなかった。けれど、倒れた拍子に自分によく似た姿の男に覆い被さられ、逃げるに逃げられず、その顔面を殴り飛ばそうにもただ身体を激しく揺することしかできなかった。
男はぐいっと更に力を籠め、響紀の身体を廊下に押さえつけながら、「邪魔はさせない」と眼を見張って呟いた。
「ユキは俺が守る。絶対にお前らに邪魔はさせない」
「ユキ? お前、いったい――」
それでもなお抵抗する響紀は足をばたつかせて廊下を蹴り、勢いをつけて男の身体を横に投げた。ゴロン、と互いに半身を捩るだけだったが、それでも何とか左腕の自由を手に入れた響紀は、力いっぱい男の顔面を殴りつける。
「ぐぅっ!」
響紀の拳は男の顔面に陥没し、ぐにゃりと粘土のようにその頭が変形する。けれど手応えらしい手応えはまるでなく、とにかく響紀は何度も何度もその顔を全力で殴り続けた。
しかし、男の方もただやられているばかりではなかった。響紀の顔面に右手を伸ばすと、その頭を廊下に向かって思いっきり打ち付けてきたのだ。ずんっ、と鈍い感覚が後頭部に走ったが、けれど響紀はそんなことに構わず、男の眼と鼻の付け根に力いっぱい拳を埋め込んだ。
ぐちゃり、とハンバーグの種をこねるような感覚がして、男は響紀から手を離した。顔面を両手で覆いながら、バタバタと右に左に転げ回る。
響紀は肩で息をしながら、その様子を窺っていた。
やがて男はゆっくりと上半身を起こし、その顔を改めて響紀に向けてきて。
「……えっ」
響紀は再び目を丸くする。
今までそこにあったはずの自分とよく似た顔が、今ではまるで別人の、気弱そうな青年のものに変わっていたのである。いや、恐らくこれがこの男の本当の顔なのだ。擬態、とでも呼べば良いのだろうか。
そして響紀には、この青年の顔に見覚えがあった。あれはそう、結奈に踏みつけられた際に見た夢の中で。喪服の少女――ユキと一緒に見た、あの過去の映像。
その映像の中で、この男は優しそうに、ユキに文字と言葉、そして好きと嫌いを教えていたのだ。ユキも彼のことが好きだったと言っていた。しかし、彼もまた他の男たちと同様、ユキの体を犯し、蹂躙し、意のままにして……
「お前――」
思わず響紀は口にして、けれどそれに被せるように男は、
「俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。オレはユキをマモルんだオレハユキヲマモルンダおれはゆきをまもるんだおれはおれはおれはおれはれおあ!」
次の瞬間、男は鬼のような形相で響紀に襲い掛かってきた。
その時、ガシャン、パリン! と何かが砕ける甲高い音が聞こえ、同時に響紀の身体に男が覆い被さってくる。
響紀は右腕を強く握りしめた。ブレスレットが光と熱を帯び、響紀はその若い男の頭に向かって、力いっぱい拳を振り下ろす。
それはほんの一瞬に過ぎなかった。
パンッ! とまるで水風船のように、若い男の頭は破裂した。赤黒い液体が辺りに飛び散り染みを作った。響紀は残された男の身体を軽々と脇にどける。そしてその脇にどけた身体もまた、徐々に徐々に廊下に溶けて――跡形もなく消えてしまったのだった。
ふう、と響紀は深いため息をひとつ吐いた。けれどそれも束の間のことだった。
「奈央……!」
響紀は再び立ち上がり、そしてだっと駆け出した。
がらりと開けた玄関の扉には鍵などかかっておらず、むわっとした甘ったるい匂いが重く充満していた。
天井からはいつか見たドライフラワーがいくつもぶら下がっており、あの喪服の女が纏っていた香りをこれでもかというくらい強く放っている。あの時この匂いに至高を感じた響紀だったが、今となっては反吐が出てくるほど忌々しい、汚れた香りでしかなかった。その臭いに響紀は眉間にしわを寄せ、なるべく息をせず、身体の中に取り込まないように上がり框に足をかけた。当然のように息をしていなくても苦しくなることもなく、響紀は思わず自嘲する。ここまで来てまだ生を意識している俺が居るのか、と。
玄関を抜けると廊下は一度左に折れ、便所の前で再び右に折れる。
と、そこで聞き覚えのある声に響紀は一度足を止めた。
誰の声だろう、と思いながら一旦響紀は廊下の角まで戻って身を隠し、じっと聞き耳を立てる。
「まだ、ダメよ」
「でも」
言い淀む何者かの声。しばらくして、
「まだ彼女は私たちを受け入れていないの。だから、もう少し待ってあげて。この娘はきっと、私たちを受け入れてくれるはずだから。それまでは、ね? 私が貴方を愛してあげる……」
待つ? 何を? この娘、というのは恐らく奈央のことだろう。やはりここに居たんだ。でも、この声はいったい誰だ? あの喪服の女の声じゃない。どこかで聞き覚えのある女の声だ。あれは確か、幼いころ、突然やってきた――奈央の母親。
まさか、と響紀は眉間にしわを寄せる。確かにあいつは、昨日の夜もうちの家の前で怪しげな男と車の中にいたはずだ。あの化け物をぶちのめしたあと、逃げるようにどこかへ行ってしまったが、まさか、喪服の女と繋がっていた……?
