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第2部 第3章 闇の抱擁
第10回
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響紀はもう一度「おえっ」と水を吐き出し、口元を拭うと大きくため息を吐いた。身体を反転させて地面に尻をつき、うなだれるようにして視線だけ結奈に向ける。
結奈は仁王立ちになったまま腕を組み、じっと響紀を見下ろしながら、
「でも、少しは気分が落ち着いたんじゃない? これだけ穢れを吐き出したんだもの」
雨に打たれておでこに張り付いた前髪を、すっと指でつまんで横に流した。
彼女のその衣服もまたびしょびしょに雨に濡れ、肌に張り付いて浮き出た身体のラインが何とも艶めかしかったが、けれど響紀はそんな結奈を見てもさして何も感じなかった。これがこんな状況でなければ、響紀もまた一般的な男子よろしく結奈に見惚れでもしただろうが、今はそんな気分には到底ならなかった。今はただ、自分を騙すかのように御神井の水を飲ませたこの女を、どこか忌々しく思うほどだった。
響紀は「ちっ」と舌打ちをひとつしてから、
「ふつうに渡せばよかっただろ。なんでひとこと言わなかった」
すると結奈は小さくため息を吐く。
「……たぶん、普通に渡したらあんたはこの水を拒んでいた。そんな気がしたから」
「どういう意味だ?」
訊ねると、結奈は首を横に振って、
「あんたは、朝に私と話していた時からどこか様子がおかしかった。何かに執着しているようだった。たぶん、あんた自身も気づいていなかっただろうけど。なんて言えばいいんだろう。もうすでに何かに囚われようとしているように見えた。私はそれが怖くて、だからあんたと分かれて行動しようと思った。私は、これまでもそういう霊たちを見てきたから。何度も何度も、執拗に絡まれてきたから、とにかく面倒で逃げようとしてしまった。それはごめん。私の言い訳。本当は、ちゃんとあんたについててあげるべきだったと思う。一緒に行動してあげるべきだったと思う。そうすれば、少なくともあんたはあの女のところに無意識的に戻ったりはしなかったかもしれない。これは私の落ち度。最初、おばあちゃんにあんたを投げようとしたのも、たぶんそう。本当は関わりたくなかっただけ。でも、それじゃぁいけなかったんだ。おばあちゃんだって言ってたんでしょ? 何か困ったことがあったら、私を訪ねろって。だから、あんたと分かれてしばらくして思い直したんだ。今のあんたを放ってちゃいけない。逃げちゃいけないって」
そこまで言って、結奈はまた、深い深いため息を吐いた。
雨はざあざあとその強さを増し、結奈の身体と地面を強く叩きつけた。響紀には何も感じられなかった。ただ雨音だけが耳に聞こえ、けれど響紀の身体は一切濡れてなどいなかった。今の今まで、結奈をじっと見つめるまで、雨が降っていることすら彼は忘れていた。意識していなかった。たぶん、だから響紀は濡れていなかった。身体を持たないがゆえに、雨に濡れるわけがないから。響紀の周りはあの赤黒いシミに囲まれていたが、そのシミも雨に流され、徐々に徐々に薄まっていこうとしていた。薄暗い空に、響紀はどこか不安を覚える。
結奈は続けた。
「たぶん、その身体――って言っていいのかわからないけど、とにかく、あんたという存在はあの女と触れ合ったその瞬間から、半分くらい、あの女の虜になってしてしまったんじゃないかって、そう思った。あんたが吐き出した赤黒いナメクジ、あれがたぶん、あんたの中に淀んで支配しようとしている穢れなんじゃないか。もしそうなのだとしたら、もしあんたがあの女のところに戻った時、あの女はもう一度、あんたを内側から支配しようとするんじゃないか。もしそうなったら、それこそあんたが助けようとしていた奈央ちゃんを、あんた自身が、あの女のところまで連れて行ってしまうんじゃないかって、そう思ったんだ。だから私は、すぐに神社に行って御神井の水を汲んできた。もし私の思った通り、あんたがあの女のところに戻ってしまったとしたら、必ず必要になると思ったから」
響紀はじっと結奈を見上げていた。自分が今しがた吐き出した赤黒いナメクジ――穢れ、と結奈は言っていたが、アレに俺は支配されていたのか、と思うとどこか納得がいくような気がした。それと同時に、いまだに自分の中にわだかまる不安と違和感に、妙な恐怖と焦りを覚えた。
「――俺は再びあの女に支配されようとしていた。だから、普通にあの水を飲ませようとしたところで拒んでいたかもしれない、というのは解ったよ。俺もそんな気がする。あの女とキスした時、俺はそれが嬉しくて仕方がなかった。あの女の口から飲まされたんだろう、赤黒いナメクジみたいなやつ……穢れか? そのせいで俺の意識が朦朧としていたというか、曖昧な状態だったのも覚えてる。たぶん、お前の言う通り、無意識的に拒絶していたかもしれない。だから、まぁ、礼を言っておく。ありがとな」
「うん」
と結奈は返事したが、
「けど、いくらかはもう完全にあんたの中であんた自身とくっついちゃってるのかもしれない」
「なんだそれ、どういうことだ?」
首を傾げる響紀に、結奈は肩を落としながら、
「あんたは――響紀は私と初めて会ったとき、さんざん御神井の水を飲んで、あの穢れを吐き出したはずでしょ? もうこれ以上吐き出せないほど、たくさん穢れを出したはずだったでしょ?」
「まぁ、たぶん……」
「それなのにあんたがあの女のところに無意識的に向かってしまったってことはたぶん、その穢れとあんたの魂? そのものが、いくらかひとつに結合しちゃってるのかもしれない」
「……なんだよそれ、どういう意味だ?」
