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第2部 第3章 闇の抱擁
第9回
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どこをどう走ったのか、どこへ向かって走っているのか、響紀には何が何だか全く解らなかった。ただ結奈に引っ張られるがまま、いまだどこか夢見心地の残る意識の中で、彼は自分の身体が自分のものではないかのような、何とも表現し難い違和感を覚えていた。過ぎ行く景色はどこかで見た覚えがあるような、けれど初めて見るような、そんなことすら判らなかった。
いったいどれくらいの時間を、距離を、結奈に引っ張られ続けていただろうか。あっという間だったような気もすれば、悠久の時を走り続けていたような気さえする。まるですべての感覚を置き去りにしてきたかのような――
「あいたっ!」
次の瞬間、響紀は全身を強く叩きつけられたかのような激痛で、その曖昧だった意識を取り戻した。全身を強く叩きつけられたような、というのはただの表現などではなくて、事実として響紀の身体は地面に――神社の境内、むき出しの地面の上に、結奈の手によって、勢いよく放り投げられたのだった。
仰向けに倒れ、うめき声を漏らしながら結奈の姿を見上げれば、彼女は激しく肩を上下させながら、はぁはぁと荒い息を整えつつ、ちらちらと後ろの方を気にしている。
「……たぶん、大丈夫。アイツらは、ここまで、入ってこれないはずだから」
ふぅ、と結奈は深い深いため息を吐き、それからギロリと響紀を見下ろしてきた。それは悪行を働いた子を戒めようとする親のような、どこか後ろめたさを感じてしまう視線だった。
「それで? なんであんたは、直接敵地に乗り込んでいったワケ?」
がんっ、と響紀のすぐ目の前に、結奈の足が勢いよく飛んでくる。白いスカートから覗く太ももなど気にする様子もなく、彼女は目を見張り響紀を睨んだ。
響紀は「そんなこと言われても」と口を濁し、結奈から視線を逸らす。
「お、俺だってよくわかんねぇよ! お前と分かれてから、妙な不安に駆られたんだ! どこからどう調べればいいかわからなかったし、とにかく心を強く持って、俺は俺でやるべきことをやらなきゃって思ったんだ!」
「だからって、いきなりあんな所に行く馬鹿がいる? いったい何考えてんの? あり得ないでしょ? どんな目にあわされるか解らないのに、どうしてそんなことしたのよ? 私が駆け付けなかったら、今頃あんたはアイツに飲み込まれていたかもしれないのよ? わかってんの? あんた、奈央ちゃんを助けたいんじゃなかったの? お父さんやお母さんを、アイツらから守りたかったんじゃなかったの?」
「守りたいに決まってんだろ! だから俺は、そのために、あの女に会いに――」
……どうして、そう思った? なんで俺は、あの女のところに行こうと思ったんだ?
改めて考えてみれば、確かに結奈の言う通り、響紀がとったのはあり得ない行動だった。女に対する恐怖心を抱えながら、一人で行ってどんな目に遭うのかも分からない状況で、あえて響紀は女の下へ向かってしまったのだ。
――何故?
