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第2部 第2章 常闇の水
第11回
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それは今から三、四年ほど前の事だった、と香澄は静かに語り始めた。
響紀はただ黙って、その話に耳を傾ける。
宮野首香澄の家に、四十八願が訪ねてきた。彼は刑事を引退後も、あの喪服少女について独自に調べ続けており、その件で香澄に相談しに来たのだという。
四十八願はこれまでにもいくつかの事件で香澄に相談したことがあり、それ自体は特に珍しいことではなかった。
問題は、彼が持ち込んだ相談、喪服少女の方だった。
喪服少女の件に関しては、香澄も数年前から何度もその噂を耳にはしていた。
峠の廃屋に一人で住む少女。その少女に関われば、消されてしまうという噂。それは、この地域に住む中高生の間で実しやかに囁かれる都市伝説として、ここ十数年内に語られるようになったらしいものであり、噂の通り、何人もの行方不明者が出ているのもまた事実だった。
四十八願も幾度となくその廃屋を調べ上げたが、中は完全にもぬけの殻。誰かが住んでいるという気配もなかったという。
調べれば調べるほど不思議なのは、その喪服少女の目撃証言が、中高生の子供らの間にしかなかったということだった。地域に住む大人たちは、誰一人として、そんな少女は見た事がないと口を揃えて証言したのである。
四十八願はこれを、子供たちの集団幻覚だと判断した。そんな噂が広まっているから、全く無関係の少女を見ても「あの少女が噂の喪服少女に違いない」と思いこむようになっていったのだろう、と考えたのだ。そうでなければ、説明がつかなかった。
けれど、行方不明になった子供達がいったいどこへ消えてしまったのか、どんなに捜査を続けても、それも一向に判らないままだった。
そんなある日、四十八願の部下が、奇妙な事を口にするようになった。
あの廃屋には、確かに人が住んでいます。けれどそれは少女ではなく、美しく可憐な女性でした、と。
そうしてその彼は、日に日に言動がおかしくなっていった。
まるでその女に取り憑かれたかのように、いつの間にか仕事を抜け出しては、その女に会いに行くようになっていったのだ。
当然、四十八願は激怒した。
「そんなにやる気がないのなら、今すぐ仕事を辞めろ!」と胸倉を掴んで叫び上げる程に。
その翌日から、彼は本当に、姿を現さなくなってしまった。
四十八願が彼の家を訪ねてみても、もぬけの殻。まさかと思い、例の峠の廃屋を訪れると、荒れ庭の井戸のそばに、彼の警察手帳が落ちていた。
それだけだった。
それだけ残して、彼は忽然と姿を消してしまったのだ。
それから数年間、四十八願は喪服少女について調べ続けた。だが得られる情報に変わりはなく、定期的に起こる少年や少女たちの失踪事件についても、何ひとつ情報を得られないまま、彼は定年を迎え、退職した。
やがて一年ほどが経過し、四十八願はある日突然、夢に見た。
かつて行方不明になった部下が、暗闇で悶え苦しむその夢を。
彼は四十八願に向かって助けを求めていた。苦悶の表情を浮かべ、必死に手を伸ばしながら叫び続けていた。
四十八願は彼を助けようとして手を差し出し、そして――蠢く漆黒の影を見た。
それはまるでいくつもの手足を有しているかのような奇怪な姿で、しかしその中心にあるのは、確かに人の形をした何かだった。
その何かが、今まさに、部下の身体を喰らっているのだ。
四十八願は恐怖のあまり、差し伸べた手を思わず引いた。
ゴリゴリと骨を砕くような音が辺りに響き、部下の悲痛の叫びがこだまする。助けを求めるその声に、しかし四十八願は何一つしてやれることはなかった、と涙ながらにそう語った。
――やがて訪れた静寂。
四十八願が最後に目にしたのは、不敵に嗤う、喪服の少女の顔だった。
彼はそこまで話し終えると、香澄に深々と頭を下げた。
「もっと早くにあなたに相談するべきだった、怪異という確証もなく、今まで何も話さなかったが、どうか部下を助けて欲しい。今まで行方不明になった少年少女たちを救って欲しい」
香澄はこの依頼を引き受け、すぐに単身、廃屋に向かったという。
廃屋に着いた瞬間、そのあまりの腐臭に香澄は面食らった。とても息をしていられるものではなかった。
香澄は鼻を抑えながら、かつて部下の手帳が落ちていたという、庭の井戸へと向かった。
トタン板で蓋をされた井戸からは、より強い腐臭が漏れていた。板をのけ、その中を覗き見ると、底には漆黒の水が、差し込んだ光すら飲み込むように、澱んでいた。
常闇の水。
香澄はすぐにそれだと理解した。この水の先に、黄泉へと続く常闇が広がっているのだ。
そこで不意に人の気配を感じ、香澄は顔を上げた。