どういうことだ? と響紀は狼狽する。最初から、あの母親は奈央を女に売り渡すつもりだったのか? もしかして、奈央をここへ連れてきたのも母親だったのか? 木村はどうした? あの野郎、奈央をこんなところへ連れていかれて、いったいどこへ行きやがった。しっかり守ってやれよ、彼氏じゃないのかよ!
ぐっと拳を握り締めて、響紀は声のする部屋――庭を見渡せる廊下の、右側の部屋をじっと睨む。
「ここではダメ。続きはあっちの部屋で、ね?」
母親の優しげな声が聞こえる。
かたり、と襖が開け放たれて、響紀は咄嗟に身を隠した。
「――絶対に、覗いちゃダメよ?」
言い含めるような声に続いて、ぱたりと襖が閉じる音。そうして母親のものと思われる足音が廊下の向こう側へ消えていくのを確かめてから、響紀は奈央を助け出すなら今がチャンスだと確信した。幸いなことに、あの女に付き従う男たちの気配は感じられない。あの母親がどこへ行ってしまったのか知らないが、今のうちに――
「――っ!」
再び庭に面した廊下に顔を戻した時、響紀はあまりの驚愕に眼を疑った。
「……どこへ行く気だ?」
何故ならば、すぐ目の前に、自分と同じ姿をした男が一人、立ち塞がっていたからである。
何だ、何なんだこいつは。どうしてこいつは俺と同じ姿をしているんだ。こいつはいったい何者なんだ。俺は確かにここに居る。なら、目の前のこいつは誰だって言うんだ?
まるで鏡を相手にしているかのようなその姿に、響紀は微動だにできなかった。身体が強張り、どう対処して良いか解らないまま立ち竦んでいると、目の前の男は急に両腕を伸ばしてきて、響紀はあっと思った時にはブレスレットを巻いた右腕を強く掴まれ、自由を奪われていた。
「は、離せ……!」
響紀はその腕を振り払おうとしたが、しかし態勢を崩してしまい、ガタリとそのまま仰向けに倒れてしまった。大した衝撃はなかった。痛みもなかった。けれど、倒れた拍子に自分によく似た姿の男に覆い被さられ、逃げるに逃げられず、その顔面を殴り飛ばそうにもただ身体を激しく揺することしかできなかった。
男はぐいっと更に力を籠め、響紀の身体を廊下に押さえつけながら、「邪魔はさせない」と眼を見張って呟いた。
「ユキは俺が守る。絶対にお前らに邪魔はさせない」
「ユキ? お前、いったい――」
それでもなお抵抗する響紀は足をばたつかせて廊下を蹴り、勢いをつけて男の身体を横に投げた。ゴロン、と互いに半身を捩るだけだったが、それでも何とか左腕の自由を手に入れた響紀は、力いっぱい男の顔面を殴りつける。
「ぐぅっ!」
響紀の拳は男の顔面に陥没し、ぐにゃりと粘土のようにその頭が変形する。けれど手応えらしい手応えはまるでなく、とにかく響紀は何度も何度もその顔を全力で殴り続けた。
しかし、男の方もただやられているばかりではなかった。響紀の顔面に右手を伸ばすと、その頭を廊下に向かって思いっきり打ち付けてきたのだ。ずんっ、と鈍い感覚が後頭部に走ったが、けれど響紀はそんなことに構わず、男の眼と鼻の付け根に力いっぱい拳を埋め込んだ。
ぐちゃり、とハンバーグの種をこねるような感覚がして、男は響紀から手を離した。顔面を両手で覆いながら、バタバタと右に左に転げ回る。
響紀は肩で息をしながら、その様子を窺っていた。
やがて男はゆっくりと上半身を起こし、その顔を改めて響紀に向けてきて。
「……えっ」
響紀は再び目を丸くする。
今までそこにあったはずの自分とよく似た顔が、今ではまるで別人の、気弱そうな青年のものに変わっていたのである。いや、恐らくこれがこの男の本当の顔なのだ。擬態、とでも呼べば良いのだろうか。
そして響紀には、この青年の顔に見覚えがあった。あれはそう、結奈に踏みつけられた際に見た夢の中で。喪服の少女――ユキと一緒に見た、あの過去の映像。
その映像の中で、この男は優しそうに、ユキに文字と言葉、そして好きと嫌いを教えていたのだ。ユキも彼のことが好きだったと言っていた。しかし、彼もまた他の男たちと同様、ユキの体を犯し、蹂躙し、意のままにして……
「お前――」
思わず響紀は口にして、けれどそれに被せるように男は、
「俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。俺はユキを守るんだ。オレはユキをマモルんだオレハユキヲマモルンダおれはゆきをまもるんだおれはおれはおれはおれはれおあ!」
次の瞬間、男は鬼のような形相で響紀に襲い掛かってきた。
その時、ガシャン、パリン! と何かが砕ける甲高い音が聞こえ、同時に響紀の身体に男が覆い被さってくる。
響紀は右腕を強く握りしめた。ブレスレットが光と熱を帯び、響紀はその若い男の頭に向かって、力いっぱい拳を振り下ろす。
それはほんの一瞬に過ぎなかった。
パンッ! とまるで水風船のように、若い男の頭は破裂した。赤黒い液体が辺りに飛び散り染みを作った。響紀は残された男の身体を軽々と脇にどける。そしてその脇にどけた身体もまた、徐々に徐々に廊下に溶けて――跡形もなく消えてしまったのだった。
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