それは響紀自身にも全く分からなかった。今にして思えば、まるで体が勝手にそちらの方へ向かってしまったような気がしてならない。本来の思考とは裏腹に、響紀は女に会うために、あの峠の廃屋に足を向けたとしか思えなかった。
「なによ、そんなに考え込んで。何か言いなさいよ」
結奈の言葉に、響紀は大きく息を吐いて、
「すまん、俺にもよく解らないんだ。気が付いたらあの廃屋に足を向けていた、としか言いようがない。結奈と分かれて孤独を感じて、不安に駆られて、どこから調べればいいのかわからないまんまさ迷い歩いて。何とかしようと思ったんだ。自分が今するべきことを、ずっと考え続けていたんだ。そうしているうちに、俺の足はあの廃屋に向かっていた。怖い怖いと思いながらも、それに抗うことができなかったんだ」
そこまで言って、響紀はじっと結奈の目を見つめた。
結奈はそんな響紀の視線を真っ向から受け止めて、けれど何も言葉を口にしなくて。
ただただ視線だけを交わらせたまま、いったいどれだけの時間が経ったか。
「――それにしても、ちょっとのどが乾かない?」
そんなことを結奈は言って、肩に提げていたショルダーから小さな水筒を取り出すと、それを響紀に手渡しながら、
「ほら、あんたにあげる」
「あ、あぁ、ありがとう」
響紀は何も疑うことなく水筒を受け取ると、機械的にふたを開けて口を付ける。のどが渇いているのか、と問われれば、特に乾いてなどいない、と答えるところなのだけれど、ここまでのやり取りでその好意を無下にしてまた言い合いをする羽目になるのも何だか嫌で、素直に響紀は水筒に収められた水を飲みこむ。
その瞬間、響紀は胃の腑から込み上げてくる激しい吐き気に襲われた。その感覚に、響紀は確かに覚えがあった。あれはそう、結奈と初めて出会った駅前の大きな神社、その御神井の水を飲んだ時に――
まさか、と思ったときには、響紀は盛大に赤黒い塊を吐き出していた。結奈はそれを予期していたのだろう、ぱっと響紀の吐き戻したものから逃げるように、避けるように、さっと響紀から遠のいた。
響紀は反射的に手をついてうつ伏せになり、おえおえと胃の腑からあふれ出てくる赤黒いナメクジを、ぼとぼとと地面の上に吐き出し続けた。気持ちが悪くて仕方がなかった。のたうつナメクジを見ているだけで、次から次へとその不気味な悪い物体は響紀の口からあふれ出ていった。赤黒ナメクジはびちゃびちゃと地面の上を苦しそうにもだえ苦しみ、やがて先に吐いたものから順番にパンッパンッと弾けて散った。
ただただ気味が悪かった、気持ちが悪かった。
やがて吐き出すものがなくなって、ようやく響紀は結奈の方に顔を向けた。
「お、お前、これ、まさか」
それに対して、結奈は小さく頷いて、
「もちろん、御神井の水だけど?」
どこか勝ち誇ったかのように、そう口にした。
どこをどう走ったのか、どこへ向かって走っているのか、響紀には何が何だか全く解らなかった。ただ結奈に引っ張られるがまま、いまだどこか夢見心地の残る意識の中で、彼は自分の身体が自分のものではないかのような、何とも表現し難い違和感を覚えていた。過ぎ行く景色はどこかで見た覚えがあるような、けれど初めて見るような、そんなことすら判らなかった。
いったいどれくらいの時間を、距離を、結奈に引っ張られ続けていただろうか。あっという間だったような気もすれば、悠久の時を走り続けていたような気さえする。まるですべての感覚を置き去りにしてきたかのような――
「あいたっ!」
次の瞬間、響紀は全身を強く叩きつけられたかのような激痛で、その曖昧だった意識を取り戻した。全身を強く叩きつけられたような、というのはただの表現などではなくて、事実として響紀の身体は地面に――神社の境内、むき出しの地面の上に、結奈の手によって、勢いよく放り投げられたのだった。
仰向けに倒れ、うめき声を漏らしながら結奈の姿を見上げれば、彼女は激しく肩を上下させながら、はぁはぁと荒い息を整えつつ、ちらちらと後ろの方を気にしている。
「……たぶん、大丈夫。アイツらは、ここまで、入ってこれないはずだから」
ふぅ、と結奈は深い深いため息を吐き、それからギロリと響紀を見下ろしてきた。それは悪行を働いた子を戒めようとする親のような、どこか後ろめたさを感じてしまう視線だった。
「それで? なんであんたは、直接敵地に乗り込んでいったワケ?」
がんっ、と響紀のすぐ目の前に、結奈の足が勢いよく飛んでくる。白いスカートから覗く太ももなど気にする様子もなく、彼女は目を見張り響紀を睨んだ。
響紀は「そんなこと言われても」と口を濁し、結奈から視線を逸らす。
「お、俺だってよくわかんねぇよ! お前と分かれてから、妙な不安に駆られたんだ! どこからどう調べればいいかわからなかったし、とにかく心を強く持って、俺は俺でやるべきことをやらなきゃって思ったんだ!」
「だからって、いきなりあんな所に行く馬鹿がいる? いったい何考えてんの? あり得ないでしょ? どんな目にあわされるか解らないのに、どうしてそんなことしたのよ? 私が駆け付けなかったら、今頃あんたはアイツに飲み込まれていたかもしれないのよ? わかってんの? あんた、奈央ちゃんを助けたいんじゃなかったの? お父さんやお母さんを、アイツらから守りたかったんじゃなかったの?」
「守りたいに決まってんだろ! だから俺は、そのために、あの女に会いに――」
……どうして、そう思った? なんで俺は、あの女のところに行こうと思ったんだ?