板を戻しながら、廃屋の方へ体を向けて――そこで初めて、香澄は彼女と対峙した。
漆黒の洋服に身を包んだ、その少女と。
響紀はただ黙って、その話に耳を傾ける。
宮野首香澄の家に、四十八願が訪ねてきた。彼は刑事を引退後も、あの喪服少女について独自に調べ続けており、その件で香澄に相談しに来たのだという。
四十八願はこれまでにもいくつかの事件で香澄に相談したことがあり、それ自体は特に珍しいことではなかった。
問題は、彼が持ち込んだ相談、喪服少女の方だった。
喪服少女の件に関しては、香澄も数年前から何度もその噂を耳にはしていた。
峠の廃屋に一人で住む少女。その少女に関われば、消されてしまうという噂。それは、この地域に住む中高生の間で実しやかに囁かれる都市伝説として、ここ十数年内に語られるようになったらしいものであり、噂の通り、何人もの行方不明者が出ているのもまた事実だった。
四十八願も幾度となくその廃屋を調べ上げたが、中は完全にもぬけの殻。誰かが住んでいるという気配もなかったという。
調べれば調べるほど不思議なのは、その喪服少女の目撃証言が、中高生の子供らの間にしかなかったということだった。地域に住む大人たちは、誰一人として、そんな少女は見た事がないと口を揃えて証言したのである。
四十八願はこれを、子供たちの集団幻覚だと判断した。そんな噂が広まっているから、全く無関係の少女を見ても「あの少女が噂の喪服少女に違いない」と思いこむようになっていったのだろう、と考えたのだ。そうでなければ、説明がつかなかった。
けれど、行方不明になった子供達がいったいどこへ消えてしまったのか、どんなに捜査を続けても、それも一向に判らないままだった。
そんなある日、四十八願の部下が、奇妙な事を口にするようになった。
あの廃屋には、確かに人が住んでいます。けれどそれは少女ではなく、美しく可憐な女性でした、と。
そうしてその彼は、日に日に言動がおかしくなっていった。
まるでその女に取り憑かれたかのように、いつの間にか仕事を抜け出しては、その女に会いに行くようになっていったのだ。
当然、四十八願は激怒した。
「そんなにやる気がないのなら、今すぐ仕事を辞めろ!」と胸倉を掴んで叫び上げる程に。
その翌日から、彼は本当に、姿を現さなくなってしまった。
四十八願が彼の家を訪ねてみても、もぬけの殻。まさかと思い、例の峠の廃屋を訪れると、荒れ庭の井戸のそばに、彼の警察手帳が落ちていた。
それだけだった。
それだけ残して、彼は忽然と姿を消してしまったのだ。
それから数年間、四十八願は喪服少女について調べ続けた。だが得られる情報に変わりはなく、定期的に起こる少年や少女たちの失踪事件についても、何ひとつ情報を得られないまま、彼は定年を迎え、退職した。
やがて一年ほどが経過し、四十八願はある日突然、夢に見た。
かつて行方不明になった部下が、暗闇で悶え苦しむその夢を。
彼は四十八願に向かって助けを求めていた。苦悶の表情を浮かべ、必死に手を伸ばしながら叫び続けていた。
四十八願は彼を助けようとして手を差し出し、そして――蠢く漆黒の影を見た。
それはまるでいくつもの手足を有しているかのような奇怪な姿で、しかしその中心にあるのは、確かに人の形をした何かだった。
その何かが、今まさに、部下の身体を喰らっているのだ。
四十八願は恐怖のあまり、差し伸べた手を思わず引いた。
ゴリゴリと骨を砕くような音が辺りに響き、部下の悲痛の叫びがこだまする。助けを求めるその声に、しかし四十八願は何一つしてやれることはなかった、と涙ながらにそう語った。
――やがて訪れた静寂。
四十八願が最後に目にしたのは、不敵に嗤う、喪服の少女の顔だった。
彼はそこまで話し終えると、香澄に深々と頭を下げた。
「もっと早くにあなたに相談するべきだった、怪異という確証もなく、今まで何も話さなかったが、どうか部下を助けて欲しい。今まで行方不明になった少年少女たちを救って欲しい」
香澄はこの依頼を引き受け、すぐに単身、廃屋に向かったという。
廃屋に着いた瞬間、そのあまりの腐臭に香澄は面食らった。とても息をしていられるものではなかった。
香澄は鼻を抑えながら、かつて部下の手帳が落ちていたという、庭の井戸へと向かった。
トタン板で蓋をされた井戸からは、より強い腐臭が漏れていた。板をのけ、その中を覗き見ると、底には漆黒の水が、差し込んだ光すら飲み込むように、澱んでいた。
常闇の水。
香澄はすぐにそれだと理解した。この水の先に、黄泉へと続く常闇が広がっているのだ。
そこで不意に人の気配を感じ、香澄は顔を上げた。
板を戻しながら、廃屋の方へ体を向けて――そこで初めて、香澄は彼女と対峙した。
漆黒の洋服に身を包んだ、その少女と。
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