「だからね」
と結奈はまた大きくため息を吐いてから、
「もうすでにあんたの何割かは、あの女に支配されてしまってどうにもならないってことよ」
結奈は仁王立ちになったまま腕を組み、じっと響紀を見下ろしながら、
「でも、少しは気分が落ち着いたんじゃない? これだけ穢れを吐き出したんだもの」
雨に打たれておでこに張り付いた前髪を、すっと指でつまんで横に流した。
彼女のその衣服もまたびしょびしょに雨に濡れ、肌に張り付いて浮き出た身体のラインが何とも艶めかしかったが、けれど響紀はそんな結奈を見てもさして何も感じなかった。これがこんな状況でなければ、響紀もまた一般的な男子よろしく結奈に見惚れでもしただろうが、今はそんな気分には到底ならなかった。今はただ、自分を騙すかのように御神井の水を飲ませたこの女を、どこか忌々しく思うほどだった。
響紀は「ちっ」と舌打ちをひとつしてから、
「ふつうに渡せばよかっただろ。なんでひとこと言わなかった」
すると結奈は小さくため息を吐く。
「……たぶん、普通に渡したらあんたはこの水を拒んでいた。そんな気がしたから」
「どういう意味だ?」
訊ねると、結奈は首を横に振って、
「あんたは、朝に私と話していた時からどこか様子がおかしかった。何かに執着しているようだった。たぶん、あんた自身も気づいていなかっただろうけど。なんて言えばいいんだろう。もうすでに何かに囚われようとしているように見えた。私はそれが怖くて、だからあんたと分かれて行動しようと思った。私は、これまでもそういう霊たちを見てきたから。何度も何度も、執拗に絡まれてきたから、とにかく面倒で逃げようとしてしまった。それはごめん。私の言い訳。本当は、ちゃんとあんたについててあげるべきだったと思う。一緒に行動してあげるべきだったと思う。そうすれば、少なくともあんたはあの女のところに無意識的に戻ったりはしなかったかもしれない。これは私の落ち度。最初、おばあちゃんにあんたを投げようとしたのも、たぶんそう。本当は関わりたくなかっただけ。でも、それじゃぁいけなかったんだ。おばあちゃんだって言ってたんでしょ? 何か困ったことがあったら、私を訪ねろって。だから、あんたと分かれてしばらくして思い直したんだ。今のあんたを放ってちゃいけない。逃げちゃいけないって」
そこまで言って、結奈はまた、深い深いため息を吐いた。
雨はざあざあとその強さを増し、結奈の身体と地面を強く叩きつけた。響紀には何も感じられなかった。ただ雨音だけが耳に聞こえ、けれど響紀の身体は一切濡れてなどいなかった。今の今まで、結奈をじっと見つめるまで、雨が降っていることすら彼は忘れていた。意識していなかった。たぶん、だから響紀は濡れていなかった。身体を持たないがゆえに、雨に濡れるわけがないから。響紀の周りはあの赤黒いシミに囲まれていたが、そのシミも雨に流され、徐々に徐々に薄まっていこうとしていた。薄暗い空に、響紀はどこか不安を覚える。
結奈は続けた。
「たぶん、その身体――って言っていいのかわからないけど、とにかく、あんたという存在はあの女と触れ合ったその瞬間から、半分くらい、あの女の虜になってしてしまったんじゃないかって、そう思った。あんたが吐き出した赤黒いナメクジ、あれがたぶん、あんたの中に淀んで支配しようとしている穢れなんじゃないか。もしそうなのだとしたら、もしあんたがあの女のところに戻った時、あの女はもう一度、あんたを内側から支配しようとするんじゃないか。もしそうなったら、それこそあんたが助けようとしていた奈央ちゃんを、あんた自身が、あの女のところまで連れて行ってしまうんじゃないかって、そう思ったんだ。だから私は、すぐに神社に行って御神井の水を汲んできた。もし私の思った通り、あんたがあの女のところに戻ってしまったとしたら、必ず必要になると思ったから」
響紀はじっと結奈を見上げていた。自分が今しがた吐き出した赤黒いナメクジ――穢れ、と結奈は言っていたが、アレに俺は支配されていたのか、と思うとどこか納得がいくような気がした。それと同時に、いまだに自分の中にわだかまる不安と違和感に、妙な恐怖と焦りを覚えた。
「――俺は再びあの女に支配されようとしていた。だから、普通にあの水を飲ませようとしたところで拒んでいたかもしれない、というのは解ったよ。俺もそんな気がする。あの女とキスした時、俺はそれが嬉しくて仕方がなかった。あの女の口から飲まされたんだろう、赤黒いナメクジみたいなやつ……穢れか? そのせいで俺の意識が朦朧としていたというか、曖昧な状態だったのも覚えてる。たぶん、お前の言う通り、無意識的に拒絶していたかもしれない。だから、まぁ、礼を言っておく。ありがとな」
「うん」
と結奈は返事したが、
「けど、いくらかはもう完全にあんたの中であんた自身とくっついちゃってるのかもしれない」
「なんだそれ、どういうことだ?」
首を傾げる響紀に、結奈は肩を落としながら、
「あんたは――響紀は私と初めて会ったとき、さんざん御神井の水を飲んで、あの穢れを吐き出したはずでしょ? もうこれ以上吐き出せないほど、たくさん穢れを出したはずだったでしょ?」
「まぁ、たぶん……」
「それなのにあんたがあの女のところに無意識的に向かってしまったってことはたぶん、その穢れとあんたの魂? そのものが、いくらかひとつに結合しちゃってるのかもしれない」
「……なんだよそれ、どういう意味だ?」
「だからね」
と結奈はまた大きくため息を吐いてから、
「もうすでにあんたの何割かは、あの女に支配されてしまってどうにもならないってことよ」
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