改めて考えてみれば、確かに結奈の言う通り、響紀がとったのはあり得ない行動だった。女に対する恐怖心を抱えながら、一人で行ってどんな目に遭うのかも分からない状況で、あえて響紀は女の下へ向かってしまったのだ。
――何故?
それは響紀自身にも全く分からなかった。今にして思えば、まるで体が勝手にそちらの方へ向かってしまったような気がしてならない。本来の思考とは裏腹に、響紀は女に会うために、あの峠の廃屋に足を向けたとしか思えなかった。
「なによ、そんなに考え込んで。何か言いなさいよ」
結奈の言葉に、響紀は大きく息を吐いて、
「すまん、俺にもよく解らないんだ。気が付いたらあの廃屋に足を向けていた、としか言いようがない。結奈と分かれて孤独を感じて、不安に駆られて、どこから調べればいいのかわからないまんまさ迷い歩いて。何とかしようと思ったんだ。自分が今するべきことを、ずっと考え続けていたんだ。そうしているうちに、俺の足はあの廃屋に向かっていた。怖い怖いと思いながらも、それに抗うことができなかったんだ」
そこまで言って、響紀はじっと結奈の目を見つめた。
結奈はそんな響紀の視線を真っ向から受け止めて、けれど何も言葉を口にしなくて。
ただただ視線だけを交わらせたまま、いったいどれだけの時間が経ったか。
「――それにしても、ちょっとのどが乾かない?」
そんなことを結奈は言って、肩に提げていたショルダーから小さな水筒を取り出すと、それを響紀に手渡しながら、
「ほら、あんたにあげる」
「あ、あぁ、ありがとう」
響紀は何も疑うことなく水筒を受け取ると、機械的にふたを開けて口を付ける。のどが渇いているのか、と問われれば、特に乾いてなどいない、と答えるところなのだけれど、ここまでのやり取りでその好意を無下にしてまた言い合いをする羽目になるのも何だか嫌で、素直に響紀は水筒に収められた水を飲みこむ。
その瞬間、響紀は胃の腑から込み上げてくる激しい吐き気に襲われた。その感覚に、響紀は確かに覚えがあった。あれはそう、結奈と初めて出会った駅前の大きな神社、その御神井の水を飲んだ時に――
まさか、と思ったときには、響紀は盛大に赤黒い塊を吐き出していた。結奈はそれを予期していたのだろう、ぱっと響紀の吐き戻したものから逃げるように、避けるように、さっと響紀から遠のいた。
響紀は反射的に手をついてうつ伏せになり、おえおえと胃の腑からあふれ出てくる赤黒いナメクジを、ぼとぼとと地面の上に吐き出し続けた。気持ちが悪くて仕方がなかった。のたうつナメクジを見ているだけで、次から次へとその不気味な悪い物体は響紀の口からあふれ出ていった。赤黒ナメクジはびちゃびちゃと地面の上を苦しそうにもだえ苦しみ、やがて先に吐いたものから順番にパンッパンッと弾けて散った。
ただただ気味が悪かった、気持ちが悪かった。
やがて吐き出すものがなくなって、ようやく響紀は結奈の方に顔を向けた。
「お、お前、これ、まさか」
それに対して、結奈は小さく頷いて、
「もちろん、御神井の水だけど?」
どこか勝ち誇ったかのように、そう口にした。
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